小説を読む理由なんて人それぞれだ。
でも「とにかく面白い小説が読みたい」「一気読みしたくなる作品に出会いたい」って瞬間は、きっと誰にでもあると思う。
日々の疲れを吹き飛ばしてくれる没入感。気づけば夜更かししてでも読み進めてしまうあの高揚感。
そして読み終えたあとに胸の奥に残る感触――そんな体験を与えてくれる「最高に面白い文庫本小説」を、ジャンルを問わず厳選してご紹介します。
今回の100選では、ミステリー、ホラー、SF、ファンタジー、青春、恋愛、ヒューマンドラマと、ジャンルは幅広い。
共通点はただひとつ、「読みやすくて夢中になれる」こと。それだけを基準に選んでいる。
すでにベストセラーとして有名な名作もあれば、地道に読み継がれてきた傑作もある。どれも読み終えて「これは読んでよかった」と素直に思える作品ばかりだ。
初めて小説を手に取る方も、しばらく本から離れていた人でも、毎日ガンガン本を読んでいる人でも。きっとこのリストから、自分にぴったりの「面白い」に出会えるはずだ。
さあ、物語の扉を開こう。
現実より少しだけ刺激的で、果てしなく奥深い100通りの世界が、もう目の前に広がっている。
1.声なき子どもたちの祈りに応える場所── 辻村 深月『かがみの孤城』
今苦しんでいる子供たちに届けたい、優しいファンタジー
朝が来ても体が動かない。布団の中で、カーテン越しの光を恨めしく思いながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
誰とも話さず、誰にも会いたくなくて、でもこのままじゃいけないとも思ってしまう。そんな日に、部屋の鏡が光ったらどうするだろう?
『かがみの孤城』は、ある日突然ぴかっと光り出した鏡の向こうにある、不思議な「お城」で始まる。そこにいたのは、学校へ行けなくなった7人の子どもたち。みんな事情は違うけど、それぞれに傷を抱えていた。
そこで、狼の面をつけた少女に言われる。「この城に隠された鍵を見つけた者は、どんな願いでも叶う」と。
設定だけ聞くとファンタジーそのものだが、この物語の心は、むしろすごく現実に根ざしている。いじめ、不登校、親との関係、誰にも言えない不安。ここに出てくる子どもたちは、ありふれた言葉では片づけられない複雑な気持ちを抱えていて、それでもなんとか日々をやり過ごしている。
だからこそ、このお城で過ごす時間が意味を持ってくる。他人の前で素直になれなかった子が、少しずつ打ち解けていく。ぶつかりながらも認め合い、傷の見せ方を覚えていく。そうやって心が動いていく様子が、無理なく自然に描かれているのだ。
物語には「鍵」や「期限」といった仕掛けがある。なぜこのメンバーなのか、なぜその日限りなのか。すべての謎が明かされるとき、ただ驚くだけじゃ終わらない。むしろ、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちる。そのとき見えてくるものは、きっと希望のかけらなんだと思う。
この城は、現実から逃げるための場所じゃない。むしろ、現実と向き合う前に、一度深呼吸するための場所。ここで出会った仲間との時間が、これからの人生をほんの少しだけあたためてくれる。
誰にも会いたくない朝でも、部屋のどこかで鏡が光っていたら。ちょっとだけ顔を上げてみよう。
そこにいるのは、誰かとつながることを諦めなかった自分かもしれない。

2.小説の奥に灯る、ひとさじの祈り―― 辻村 深月『スロウハイツの神様』
優しさと愛で溢れた壮大な物語
夢を追いかけるって、どうしてあんなにも傷つくんだろう。
誰かの言葉で、自分の好きなものがぐらぐら揺らいで、うまく息ができなくなる。それでも、やっぱり物語が好きで、作ることをやめられない人たちがいる。
『スロウハイツの神様』に登場するのは、そんなちょっと不器用で、でもまっすぐな若者たちだ。舞台は、作家や役者、漫画家や映像作家が一緒に暮らす「スロウハイツ」というアパート。家族でも恋人でもないけど、朝ごはんを分け合ったり、悩みをぶつけ合ったりしながら、ゆるく支えあって生きている。
この作品の中心にいるのが、過去にとある事件をきっかけに筆を折った人気作家・チヨダ・コーキ。彼はある少女からの手紙を受け取り、10年ぶりに物語の世界に戻ってきた。その手紙がなければ、きっと彼は戻ってこなかった。たった一人の言葉が、人の人生を動かすことがあるって、この話は教えてくれる。
そんな彼が中心となって始まった共同生活は、ある日を境に変化していく。スロウハイツに新たな少女がやってきて、それぞれの隠していた過去や想いが、少しずつ明るみに出ていく。笑える場面もあるけれど、ふとしたところで胸が詰まる。そういう話だ。
人間関係の機微とか、誰にも見せなかった傷とか、そういうものを辻村深月はとても丁寧に描く。だから登場人物たちの言葉が、こっちの胸にもちゃんと届く。派手な展開があるわけじゃない。でも、気づいたら登場人物たちのことを好きになっていて、「この先、どうか幸せになってほしい」って願ってしまう。
物語が進むにつれて、散りばめられていた出来事がひとつずつ線になっていく。そして終盤、全部がつながったとき、胸がぐっと熱くなる。大げさじゃなく、これはもうちょっとした奇跡だ。
誰かを信じるって、簡単じゃない。でも信じ続けるって、すごく強いことなんだと、この話はまっすぐに伝えてくる。過去と向き合う強さ、他人と寄り添う勇気、それを物語で描ききるのは、やっぱり作者自身が信じているからなんだと思う。
スロウハイツには神様がいる。誰かの夢や努力や痛みを、そっと見守ってくれる存在が、たしかにそこにいた。
たとえ世界が少し冷たくても、大丈夫。
あの場所のぬくもりを知ってしまったら、もう一人じゃない気がしてくる。

3.逃げろ、信じろ、歌を忘れるな―― 伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』
衆人環視の中で首相が爆殺された。
過去にアイドルを助けたことで地元では有名な主人公が、首相殺しの犯人として全国に指名手配されてしまう。
巨大な陰謀に巻き込まれた主人公は、周りの人々の援助を受けながら、暴力もいとわない組織から必死に逃走する。
スピーディに展開する物語。人との信頼と絆を感じる一作
空気がピンと張りつめたその瞬間、世界はあっさりと裏返った。
ドンという爆音とともに、首相が爆殺された。カメラが、群衆が、それを見ていた。そして次の瞬間、何の前触れもなく青柳雅春という男が犯人にされた。
青柳は、ただの宅配ドライバーだった。昔アイドルを川から助けて、少し話題になったことはある。でもそれっきり。普通の男だった。なのに、メディアは彼の顔を晒し、警察は問答無用で追ってくる。逃げ場なんて、どこにもなさそうに見える。
だけど、ここからが伊坂ワールドのすごいところだ。逃げる青柳のそばには、かつての友人や元恋人、もう連絡も取っていなかった恩人が現れて、ぽつぽつと手を差し伸べてくる。誰もヒーローじゃない。うっかり電話しただけ、たまたま通りかかっただけ。でも、そのささやかな行動が、青柳を少しずつ前へと押し出していく。
仕組まれた陰謀や無表情な追跡者に囲まれながらも、この物語には妙にあたたかい空気が流れている。それは、人と人の間にほんの少し残っていた信頼のかけらのおかげだ。青柳はひとりじゃない。彼もまた、過去に誰かに誠実であろうとした人間だった。その記憶が、いま彼を救っている。
この話は、逃走劇でありながら、同時に「信じることの物語」でもある。全体に漂うユーモアや比喩のセンスは、伊坂作品ならではの味。重くなりすぎず、でも芯はずしっと熱い。
タイトルの『ゴールデンスランバー』はビートルズの曲名だ。劇中でも何度か登場するこの子守唄のような歌が、ラストで静かに効いてくる。どれだけ追われても、誰かが心の中でその歌を覚えていてくれたら、きっとまた立ち上がれる。そんな気がする。
逃げるだけじゃ終わらない。信じてくれた人の想いが、自分をここまで連れてきてくれた。そう実感できたとき、この物語はただのサスペンスじゃなくなる。
思い出してほしい。かつて誰かに助けられた瞬間を。そして、自分もまた、誰かのために何かを差し出せる存在かもしれないってことを。
風が吹く。青柳の背中を押すように、あなたの心の中にも。

4.「砂漠に雪を降らせる」友情と季節の物語―― 伊坂幸太郎『砂漠』
大学で出会った5人の男女が、未熟さに悩みながら手探りに前を進んでいこうとする青春小説。
大学生活を送る中、現実的・非現実的な出来事を通じて互いの絆を深め、それぞれ成長していく。
男女5人の豊かな個性。大学生活に戻りたくなってしまう青春小説
「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」
西嶋がそう言ったとき、たぶん誰も本気にはしていなかった。でも、今ならわかる。それは希望に関する話だった。信じる力や、善意のあり方についての話だったんだ。
『砂漠』は、仙台の大学で出会った5人の若者たちが、日々のなんでもない時間の中で、あれこれ思い悩みながら進んでいく青春小説だ。ボウリング、合コン、雪の夜の雑談。ときには通り魔や空き巣騒ぎというスパイスまで混じるけれど、基本的には、いつも通りの、でも少し濃いめの大学生活が描かれている。
登場するのは、西嶋、鳥井、南、東堂、北村。どこにでもいそうな5人だ。いや、西嶋だけは濃すぎるかもしれない。やたらと正義感が強くて、妙にテンションが高くて、妙に目が離せない。彼の突拍子もない言葉や行動が、この物語を確実に動かしていく。
この話には特別な魔法も、大きな奇跡も起こらない。だけど、それがいい。人はちょっとした言葉や、ささやかな勇気によって動かされることがある。西嶋の言葉に引っ張られるように、他のメンバーも少しずつ変わっていく。その変化がうれしい。
季節がひと回りして、また春が来る。物語もそれに合わせてゆっくりと回っていく。その構成のやさしさが、じんわりと胸に残る。誰かのために声を上げるとか、社会の理不尽に小さく抵抗するとか、そういう地味だけど本気な善意が、ちゃんと物語の中心にある。
タイトルの『砂漠』は、乾いてて、絶望的で、何も生まれそうにない場所だ。でもそこに、西嶋は「雪を降らせる」って言う。それはきっと、「変えられないように見える何かを、変えてやる」という挑戦だ。
『砂漠』を読んでいると、あの頃の自分たちのことを思い出す。うまくやれなかったこと、言えなかったこと、それでも仲間と笑った夜。全部が大切だった。
そして思う。砂漠に雪を降らせるのは、案外、無理な話じゃないのかもしれない。
5.たった一行が、すべてを覆す―― 綾辻行人『十角館の殺人』
孤島の古びた洋館に集まった、ミステリーサークルの学生7人。
海外のミステリー作家の名前をあだ名で呼ぶ彼らは、犯人の罠にはまり、一人、また一人と殺されていく。
館シリーズ第一作。驚愕のトリックと独特の世界観
波の音しか聞こえない島の中央に、ひときわ異様な建物がぽつんと建っている。十角形の館。なんだか、そこに入るだけでゲームが始まりそうな名前だ。しかし、その館で起きるのは、遊びなんかじゃない。
綾辻行人のデビュー作『十角館の殺人』は、ミステリー好きの大学生7人が、絶海の孤島で合宿をするところから始まる。彼らはふざけたようにお互いを「エラリー」や「アガサ」と海外作家の名で呼び合い、推理オタク的テンションで盛り上がっている。
でもその空気は、ひとつの手紙をきっかけに、変わっていく。そして気づけば、ひとり、またひとりと殺されていく。
王道の「クローズド・サークルもの」でありながら、この作品はある種の境界線を引いた小説でもある。「これ以後、日本のミステリは変わった」と言われるのも納得の一作だ。
何が変わったのかって? それは、読めば体感できる。
この話のすごいところは、孤島の中だけじゃない。本土では、かつての事件を追っている男たちがいて、ふたつの時間軸がゆっくりと交差していく。
そして、あの一文が出てきた瞬間。読んでいたこちらの足場が崩れ落ちる。まさに、すべてがひっくり返る。
「うわ、やられた」。
そんな声が思わず口から漏れてしまう。トリックとか伏線とか、そういう技術の高さも確かにある。でもそれ以上に、読者としての前提を見事に裏切られる感じが、なんとも心地いい。
十角館に仕掛けられていたのは、殺人事件だけじゃない。読み手そのものを巻き込んだ、知的な罠だ。自分が何を信じて読んでいたのか、どこで騙されていたのか。それを確かめたくて、気づいたらまた最初のページに戻っている。
この物語に入るときは、覚悟がいる。でも、それを超えた先にある衝撃は、一生忘れられない。
まだこの館の扉を開けていないなら、ぜひその足で。
そして、あの一文に出会ってほしい。
世界が、ぐるりと反転する音が聞こえるはずだ。


6.星は何も語らないが、すべてを見ている―― 島田荘司『占星術殺人事件』
43年前に起きた事件の調査を依頼された、占星術師・御手洗潔。
奇しくも2.26事件と同日、画家が密室状態のアトリエで殺され、その後、6人の姉妹も体の一部を切り取られ惨殺される、という難事件。
御手洗は関係者が残した手記を頼りに、事件の真相に迫る。
御手洗潔シリーズ第一作。40年前の迷宮入り事件を紐解く
もし、43年前の事件をいま解いてみろと言われたら、どうする?
しかもそれが、死体の一部だけがバラバラに見つかった猟奇殺人だったら。正直、もう無理だろって思う。でも御手洗潔は違った。
『占星術殺人事件』は、探偵・御手洗潔のシリーズ第1作だ。いきなりハードル高めの事件がぶっ込まれてくる。舞台は昭和54年、彼のもとにある男がやってくる。「昔の事件の謎を解いてくれ」と。持ち込まれたのは、昭和11年に起きた猟奇事件。ちょうど2.26事件の裏で、ひっそりと世間を騒がせたやつだ。
美術家・梅沢平吉が密室状態で殺され、そのあと彼の娘たち――6人の姉妹が、部位ごとに切り取られ、各地で遺体の一部が発見される。おぞましい。なのに、どこか神話的で、妙に整っている。それが事件全体の不気味さを際立たせている。
御手洗潔と助手の石岡は、残された手記や資料、証言を元に事件を解き明かしていく。現場にも行かない。目の前にある文字情報だけで真相に迫る。つまり、読んでいるこっちも、探偵とまったく同じ立場になるってわけだ。
途中で現れる「読者への挑戦状」がニクい。「ここまでで解けます。さあ、どうぞ」ときた。いやいや、そんな簡単に言うなよ、と思いながらページを進める。しかし、その挑発はちゃんと意味がある。解けるようにできている。だけど、解けない。それが面白い。
御手洗潔の推理は、とにかく論理的で、クールで、そして鮮やかだ。占星術とか呪術とか、幻想めいた雰囲気をまとった事件に対して、冷静な現実のメスを入れていく。信じたくないけど納得せざるをえない――そんな真相が待っている。
あと、御手洗潔というキャラが最高にクセになるんだ。天才なのにちょっと変人。自信満々なのにどこか品がある。彼と語り手・石岡のコンビが今後シリーズを引っ張っていくのも、納得のバランスだ。
最初の数ページ、古風な文体の手記は正直読みにくいので、つまずきそうになるかもしれない。でも、そこを越えた先にあるのは、骨太で知的で、めちゃくちゃ誠実なミステリだ。
星は運命を語らない。ただ、そこにあるだけ。事件の謎もまた、最初からそこに転がっている。
ただ、見るかどうか。気づくかどうか。それだけなんだ。
この一作で、日本の本格ミステリは新しい扉を開けた。
その扉を、ぜひ自分の手で押してみてほしい。

7.空に浮かぶクラゲが、ひとつずつ命を手放していく―― 市川憂人『ジェリーフィッシュは凍らない』
試験飛行中の小型飛行船「ジェリーフィッシュ」において、開発メンバーの1人が変死体で発見された。
雪山に不時着した船内で、残りのメンバーも次々に殺されていく。刑事であるマリアと漣は、この墜落事件について捜査を開始する。
架空の科学設定を活かした、クローズドサークルもの
山の奥、雪に閉ざされた山腹に、白く焼け焦げた飛行船が沈んでいる。その名は「ジェリーフィッシュ」。
まるで空に浮かぶクラゲのようなこの飛行船の中から、開発メンバーたちの遺体が発見された――全員死亡。事故にしては腑に落ちない点が多すぎた。
『ジェリーフィッシュは凍らない』は、SFと本格ミステリを組み合わせた異色のデビュー作だ。物語は、飛行船の墜落事件をきっかけに始まり、ふたつの軸で進行していく。
ひとつは、地上で事件の謎を追う刑事コンビ、マリアと漣の捜査パート。もうひとつは、雪山で起きた過去の惨劇を描く回想パート。そして章の合間には、名前を持たない「語り手」の声が、冷ややかに事件の本質へと導いていく。
閉ざされた空間、限られた人数、容疑者がその場にしかいない状況――いわゆるクローズド・サークルというやつだ。でもこの作品、ただの雪山ミステリじゃない。舞台はU国という架空の国家。飛行船も、実在のテクノロジーでは届かない発想から生まれていて、その科学的設定自体が殺人トリックの一部になっている。
SFがミステリの土台に食い込んでいる。その融合っぷりがとても気持ちいい。
そして何より、タイトルにもなっている「ジェリーフィッシュ」という飛行船が、事件の鍵を握る存在としてただそこにあるだけじゃなく、物語そのものの象徴にもなっているところがうまい。読んでいくうちに、なぜこの名前が選ばれたのか、その意味が染みてくる。
登場人物の名前が全員カタカナで、最初は誰が誰だか混乱するかもしれない。でも慣れてしまえば、それもこの作品特有の空気のひとつに変わる。彼らの関係性や過去が少しずつ明らかになるにつれ、どの人物にも感情が追いついていくようになる。
そして、地上パートを進めるマリアと漣のやりとりがまたいい。真面目な話をしていてもどこかテンポが軽く、ほどよく肩の力を抜いてくれる。寒さと緊張に満ちた雪山のシーンの合間に、ほんの少し人間らしいぬくもりが挟まれるのがありがたい。
謎が解けたとき、ただ驚くだけじゃ終わらない。犯人の動機には、ある理想と、決して届かなかった未来がある。その結末は、派手ではないけれど強烈に心に残る。
この物語を読み終えたあと、あなたの頭のどこかに、白く沈むクラゲの影がずっと漂い続けるかもしれない。
それはきっと、あの空に置いてきた誰かの夢が、まだそこに残っているからだ。
8.静寂に潜むFの方程式―― 森博嗣『すべてがFになる』
那古野大学准教授の犀川創平と大学生の西之園萌絵は、少女時代から隔離されて生活を送る天才博士「真賀田四季」にひと目会うために、孤島の研究所を訪れる。
彼女の部屋で見たものは、ウェディングドレスに身を包んだ、手足のない死体だった。
この不可思議な密室殺人に、2人が挑む。
真賀田四季の圧倒的な存在感と、戦慄のラスト
最初に現れたのは、ウェディングドレス姿の死体だった。手足が切り取られ、誰にも出入りできないはずの部屋から、突然現れた。
森博嗣(もり ひろし)のデビュー作『すべてがFになる』は、そんな異常な密室事件から幕を開ける。舞台は孤島の研究施設。訪れたのは、那古野大学の准教授・犀川創平(さいかわ そうへい)と、その教え子・西之園萌絵(にしのその もえ)。2人は「天才」と呼ばれる女性研究者・真賀田四季(まがた しき)に会うためにやってきた。
この物語は、一見すると王道の本格ミステリに見える。しかし読み進めるうちに、それだけではないと気づく。コンピュータ、プログラム、人工知能、仮想現実――理系のガジェットが散りばめられた世界の中で、「人間とは何か」「生きるとはどういう状態なのか」という根本的なテーマが、冷たく鋭く突きつけられていく。
犀川はいつもクールで、論理を重んじる。萌絵はその反対で、まっすぐに感情をぶつけてくる。この2人のやり取りが物語の中でいいリズムを作っていて、張り詰めた空気にほっとする瞬間をくれる。そして、そのあいだを漂うように存在するのが、真賀田四季という圧倒的な存在だ。
彼女のセリフは、どれも容赦がない。
「死を恐れてる人はいません。死にいたる生を恐れているのよ」
「苦しまないで死ねるのなら、誰も死を恐れないでしょう?」
「そもそも、生きていることの方が異常なのです」
「死んでいることが本来で、生きているというのは、そうですね……、機械が故障しているような状態。生命なんてバグですものね」
そんな言葉を、さらりと投げてくる。そのくせ、どこか美しく響いてしまう。この人は狂っているのか、それともただ正しすぎるだけなのか。読み終えても、簡単に答えは出ない。
事件の真相にたどり着いたとき、明かされる「F」という記号の意味。その瞬間、タイトルがまったく別の重さをもって迫ってくる。ゾクッとする。本を閉じたあとも、その余波がしばらく体の中に残る。
『すべてがFになる』は、トリックがすごいとか、天才探偵がかっこいいとか、そういう楽しさもある。でもそれだけじゃない。これは、人間と機械のあいだで揺れる時代に生まれた、ある種の哲学書でもある。
そして、もしもこの本にあなたが少しでも惹かれるなら、それはきっと「理屈じゃない何か」を、どこかで信じているからだと思う。
Fが何を意味するのか、その答えは読んだあとにあなたの中で生まれる。
それが論理でも、感情でも、あるいはそのどちらでもないものでも。


9.時をほどく硝子の欠片―― 有栖川有栖『スイス時計の謎』収録「スイス時計の謎」
犯罪学者・火村英生に呼び出され、殺人現場に赴いたアリスが見たものは、後頭部を殴られて殺害された高校時代の同級生だった。
遺体からは、高校時代の同窓会メンバーがお揃いで身に着けている、スイス製の腕時計が無くなっていた。
火村は、理論的な推理で犯人を追っていく。
同名短編集の表題作。華麗でロジカルな推理が見どころ
殺されたのは、高校の同級生だった。
作家・有栖川有栖(ありすがわ ありす)――通称アリスが、犯罪学者・火村英生(ひむら ひでお)に連れられて訪れた現場には、かつて同じ教室にいた友の死体が横たわっていた。後頭部に残る打撲痕。腕には、あるはずのスイス時計がなかった。
『スイス時計の謎』は、短編ながらしっかりと骨太な構成を持った一作だ。現場に残された痕跡は一見すると雑で粗暴。けれど火村の目には、そこにあるはずの「整合性のズレ」が引っかかっていた。乱れた部屋、割れたガラス、なくなった時計。バラバラなようで、どこか計算された気配。そこに犯人の意図がにじむ。
この作品の面白さは、もちろん火村の論理的な推理の鮮やかさにある。でも、それだけではない。アリスにとって被害者は「知っていた人」なのだ。共に過ごした高校時代を共有しているという、ただの事件とは違う距離感。だからこそ、この事件にはどこか私的な空気が流れている。
青春の延長線上で起きた殺人――そう言ってしまってもいい。高校の頃、一緒に笑った誰かが、大人になって、突然、死体として目の前に現れる。その現実味のなさと、心の中に生まれるチクリとした痛み。それが、物語の中にゆっくり沁みこんでくる。
火村の推理はあくまでも冷静だ。だけどその冷静さの裏側で、アリスの感情が揺れている。その対比がいい。時計のように正確な推理と、止められない感情の波。この二重構造が、この短編に奥行きを与えている。
華麗なロジックが事件の歯車を巻き戻し、真実が姿を現したあと、残るのは意外なほど静かな味わいだ。感情を語らないことで、かえって心に残る。
『スイス時計の謎』は、冷たく輝く時計のようなミステリだ。でも、文字盤のガラスにうっすらと映っている感情の揺れを、どうか見逃さないでほしい。
時間は前にしか進まない。その中で、誰が、何を思っていたのか――答えが見えたとき、その「時」は確かに終わる。そして、少しだけ心に残る。
時計の針が進んでも、そこだけは止まったままかもしれない。

10.白夜の下、影が寄り添う―― 東野圭吾『白夜行』
大阪で1人の質屋が殺害された迷宮入りの事件。
被害者の息子・桐原亮司と、容疑者の娘・西本雪穂は、その後、それぞれ全く別々の道を歩んでいた。
しかし、その2人の周囲で数々の犯罪が発生。次々と犠牲者が発生していく。
間接的な表現で描かれる、太陽の下で生きることができない2人の物語
1973年、大阪でひとりの質屋が殺された。迷宮入りとなったその事件を境に、ふたりの子どもがそれぞれ別の人生を歩きはじめる。
ひとりは被害者の息子・桐原亮司。もうひとりは、容疑者とされた男の娘・西本雪穂。ふたりは再び会うことなく、それぞれ別の道を歩いていく――ように見えた。
でも、その後ふたりの周囲で次々と事件が起きる。自殺、事故、失踪、そしてまた殺人。ふたりの姿は常に表からは見えない。誰かの証言や、わずかに残された痕跡を通してしか描かれない。なのに、読んでいるうちに強く確信する。このふたりは、確かに共犯者だと。
『白夜行』は、ものすごく不思議な構成の小説だ。主人公たちはほとんど直接描写されないし、内面も語られない。だけど読み進めるほどに、彼らの意志や感情が染みてくる。まるで分厚いガラス越しに、誰かがじっとこちらを見ているような感覚になる。
亮司は、闇の中で雪穂を守ることにすべてを賭けた。雪穂は、表の世界で完璧に生きるために、自らの過去を切り捨て、未来を選び続けた。ふたりは会わない。言葉も交わさない。それでもどこかで繋がっていて、相手のために人知れず罪を背負っていく。
19年という長い歳月が描かれるけど、それがまったく長く感じない。社会が変わり、人が歳を重ねても、ふたりの暗い絆だけはずっと変わらない。光に背を向け、徹底的に闇の中で生きる選択。その潔さと残酷さに、途中からはただ圧倒されてしまう。
この物語に「救い」があるかは、人によって答えが変わると思う。でも、たしかに言えるのは、読後に強く心がざわつくということ。善とか悪とかじゃ割り切れない、どうしようもない人間の深い部分が、この話の中にはある。
『白夜行』は、明るい場所では見えないものばかりを描いた小説だ。冷たいけれど、すごく美しい。そして、恐ろしいほど人間臭い。
本を閉じたあとも、雪穂と亮司の影がどこかに立っている気がしてならない。
このふたりは、たぶん今も、誰にも見られない場所で夜を歩き続けている。
11.静かなる方程式、燃ゆる祈り―― 東野圭吾『容疑者xの献身』
天才でありながら、不遇の日々を過ごす数学者の石神。
密かに想いを寄せている隣人の靖子とそのひとり娘が、前夫を殺害していたことを知ってしまい、完全犯罪を目指し隠蔽工作を買って出る。
石神の親友で理解者でもある、天才物理学者・湯川がこの謎に挑む。
究極の愛と、完成度の高いミステリー
いつもより早く日が沈んだ夕方、誰かの背中が寒さと一緒に街に溶けていく。その人が石神哲哉(いしがみ てつや)だ。
天才と呼ばれながら、いまは高校の数学教師。弁当屋の裏方で淡々と働き、誰にも関心を持たれず生きている。そんな彼が唯一目を向けていたのが、隣に暮らす靖子とその娘。小さなあかりのように、ふたりの存在だけが、彼の止まりかけた心にぬくもりを残していた。
ある日、その光が壊れそうになる。靖子が、かつて彼女を苦しめた男を手にかけてしまったのだ。石神は即座に決断する。すべてを自分が引き受けようと。数学者として積み重ねた論理をフル活用し、完璧な隠蔽工作を構築する。
しかし、そこへ現れるのがもう一人の天才、湯川学(ゆかわ まなぶ)。石神にとって数少ない理解者でもある物理学者だ。表向きは何もおかしくない事件に、湯川は「整いすぎていること」に気づく。そして違和感の正体を解き明かそうと動き始める。
この小説がすごいのは、頭脳戦としての完成度もさることながら、登場人物たちの「言わなかった想い」が濃密に沁み込んでいるところだ。石神が仕掛けたのは、ただのトリックじゃない。彼なりの感情表現であり、願いであり、ある意味では人生そのものだ。
一方の湯川は、真実を追う科学者としての姿勢を崩さない。その結果、突きつけられる真相は、胸にくる。言葉にならないやるせなさが、ずっと残る。
愛ってこういうことか、と思わされる。見返りなんて求めない。ただその人が無事でいられるなら、それでいい。『容疑者Xの献身』は、そんな思いが全編に張り詰めている作品だ。
しんしんと冷える夜、誰にも知られず、誰にも褒められない形で、人を守ろうとした男の話である。
12.闇は首を捜し、村は影を孕む―― 三津田信三『首無の如き祟るもの』
奥多摩にある、姫首村の旧家・秘守家に伝わる儀式で、長女の首なし死体が発見されるが、うやむやに処理されてしまう。
しかし10年後、儀式中にふたたび首なし死体が……。
閉鎖的で権力争いも見え隠れする村社会を舞台に、来訪した推理作家が謎に挑む。
旧習が残る田舎で起こる首なし死体事件。怒涛の展開とどんでん返し
あの村には、首が落ちる音が似合う。
東京の外れ、奥多摩の山中にひっそりと存在する姫首村。名前からして不穏だが、実際にこの村では「首巫女」と呼ばれる儀式が行われていたという。
戦時中、その儀式で本当に娘が首を刎ねられて死んだのだ。にもかかわらず、村人たちは「事故だった」として片付け、誰もその真相に触れようとしなかった。
それから十年。再び儀式の日がやってくる。今度こそ、誰も死なないはずだった。はずだったのに、またもや首のない死体が転がる。これは神の怒りなのか、それとも人の手によるものなのか。こんな村にうっかり足を踏み入れたのが、民俗学とミステリに目がない作家・刀城言耶(とうじょうげんや)だ。
言耶の視線は鋭い。村の因習、家族の確執、過去に葬られたはずの火種があちこちで燻っている。古い蔵の中、ふすまの向こう、井戸の底。真相はどこにあるのか。空気は湿っていて、息苦しく、誰もが何かを隠している。
三津田信三の『首無の如き祟るもの』は、見た目はホラー、中身は超本格ミステリだ。刀城言耶シリーズの中でもとりわけ血の匂いが濃く、殺意の気配がぬるくまとわりつく。とはいえ、ただおどろおどろしいだけではない。緻密に積み上げられた情報、仕掛けられた伏線、すべてがラストに向けて一気に噛み合っていく様子は、まさに職人技。
首がない、というインパクトだけに頼らない。むしろその裏にある動機の闇、ねじれた人間関係が恐ろしい。山奥の閉じた世界で、誰が何のために儀式を再演したのか。あの夜、誰が何を見たのか。答えを知ったとき、思わず膝に力が入らなくなる。
首が転がった先にあったのは、想像以上に冷たい現実だった。

13.血に咲き、闇に嫁ぐ―― 郷内心瞳『拝み屋郷内 花嫁の家』
拝み屋を生業とする著者本人が語る、忌まわしき怪異譚。
花嫁が数年で亡くなってしまう旧家。
その数年で子どもを残し、何とか代々、血を繋げていた。
この家の花嫁から相談を受けた著者は、不可解な現象に悩まされていく。
最恐のホラー小説。深すぎる因縁と、おぞましい出来事
たまたま読んだつもりが、いつの間にか取り憑かれていた。そんな経験、あるだろうか。
郷内心瞳『拝み屋郷内 花嫁の家』は、まさにそういう本だ。拝み屋――つまり霊的な相談を受けて現地に赴く人である――を生業とする著者本人が、実際に体験した出来事を淡々と語っていく。その中でも、特に語るか否か迷ったという「花嫁の家」は、ずしんと腹の底に響く重みがある。
舞台は、東北の山間にある由緒ある旧家。この家ではなぜか、代々嫁いできた女性が数年で亡くなるという奇妙な歴史を持っていた。ただし、亡くなる前には必ず子どもを残していく。命は終わるが、血は残る。そんな形で代々つながってきた家系に、現代の花嫁から相談が寄せられる。
郷内氏は拝み屋として、いつも通り現場へ向かう。だがこの件だけは、何かがおかしい。目に見えぬ何かが、空気をぎしぎしと歪めてくる。無人の部屋から聞こえる音。誰もいないはずの場所で光る明かり。あるはずのない記憶が、他人の口から語られていく。
実話怪談としてのリアリティに満ちているのに、やたら構成が上手いのも気になるところだ。過去の花嫁たちの証言が、まるで地層のように積み重なり、現在と接続する瞬間、読み手の脳内に「おぞましさ」が完成する。組み上げられたのは、ただの怪異ではない。祈りと呪いと、受け継がれてしまった何かの姿だ。
しかも、著者いわく「この話は、本にするたびに不思議な妨害が起きる」という。編集者の体調不良、原稿データの消失、出版直前のトラブル――偶然というには重なりすぎている。読む側としても、うっかり本棚に戻せなくなる。この話に触れていると、何かがついてくるような気がするのだ。
これはホラーではなく、怪異との共生を描いた記録かもしれない。信じるかどうかより先に、ただ受け止めるしかない現実がある。電気を消す前、何気なく確認する玄関の鍵。気づけばその行動すら、物語の延長になってしまっている。
この本を開いたことが、すでに「参加」だったのかもしれない。誰かに見られていたとしても、もう後戻りはできない。
最後まで読んでしまったなら、次に戸を叩くのは――。
おや、今、玄関で音がしなかったか?
14.月影の京都に恋が咲く―― 森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』
京都の大学生である「先輩」と、同じクラブに所属する後輩の「黒髪の乙女」。
想いを寄せる先輩は、京都のいたるところで彼女の姿を追い求める。
奮闘する日々と、巻き込まれてしまう数々の騒動、そして摩訶不思議なラブストーリー。
先輩と黒髪の乙女が織りなす、摩訶不思議なラブストーリー
京都の夜には、魔法が混じっている。そんな気がしてくるのが、森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』だ。
主人公は、黒髪の乙女に恋する「先輩」。話しかける勇気はない。でも偶然を装って近づきたい。そんなもどかしい片想いを胸に、京都のまちを右往左往する大学生だ。
一方の乙女はというと、酒場で知らないおじさんに絡まれてもニコニコ応じるタイプの豪傑。酒も本も人も、出会いを面白がって進んでいく天真爛漫な娘。何が起きても前向きで、まるでこの街の精霊みたいに、ふわふわと宵を歩き回る。
そんな二人が、古本市やら演劇サークルの抗争やら、はたまた風邪のパンデミックにまで巻き込まれていく。現実と幻想のあいだをゆらゆら渡りながら、すれ違い続ける二人の物語だ。
おかしな登場人物が次々現れるのもこの作品の持ち味で、古本に異常な執着を見せる謎の男や、演劇界の黒幕、さらには神様みたいな存在まで出てくる。しかもその全部が、なぜか妙に説得力をもって存在している。気づけば「京都ってそういう場所なのかも」と思い始めている自分がいる。
この物語は、奇抜に見えて、すごくまっとうな恋の話だ。相手のことを想っても、なかなか伝えられない。すれ違う。でも、それでも歩いていく。春の夜、夏の夜、秋の夜、冬の夜。夜は短くても、気持ちだけはずっと続いていく。そう信じたくなる。
最後の最後まで、先輩がどう動くのか、乙女がどう気づくのか、その展開が心に火を灯す。
そういう意味で、この小説は恋の応援歌じゃなくて、恋の記録なのだと思う。
騒がしくて、変で、どこかあったかい夜の記録。

15.四畳半の羅針盤、運命は角を曲がる―― 森見 登美彦『四畳半神話大系』
理想とは程遠いキャンパスライフを送っている、さえない大学3回生の「私」。
できれば1回生に戻って、バラ色の大学生活をやり直したい……4つのパラレルワールドで繰り広げられる、面白おかしい青春ストーリー。
あの時あの選択をしていたら?4つの平行世界で展開される大学生活
理想の大学生活なんて、たいてい妄想だ。サークルは失敗、恋は実らず、友達は変なやつばかり。
そんな「三回生の私」が、もし一回生に戻ってやり直せたら……と妄想をこじらせた結果、四つのパラレルワールドをさまようことになる。
サークルを変えれば未来も変わる? 演劇部、ソフトボールサークル、秘密結社、映画サークル。いろんな人生を試してみるけれど、なぜかどれも冴えない。希望のキャンパスライフは始まらないどころか、むしろどんどんカオスになっていく。
なのに、この話はどこか笑えて、いとおしい。物語が進むごとに、微妙に重なりあう出来事やセリフが現れ、四つの話がまるでジグソーパズルみたいに組み上がっていく。繰り返すたび、何かが変わっている。それが妙に気になってしかたない。
悪魔のような友人・小津、しれっと誘惑してくる美女・明石さん、妙な団体や珍事件の数々。京都の街を舞台に、現実と幻想が渾然一体となったドタバタ劇がくり広げられる。ばかばかしくも巧妙な展開の中に、やけに胸に刺さるセリフがまぎれていたりする。
結局、「今の自分」がいちばんバラ色に近いのかもしれない――そんな気づきを、ぐるぐる回る迷宮の果てにそっと渡してくれる小説だ。
四畳半の部屋からだって、世界は案外広がっている。
16.ホルモー、それは青春の呪文だった―― 万城目 学『鴨川ホルモー』
2浪の末、京都大学に入学した安倍。
一人の女性に一目惚れしたことがきっかけで、謎の競技「ホルモー」に取り組むサークルに加入する。
京都の4大学間で1,000年の歴史を持つホルモーを通じて繰り広げられる、若き学生たちの青春物語。
謎の伝統競技「ホルモー」と、大学生たちによる青春ストーリー
京都大学に合格した安倍は、何かを期待していた。きらびやかなキャンパスライフ、理想の恋、胸が高鳴るような日々。
だが現実は、拍子抜けするほど地味だった。そんな彼が、謎のサークル「京大青竜会」と出会ったことから、運命の歯車が回り始める。
サークルの活動内容は、「ホルモー」という名前の競技。ただの伝統行事かと思いきや、その正体は目に見えぬ〈オニ〉を使役して戦う、京都四大学による超常バトルだった。
とんでもない話だが、登場人物たちはいたって本気。安倍もまた、恋や友情やプライドと向き合いながら、ホルモーの世界にどっぷりハマっていく。
万城目学の描く世界は、ナンセンスのなかにどこかリアルな心の動きがある。真面目なのかふざけているのか分からないようでいて、ふいに突き刺さる瞬間がある。バカげた設定の裏側で、大学生たちのどうしようもない不器用さや、うまく言葉にできない恋心が脈打っているのだ。
オニを操る戦闘シーンも異様な迫力がある。想像でしかないはずのものが、なぜか目の奥に焼きつく。そこには京都という土地の魔力と、万城目節の語りの巧みさが効いている。
安倍たちは何者にもなれていない。ただ、叫び、走り、ぶつかり合い、あまりに変な競技に命をかけている。それだけの話なのに、なぜこんなにも熱いのか。
青春とは、意味の分からないことに本気で取り組めた時間のことなのかもしれない。
夕暮れの鴨川を散策する折には、どうか耳を澄ませてほしい。
遠くから響く「ホルモオオオォォォーッッ」というこだまは、きっとあなたの胸にもかつて灯った青春の炎をそっと揺らしてくれるだろう。
そのとき、あなたは思わず叫びたくなるに違いない――「われらいま、青春の只中にあり」と。
17.呼ばれても、決して応えてはならない―― 澤村伊智『ぼぎわんが、来る』
幼い頃、謎の怪物「ぼぎわん」に遭遇した田原。
やがて結婚して一人娘を持った彼に、謎の訪問者が現れる。
それ以来、周囲で起こる不可思議な怪奇現象。ぼぎわんの再訪を察知した田原は、家族を守るため、オカルトライターと女性霊媒師を頼る。
名前を呼ばれても決して答えてはいけない。巧みな構成が光る上質のホラー
深夜、妙な物音に気づいた経験はないだろうか。
床が鳴る、扉が揺れる、誰かが名前を呼んだ気がする。そんなとき、うっかり返事をしてはいけない。ここに登場する〈ぼぎわん〉は、まさにそういうやつだ。
田原秀樹は、かつて幼いころに遭遇した〈ぼぎわん〉の記憶を抱えている。けれど大人になった今、結婚して子どももできて、そんな昔話はどこか遠い世界のことのようだった。なのに――妙な訪問者がやってくる。妙な足音が聞こえる。そして誰かが名前を呼んでくる。あの気配がまた、やってきた。
この小説、とにかく構成がうまい。最初は田原の一人語り。怖がりながらもどこか他人事っぽい。次に登場するのは、彼の妻・香奈。視点が変わった瞬間、田原の語っていた世界が違って見えてくる。恐怖だけじゃない。夫婦のズレとか、育児の疲れとか、見えないひび割れが浮かび上がる。
そして最後にバトンを受け取るのが、オカルト雑誌のライター・野崎と、霊媒師・比嘉真琴(ひが まこと)だ。ここで一気に物語が加速する。言霊、呪術、祈念。相手は姿が見えない分、より生々しい。喋ってるうちに、聞いてる側の首筋が冷えてくる。
この話が怖いのは、「家族」というぬるま湯の中に、すっと冷たい手が差し込まれるような感じがするからだ。誰かが名を呼ぶ。それに応えてしまった瞬間、何かが内側から入り込んでくる。
怖さは外からやってくるとは限らない。気づいたときには、もう中にいるかもしれないのだ。
名を呼ばれたら、返さないこと。このシンプルなルールを守れるかどうか。
それだけで、世界はがらりと変わってしまう。

18.闇の活字をほどく指先―― 澤村伊智『ずうのめ人形』
オカルト雑誌の編集者として働く藤間は、同僚から、不審な死を遂げたライターが遺した原稿を託される。
そこには、死をもたらす「ずうのめ人形」の都市伝説が記されていた。
そして、周囲では犠牲者が発生し、彼にも不気味な人形が現れるように……。
「リング」を彷彿とさせる、伝染していく呪い。前作を超える恐怖
不意にページの端から黒い目がのぞいた気がした。あれ? と指を止めても、そこには何もいない。
けれども、どうしても視線の端がうずく。そういう本だ、『ずうのめ人形』は。
主人公の藤間は、オカルト雑誌の編集者。ある日、妙な原稿を託される。それは、亡くなったライターが残したものだった。内容はこうだ。死をもたらす「ずうのめ人形」という都市伝説がある。すでに何人かが命を落とし、呪いは今も広がっている――。
物語は、いわば紙の呪いだ。伝説は誰かの口から始まり、文字になり、ネットに撒かれ、都市の隅に根を張る。その感染源を、藤間は手にしてしまう。ライターとしては致命的な皮肉だ。文字を扱う仕事が、命取りになるなんて。
描写は驚くほど控えめだ。人形について詳しく語られる場面なんてほとんどない。でも、それが逆に効いてくる。気がつけば、頭の中には黒くて丸い目だけがはっきり残る。空っぽの視線が、こちらをずっと見ているようで、妙にいやな感じがするのだ。
本作の怖さは、知ったことから逃れられなくなる点にある。名前を知ってしまった、話を読んでしまった、それだけで、なにかが始まってしまうような気配。しかも、呪いの媒体は紙だけじゃない。人の感情――妬みや怒りや後悔――にも寄生して、広がっていく。
比嘉姉妹が出てくるとはいえ、これは誰かに託すような話じゃない。自分で受け止めるしかない類のものだ。文章を追うごとに、何かが近づいてくる感覚がある。だんだん音が聞こえてくる。乾いた足音。かさ、と衣ずれ。
そして最後には、思ってしまうのだ。
「自分の足元にも、あの影が立ってるんじゃないか」って。
19.夜の市場と、取り戻せないもの―― 恒川光太郎『夜市』
人ならざる物によって運営される、不思議な市場「夜市」は、何でも売っているが、何かを買わないと帰ることができない。
幼きころ夜市に迷い込み、弟を売って野球の才能を手に入れた裕司は、罪悪感から弟を買い戻すため、再び夜市を訪れる。
うつくしく哀愁の漂う、不思議な雰囲気のホラー小説大賞作品
あのとき、あそこで、あんな選択をしなければよかった――誰の心にも、ひとつやふたつはそんな過去が転がっている。
恒川光太郎『夜市』は、そんな「取り返しのつかない選択」と、もう一度向き合う物語だ。
舞台は、夜の帳が降りたあと、ふいにどこかに開かれる「夜市」。人間じゃない何かが運営していて、商品は人間の記憶、未来、才能、命。何かを買わないと帰れないというルールが、しれっと存在する。
主人公の裕司は、子どものころに夜市で弟を売った。それと引き換えに、野球の才能を手に入れた。あまりに重すぎる代償だ。何年もあとになって、あの夜市がまた開かれると知った裕司は、弟を取り戻すために再び足を踏み入れる。
この物語にあるのは、よくあるホラーの怖さではない。むしろじっと目を逸らさずに向き合わされるのは、自分の中にある欲や後悔そのものだ。誰もが何かを求めていて、しかし手に入れるには代償が必要で、戻るには何かを失わねばならない。夜市はそういう場だ。
作品に漂うのは、不安というより、郷愁に近い空気。何かが終わってしまった後の、夕立の匂いに似ている。幻想的な景色が広がるが、描写は派手じゃない。淡々とした語り口が逆に効いていて、気づけばこっちの足元まで夜市の灯りが差し込んでくる。
もう一編『風の古道』も収録されていて、こちらも別方向から胸にくる。どちらの話も、失ったものとどう向き合うか、というテーマでつながっている。
人は、何を売って、何を買うのか。そして、その取引は本当に「得」なのか。
夜市は今日も、誰かを待っている。
ふらりと迷い込むのを、じっと待っている。
20.それは、終わらない秋の物語―― 恒川 光太郎『秋の牢獄』
何度も繰り返される11月7日、水曜日。女子大生の藍は、この同じ一日を何度も過ごしていた。
同じ内容の講義、同じ会話をする友人……。
やがて、同じ現象に悩まされている仲間たちと出会い、交流を深めていくが、その仲間も一人、また一人と姿を消していく。
秋の夜長にぴったりな、唯一無二のファンタジー
「水曜日が、また来た」
朝、目を覚ますたびに11月7日。空の色も、教室の雑音も、友人の会話も、すべてが昨日と寸分違わない。恒川光太郎『秋の牢獄』の主人公・藍は、そんな不思議な時間に囚われた女子大生だ。
「繰り返し系」の話はたくさんある。でもこの作品には、時計仕掛けのようなループの中に、人肌のあたたかさと、ひそやかな恐怖が同居している。時間が止まったことで、出会えた人たちがいて、心を通わせる瞬間がある。だけど、それさえも、冷たい風がそっと吹き抜けるように失われていく。
北風伯爵という謎の存在が、その穏やかな牢獄をかき乱すたび、仲間がひとりずつ消えていく。しかも説明はない。なぜその日が繰り返されているのか、なぜ自分がそこにいるのか。物語ははっきりとは教えてくれない。でも、それでいいのだ。
この中篇集には、『秋の牢獄』のほかにも『神家没落』『幻は夜に成長する』という、世界の端っこがそっとめくれるような話が収録されている。どれも、目に見えない檻の中で生きる人々の姿が描かれていて、不安や違和感をすくい上げる描写がじつに巧みだ。
恒川光太郎の文章には、過剰な飾りがない。そのぶん、読んでいるといつのまにか自分が物語の中に足を踏み入れていることに気づく。気づいたときには遅くて、もう出られない。
この本は、秋という季節そのもののようだ。涼しげで、どこか懐かしくて、でも確かに遠ざかっていく気配を持っている。そしてたぶん、どこかに隠し扉があって、今でも開いている。通りすがりの風の中に、その気配が潜んでいる。
秋の夜に読んだこの物語は、次の季節が来てもどこかで続いている気がする。
気がつけば、また同じ日が始まっているような気がするのだ。
21.深紅の地にて、人間は獣となる―― 貴志祐介『クリムゾンの迷宮』
火星の迷宮へようこそ――深紅色に染められた、謎の大地で目が冷める藤木。
所持品もなく、側には携帯ゲーム機が置かれていた。
状況が全く分からないまま、男女9人による命をかけたサバイバルゲームに突入する。
火星と銘打たれた、謎の峡谷で展開されるゼロサムゲーム
目が覚めたら赤い大地のど真ん中で、しかも隣には謎のゲーム機。
しかもいきなり「火星の迷宮へようこそ」なんて表示が出る。
冗談だろと思いたいけど、砂の色も空気の重さも、生ぬるい風までもが「ここは地球じゃない」と告げてくる。わけがわからないまま、藤木はこの奇怪な世界に放り込まれる。
状況も目的も不明なまま、男女9人のゼロサム・サバイバルが始まる。武器も装備も足りないのに、「狩らなければ狩られる」というゲームのルールだけはどうやら本物らしい。
序盤は、与えられたヒントをもとに慎重に動く時間。けれど、進めば進むほど空気が変わる。誰が味方で誰が敵か、何を信じて何を疑うか。グループの中での立ち回り、情報の共有、それとも独占……一つ判断を誤れば、命が終わる。
この作品が面白いのは、ただのバトルロワイヤルにとどまらないところだ。焦りや恐怖が、人間の判断をどう鈍らせていくのか。藤木自身が「生き残るため」にどんなラインを踏み越えていくのか。その変化がじっくり描かれている。外側の敵だけじゃなく、内側の葛藤がきっちり見せ場になっているのがうまい。
舞台となる「火星のような場所」も絶妙だ。風景の不穏さがずっと尾を引く。赤い地面、不気味な岩、どこまで行っても似たような風景――逃げても逃げても同じ場所に戻ってきたような気さえする。この空間の異様さが、ずっと背中をぞわぞわさせる。
ゲーム機の存在もニクい。これがただの小道具じゃなく、藤木の判断を左右する案内人であり、ある意味でもうひとりの参加者でもある。情報をくれるけど、それが正しいかどうかは自分で決めろ、というあたりがいかにもスリリングだ。
終盤にかけては、血の匂いも濃くなってくる。でもいちばん怖いのは、やっぱり人間そのものだ。言葉ひとつ、笑顔ひとつが、ぜんぶ罠に見えてくる。理性と本能のせめぎ合い。自分を保ちながら生き延びるって、こんなに難しいんだと思わされる。
『クリムゾンの迷宮』は、ただのスリラーでも、バトルゲームの再現でもない。これは、生き延びようとする人間の、いちばん赤裸々な姿を見せつける物語だ。
そして気がつく。藤木が迷っていたのは、あの赤い峡谷だけじゃない。いちばん深くて抜け出せない迷宮は、人間の心の中にある。進めば進むほど、足元が不安定になっていく感覚が、ずっと続く。
逃げ道はない。覚悟を決めて進むしかない。
もしあなたがこの小説を手に取ったなら、最初のページを開いた瞬間から、あなた自身もまた迷宮に足を踏み入れたことになる。
覚悟して進んでほしい。
この深紅の迷宮から、無傷で帰ってこられる読者など、ひとりもいないのだから。

22.天使は囁かない。それは、絶望の声である―― 貴志祐介『天使の囀り』
新聞社が主催するアマゾン調査隊に参加したメンバーは、帰国後、次々と異常きわまりない方法で自殺していく。
現地で一体何があったのか。死の直前に残した「天使の囀りが聞こえる」という言葉は、何を意味するのか。
かつてない恐怖が、いま始まる。
圧倒的な科学的知見に裏打ちされた、リアリティあふれるホラー
「天使の囀りが聞こえるんだ」
貴志祐介の『天使の囀り』は、そんな不穏な言葉とともに幕を開ける。
舞台はアマゾン奥地。そこに派遣された日本人調査隊のメンバーが、帰国後次々と命を絶つ。しかも、自傷の域を超えたやり方で。彼らの耳に残ったのが、あの囀りだった。
主人公は精神科医の北島早苗。彼女の恋人も調査隊のひとりで、生前は死を極度に恐れる人間だった。だがアマゾンから帰国した彼はまるで別人のようになり、やがて命を絶つ。死に至る経緯、そこに潜む共通点、謎のフレーズ。北島は真相を追い始める。
この物語、怖さの正体はお化けや呪いじゃない。あくまで現実の隣にある話なのだ。幻覚性物質? 脳の構造変化? 未知の感染症? 科学的な理屈がきれいに積み上げられていくからこそ、変な説得力がある。「そんなバカな」と言い切れない、ありそうで困る感じだ。
しかも、すべてが徹底的にリアルだ。医学、神経科学、文化人類学――ジャンルをまたいで、冷静すぎるほど冷静に構成されている。
どこまでも理屈の上に成り立っているようでいて、その実態はとんでもない。命を終わらせることが、なぜかやさしく、美しいことのように思えてくる。それがいちばん怖い。
死を恐れていた人間が、笑いながら命を絶つ。そこに説得力を与えるだけの理屈が、淡々と用意されている。最後まで読み終えたとき、「なるほど」と思ってしまう自分にゾッとするかもしれない。
怖いのは、声そのものじゃない。それを聞いてしまった人間の心が、すごく穏やかに壊れていくところだ。
ふとしたときに、自分の耳にも聞こえてきそうな気がして、眠れなくなる。
23.死者が振り返る坂の途中で―― 今邑彩『よもつひらさか』
古事記の神話に、黄泉の国と現世の境目として登場する黄泉比良坂(よもつひらさか)。
一人で このなだらかな坂を歩くと、死者に出会うという言い伝えが……。
表題作の他、12篇が収められた 珠玉のホラー短編集。
シンプルな文体で構成される、濃厚な12本の短編
死者と生者の境を歩く坂があるらしい。
その名は「よもつひらさか」。一人きりでこの坂を歩くと、向こう側から誰かがやってくる――そんな言い伝えが、古事記には残っている。
今邑彩(いまむら あや)の短編集『よもつひらさか』は、その不穏な坂道を、そっと踏ませてくるような一冊だ。全部で13篇。どれも数十分で読めるけれど、体感時間はずっと長く感じる。妙に濃密で、居心地が悪く、でも目を離せない。
表題作の『よもつひらさか』では、娘の住む町を訪れた中年の男が、なだらかな坂道で立ち止まる。そこに現れた、見知らぬ青年。どこか芝居がかった口調で、「ここは、黄泉へ通じてるんです」と告げる。男は笑って取り合わないが、歩を進めるにつれて、次第に何かがずれていく。
これといって奇抜な演出はない。血も出なければ、幽霊が突然襲ってきたりもしない。それでも、読み終えた後の寒気はしっかり残る。何かを見せられた気がする。何かを見逃した気もする。とにかくざわつく。
この短編集には、そういう曖昧な恐怖がたくさん詰まっている。「生きてること」と「死んでること」のあいだにある、言葉にしづらいグラデーション。その部分をすくい取ってくるような話ばかりだ。
ネタとしてはホラーの王道だけど、今邑彩の語り口はやたらと端正で、落ち着いている。説明しすぎない。ヒントは投げるけど、答えまでは寄越さない。だから、余白に広がるものがある。
文章は読みやすい。会話もあっさりしている。だけど内容は重たい。終わったあと、どっとくる。ほとんどの話が「後から怖くなる」タイプだ。
どれか一篇でも刺さったら、たぶん他の話も抜けなくなる。個人的には、表題作と『家に着くまで』『双頭の影』『ハーフ・アンド・ハーフ』が大好きだ。あの終わり方はズルい。怖いより先に、胸の奥がひりついた。
日常の皮をそっと剥がしたところに見える異界。今邑彩はそこにスッと指を差して、「ほら、いるでしょ」と囁いてくる。
気づかなければよかった。でも、もう見えちゃった。
そんな読後感が待っている。
この本を読んだ夜は、誰もいない廊下を通るのが嫌になる。
鏡の前に立つのも避けたくなる。ふとした影に、誰かの気配を感じる。
……つまり、そういう作品だ。

24.密室の中の絶望と推理―― 今村昌弘『屍人荘の殺人』
映画研究会の夏合宿に参加するため、葉村と明智はペンション紫湛荘を訪ねるが、想定外の事態 で閉じ込められてしまう。
一夜明け、惨殺死体で発見される部員が……。
2人は同行した探偵少女・ 剣崎とともに、この絶望的な状況を乗り越え、謎を解き明かしていく。
特殊設定を巧く活かした、今風で新しいミステリー
「映画研究会の夏合宿」と聞いて、殺人事件を想像する人はあまりいない。
せいぜい色恋沙汰か、深夜の肝試しがせいぜいだ。ところがこの小説では、そういう平和な予定は、ペンションの扉が閉まった瞬間にぶっ飛ぶ。
今村昌弘の『屍人荘の殺人』は、「クローズド・サークル+連続殺人+名探偵」の定番要素をちゃんと詰め込みながら、それを全部ズラしてくる。もうジャンルごと揺さぶってくる感じだ。なんというか、探偵小説を爆発させて、その破片で別のミステリーを組み上げてるような話だ。
舞台は「紫湛荘(しじんそう)」という山奥のペンション。ここに集まった大学生たちは、映画研究会の合宿に来ただけだったはずなのに、突然外部と遮断され、朝には惨殺死体が転がっている。これが事件のスタートだ。
ここからがすごい。まず、物語のある仕掛けが「おいおいそこに行くのか」と驚かせる。けれど意外にも、筋道立てた推理はちゃんと通る。無茶苦茶な状況なのに、探偵はあくまで冷静に、論理の糸をたぐっていく。
このコントラストが効いてる。惨劇に放り込まれても、推理することはできる。誰かの死を無駄にしないために、理由を掘り起こす。その行為そのものが、暴力に抗う手段になっているのだ。
結末は甘くない。でも、ひとつの論理が通ったことで、ほんの少し世界の輪郭が戻ってくる。ミステリ小説って、たまにこういう魔法を使うから最高だよなあ。
合宿に持っていく本としては危険すぎるけど、ミステリー好きなら絶対に外せない。
これは、事件と絶望と、それでも推理を諦めない物語だ。
25.地獄の厨房で、生きる味を知る―― 平山夢明『ダイナー』
オオバカナコは、どこにでもいる普通の女性。
裏社会の仕事に関与したことをきっかけに監禁され、殺し屋が集まる会員制ダイナー「キャンティーン」のウェイトレスとなる。
そこで彼女は、シェフのボンベロや、殺し屋たちの人間模様に触れていく。
逃げ場のないバトルロワイヤルと、過酷な環境でたくましく生きるカナコ
どんな料理がいちばん怖いかって?
それは「殺し屋の胃袋を満たすための料理」だ。
平山夢明(ひらやま ゆめあき)の『ダイナー』は、そんな極限の厨房を舞台にした狂気と美食の物語だ。
主人公のオオバカナコは、いわゆる普通の女の子。だが運悪く、裏稼業のバイトに手を出し、気がつけば殺し屋専用のレストラン「キャンティーン」でウェイトレスとして監禁生活を送るハメになる。
この店、客はみんな人を殺すのが本業だ。注文を間違えれば、皿が飛んでくるどころじゃない。命ごと終わりだ。そんな修羅場で、カナコは「死なないため」ではなく、「生きるため」にどう立ち回るかを考え始める。
厨房に立つのは元殺し屋の天才シェフ・ボンベロ。彼の作る料理は芸術であり、武器でもある。一皿で黙らせる、一皿で救う。それが「キャンティーン」だ。肉を焼く音、香辛料の香り、血のにおい――すべてが入り混じって、食と死の境目があいまいになっていく。
この物語の真骨頂は、むしろそこからだ。暴力と狂気に満ちた空間の中で、なぜかほんのすこしだけ人間に希望が見える。背中にナイフを隠しながら、それでも誰かの作った料理を口にする。そんな連中のほんの数秒の沈黙に、なぜか目が離せなくなる。
「食う」ってことが、ここまで切実で、生々しいって、誰が想像できただろうか。
殺し屋も泣く。カナコも叫ぶ。でも、誰ひとり食べる手は止めない。
つまりこれは、命をかけた「晩ごはん」の話なのだ。

26.暴力と悪夢の胎内で―― 飴村行『粘膜人間』
身長195cm、体重105kgという巨体の小学生・雷太。
彼の暴力を恐れた2人の兄は、弟の殺害を試みるが、全く歯が立たず失敗に終わる。
そこで2人は、村の外れに入るという「ある者たち」に 彼の殺害を依頼するのだが……。
異常性のフルコース。想像を軽く凌駕する、凄まじい世界観
雷太は、小学生だ。
身長195cm、体重105kg。肩幅はドアの幅を超えるし、拳は大人の顔よりデカい。しかも怖いのは、彼の肉体だけじゃない。無表情のまま、簡単に人を壊す。それが彼にとっての日常だ。
兄たちは震えながら、雷太を殺す計画を立てる。だが失敗する。あまりに現実離れした力を前に、人間の手段は無力だ。そこで彼らは、「村の外れにいる何か」に頼ることになる――。
ここから物語は、常軌を逸した世界へなだれ込む。血も、臓物も、破裂音も、遠慮なく飛び散る。にもかかわらず、文章には妙に整ったリズムがあって、目をそらしたくても読み進めてしまう。グロい、痛い、汚い。なのに、その向こうにかたちのある感情が見えるのだ。
雷太の存在は、人間という枠組みを雑にぶち破ってくる。でも、どこかで「こういう生き物がいてもおかしくない」と思わせてしまうリアルさがある。暴力だけで語れない、理不尽と孤独のかたまり。その背中が、なぜか悲しく見える瞬間がある。
飴村行の筆は鋭く、容赦がない。でも、そこには決して投げやりな感じがない。ちゃんと構築され、整っている。狂っているのに、整っている。そのギャップが余計に不安を煽る。
この作品は、万人にすすめられるような代物じゃない。むしろ、踏み込んではいけない場所にわざわざ足を踏み入れる覚悟がある人だけが味わえる類の地獄だ。
恐ろしくて、不快で、目を背けたくなる。でも、その奥底にある何かが、ずっとこっちを見ている気がする。
そして最後、こう思ってしまう。「やっぱり、読んでよかった」って。

27.見えないふたりの、ささやかな革命―― 乙一『暗いところで待ち合わせ』
殺人事件の容疑者として追われるアキヒロは、捜査から逃れるために、独り静かに暮すミチルの 家に逃げ込む。
目が見えず気付かないふりをするミチルに対し、アキヒロは危害を加えるどころか、彼女を助けるように――。
奇妙な同棲生活が始まる。
孤独な2人がアパートの一室でひっそりと紡ぐ、ハートウォームなストーリー
足音ひとつで、誰かがいることがわかる。それが安心になるか、不安になるかは、状況次第だ。
乙一の『暗いところで待ち合わせ』は、そんな音のある暮らしから始まる。視力を失った女性・ミチルの部屋に、ある日ひとりの男が忍び込む。名前はアキヒロ。殺人の容疑をかけられ、追われる身だ。
だが、これは逃亡劇でもなければ、スリル満点の犯罪小説でもない。むしろその逆で、ふたりの間に流れる空気は、妙にあたたかい。何も始まらないようで、何かが少しずつ変わっていく。そんな話だ。
アキヒロはミチルに気づかれないよう、息をひそめて暮らす。でもミチルのほうは、最初から彼の存在に気づいている。お互いに黙ったまま、日々が過ぎていく。その距離感がたまらなく絶妙で、笑えるような、泣けるような、説明の難しい感情がわいてくる。
派手な展開はない。だけど、ミチルがコーヒーを淹れるときの手つきとか、アキヒロが洗濯物を干すときの気遣いとか、そういう細かいシーンがやけに心に残る。言葉が少ないぶん、行動の端々に人間味がにじみ出る。
この物語は、何かを解決する話じゃない。むしろ、何かを受け入れる話だ。過去の過ち、どうしようもない不運、そして孤独。それらをごまかさずに、そのまま持ったままで、誰かと一緒に生きようとする姿が、ここにはある。
二人のあいだに愛が芽生えるわけでもない。でも、あの部屋で過ごす時間は、確かにやさしかった。そう言いたくなる。
暗いところで、人はおどおどする。でも、ときどき、そこが一番落ち着く場所になることもある。
この話は、そのことを教えてくれる。

28.喪失から生まれる光―― 乙一『失はれる物語』
交通事故に遭った「私」は、目が覚めると漆黒の闇にいた。
全身不随となり、視覚や聴覚など五 感の全てを奪われていたのだ。
ピアニストの妻は、唯一残った皮膚感覚のある右腕を鍵盤に見立て、演奏することで意思の疎通を図るが――。
表題作を含め、珠玉の短編7篇。
何かを失った主人公たちが紡ぐ、切なくはかない短編集
事故で五感をすべて失った「私」が、唯一感覚の残った右腕で、ピアニストの妻と会話する。
そんな切ない表題作から始まるこの短編集は、どの話にも「何かを失った人」が登場する。でもそれだけじゃない。「それでも何かを伝えようとする人」が、必ずいる。
収録されている7つの物語には、直接的な暴力もないし、感情を煽るような派手な展開もない。でも、どれも確かに刺さる。そういう優しさと哀しさが詰まった本だ。
『Calling You』では、心の中で携帯電話を作り出した少女が、自分の居場所を探している。『傷』では、痛みを共有することでしか近づけない関係が描かれる。一見ふざけているように見える『ボクの賢いパンツくん』や『ウソカノ』だって、根っこにあるのは同じテーマだ。喪失、孤独、そしてほんのかすかなつながり。
どの話にも共通しているのは、誰かが「絶望してもいいはずの状況」で、それでも希望のかけらを握っているということだ。泣き言は言わない。でも、あきらめもしない。言葉にしすぎない感情の温度が、むしろ強く伝わってくる。
この本は、「失う」ことがすべて終わりじゃないと教えてくれる。「それでもまだ、誰かとつながる方法はあるんじゃないか」と思わせてくれる。
乙一の描く世界は、やさしい。なぐさめるわけじゃないけど、見捨てない。だから、悲しくても救われる。
失ったあとに、まだ残っているもの。それを大切に抱えて、また前を向くための本だ。
29.時間をめぐる少年の決意―― 西澤保彦『七回死んだ男』
「反復落し穴」によって、殺されては甦り、また殺されてしまう渕上零治郎老人。
この落し穴を唯一認識している孫の久太郎少年は、繰り返される時の中で、祖父を救うため、あらゆる手を尽くし奔走する。
7回死んでしまう老人を救うべく、孤軍奮闘する孫。新感覚のSFミステリー
朝起きると、また祖父が死ぬ日だった。昨日も、その前も、その前の前も。
この一日は、最大9回まで繰り返される。理由はわからない。でも、祖父が毎回違う形で殺されるのは確かだ。そして、この地獄のような1日を知っているのは、世界で久太郎ひとりだけ。
西澤保彦『七回死んだ男』は、タイムリープ×本格ミステリの掛け算で生まれた珍妙な傑作だ。主人公・久太郎は、24時間限定の時間ループ能力「反復落し穴」を持っている。そしてその力が発動する日は決まっている。祖父・零治郎が死ぬ日だ。
資産家の祖父が何者かに殺される――それを止めようと久太郎は孤軍奮闘する。でも、どうしても阻止できない。警察を呼んでも、家族に忠告しても、結果は同じ。祖父は死ぬ。じゃあどうするか。もう、自分で探すしかない。誰が、何のために、どうやって。何回失敗しても、久太郎は食らいついていく。
この話の面白さは、「名探偵が華麗に謎を解く」ではないところにある。むしろ、素人の高校生が、何度もつまずきながら真実ににじり寄っていく姿がリアルで、こっちの心まで動かされる。途中、親族の醜さもどす黒く描かれて、まあ人間ってろくでもないな、と笑いたくなる場面もちらほら。
それでも久太郎はあきらめない。祖父を救いたい。ただその一心で、同じ1日を何度も走り抜ける。これは、若さの特権だと思う。
大人になると、「やり直せたらなあ」とか言いながら、実際にチャンスがあっても動けなかったりする。
久太郎は違う。本気でぶつかる。何回でも。
死が待っている1日を、希望に変えようとする少年の物語。
その執念と成長が、とにかく痛快なのだ。
30.風を裂く者たちの孤独―― 近藤史恵『サクリファイス』
プロのロードレーサーとして、チームに帯同し各地を転戦する白石。
彼の仕事はエースの踏み台となり、勝利へ導くこと。
さまざまな出来事が起きる中、ヨーロッパ遠征において、彼は悲劇に遭遇してしまう。
自転車ロードレースと青春とサスペンス。
過酷な自転車ロードレースの世界で繰り広げられる、異色のミステリー
全力で走っても、ゴールテープを切るのは別の誰か。そんな仕事が、この世にはある。
プロのロードレーサー・白石の役目は、チームのエースを勝たせること。風よけになって、走るラインを作り、敵をけん制し、そして最後は身を引く。これは「勝つ」ために、自分を捨てる者の物語だ。
近藤史恵の『サクリファイス』は、スポーツ小説の枠を軽々と超えてくる。疾走感のある描写、筋肉の軋みが伝わってきそうなレース展開。それだけでも相当おもしろい。でも、それだけじゃ終わらない。
物語の半ば、ヨーロッパ遠征中に起きたひとつの出来事が、全体に影を落とす。仲間だったはずの選手が、事故で命を落とす。だが、これは本当に「事故」だったのか――。そんな不穏な空気が、白石の胸にしこりを残していく。
誰のために走るのか。なぜ、そこまでして勝ちたいのか。疑念と苦悩が、レースのスピードに乗って突き刺さってくる。
しかもこの小説、ミステリーとしても抜群にうまい。伏線の張り方も、真相の明かし方も、びっくりするくらいスマートだ。ゴール目前で明かされる「真実」は、感情にじかに響く。
白石は、エースでもなければヒーローでもない。でも、その泥だらけの背中は、間違いなくかっこいい。自分を押し殺して走る姿が、これほどまでに胸を打つとは思わなかった。
タイトルの『サクリファイス』が意味するもの――犠牲、供物、生贄。その全部を背負って、それでも走り抜ける男の姿に、何かを教えられた気がする。
スピードに酔ってるだけでは見落としてしまう何かが、確かにある。
風の中に消えていくような物語だけど、その疾走は、どこまでも美しい。
31.記憶がこぼれていく、それでも今日を生きる―― 荻原浩『明日の記憶』
広告代理店で営業部長を務め、重要な案件を担う50歳の主人公。
私生活では一人娘の結婚を控え、順風満帆な日々を送っていた。
しかし物忘れが激しくなり、受診した病院で若年性アルツハイマー病と診断されてしまう。
妻と話し合った彼は、病気と向き合う覚悟を決める。
渡辺謙が映画化を熱望した、悲しくも温かな物語
最初は「ちょっと疲れてるのかな」だった。
会議の段取りを飛ばした。得意先の名前が出てこなかった。電車の乗り換えを忘れた。そんな細かいズレが、気づけば人生の基盤を揺らしてくる。
荻原浩『明日の記憶』の主人公は、広告代理店でバリバリ働く50歳の営業部長。家では娘の結婚を控え、職場でも責任ある立場にいる。
そんな彼が、ある日病院で宣告される。
「若年性アルツハイマー病です」と。
人生の予定表に、そんなスケジュールはなかったはずだ。でも物語は、そこから始まる。記憶が抜けていく日々。さっき話したことを忘れ、今日が何曜日かあやふやになる。なのに、昔の思い出だけがやけに鮮明だったりする。あのときの風景、妻の笑い声、娘の手。過去はくっきりしているのに、現在がぼやけていくという逆転現象。
ただ、悲しみだけで終わらないのがこの作品のすごいところだ。妙にユーモラスな描写もあって、読んでいて思わずクスッとする場面がある。病気の話なのに、肩の力を抜いて読めるのは、著者のまなざしがどこまでも優しいからだろう。
職場の仲間や家族との関係も描かれるけれど、決してドラマチックな演出はない。むしろ、ふとした仕草やすれ違いの中に、大切なものが転がっている。
この物語は、忘れてしまうことの切なさと、忘れたくないものの強さを教えてくれる。未来が曖昧になるとき、人はどうやって愛を伝えるのか――そんな感情が、やわらかく胸に残る。
最後のページを閉じたとき、誰かの名前をそっと呼びたくなる。
忘れないうちに、大事なことを伝えたくなる。そんな一冊だ。

32.嘘と真実のあいだに潜むもの―― 中島らも『ガダラの豚』

超能力ブームで自書がベストセラーになった、テレビタレント教授・大生部多一郎。
しかし、8年前に娘がアフリカで事故死して以来、神経を病んでいた妻は、新興宗教に嵌ってしまう。
彼女を奪還すべく、大生部は奇術師とダッグを組み、教団に立ち向かう。
テレビの裏側や超能力、新興宗教、洗脳など、畳み掛けるようなエンターテイメント
手品とテレビと宗教が、こんなにも親しいものだったとは。
中島らも『ガダラの豚』は、信じたい人々の心の隙間を、ブラックな笑いと鋭い観察で切り裂いていく。しかもそれが、むちゃくちゃ面白い。
主人公・大生部多一郎は、「超能力の嘘を見破る専門家」として世に出たはずが、気がつけば超能力肯定派のような扱いでテレビに引っ張りだこに。本人もその空気に流されて、まんざらでもない様子。
だが、その軽さの裏には、深い喪失がある。かつて娘を事故で失い、精神を病んだ妻は、やがて怪しい教団へと引き込まれてしまった。
「奪い返す」
大生部は、自分が手をこまねいているうちに変わってしまった妻を、あの頃の彼女に戻したいという衝動に突き動かされていく。そこで手を組むのが、奇術師の乾。インチキを見抜くプロと、インチキをやるプロ。このふたりのやり取りが、皮肉たっぷりで最高に愉快だ。
だが、本作の魅力はただの風刺だけではない。オカルトも宗教も、そしてテレビさえも、すべて人の「信じたい」という気持ちを利用して成り立っている。善か悪かではなく、その仕組みを冷静に見つめたまま、大衆の中に混ざって泳ぐような視点が、本作全体に貫かれている。
エンタメ性は極めて高い。笑いあり、皮肉あり、ちょっぴり怒りもある。でも読み進めるうちに、自分自身の中にも「信じたい衝動」があることを認めざるをえなくなってくる。誰だって、心のどこかで魔法を求めているのだ。
物語はやがて、アフリカの呪術や精霊信仰へと踏み込んでいくが、その深みに入る前の準備体操としても、この一作目は見事だ。テレビの現場、新興宗教の実態、メディアの本質、人間の弱さ。そのすべてを巻き込みながら、ユーモアを忘れない。これほど複雑で濃厚なテーマを、重さを感じさせずに描き切る語りの力に、ただ脱帽する。
嘘と本当の区別がつかなくなるとき、人はどこへ向かうのか。笑っていたはずなのに、ふと立ち止まって考えこんでしまう。そんな余韻すら与えてくれる、不思議な読書体験が待っている。
混沌と混乱が日常になった現代こそ、ぜひ読んでみてほしい。
怪しい世界の正体は、もしかすると画面の中じゃなく、すぐ隣にいる誰かの中にあるかもしれないからだ。
33.永遠の愛を求めて地獄を旅する―― 我孫子武丸『殺戮にいたる病』
東京の繁華街で、サイコ・キラーが出現した。犯人の名前は蒲生稔。
「永遠の愛をつかみたい」と願う彼は、次々に陵辱と惨殺を繰り返していく。
果たしてどんな結末が、彼を待ち受けているのか。
衝撃のサイコ・ホラー。
衝撃のホラー。残酷なシーンの先に待つ、強烈などんでん返し
「永遠の愛が欲しかった」――そう言い残して、若い男は何人もの命を奪っていった。
名前は蒲生稔。東京の繁華街で次々と女性を襲い、殺し、バラバラにしていく。やっていることは完全に猟奇だけど、動機が妙に切ないあたりが、なおさら怖い。
我孫子武丸『殺戮にいたる病』は、そんな男の「なぜ」に迫る物語だ。すでに犯人は逮捕されていて、話はそこから始まる。いわゆる倒叙(とうじょ)ミステリ。つまり、謎を追うんじゃなくて、起きてしまった事件の意味を逆流していく構成だ。
語り手は3人。犯人本人、彼を見守っていた母親、事件に関わった元刑事。それぞれの視点で語られる過去が、少しずつ地層のように積み重なっていく。しかもこの語りがどれも淡々としていて、逆にじわっとくる。感情を抑えている分、言葉の端々に滲む違和感がものすごくリアルなのだ。
蒲生は、何かが欠けたまま大人になってしまったような男だった。空洞を抱えていて、それを埋めるために「愛」という言葉にすがった。でも彼の愛は歪んでいて、間違っていて、どうしようもなく孤独だった。
この作品、グロい描写がかなり多い。でもそれを煽るような下品さはまったくない。むしろ文章は徹底して冷静だ。そのおかげで、登場人物たちの狂気や苦しみが妙にリアルに伝わってくる。読んでいてしんどい場面もある。でも、それ以上に「最後まで見届けたい」と思わせる力がある。
そして物語の終盤。ここからが本当に恐ろしい。
張り巡らされていた伏線が、一気に結びついて、世界の見え方ががらっと変わる。「えっ、そういうことだったの……?」と、思わず息をのんでしまう、衝撃のどんでん返しだ。そこに仕掛けられた構造が鮮やかすぎて、気づいたら完全にやられている。
でも、どんでん返しの衝撃よりもあとに残るのは、別のものだ。これはただのトリック勝負じゃない。誰もが少しずつ見ないふりをして、少しずつ手を離して、そして何かが壊れていった。それだけのことだ。
だけどそれが、どれほど取り返しのつかない結果を招くのかを、容赦なく突きつけてくる。
本当に病んでいたのは、誰だったのか。
この物語が怖いのは、その答えがひとつじゃないからだ。
34.あの頃、僕たちは永遠だった―― 石田衣良『4TEEN』
東京の下町、月島。中学2年生の同級生であるナオト、ダイ、ジュン、テツローの4人は、今日も自転車でこの街を駆け抜ける。
みんな悩みは持っているけど、皆と一緒ならどこにでもいける気がする――。
14歳の少年たちを描いた、爽やかな青春ストーリー。
さまざまな悩みと向き合う4人のノスタルジックな物語
制服のまま、自転車で月島を突っ走る。くだらない話をしながら、時には全力でダッシュして、そして気づけば真顔で悩んでいたりする。
それが、ナオト、ダイ、ジュン、テツロー――14歳の4人組の、普通で特別な日常だった。
石田衣良『4TEEN』は、そんな彼らのひと夏を描いた青春小説だ。2003年の直木賞受賞作で、構成は連作短編スタイル。それぞれの回で誰かの心の奥にズブリと切り込んでいく。
扱っているテーマは重め。病気、不登校、家族の不和、性の話、死――普通だったら湿っぽくなる内容ばかりだ。でもこの作品、なんだか不思議なほど軽やかで、風通しがいい。
たぶんそれは、ナオトたちの語り口のせいだ。やたら饒舌で、チャラついてて、でもところどころでめちゃくちゃ真剣。口が悪いくせに優しい。読んでると、こんなやつクラスにいたな、って感じがしてくる。言葉遣いがリアルで、空気の匂いまで伝わってくるような描写も多い。
もちろん、全部がうまくいくわけじゃない。うまくいかないことのほうが多い。気持ちがすれ違ったり、大人の壁にぶつかったり、恋に振られたり。何かを理解したような気になっても、翌日には忘れたりする。
それでも彼らは止まらない。くだらない冗談を言い合って、誰かがピンチなら自然と集まって、またバカみたいに笑う。そうやって日々をつないでいく。その姿がなんともいとおしい。
この物語は、あの頃の自分をふっと思い出させる。意味もなく集まって、ずっと意味のない話をして、それが最高に楽しかった、あの夏の感じ。たとえ何年経っても、思い出すと胸が少しあたたかくなる。
14歳って、世界がめちゃくちゃ狭いのに、同時にとんでもなく広い。そう思えるのは、きっと一度でも本気で誰かと一緒に走ったことがある人だ。
だからこの物語は、どこかにその記憶を置いてきた人にこそ刺さる。
あの頃、自分にも仲間がいた――そう思える誰かに。
35.俳句に刻まれた死の旋律―― 横溝正史『獄門島』
終戦から1年後、戦友の訃報を知らせるために、故郷である瀬戸内海の孤島、獄門島を訪れる金田一耕助。
彼は今際の際に「俺が島に戻らなければ妹3人が殺される」という言葉を残していた。
遺書を携えた金田一は、島で見立て殺人に遭遇する。
金田一耕助が遭遇する見立て殺人。国内推理小説史上に輝く金字塔
名前からしてすでに不穏だ。瀬戸内海に浮かぶ孤島・獄門島(ごくもんとう)。
そこにやって来たのは、戦争から帰ってきたばかりの金田一耕助(きんだいち こうすけ)だった。目的は、戦友の訃報を伝えること。だがその遺言には、恐ろしいひと言が残されていた。
「俺が島に戻らなければ、妹三人が殺される」
これはただの警告ではなかった。金田一が島に到着してまもなく、予言のようにひとり目の妹が命を落とす。しかも、それは俳句に見立てられた形で。なんだか雅な響きだが、中身はとんでもなく血なまぐさい。
『獄門島』は、金田一耕助シリーズの中でもとびきり陰湿で重たい作品だ。古びた蔵、鋭い目つきの島民、和服姿の姉妹、そしてドロドロの血縁関係。
いわゆる「横溝ワールド」がフルスロットルで展開される。しかも、舞台は終戦からわずか1年後。世の中がまだ正常に戻っていない中で、島だけが古い価値観を頑なに抱え込んでいる。
金田一はよそ者としてその空気を吸い込みながら、事件と向き合っていく。推理のキレもさることながら、彼のすごさは人の心の闇に対して、真正面から向き合おうとするところだ。
「なぜ殺したか」に踏み込むとき、彼の視線には怒りではなく、どこか哀しみの色が混ざっている。人を裁くのではなく、理解しようとする。その姿勢が、物語の芯をあたたかく支えている。
もちろん、ミステリとしての完成度も高い。高すぎる。複雑な家系、連続殺人、形式美のあるトリック、それらすべてが噛み合って、緊張感のある物語を構成している。
でも、この作品の本当の怖さは、トリックじゃない。殺された側にも、殺した側にも、そして取り巻く周囲の人間にも、それぞれの理由がある。その重さが、物語全体にのしかかってくるのだ。
映像化も何度もされていて、1977年の石坂浩二版は特に有名だ。あの霧のなかに佇む金田一の姿だけで、この島のすべてが伝わってくるようだった。
『獄門島』は、何度読んでも違う表情を見せる。
そこにあるのは、謎よりも、哀しみの記憶。
金田一耕助が霧の中で立ち止まる理由も、きっとそこにあるのだと思う。

36.山と事件と、登りきれなかったもの―― 横山秀夫『クライマーズ・ハイ』

同僚と谷川岳の衝立岩を登攀する予定だった、地元新聞記者の悠木。
しかし、直前に「ジャンボが消えた」という一報が入る。
墜落事故を受けて全権デスクに任命された彼は、次々と起こる事象に対して、重大な決断に迫られていく。
圧倒的なリアリティと溢れ出る熱量。日航事故を取材する記者を描く
山に登るはずだった。友人とふたり、谷川岳の衝立岩を登攀する――それが、新聞記者・悠木和雅の休日の予定だった。
ところがその朝、「ジャンボが消えた」という一報が入る。日航123便。墜落。あまりに大きすぎる事故だった。
悠木は山を降りる。山ではない、もっと過酷な崖が、彼を待っていた。報道現場だ。会社の命で全権デスクに任命された彼は、未曾有の災害を前に、判断し、指示し、すべてを背負う立場になる。
『クライマーズ・ハイ』は、あの事故を背景にしながら、ひとりの新聞記者が何を見て、何を引き受けたのかを描く物語だ。とはいえセンセーショナルな告発劇ではない。むしろ、報道という名の登攀を命がけで続ける男たちの話だ。
新聞社の内部ではプライドが火花を散らす。政治部、社会部、整理部、カメラマン、それぞれが言い分をぶつけ合い、時には殴り合いにまで発展する。外に目を向ければ、遺族、警察、自衛隊、他社の記者たち――すべてが混線して、誰が何を信じて動いているのか、すら見えにくくなる。
悠木はその真ん中に立ち続ける。何を見出し、何を載せるのか。その決断の連続が、紙面に、そして彼自身の中に刻まれていく。
物語の後半、彼はもうひとつの「山」に挑む。かつて登れなかった岩壁へ。今度は、亡き友の息子とともに。それは贖罪でもあり、再生でもある。傷ついたままの自分と向き合い、ようやく登りきるための行為だ。
この作品はミステリーと呼ばれることもある。でも、ここにあるのは謎解きではない。仕事とは何か。責任とは何か。生きるとはどういうことか――それを真っ正面から、汗と血のにおいの中で描ききっている。
悠木は、事件の向こう側にあったものを、ちゃんと見た。
報道という崖を登りながら、彼は記者として、人間として、答えのない現実に自分なりのザイルを打ち込んでいったのだ。
37.命の記録と、心の継承―― 住野よる『君の膵臓をたべたい』
病院で「共病文庫」と題された本を拾う主人公。
それはクラスメイトの山内桜良が綴った、秘密の日記帳だった。
日記を読んだ主人公は、彼女が膵臓の病気によって、余命がいくばくもないことを知る。
人生の1日1日を、その瞬間を、そして人を大切にしていこうと思える一冊
『君の膵臓をたべたい』
そんなインパクト抜群のタイトルからは想像もつかないくらい、この物語は優しくて、まっすぐで、そして切ない。
主人公の「僕」は、病院の待合室で偶然一冊のノートを拾う。タイトルは「共病文庫」。それは、クラスメイト・山内桜良が書き綴った日記だった。そこには、自分が膵臓の病気を抱えていて、長くは生きられないことが書かれていた。
ひょんなことからその秘密を知った「僕」は、桜良と一緒に時間を過ごすようになる。特別なイベントがあるわけじゃない。ごはんを食べたり、会話をしたり。ただそれだけ。でも、その「ただそれだけ」が、とても特別な時間に変わっていく。
桜良は明るくて、よく笑って、よくしゃべる。死が近くにあるなんて思えないくらい、生きることに貪欲だ。そんな彼女にふりまわされながら、「僕」は少しずつ人と関わることを覚えていく。心を閉ざしていた自分に、誰かの存在が染み込んでくる感覚。それが、とても自然で、温かい。
この物語のすごいところは、死を描いているのに、生きることの喜びがあふれていることだ。誰かと時間を共有することの尊さが、ページの端々からにじみ出ている。
そして迎えるラスト。桜良が「僕」に宛てて残した言葉は、決して泣かせようとしてくるものではない。でも気づいたら、胸の奥があたたかくなっている。
そうか、自分はこの物語に、こんなにも感情を預けていたんだ、と、読後に気づかされる。
出会いは突然やってきて、別れもまた容赦なくやってくる。でもそのあいだに交わされたものは、確かに心に残って、ずっとそこにいてくれる。
人生において、誰かと心を通わせることは、それだけで生きる意味になるのかもしれない。
特別な出来事なんてなくても、何気ない日々の中にこそ、宝物は眠っている。
38.命の重さを知る旅へ―― 小野不由美『月の影 影の海』
平凡な女子高生である陽子は、ケイキと名乗る男に異世界へ連れ去られてしまう。
男とはぐれ一人さまよう彼女は、出会う人間に裏切られ、異形の獣に追われる。
なぜ異界に来なければならなかったのか――彼女は、次々と押し寄せる苦難を乗り越え、生きて帰還する決意を固める。
陽子を待ち受ける過酷な運命。十二国記シリーズ最初の物語
目が覚めたら、そこは異世界だった――なんて展開、よくある話に聞こえるかもしれない。
でもこの物語は、そういう「異世界転生テンプレ」みたいな甘さとはまるで無縁だ。むしろ、痛い。冷たい。誰も手を差し伸べてくれない。そのなかで、それでも生き抜く女の子の話だ。
主人公・陽子は、どこにでもいそうな高校生。空気を読み、ちゃんとしなきゃと自分を押し殺しながら日々を過ごしていた。
そんな彼女の前に、突然「ケイキ」と名乗る男が現れて、「あなたは王になるべき人間です」と言い放つ。事情もわからぬまま連れてこられた異世界は、容赦のかけらもない地獄のような場所だった。
助けてくれると思った人には裏切られ、信じかけた人には捨てられ、異形の化け物には命を狙われる。もう満身創痍。希望なんてひとかけらも残らない。でも陽子は、そこから踏ん張る。ひとりぼっちで、泣きそうになりながら、それでも「生きる」と決める。その姿に、思わず胸が詰まる。
この物語がすごいのは、ただの異世界サバイバルじゃないってところだ。舞台となる「十二国」の世界観はものすごく細かく作りこまれていて、それぞれの国に政治や文化や神話みたいなものまできっちりある。それがただの背景じゃなくて、陽子の試練ときっちりリンクしてくるから、読んでいてずしんと響く。
そしてこの話の核にあるのは、「自分はどう生きるか」ってことだ。誰かに選ばれるとか、与えられた役割を果たすとかじゃない。捨てられて、裏切られて、何も信じられなくなったときに、それでも「自分はこうありたい」と立ち上がる。その姿に、妙に力をもらってしまう。
『月の影 影の海』は、いわゆる成長物語の金字塔だ。でも肩に力入れて読む必要なんてない。
どこかで立ち止まってしまったとき、そっと本を開いてみてほしい。
陽子があの海を越えて、自分の足で立ち上がったように、自分もまた歩き出せるかもしれないから。
39.その村には、「死」が住んでいる―― 小野不由美『屍鬼』
周囲から隔離され、土葬の習慣も残る1300人ほどの小さな山村。
ある日、村人の死体が3体、発見される。
村でただ1人の医者、尾崎は不信感を抱くが、村人たちにより何事もなかったようにされ、通常の死として扱われた。
しかしその後、他の村人たちも相次いで死んでいく。
村に忍び寄る、目に見えない不気味な恐怖。村人たちと屍鬼の戦い
山の中にひっそりと存在する、閉ざされた村。携帯は圏外、外からの流入もほとんどない。そんな場所で、ある日突然、「死」が始まる。
『屍鬼』の舞台となる外場村は、土葬の風習が今も残る人口1300人の山村だ。物語は、夏の初めに三人の遺体が見つかるところから幕を開ける。村で唯一の医者・尾崎はその死に不審を抱くが、村の空気はどこか鈍く、違和感に蓋をするように事態を日常へと押し込んでしまう。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
死は連鎖し、村を侵食していく。誰が感染し、誰が次にいなくなるのか。日常が崩れていくなか、この見えない何かに翻弄されていくことになる。
この作品の魅力は、ただの恐怖だけではない。十数人の人物の視点を通して描かれる群像劇には、それぞれの葛藤と事情が織り込まれている。医者としての責任と理性、過去の傷を抱える作家、家族を守りたいと願う若者、外から来た異質な存在を忌避する共同体……。
死の正体が明らかになるにつれて、物語は問いかけのような様相を帯び始める。「生きる」とはどういうことか。「他者の命を奪ってまで存在する意味」があるのか。
中盤からの展開は怒涛そのものだ。人間が、恐怖と怒りの中で「正義」の名のもとに行う行動は、ある意味で屍鬼よりも残酷に見える。モンスターとの戦いのようでいて、実のところ、人間同士の闘争が物語の中心にあるのだ。
『屍鬼』はスティーヴン・キング『呪われた町』に影響を受けた作品だと作者自身が語っているが、日本的な「閉じた共同体」の描写においては、本家を凌ぐほどの説得力を持つ。
人はなぜ排除するのか。なぜ「外」を恐れるのか。そして、どこまでが人で、どこからが怪物なのか。
物語が終わったあと、頭に残るのは悲鳴ではなく、重く鈍い沈黙だ。
感情がどこにも行き場をなくし、ただそこにとどまる。
外場村の夜は終わっても、その感覚は、しばらく心に居座り続ける。
40.守ること、それは生きること―― 上橋菜穂子『精霊の守り人』
30歳の女用心棒バルサは、ふとしたきっかけで新ヨゴ皇国の第二皇子であるチャグムを助ける。
彼の母親の依頼によって、バルサはチャグムを守り奮闘していく。
百戦錬磨の女用心棒と、勝ち気でまっすぐな少年が紡ぐ物語。
広大なファンタジー世界観と、バルサとチャグムが織りなす深い人間ドラマ
槍を背に、風の中を歩く女がいる。名はバルサ。三十路を越えた用心棒。戦場よりも現実のほうがよほど厄介だと知っている、そんな顔をしている。
『精霊の守り人』は、そんな彼女が一人の少年と出会い、旅をする物語だ。舞台は架空の王国・新ヨゴ皇国。神話が語られ、精霊が息づくこの世界で、皇族の少年チャグムはあるモノを宿してしまう。
それは王国にとって、あってはならない存在。王家は彼の存在をなかったことにしようとする。だから、彼は命を狙われることになる。
バルサは偶然出会ったこの少年を助けることになり、その後、彼の母から託される。命を守ってほしい、と。こうして、女用心棒と第二皇子の逃避行が始まる。
表面上は追っ手から逃れるサスペンス仕立て。でも、本当に心を揺さぶるのは、彼らの関係の変化だ。
はじめは他人。依頼と報酬でつながっただけの二人。でも時間を重ねるごとに、バルサはチャグムにとって「ただの護衛」ではなくなっていく。チャグムもまた、彼女の背中から何かを学び、世界の厳しさと優しさを受け取っていく。
バルサには過去がある。命を救われた過去。命を背負った過去。守ることの意味を誰よりも知っているからこそ、槍を振るう重みもまたよくわかっている。
そしてチャグムには未来がある。ただの子どもではない、皇子としての運命。重くのしかかるその立場に抗いながら、自分の生き方を探していく。
この物語が特別なのは、描かれる世界が嘘くさくないことだ。文化、習慣、言葉の響きまで、すべてが丁寧につくられている。作者・上橋菜穂子は文化人類学者でもあり、その知見が作品全体に深みを与えている。
誰かを守るとは、どういうことなのか。
強さとは何か。
自分の意志で生きるとは、どういうことなのか。
そんな問いに正面から向き合いながら、物語は力強く進んでいく。
優しさだけでは生き残れない。でも、強さだけでは守れない。バルサという存在は、その矛盾を抱えたまま立っている。だからこそ、彼女の生き方は格好いい。
読後に残るのは、しんとした静けさではなく、心の奥に灯る熱だ。
「誰かのために立ち上がる」って、こんなにも骨が折れて、こんなにも尊いことなんだと、改めて思い知らされる。
誰かを守る旅は、自分を知る旅でもある。
そんな物語を、どうか。

41.風になる、その一瞬のために―― 佐藤多佳子『一瞬の風になれ』
高校に進学し、サッカーから陸上に転向した神谷新二は、幼なじみでもある天才ランナー・一之瀬連と、一緒の部活に入った。
400mにかける神谷は、親友の背中を必死に追いかける。
瑞々しく描かれる、青春陸上ストーリー。
友の背中を追いかける、青春スポーツ小説
あの頃、全力で走ったことがある。泣きたくなるくらい必死に。
勝ちたいとか、誰かに追いつきたいとか、そういう気持ちを、たぶん、忘れかけていた。
佐藤多佳子の『一瞬の風になれ』は、高校の陸上部が舞台の青春小説だ。サッカー部から陸上に転向した神谷新二と、幼なじみで天才スプリンターの一ノ瀬連。このふたりが並んで走るようになるまでの、長いようで一瞬のような物語。
新二は最初、正直ぜんぜん速くない。でも、陸上を始めた理由が「連がいたから」っていうのが、すごくいい。悔しさとか憧れとか、そういう感情って、何かを始める理由としては最強だと思う。
部活の日々は、泥臭くて、めちゃくちゃしんどい。記録は伸びないし、気持ちは空回りするし、フォームは壊れるし。だけど、仲間と一緒に汗まみれになって走ってるうちに、少しずつ景色が変わっていく。遅かったはずの自分が、気づけばちゃんとスタートラインに立ってる。そんな瞬間が、胸に響くんだ。
一ノ瀬連は、とにかくかっこいい。走る姿は風そのものだ。でも、彼も彼で、葛藤している。速いってだけじゃない。重たいものを背負って、それでも前を向いてる姿に、何度もぐっとくる。
この小説のなにがいいって、リレーの描写だ。個人種目っぽく見えるけど、リレーってめちゃくちゃチーム競技なんだなと実感する。バトンを渡す瞬間の緊張感。あれは、まるで命を託すみたいだ。信頼とか責任とか、うまく言葉にならないものが、走る姿に全部詰まってる。
タイトルの『一瞬の風になれ』。あれってつまり、自分が自分を信じられる瞬間のことなんだと思う。長い助走があって、迷って、転んで、それでも走り続けたやつだけが、風になれる。たった数秒のレースのために、何年もかけて走る。そんなバカみたいなまっすぐさが、なんだかすごくまぶしい。
部活やってた人も、やってなかった人も、関係ない。
これは「本気で何かを追いかけたことがあるやつ」に効く話だ。
陸上を知らなくてもいい。
部活に燃えた経験がなくてもいい。
ただひとつ、あの頃の「本気」を思い出したい人に。
この小説は、あなたの胸に、あの風を呼び起こしてくれる。
42.夜を越えて、自分に会いにいく―― 恩田 陸『夜のピクニック』
北高の伝統行事である「歩行祭」。
全校生徒が夜を徹して80キロを歩くイベントだ。
3年間、誰にも言えなかった秘密を精算するべく、高校最後のイベントに臨む甲田貴子。
親友たちと思い出 や夢を語りながら、彼女だけは人知れず、決意で胸を焦がしていた――。
多感な時期、一晩を通して語り明かす高校生たち。永遠の青春小説
ただ歩くだけの行事が、こんなに胸を打つとは。
恩田陸『夜のピクニック』を読むと、まるで自分まで80キロを歩き切ったような気分になる。
舞台は「歩行祭」。北高の伝統行事で、全校生徒が夜を徹して80キロを歩く。派手なイベントがあるわけでもなく、ただ歩いて、話して、夜を越えるだけ。でもその「だけ」が、たまらなく特別だった。
主人公の甲田貴子は、高校最後の歩行祭に、とある決意を胸に参加する。ずっと誰にも言えなかった秘密を、この夜に清算するつもりだった。でもそれは重苦しいものじゃない。むしろ、夜の空気に溶けていくような、ささやかな、でも切実な想いだ。
眠気に襲われながら笑ったり、足を引きずりながら夢を語ったり。そうやって過ごす夜の時間が、登場人物たちの心の距離を少しずつ近づけていく。歩幅を揃えて歩くうちに、遠かった心がちょっとずつ寄っていく。その感じが、すごくリアルで沁みる。
しかもこの小説、恋愛に比重を置かない。描かれるのは、友達との関係、家族への感情、そして自分自身のこと。だからこそ、年齢を問わず響くのだと思う。あの頃の気持ちを思い出すきっかけにもなるし、今の自分をふと振り返る時間にもなる。
物語の中盤で明かされる貴子の秘密も、サスペンスめいた仕掛けじゃなくて、ちゃんと人の気持ちに寄り添って描かれている。その穏やかな熱が、この作品全体の温度になっているのだ。
夜が明けて、歩行祭が終わるとき。そこには「やり遂げた」という達成感だけじゃなく、少しだけ世界が変わったような感覚が残る。その変化は小さくて言葉にならないけど、たしかに胸に残るものだ。
『夜のピクニック』は、青春の真ん中にあったあの夜の気持ちを、そっと思い出させてくれる本だ。
歩くことでしか出会えない風景と、言葉にできない気持ち。
それら全部が、あの長い一夜に詰まっている。
43.音にならぬ音を描くということ―― 恩田 陸『蜜蜂と遠雷』
家にピアノがない養蜂家の息子・風間塵。
母の死でピアノが弾けなくなった天才少女・栄伝亜夜。
家庭を持つ社会人・高島明石。
優勝候補と言われる名門音楽院所属・マサル。
ピアノコンクールで それぞれが出会い切磋琢磨する、青春群像小説。
音楽を文字で描写する、驚異的な表現力。史上初となる2度目の本屋大賞受賞作
ピアノの音が聞こえてくる気がした。
読んでいただけなのに、だ。しかも鳴っていたのはただの音じゃない。
風が、光が、森が、そこにあった。恩田陸の『蜜蜂と遠雷』は、そんな不思議な感覚を残す小説だ。
物語の舞台は国際ピアノコンクール。集まったのは、年齢も経験もバラバラな4人の挑戦者たち。家にピアノすらない養蜂家の息子・風間塵、かつては天才少女と呼ばれた栄伝亜夜、家庭を持つ社会人の高島明石、そして世界が認めるエリート・マサル。この4人が同じ土俵に立ち、音を通じて影響し合っていく。
誰かが誰かの音を聴いて、心を動かされて、それがまた演奏に変わっていく。演奏を聴くことで、何かを失った人がまた何かを取り戻す。そんな繊細な感情の連鎖が、この小説の中にはたっぷり詰まっている。
とにかくすごいのが、音がしないはずの小説なのに、ちゃんと音が鳴っているところだ。塵の演奏は風景になり、亜夜の音は再生の光になる。技巧の話だけじゃない。音楽に触れることで人間が変わっていく、その変化の軌跡が、細かく、優しく、でも力強く描かれている。
ピアノコンクールの裏側――審査員の迷いも、スタッフの苦労も、全部描かれる。そのおかげで、これはただの青春ものでも、音楽ものでもなく、人生そのものの話になってくる。
10年以上温めて書かれたというのも納得だ。2017年に直木賞と本屋大賞をダブル受賞したのも頷ける。
読めばわかる。
これは、すべての音楽を知らない人にも届く音楽小説だ。
読み終えたとき、ふと、自分の中にも何かが鳴っている気がした。それが何の音かはまだわからない。
でも、たしかに耳をすませたくなった。
それだけで、この本を読んだ意味はあったと思う。
44.本を守るために、銃をとる―― 有川 浩『図書館戦争』
公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を規制する「メディア良化法」。
同法のもと、あらゆる創作物は良化特務機関による検閲を受けていた。
この弾圧に対抗するのが「図書館」。
全国初の女性図書特殊部隊に配属された主人公は、困難な戦いに対峙し、成長していく。
行き過ぎた検閲を行う良化特務機関と、それに立ち向かう図書隊員たち
「読む自由」は、与えられるものじゃない。自分で守るものだ。
そんな言葉が現実味を帯びて聞こえてくる物語がある。
有川浩の『図書館戦争』は、国家による検閲が合法化された日本を舞台に、本を守るために本気で戦う人たちを描いたエンタメ作品だ。その設定だけでワクワクする人も多いはず。
物語の中で、日本には「メディア良化法」という法律がある。世の中の秩序と正しさの名のもとに、出版物は次々と取り締まられていく。だが、図書館は黙っていない。図書館法というもう一つのルールを盾に、本を守るための専門部隊を結成。銃を持ち、戦術を学び、実戦に身を投じながら、「読む権利」を死守するのだ。
そんな世界で主人公となるのが、笠原郁(かさはら いく)。高校時代、自分の好きな本を救ってくれた誰かに憧れ、図書隊へ入隊する。体育会系気質で正義感に突き動かされがちな郁は、訓練でも失敗を繰り返しながら、少しずつ自分の足で立っていくようになる。
上官である堂上篤との関係も、見どころのひとつだ。冷静で厳しくて、でもどこか不器用。郁とぶつかりながらも、少しずつ距離が変わっていく様子には、読みながらニヤリとする場面もある。
でもこの物語、ただの青春モノじゃない。検閲に対する異議、表現の自由に対する問いかけ、そして国家と個人のせめぎあい。社会的なテーマを真正面から扱っていながら、それを重く感じさせないのがすごい。
戦闘シーンはスピード感があって映像が浮かぶし、ユーモアもたっぷりだ。仲間との絆、理不尽な命令への反抗、挫折と再起。すべてが丁寧に詰め込まれていて、ただの「戦う司書」の話では終わらない。
読み終えた後に残るのは、「言葉」や「物語」に対する敬意と、自分の信じることを貫く強さへの憧れだ。
誰かの思想を守るということが、どれほど勇気のいる行為なのか、改めて考えさせられる。
本の力を信じる人なら、絶対に刺さる。
図書館が、こんなにも熱い場所だったなんて。
45.閉ざされた扉の向こうにある真実―― 相沢 沙呼『マツリカ・マトリョシカ』
学校近くに住む謎の美女・マツリカに命じられ、学校の怪談を調査する高校2年生の柴山祐希。
彼はある日、怪談「開かずの扉の胡蝶さん」を知る。
彼が開かずの扉を開けると、制服を着せられ たトルソーが転がっていた。
犯人に疑われた柴山は、過去と今の密室に挑む。
シリーズ初の長編は本格密室ミステリーと、強烈な個性の美女・マツリカ
「学校の怪談を調べてこい」と命じてくるのが、近所に住む謎の美女。そんな非日常を、高校2年生・柴山祐希はわりと日常として受け入れている。
成績は中の下、性格は内向き。でも、マツリカという存在だけが、彼を特別な場所に連れていく。
今回の依頼は、「開かずの扉の胡蝶さん」。学校に伝わる都市伝説の調査だったはずが、扉の向こうには制服を着せられたトルソーが転がっていた。誰も死んでいない、けれど死体はある。この気味の悪さが、この物語の出発点になる。
シリーズ初の長編となる『マツリカ・マトリョシカ』は、閉ざされた空間と、そこに潜む謎に向き合う、本格密室ミステリーだ。柴山はある出来事から容疑をかけられ、自分の手で真相に迫らざるを得なくなる。頼れるのは、あの毒舌なマツリカだけ。とはいえ、彼女は基本的に部屋から動かないし、ヒントはなぜかいつも抽象的だ。
事件は過去と現在、ふたつの密室を行き来しながら進んでいく。その中で浮かび上がってくるのは、ただのトリックではなく、もっと根深い人の想いだ。誰かがなぜそうせざるを得なかったのか。誰かがなぜそこから動けなかったのか。ひとつひとつの答えが、少しずつ開かずの扉をこじ開けていく。
ミステリーとしての完成度は文句なし。でも、それだけじゃない。陰にいた少年が、自分で考え、誰かとぶつかり、ちょっとずつ前に出ていく姿に、しっかり青春の手触りがある。
そしてマツリカという存在の不思議さ。彼女もまた、ひとつ解いては次が現れるマトリョーシカのような謎そのものだ。
最後の真相にたどり着いたとき、全部のピースがぴたりとはまる。その瞬間、扉は確かに開く。
でも本当に解かれたのは、部屋の鍵ではなく、誰かの心だったのかもしれない。
46.どこまでも行けると思っていた―― 沢木 耕太郎『深夜特急』
仕事を全て放り出し、インドのデリーからロンドンまで、乗り合いバスで行く。
そう思い立った 26歳の「私」だが、立ち寄った香港では長居をしてしまい、マカオでは博打に魅せられる。
1年に渡る、成り行き任せのユーラシア放浪が今、幕を開ける。
スマホでは感じることができない、現地の雰囲気。バックパッカーのバイブル。
すべてを投げ出して、ユーラシア大陸をバスで横断しよう――そんな無謀な思いつきに、本気で乗っかってしまった26歳の男がいた。
沢木耕太郎の『深夜特急』は、作家になる前の著者自身が、アジアからヨーロッパまでをひとりで駆け抜けた長い旅の記録だ。
第1巻で描かれるのは、香港とマカオ。まだインドにも行っていないし、ロンドンは遠い。でもなぜかこの出発地点から、旅の熱がもう漂っている。華やかな街並みの裏側にある混沌、観光とは明らかに違う空気が文章を通して伝わってくる。
この旅には、地図も決まったルートもない。泊まる場所はその日次第、行く先は気分と偶然まかせ。スマホで道順を確認する現代の旅とはまるで違う。迷うこと、失敗すること、予想外の出会い――全部ひっくるめて、それが旅なんだという感覚が、ページのすみずみにまで染みている。
マカオでは、博打に惹かれた沢木が、旅人としての自由と、ギャンブルの無常を重ね合わせていく。その場面はスリリングなのに、どこか乾いていて、妙にリアルだ。勝ち負けよりも、自分がどこにいて、何を感じたのかを確かめるような描き方が印象的だった。
この作品は、80年代から90年代にかけて「旅に出たい」と思った若者たちの背中を押し続けた。
スマホひとつで世界中がつながる今でも、その衝動はきっと変わらない。
思い立ったときが、旅の始まり。
そう思わせてくれる1冊だ。
47.奇想天外の精神科医が贈る癒しの処方箋―― 奥田 英朗『イン・ザ・プール』
伊良部総合病院の地下にある精神科には、水泳依存症、陰茎強直症、携帯電話依存症、強迫神経症など、さまざまな症状で悩む患者が訪れる。
精神科医の伊良部は、彼らの診断を通じて、前代未聞の体験に遭遇していく。
さまざまな精神病で悩む患者と、ぶっ飛んだ言動で解決してしまう精神科医
この病院の精神科、どうかしている。
地下にある診察室には、水泳依存症、携帯電話依存症、陰茎強直症と、あまり耳慣れない悩みを抱えた人たちが次々とやってくる。そして彼らを待ち受けているのが――中年太りで汗っかき、やたら注射を打ちたがる謎の精神科医・伊良部だ。
どう見ても頼りないし、まともな診察をしているようには見えない。しかし、患者たちはなぜかこの奇妙な医者に振り回されるうちに、自分の症状とまっすぐ向き合いはじめる。伊良部のやることは、治療というより「脱線」に近い。でも、その脱線がどこかで心をほぐしてくれる。
本作『イン・ザ・プール』は、そんな伊良部と患者たちの5編を収めた短編集。テーマは重いのに、読んでいると肩の力がすっと抜ける。伊良部の存在が、精神医療にありがちな深刻さを一気にふっとばしてくるのだ。
彼は診断もしないし、薬もほとんど出さない。そのかわり、話をきいて、突拍子もない行動で場をかき回す。でもそこに、「今のままの自分でいていい」と言われたような気がしてくる。不器用な肯定、というか、強引な共感というか。常識を外れたその態度が、患者のこだわりや不安を少しずつゆるめていく。
笑えるけど、笑って終わりじゃない。どの話にも、現代のストレス社会で生きる息苦しさが滲んでいる。ラベルに縛られがちな「病」を、もっと自由に、もっと人間くさく描いてくれるのが、伊良部という存在だ。
どこから読んでもOK。1話完結の短編集だから、通勤電車や寝る前の時間にもちょうどいい。そして気がつけば、少し気が楽になっている自分がいる。
笑いたい人にも、疲れてる人にも、まずは1本。
伊良部の注射が、意外に効くかもしれない。
48.機械仕掛けの恋と人間の愚かさ── 星新一『ボッコちゃん』
近未来のバーで働く、女性型アンドロイド「ボッコちゃん」。
彼女に惹かれる男性客の、絶望的 な恋を描く表題作をはじめ、「おーい でてこーい」「殺し屋ですのよ」など、珠玉のショートショート50篇。
秀逸なショートショート自選50篇。短編のバラエティセット
そのアンドロイドは、よく笑う。誰にでも優しくて、どんな言葉にも機械的に応じてくれる。
だけど、その目の奥には何もない。心を持たない存在・ボッコちゃんに恋をしてしまった男の行く末は、やっぱり悲しい。しかし、どこかおかしくて、どこか怖い。
表題作『ボッコちゃん』はもちろん、収録された全50篇すべてが、そんな読後の〈何か〉を残してくる。わずか数ページで完結するショートショートたちは、どれも短いのに、ひとつひとつがちゃんと異なる世界を持っている。
作者は、ショートショートの神様・星新一(ほし しんいち)。
シンプルな語り、無駄のない構成、それでいて印象に残るオチ。だけど、星作品の本当の魅力は、ただの「オチのキレ」じゃない。社会への風刺、人間の欲望への皮肉、あるいはささやかな優しさ――そういうものが、短い物語の中にそっと詰まっている。
『おーい でてこーい』では、なんでも吸い込む謎の穴を巡ったまさかの結末、『殺し屋ですのよ』では、あまりに穏やかな殺し屋が不気味に心をかき乱してくる。笑える話もあるし、少し泣ける話もある。だけど、どの話もちゃんとズラしてくる。常識や日常から、ほんの1ミリ横にずれた視点で描かれているから、気づいたときには足元が揺らいでいる。
星新一のショートショートは、まるで瓶に詰められたカラフルな薬のようだ。どれを飲むかは自由。でも、どれも効く。そして効き方が、少しずつ違う。
この1冊には、怖さもユーモアも、孤独も優しさも、全部そろっている。好きな時間に、好きな話を1本だけ。そんな楽しみ方ができる本だ。
読書にまとまった時間がとれないとき。
頭を空っぽにしたい夜。
ちょっとだけ世界を疑ってみたい気分のとき。
そんな瞬間にぴったりなのが、『ボッコちゃん』なのだ。

49.日常に忍び寄る終焉の気配── 星新一『午後の恐竜』
現代社会に突然現れた恐竜。
蜃気楼か、幻影か、はたまたテレビの撮影か。
地球の運命を描く表 題作のほか、さまざまな事象の「終焉」を描く、ショートショート11篇。
さまざまな「終わり」を描く、珠玉のショートショート11篇
突然、オフィスに恐竜が現れた。
誰もが目を見張ったのは最初だけ。ニュースは騒ぎ、街はざわついた。でも、時間が経つにつれて人々は慣れはじめ、いつの間にか恐竜は「いつもの風景」になっていた――。
星新一の『午後の恐竜』は、そんな不穏な午後の描写から始まる11篇の短編集だ。テーマは「終わり」。ただし、それはドカンと訪れる派手な崩壊じゃない。何かがゆっくり壊れていく音もなく、気づかれないまま世界が傾いていく、そんな感覚に近い。
表題作『午後の恐竜』はその象徴ともいえる一篇だ。非日常が日常に馴染んでいく不気味さ。誰も恐竜を気に留めなくなった頃、世界はもう別の姿になっている。これは「異変に鈍くなった人間の末路」を描いた終末譚だ。
他にも、原始の世界を改造しようとする『エデン改造計画』、現実に疲れた人間が自らの殻に閉じこもる『狂的体質』など、いずれの話も、ひとつの文明や考え方の「終焉」をテーマにしている。
短編ごとに長さは控えめだが、どれも骨太で余白がある。言葉は簡潔でも、読後に残るものがやたらと重たい。ラストで「なるほど」では終わらず、「……あれ?」と首をひねらされる。そのズレがたまらない。
星新一は、読者の油断を見逃さない。「こういう話だろう」と思ったその瞬間、足元の地面がすっと消えるような感覚がある。読み終えたあと、世界が違って見えるのは、そのせいだ。
笑える話もあるし、ヒヤッとする話もある。でも共通しているのは、すべての物語が「終わりとは何か?」という問いを差し出してくること。
破滅の音はしない。ただ、日常のどこかがふわりと歪んでいる。気づかないまま、何かがもう戻らない場所まで来ている。
『午後の恐竜』は、そういう物語ばかりを集めた一冊だ。
ちょっとした空き時間に読めるのに、読み終えてしばらく経ってから効いてくる。
そんなあとから効く読書体験を味わいたいなら、このショートショートはうってつけだ。
50.森の中で、人生の根を育てる── 梨木 香歩『西の魔女が死んだ』
おばあちゃんが危篤だと知らされた、主人公まい。
2年前に不登校となったまいは、おばあちゃんと2人で暮らしていた。
一緒に過ごした日々は、「魔女」になるための修行。
ふとしたきっかけの確執が解けぬまま別れたまいは、後悔を抱きながらおばあちゃんのもとに駆けつける。
幸せに生きるヒントが散りばめられた、優しさあふれる物語
祖母が亡くなったと聞いたとき、まいの中で時間が巻き戻っていった。あの夏の光、湿った土のにおい、ハーブティーの湯気――。かつて学校に通えなくなったまいは、森のそばの家で祖母と暮らしていた。
「西の魔女」とまいが呼んでいた祖母は、イギリス人で自然とともに生きている人だった。早寝早起き、食事を整える、畑を耕す。どれも地味で、魔法らしさはないけれど、まいにとっては大事なレッスンだった。
祖母が伝えてくれたのは、「自分で決めて、自分の責任を引き受けること」「人を許すこと」「暮らしを丁寧にすること」。特別な呪文はひとつも出てこない。でも、あの時間が、まいの心を少しずつ整えていった。
でもある日、ふとしたすれ違いがふたりの間にできてしまう。まいは家を離れ、気まずいまま時間が過ぎた。そしてそのまま、別れのときが来てしまった。
それでも、祖母と過ごした日々は失われていなかった。まいの中には、朝の台所や庭の草の香りとともに、祖母の言葉がしっかりと残っている。
これは、そういう時間の物語だ。
目立つ出来事はない。盛り上がる展開もない。でも、そこにある感情の動きは確かで、生き方を見つめ直したいときに寄り添ってくれる。まいの心の変化はゆるやかで、だけど確実に歩いていく。その歩幅に合わせて、読み手の気持ちも整っていくような感触がある。
祖母の死は、終わりではなかった。まいが受け取ったのは、ひとつの暮らし方だ。誰かの言葉を守るのではなく、自分の意思で選ぶ力。思いやりと責任を、丁寧に育てていく強さ。そういうものが、まいの中に残っていく。
『西の魔女が死んだ』は、あの日の朝とこれからの生き方をつないでくれる本だ。
疲れているとき、歩き方を忘れてしまったとき、この物語を思い出してほしい。
その暮らしの中にこそ、学べることはたくさんある。
51.音のない場所で、音を探し続ける── 宮下 奈都『羊と鋼の森』
高校2年生の外村はある日の放課後、体育館のグランドピアノが調律されているところを偶然目にする。
これに魅せられた外村は、生まれ育った北海道を離れ、調律師を目指し専門学校で学んでいく。
厳しい世界に挑む主人公と、それを優しく見守る登場人物たち
体育館に響いていたのは、音ではなく気配だった。
高校生の外村はある日の放課後、ピアノが調律される現場を偶然目にする。その瞬間、なぜだかわからないけど、何かが胸の奥に触れた。それが、調律師を目指すきっかけになる。
『羊と鋼の森』は、一見目立たない「調律師」という仕事に向き合う青年の成長を描いた物語だ。大きな事件は起きない。波乱も少ない。でも、静かな時間の中で確かに変化していく心の音が、ゆっくりと響いてくる。
調律とは、音を合わせる作業でありながら、ただの技術じゃない。耳をすませ、気配を読み、弦とフェルトの張り具合を指先で感じとる。外村はこの世界に飛び込み、不器用なまま一歩ずつ進んでいく。
ピアノの中にある「羊」と「鋼」という言葉には、それぞれの役割がある。柔らかさと張りつめた硬さ。その両方があってこそ、音が生まれる。これは人の生き方にも似ている。強さだけでも、優しさだけでもだめで、そのバランスをどう保つかに、道の奥行きがある。
外村は何度も立ち止まる。自分には無理かもしれない、と迷う。そのたびに、そばにいてくれる先輩や仲間たちの存在が支えになる。多くを語らずとも、そっと差し出される手。そうした関係の中で、少しずつ彼の耳は育っていく。
この物語が特別なのは、「音」がないはずの文字の世界で、確かに音が聴こえてくるところだ。調律という作業が、いつの間にか人の心にまで触れてくる。読んでいると、自分の中の雑音がひとつずつ整えられていくような感覚になる。
夢を持つことがこわい人、自分の進む道が見えなくなった人。そんな誰かが読んだとき、この本は特別な力を持ってそばにいてくれる。
『羊と鋼の森』を読み終えたあと、きっとあなたも、自分の内側で何かが調律されていることに気付くだろう。
その音は、他の誰でもない、あなただけの響きなのだ。
52.世界は、彼女の退屈から始まった── 谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

「ただの人間には興味ありません」高校入学早々、突飛な自己紹介をした涼宮ハルヒ。
彼女は普通の人キョンをはじめ、本物の宇宙人、未来人、超能力者を巻き込み、新クラブ「SOS団」を結成する。非日常系学園ストーリー。
エキセントリックな女子高校生とSOS団の面々が繰り広げる、非日常的な学園物語
「ただの人間には興味ありません。宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、私のところに来なさい。以上」
そう言い放って教室をざわつかせたのが、涼宮ハルヒという名の女子高校生だった。
この始まりがすべてを決めた。ありふれた学校生活に、いきなり非日常が入り込んできた瞬間だった。
谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』は、そんな彼女と、ごく普通の男子高校生・キョンが出会い、謎のクラブ「SOS団」を立ち上げていく物語だ。メンバーは、見た目こそ普通だけど中身は全然普通じゃない。実は宇宙人、未来人、超能力者が紛れ込んでいる。
でも、この話の面白さはそこだけじゃない。
本当に描かれているのは、「退屈が許せない」という強烈な衝動を持つ少女と、それを受け止めようとするひとりの男子の関係だ。ハルヒは言ってみれば〈世界の中心〉みたいな存在で、彼女が不機嫌になれば現実が歪むことすらある。しかし、それはただの特殊能力の話ではなく、「どうしようもない思春期の不安定さ」と地続きになっている。
変化を求める気持ち。だけど何を変えればいいのかもわからない焦り。ハルヒの突拍子もない行動は、そんな感情の表れだ。対するキョンは、突き放しながらも見捨てない。皮肉屋で、傍観者っぽく振る舞っているけど、どこかでハルヒに手を差し伸べている。
この物語は、SF、青春、ギャグ、そのどれでもあるし、どれでもない。
日常の向こう側を見てみたいと願う気持ちを、軽やかな文体に乗せて引っ張っていく。それでいて、心のどこかを確かにつかんでくる。
いまの世界はなんだか色が薄いと思っている人。
なにか起きてくれ、と願ってしまう日がある人。
そんな人にこそ刺さるのが、『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。
これは、ただの奇抜な青春小説ではない。
退屈を壊したいすべての人へ。
この物語は、あなたの「世界」がまだ終わっていないことを、優しく、強烈に教えてくれる。


53.死神は、笑わない。だからこそ、語り継がれる── 上遠野 浩平『ブギーポップは笑わない』

ある高校で起きている生徒の連続失踪事件と、謎の人物「口笛を吹きながら人を殺す」と噂される「ブギーポップ」。
複雑に入り組んだ物語は、時間の流れを自由に入れ替えながら、一点に向かって集約していく。
死神ブギーポップを軸にした、20年以上続く長編シリーズの第一作。
「口笛を吹きながら人を殺す存在がいるらしい」――そんな噂話が、どこにでもある高校の片隅でささやかれ始める。
その名はブギーポップ。正体不明で、性別も目的もわからない。ただ、何かが壊れかけたとき、ふいに姿を現す死神のような存在だ。
上遠野浩平の『ブギーポップは笑わない』は、1998年に発表された作品ながら、今なお色褪せない圧倒的な個性を放っている。
生徒の連続失踪事件を軸に、物語はさまざまな視点から語られる。あるときは女生徒の不安が言葉を支配し、あるときは教師の視線が冷静に状況を切り取る。時間の流れは素直ではなく、語りの重心も絶えず変化する。この断片の積み重ねが、ひとつの真相へと向かって収束していく。
何が起きているのか、誰が敵なのか。そうした単純な図式では整理できない物語だ。本作が描くのは、異能バトルや派手な事件ではなく、世界のひずみと、それに気づいてしまった若者たちの戸惑い。
ブギーポップという存在は、その「ゆらぎ」の象徴として、語り手たちの隙間に立ち現れる。
誰かに倒されるわけでもなく、誰かを救うわけでもない。それでも、登場人物たちは確かに影響を受け、何かを感じ取り、変わっていく。
この作品には、青春という言葉で簡単に括れない感情が詰まっている。孤独、焦り、他者との距離――そういったものを真正面から描いていながら、語り口はあくまで静かだ。過剰に感情を煽らず、それでいて不気味な緊張感を漂わせ続けている。
物語に込められているのは、「何が正しいか」ではなく、「どう感じたか」という感覚の方だ。
だからこそ、読む人によって印象が変わる。何度読んでも、そのたびに違う風景が立ち上がる。
『ブギーポップは笑わない』は、シリーズの幕開けにして、すでに完成された世界を持っている。
この一冊を起点に広がるサーガは壮大だが、まずはここから。
世界の裏側に触れるには、充分すぎる入り口だ。

54.80分の記憶が紡ぐ、数式と心の交差点── 小川洋子『博士の愛した数式』
記憶を80分しか保持できず、この世で最も愛しているのは素数という、数学者の主人公。
64歳の彼と、身の回りを世話する若い家政婦、そして息子の「ルート」が織りなす、心のふれあいと美しい数式。
数式と人との出会いが美しい、切なく優しい物語
記憶は80分しかもたない。でもその人は、誰よりも深く、まっすぐに、他人と向き合っていた。
小川洋子『博士の愛した数式』は、元数学者の博士と、家政婦の「私」、そしてその息子「ルート」がともに過ごす時間を描いた物語だ。
博士は交通事故の後遺症で、短期記憶が80分しか続かない。それでも毎朝、胸元に留めたメモを読み、自分の状況を確認し、そしてまた新しく相手と出会い直す。ルーティンのような日々のなかで、博士が愛してやまないのが「数学」だった。
素数の孤独。完全数の調和。友愛数のつながり。博士にとって数字はただの記号ではなく、それぞれが固有の人格を持つ生き物のような存在だ。彼の語り口は穏やかで、ときに情熱的で、まるで詩のように数式を語る。
この物語には、大きな事件は起きない。けれど、日々のやり取りのなかで、確かに誰かの心が変わっていく。博士は怒らず、否定せず、相手に敬意をもって接し続ける。
そこにあるのは、「正しさ」ではなく「敬意」と「まなざし」だ。忘れてしまうことを前提に、それでもなお他人を大切にしようとする姿勢。その誠実さが、この作品の根底に流れている。
阪神タイガースの話題もまた、博士にとっては記憶に刻まれた時間の象徴だ。70年代の選手名を語るとき、博士は少しだけ生き生きとする。数字と野球という一見対照的なものが、どこかで手を結んでいる。
『博士の愛した数式』は、数字を通して人と出会う物語だ。日々を繰り返しながらも、他者と向き合うことの尊さを、淡々とした筆致で描いていく。
記憶は失われるかもしれない。けれど、そのたびに出会い直し、何度でも相手の名前を呼ぶ。そんな積み重ねが、人と人との間にしか生まれない「ぬくもり」なのだと思わされる。
そして最後に、こう感じることになる。
「この数式は、美しい」と。
そして、「人と出会うということも、また、美しい」と。
55.境界が崩れるとき── 岡嶋 二人『クラインの壺』
ゲームブックのシナリオ大賞に応募した主人公。
落選した原作は、ヴァーチャルリアリティ・システム「クライン2」に採用される。
原作者として完成したゲームを、もう一人の美女とモニターするが、彼女は失踪してしまう。
リアルとバーチャルが入り交じる恐怖。未来を予見した一作
気がつけば、どこまでがゲームで、どこからが現実かわからなくなっていた。
岡嶋二人の『クラインの壺』は、仮想と現実がなめらかに溶け合っていく、その過程そのものを描いたサスペンスだ。
主人公は、ゲームブックのシナリオ大賞に応募した若者。コンテストでは落選したものの、彼の原案は最先端のヴァーチャルリアリティ・システム「クライン2」に採用されることになる。しかも、そのゲームの完成版を、開発陣の一員としてモニターする立場まで与えられる。
相棒となるのは、同じくテスターとして選ばれた謎めいた女性。ところが彼女は、突然姿を消してしまう。そこから物語は加速する。仮想体験の中にいたはずが、いつしか「現実」がきしみはじめるのだ。
「クラインの壺」とは、数学やトポロジーの世界で語られる図形で、内と外の区別がつかない不思議な構造をしている。主人公の体験はまさにその壺のように、境界を失い、現実感を失っていく。
画面の中の出来事が、外の世界にも染み出してくる。電話が鳴る、足音がする、ディスクが回る。そのひとつひとつが、どこまでリアルなのか判別がつかなくなる。そして何より恐ろしいのは、自分自身が、どこに立っているのかも怪しくなってくることだ。
物語は、時代の空気を色濃くまとっている。パソコン通信、公衆電話、ゲームディスク。今となっては懐かしさすら感じるガジェットたちが、不気味なリアリティを添える。それらすべてが、現代の「完全にデジタルに管理された現実」を先取りしていたことに気づいたとき、本作の先見性に驚かされる。
そして、この作品をもって岡嶋二人はコンビ解消を迎える。つまりこれは、ふたりの作家にとっての終着点でもあり、完璧に構築された閉じた世界の完成形でもある。
どこかで誰かが嘘をついているのか。あるいは、自分こそが物語の中に取り込まれているのか。ページを進めるごとに、自分自身の座標が揺らぎはじめる。
読み終えたとき、手元のスマホやモニターを見て、ほんの少し身構えてしまう。
「これは現実か?」
そう思ったとき、もうすでに、あなたの「壺」の内と外は入れ替わっているのだ。
56.誰にも愛されず、ただ愛した── 井上夢人『ラバー・ソウル』
誰が見ても醜い顔を持つ、鈴木誠。
彼と社会と繋ぐものは、洋楽専門誌にビートルズの評論を書くことだけ。
ある日、偶然出会ったモデルに惹かれた彼は、彼女に近づく男を次々と排除していく。
ストーカー視点で進む物語と、衝撃のラスト
その男は、愛を知らなかった。
誰がどう見ても醜い。そんな顔を持って生まれた男・鈴木誠にとって、世界は最初から曇っていた。
話しかけられない。恋をしたこともない。唯一、繋がっていたのはビートルズだった。音楽誌に評論を書くことで、ギリギリ社会と地続きのところに立っていた。
でも、ある日。モデルの女性に出会ってしまう。名前も知らないその人に、誠は惹かれていく。というか、完全に恋に落ちる。だが彼は、愛し方を知らない。だから、彼女に近づく男たちを、次々と排除していく。
井上夢人の『ラバー・ソウル』は、そんな誠の一人称で始まる。文章はやけに饒舌で、妙に論理的で、ときどきユーモラスですらある。読んでるうちは、彼の気持ちがなんだかわかる気がしてくる。「愛することのどこが悪い」と言われたら、否定するのが難しい。
しかし終盤、すべてがひっくり返る。物語の色がぐにゃりとねじれ、今まで信じていた景色が一変する。ここまで読んできた700ページが、いったいなんだったのか。思わず最初のページに戻って確かめたくなる。記憶のパズルを逆再生したくなる。
愛とは何か。他者の視線とは何か。そして、自分自身という存在はどこまで信じられるのか。
この小説は、そういう根っこの部分を、ビートルズのリズムに乗せて掘っていく。
ラストまで読んだあと、初めの数ページがまるで違う意味を持って見えてくる。その瞬間が、この物語の一番の恐ろしさであり、魅力でもある。
読み終えた後、あなたの中にも、ひとつの「ソウル」が残っているはずだ。
柔らかく、少し熱を帯びた、それでも確かにあったはずの魂の温度。
それが、愛されたくてたまらなかった彼の「願い」だったのかもしれない。

57.迷子の魂を探して―― 舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』
ディスコ・ウェンズデイは、迷子専門の探偵。
都内で6歳の山岸梢と暮らしていたが、ある日、彼の目前で梢の体に17歳の少女が「侵入」し、人類史上最大の事件の扉が開く。
日本三大奇書に堂々と肩を並べる、究極のエンターテイメント
誰かを探している。
誰かが、誰かの中にいる。
そして、誰もが自分を見失っている――それが、この物語のはじまりだ。
名前はディスコ・ウェンズデイ。職業は、迷子専門の探偵。東京の片隅で、小学生の女の子・梢と二人暮らし。そんな平和な日常が、ある日とつぜん、ひっくり返る。
梢の身体に、知らない少女が〈入ってきた〉のだ。17歳の見知らぬ誰かが、6歳の少女の中に侵入した。その瞬間、世界の枠がガタつき始める。事件は、家庭内どころか人類規模。探偵の仕事が、銀河の果てまで伸びていく。
舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』は、ミステリのふりをした大規模ジャンル破壊小説だ。探偵、SF、家族、哲学、恋愛、小説内小説、記憶、宇宙、人格、暴力、そしてラブ――詰め込みすぎってレベルじゃない。あらゆるジャンルをごった煮にしつつ、一本の芯で読みきらせる筆力がすごい。
ディスコは、ふざけた名前だけどやってることは本気。ふざけた文体だけど語ってることは鋭い。重層構造のなかを駆け回る登場人物たちが、それぞれの視点で語り、意味をねじり、世界をひっくり返していく。
あちこちで物語が同時進行して、途中から「え、今どの次元の話?」みたいになる。でも、それでいい。むしろそこがこの小説の面白さだ。
小説って、こんなにも自由で、過剰で、真剣で、バカみたいに本気で作れるんだってことを、まざまざと見せつけてくる。舞城作品の中でも、とくに攻めてる一本だ。
タイトルの「ディスコ」には、無秩序でリズミカルなノリが、「探偵」には真実を掘る意志が、「水曜日」には中途半端な日常感が混ざっている。全部バラバラなのに、不思議と調和している。それがこの物語そのもの。
読んでいるあいだ、あなたは世界の構造そのものを疑うようになる。
誰が語っているのか。
何が真実なのか。
今いるこの現実は、もしかして誰かの物語の中なのではないか――と。
しかし、そうした不安や迷いすらも、この小説の魅力だ。
最後の一行を読んだとき、混沌に身を委ねていた自分が、どこか確かな「終わり」に辿り着いていたことに気づく。
何を読んだのか、うまく説明できない。
でも、たしかに面白かった。
そんな作品に、出会ったことがあるだろうか?
『ディスコ探偵水曜日』は、そんな唯一無二の読書体験を与えてくれる、現代文学の怪作にして快作だ。
58.静謐なる知の塔にて―― 高田大介『図書館の魔女』
王宮の命により「高い塔の魔女」マツリカに仕えることになる、少年キリヒト。
史上最古の図書館に暮らし、人々から恐れられる魔女は、声を発することができない、若き少女だった。
魅力的な主人公とヒロインが織り成す、超弩級の異世界ファンタジー
高い塔のてっぺんに、誰も近づきたがらない魔女が住んでいる――と聞けば、大抵の人は「恐ろしい老婆」を想像するかもしれない。
でも実際そこにいたのは、年端もいかぬ少女だった。そしてその少女は、声を持っていなかった。
高田大介『図書館の魔女』は、そんな魔女マツリカと、元・密偵の少年キリヒトが織りなす、分厚くて硬派な異世界ファンタジーだ。
といっても、剣と魔法が飛び交うような冒険活劇ではない。武器になるのは知識、言葉、そして読み書き。物語の主戦場は、図書館であり、報告書であり、密書であり、会話そのものだ。もうこの時点で唯一無二。
キリヒトは言葉に鋭い感覚を持った少年で、マツリカは声を持たない代わりに、筆談と沈黙であらゆることを伝えてくる。このふたりのやりとりが、とにかく知的で暖かい。恋愛とも友情とも言い切れないけど、深くて強い関係が積み重なっていく。
物語の舞台となる国は、複数の言語と民族が入り乱れ、政治と宗教が絶妙なバランスで絡み合っている。そんな場所で、マツリカの住む塔=図書館は、知識をめぐる駆け引きの要塞となっていく。
一文一文がびしっと締まっていて、やたらと語彙が深くて、古文書を読み解いてるような緊張感がある。読むうちに、自分の頭も整理されていくような感覚すらある。なのに、堅苦しい感じはなく、むしろ言葉そのものが美しい。
総ページ数2000超えの大長編だけど、無駄に感じる場面はほぼなし。序盤は少しスローペースだけど、その時間があるからこそ、塔の空気に慣れ、キリヒトの目線に同化できる。
知識を操り、言葉を操り、人の心を読んで世界を動かす――そんな魔女とともに過ごす時間は、読む側にも不思議な集中力をもたらしてくる。
この作品は、ただのファンタジーじゃない。政治小説であり、言語小説であり、思想と信頼の物語でもある。読んでいるうちに、言葉って本当に力を持ってるんだな、って感じるようになる。
「声のない魔女」と「沈黙を読む少年」が、どんなふうに世界を変えていくのか。気づけばその行方を、自分のことのように追っているはずだ。
読書の愉しみとは何か。
読むという行為が、人間をいかに育て、守り、時に武器となるのか。
この本は、それを語らずして語り尽くしている。
読み終えたあと、思うはずだ。
「この世界に、もう少しだけとどまっていたい」と。
59.今日も、誰かの小さなごはんが、こころを満たす―― 成田 名璃子『東京すみっこごはん』
女子高生の楓は、ふとしたことからいじめに遭い、一人寂しく日々を過ごしていた。
両親もおらず居場所がなくなった彼女は、ある日、商店街の脇道に佇む奇妙な雰囲気の食堂を見つける。
年代も性別も国籍も異なる人々が集まる、癒やしの場所「すみっこごはん」
東京の片隅、商店街の細い路地を入った先に、小さな食堂がある。
看板はないし、営業してるのかどうかもわからない。でも、ふと足を止めてのぞいてみると、中から誰かの笑い声と、やさしい匂いが流れてくる。
その店の名前は「すみっこごはん」。ご飯を食べるための場所であり、ちょっと人生に疲れた人たちが、ひと息つける縁側みたいな台所だ。
成田名璃子『東京すみっこごはん』は、いじめをきっかけに心を閉ざしていた女子高生・楓が、この店にたどり着くところから始まる。
店にはルールがひとつだけある。その日料理を担当する人をくじで決めること。レシピも材料も、あるものでなんとかする。料理の腕前も問わない。必要なのは「誰かのために作る」っていう気持ちだけ。
食卓を囲むのは、年齢も職業もバラバラな面々。夢を見失った大人たち、居場所を探す外国人、うまく社会に馴染めない若者たち。そして、楓のように、ただ誰かと一緒に食事をしたかっただけの人。
この作品は、ものすごく特別なことが起きるわけじゃない。誰かが劇的に変わるとか、大きな問題が一気に解決するとか、そんな展開はない。
でも、ひと皿の料理を通じて、人と人の距離がほんのすこしだけ縮まっていく。たとえばそれが、思い出のポテトサラダだったり、余りもので作った煮物だったり。そういうごはんが、食べる人のなかにある何かを、少しだけ温めてくれる。
この「すみっこごはん」という場所がすごいのは、誰もジャッジしないこと。過去も、肩書きも、見た目も関係ない。ただ「おいしいね」と言い合える関係があるだけだ。
楓は、ここで人と出会い、失敗しながらも誰かと関わることの意味を知っていく。誰かのためにごはんを作ることが、こんなにも誰かの心に触れる行為なんだと、彼女自身が体感していく。
食べることは、生きることだ。
作ることは、誰かに気持ちを渡すことだ。
この物語は、その当たり前のことを、当たり前じゃないくらい丁寧に描いている。
お腹が空いたとき、心が空いたとき。どこかにこんな場所があったらいいのに、と思わせてくれる台所。
それが、「すみっこごはん」だ。
読み終えたあと、あなたも、台所に立ちたくなるかもしれない。
誰かのために、ごはんを作ってみたくなるかもしれない。
それはきっと、世界をほんの少しやさしくする魔法なのだ。
60.剣を交えて、心が触れる―― 誉田 哲也『武士道シックスティーン』
中学から剣道をはじめ、楽しさ優先で勝敗は固執しない性格の早苗。
3歳から剣道をはじめ、勝敗がすべての剣道エリート、香織。
対象的な2人の女子高生は、剣道を通して深くつながっていく。
2人の女子高生が、剣道でぶつかり合いながら成長していく青春ストーリー
始まりは、一本の勝負だった。
中学最後の試合、天才・香織がまさかの敗北を喫した相手――それが、のんびりマイペースな早苗だった。
香織は3歳から剣道一筋。勝つことがすべて、負けは許されない。いわば「武士道」に命をかけてるようなタイプ。
一方の早苗は、中学から剣道を始めた初心者。剣道はあくまで部活、勝っても負けても別に…というスタンス。
正反対なふたりが、同じ高校、同じ剣道部で再会したところから、この物語は本気で動き出す。
香織は、あの敗北を忘れていない。でも、早苗はそんなことすら覚えてない。このズレ。そこから始まるぶつかり合い。やる気に火がついた香織と、気分屋でつかみどころのない早苗。どっちも間違ってない。でも、どっちも譲れない。
この作品は、青春スポ根小説…なんてひと言じゃ片づけられない。剣道の稽古と試合を通して、自分と向き合い、他人とぶつかり、少しずつ変わっていくふたりの姿が、なんともリアルだ。香織は勝利への執着を抱えながら、「自分がなぜ剣を握るのか」に気づいていく。早苗は楽しさだけじゃなく、「本気のぶつかり合い」に心を動かされていく。
勝つだけがすべてじゃない。
楽しむだけでも続かない。
ふたりのやり方が交差して、反発して、でもいつの間にか、お互いの中に入り込んでいく。それはライバル? 友情? どっちとも違う。でも、強くて確かなつながり。
テンポよく、潔く、そしてまっすぐに描かれる剣道シーンはもちろん見どころだけど、本当に心を打つのは、ふたりの変化だ。香織のちょっとした表情、早苗のふと漏らす言葉、そのひとつひとつに成長の兆しがにじんでいる。
『武士道シックスティーン』は、まさに思春期の衝突と共鳴を描いた作品だ。自分とは違う誰かと、どう向き合えばいいのか。真剣勝負の中にある人間関係の答えを、剣の軌道とともに探していく。
香織と早苗の物語は、まだ始まったばかり。
その続きを見たくなったら、『セブンティーン』『エイティーン』『ジェネレーション』まで、ぜひどうぞ。
剣を交えるたびに変化していく彼女たちの関係を、ぜひ最後まで見届けてください。
61.忍び寄る人間の深淵―― 米澤穂信『満願』
人を殺めた後、刑期を終えた妻。明かされる本当の動機に、思わず身震いをしてしまう。
――そんな表題作をはじめ、6つの奇妙な事件が収められた、ミステリー短編集。
一番怖いのは人間だと改めて感じる、6つの短編
表面は穏やかで、整っている。でも、ふとした拍子に、その奥から顔を出すのは、ぞっとするような人間の本性だったりする。
米澤穂信『満願』に収められた6つの短編は、どれも「ミステリー」の枠組みに収まりながら、その枠を揺さぶってくる。トリックや派手などんでん返しは控えめ。だけど、読んでいるうちに確実に何かが侵食してくる。日常と地続きだからこそ怖い、そういう物語がここには並んでいる。
表題作『満願』は、ある女性が殺人の罪で服役し、刑期を終えて出所したところから始まる。かつて彼女に世話になった弁護士が、彼女の過去を辿っていくうちに、事件の本当の動機が明らかになる。その瞬間、今まで積み重ねてきた印象がすべてひっくり返る。
「なるほど」ではなく、「そうくるか」。
しかもその真相は、ただ怖いとか、悲しいとかではなく、人間の深い業みたいなものに触れてくるから始末が悪い。納得しそうになる自分にゾッとする。
『死人宿』では、自殺者が続く温泉宿の謎を探る。舞台は閉鎖的で、どこかよそよそしい。そこに漂う重たい空気が、物語全体を染めていく。
『関守』は、物語の構造が少し変わっていて、どこかドラマの特別回を観ているような感覚になる。奇をてらわず、けれどしっかり仕掛けが効いているあたりは、やはり米澤作品らしい手つきだ。
この短編集で描かれるのは、決して特殊な人間じゃない。そこにいるのは、どこにでもいそうな人たちだ。ごく普通の顔をして、壊れていく。それが怖い。
事件を追う面白さも、ラストで膝を打つ爽快感もある。でも、それ以上に心に残るのは、人が何かを守ろうとして見せる異常なまでの執念や、誰かのためを思ったがゆえの狂気。ぞわりとしたものが、長く尾を引く。
『満願』は、夜の読書にちょうどいい。
光の届かない部分に、そっと目を向けてみたくなるとき。
この短編集は、しっかりと寄り添ってくれる。

62.青春という名の扉をひらく―― 米澤穂信『氷菓』
神山高校に入学した折木奉太郎は「何事にも関わらない」がモットー。
姉の命令でしぶしぶ古典部に入部すると、そこには名家のお嬢様・千反田えるの姿があった。2人は、学園のさまざまな謎に首を突っ込んでいくが……。
古典部シリーズ第一作。アニメ化や実写映画化もされた、青春ミステリー
「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら、手短に」
それが信条の男子高校生・折木奉太郎(おれきほうたろう)は、高校入学早々、姉の命令で古典部に入部させられる。気乗りしないまま部室に向かうと、そこには好奇心のかたまりのような少女がいた。
千反田える。
彼女は言う。
「わたし、気になります」と。
その一言で、奉太郎の省エネ主義はゆるやかに崩れていく。
米澤穂信の『氷菓』は、「古典部シリーズ」の第1作。学園、部活、青春、そしてミステリー。そのすべてをさりげなく織り交ぜた、空気感のある物語だ。
古典部に残された一冊の文集『氷菓』にまつわる謎。それを手がかりに、奉太郎たちは33年前に起きたある出来事に近づいていく。血なまぐさい事件ではない。けれど、人が語らなかった理由をたぐる過程には、確かな引力がある。
奉太郎の推理は冷静で理知的だ。でも、どこか遠慮がちで、迷いが見える。その曖昧さがむしろリアルで、彼の変化や揺れが物語に厚みを加えている。対する千反田は真っ直ぐで勢いがあり、育ちのよさに裏打ちされた強さと知性を持つ。ふたりの距離感が少しずつ変化していく様子も見どころだ。
日常の中にある違和感に光を当て、言葉にできなかった感情をすくい上げる。その描き方がとにかく丁寧で、ほんの数行で空気が変わる瞬間がある。
そして、物語の終盤。タイトル『氷菓』の意味が明かされる場面には、思わず息をのむ。これはただの古い文集の話じゃない。33年前のあの日に何があったのか、なぜこの名前が選ばれたのか。すべてが繋がったとき、奉太郎だけじゃなく、こちらまで少し変わってしまったような気がする。
テンポの良い会話、軽やかな文体、ふと差し込む切なさ。笑える場面もあるのに、終わってみれば、妙に胸に残る。そんなバランスが見事な物語だ。
甘さも苦さも含んだ氷菓のように、この一作には、青春の手触りがぎゅっと詰まっている。
ふとした放課後の記憶に寄り添うような、優しい謎解きの物語。

63.この世で最も静かで、最も恐ろしい修理の物語―― 小林 泰三『玩具修理者』
誤って弟を死なせてしまった、主人公の私。
その死を隠すため、何でも治してくれるという「玩具修理者」に弟の”修理”を依頼する。
弟は元通りとなり、一件落着かと思いきや――。
日本ホラー小説対象で大絶賛の表題作と、描き下ろしの1篇
壊れたものを、元どおりに。
それが「修理」という営みであるのならば――この物語における修理は、私たちが知っているそれとはまったく異なる意味を持つ。
小林泰三のデビュー作『玩具修理者』は、表題作と『酔歩する男』を収録した2編構成。どちらも読み終えたあとに背筋がぞくりとする、不条理と論理のはざまを描いたホラー短編だ。
「玩具修理者」は、事故で弟を死なせてしまった僕が主人公。パニックになった彼がすがったのは、何でも修理してくれるという奇妙な存在――玩具修理者。
修理者は、ふにゃふにゃとした話し方とともに、壊れた弟を引き取っていく。数日後、弟は戻ってくる。元どおりに――見える。
しかし、どこかおかしい。違和感がじわりと滲んでくる。見てはいけないところを、確かに見てしまった感覚。終盤で明かされる描写に、思わず口元が強張るはずだ。
修理とはなにか。人間とはなにか。その境界線を、ざらざらと撫でてくるような不快感が癖になる。
続く『酔歩する男』は、時間の理をテーマにしたSF仕立てだ。愛する女性を喪った男が、もうひとりの自分と出会う。過去をやり直せたら? 未来を選び直せたら?――そんな願いに手を伸ばした瞬間、世界の歯車が変な音を立て始める。
表面的には整っている。筋も通ってる。なのに、どこか居心地が悪い。そのズレが積み重なって、気づけば地面が斜めになっているような感覚に引きずり込まれる。
ふたつの物語に共通しているのは、ホラーでありながら叫びや血飛沫に頼らない点だ。不安は、ほんの小さな違和感から広がっていく。恐怖を説明しないからこそ、何が怖いのか自分でもわからないまま引き込まれてしまう。
1995年、日本ホラー小説大賞短編賞を受賞。選考委員からは満場一致で推され、「この才能は、異常だ」とまで評された。
短編とは思えない凝縮感。ホラーというより、どこか哲学。理屈で理解しようとしても、言葉の外側からざらりと這ってくるこの感触。
「直したよ」と言われたものを、あなたはそのまま受け入れられるだろうか?
この物語は、ずっと後になって効いてくる。気づけば、自分の中に何かが入り込んでいる。
玩具じゃないものを、修理するという行為。
その先に待っているものが何なのか――確かめたいなら、ページを開くしかない。

64.昨日の自分に、今日のわたしが出会うとき―― 高畑京一郎『タイム・リープ あしたはきのう』
平凡な女子高校生の鹿島翔香は、ある日、昨日の記憶が無くなっていることに気が付く。
自分の日記を見返すと、自分の筆跡で身に覚えのない記述が――。
彼女に起こる謎の時間移動現象「タイム・リープ」とは。
よく練られ伏線回収も見事な、史上最強のタイムトラベルミステリー
目が覚めたら、昨日の記憶がごっそり抜け落ちていた。
しかも、手帳には見覚えのない自分の字で「若松くんに相談しなさい」と書かれている。
そんな不穏な朝から始まるのが、高畑京一郎の『タイム・リープ あしたはきのう』だ。
主人公は高校2年生の鹿島翔香(かしましょうか)。特に変わったところもない、ごく普通の女の子だ。なのに、彼女の身に起き始めたのは、「意識だけが別の時間に飛ぶ」という謎の現象。しかも、その現象が始まったタイミングには、どうやら大きな秘密が隠されている。
翔香の唯一の手がかりは、日記のメッセージ。そして、「若松くん」という名前。
半ば強引に巻き込まれた若松は、理詰めの思考で冷静に状況を分析していく。地に足のついた視点と、ブレない姿勢。やがて彼は、翔香の不安定なタイムリープ現象の謎を、少しずつひも解いていく。
本作の魅力は、その仕掛けの細やかさだ。
ただ時間を行き来するだけじゃない。過去と未来の情報が折り重なり、少しの勘違いや誤解が、物語の全体像に微妙なズレを生んでいく。そして、それがどう収束するのか――気づけば物語の構造そのものに夢中になっている。
時間のねじれに翻弄されながらも、翔香と若松の関係性は少しずつ変化していく。最初はギクシャクしていたふたりが、互いの思考を読み取りながら、信頼を築いていく過程が心地いい。恋愛とも友情とも言えない、でも確かに誰かを想う気持ち。その微妙な距離感が、この物語をただのSFにとどめない。
そして終盤、意外な人物の存在が、すべてのピースを収束させる引き金になる。
甘さも苦さも詰め込んで、「今を生きること」の意味が立ち上がってくる。
1999年刊行のこの作品は、派手なビジュアルもなければ、超常的な演出もない。でも、その分だけ、緻密に組み立てられた構造と、人物たちの感情の丁寧な揺れが際立つ。
時間を操るという壮大なテーマと、高校生ふたりの等身大の会話が、驚くほど自然に混ざり合っている。
もし、過去と未来に引き裂かれそうになったとき、あなたは今をどう選びとる?
その選択の積み重ねこそが、自分自身という物語なのだと、この作品はそっと教えてくれる。
65.あの夏は、幻だったのか―― 太田 愛『幻夏』
川辺の流木に奇妙な印を残し、忽然と姿を消した12歳の同級生。
23年後、刑事となった相馬は、担当した少女失踪事件の現場で、同じ印を発見する。
あの夏の真実は?そして、今から何が起きようとしているのか――。
冤罪がテーマのサスペンス。ノスタルジックな描写も
太陽が照りつける夏の日。川辺の流木に刻まれた印が、波間に揺れていた。何でもない風景のようで、そこにだけ時間が止まっているようにも見えた。
太田愛『幻夏』は、そんな止まった記憶と向き合う物語だ。12歳の頃、相馬の同級生・尚が忽然と姿を消した。まるで地面がひとりぶんだけ飲み込んだように、痕跡を残したまま消えた。相馬はそのことを、23年経っても忘れられずにいる。
そして現在、相馬は刑事になった。新たに担当することになった少女失踪事件の現場に、あのときと同じ印が残されていた。止まったままの時間が、ふいに動き出したような感覚。過去と現在が一本の線でつながっていく。
物語の軸には、「冤罪」という社会的に重いテーマが据えられている。無実の人が罪をかぶせられ、人生を崩されていく現実。その理不尽さや、それを支える制度や構造。それらを物語として読みながらも、しっかりと現実に引き寄せられる感覚がある。
それでいてこの作品は、ただの重たい話に留まらない。舞台となる町や登場人物の背景には、少年時代の小さな冒険があったり、虫取りや駄菓子屋の記憶がちらついたり。どこかで見たような、でももう戻れない風景がたくさん詰まっている。
タイトルの『幻夏』という言葉が、とてもよく似合う作品だ。あの夏は、本当にあったのか、それとも幻想だったのか。それを確かめるように、相馬はあのときの出来事を追いかけていく。
太田愛の描写は、物語としての強さと、映像のような細やかさを併せ持っている。ドラマの脚本家としての顔を持つだけに、場面ごとの引きや余白の取り方が抜群にうまい。気づけば、自分も物語の中に足を踏み入れている感覚になる。
『幻夏』は、過去の記憶と現在の事件、そして人の心の底に沈んだままの後悔や痛みを、丁寧に掘り起こしていくような一作だ。
あの頃に戻れないのはわかってる。
でも、今の自分が、あの夏を思い出すことで変われることもある。
消えた友、伝えられなかった想い、そして、あの夏に置き去りにしてきた何か。
あなたがもし、その何かを思い出す準備ができているのなら、この本はそっと、手を差し伸べてくれるだろう。
66.匣の中の真実を、あなたは信じますか―― 京極夏彦『魍魎の匣』
昭和27年、夜中の中央線で一人の女学生がホームから落ち電車に轢かれる。
匣の館に運び込まれる瀕死の彼女。しかし、忽然と姿を消してしまう――。
世間を騒がせるバラバラ殺人事件、そして怪しげな新興宗教の噂とは。
百鬼夜行シリーズ最高傑作とも言われる、妖怪談義と憑き物落とし
駅のホームに少女が落ちた。
真冬の中央線、深夜。轢かれた彼女は命をつなぎながら、不思議な「匣の館」へと運ばれる。しかしその後、忽然と姿を消した。
一方で、世間を騒がせているのはバラバラ殺人事件。少女の身体が、箱に詰められて次々と見つかっている。さらに、背後では怪しげな宗教団体がうごめいていて……と、もう情報量がすごい。しかも、これが全部、1本の線でつながっていくから怖い。
京極夏彦の『魍魎の匣』は、ただのミステリーじゃない。もはや読書というより「精神ダイブ」に近い。濃い、重い、でも一度ハマったら抜け出せない。
事件を追う刑事・木場、混乱する作家・関口、そして拝み屋にして論理の権化・京極堂。3人の視点がぐるぐる入れ替わりながら、次第に物語の輪郭が見えてくる構成も見事だ。
最大の見せ場はやっぱり、京極堂による「憑き物落とし」。人間の狂気も妄想も、全部ひっくるめて、論理でバッサリ切り捨てていく。妖怪の話をしているのに、気づけば心理学と哲学の講義を聞いているような気分になるのが面白い。
「この世に不思議なことなど、何ひとつない」。
それが京極堂の決め台詞だけど、物語が進むほど、この言葉の怖さが沁みてくる。
犯人は誰か? という疑問よりも、「なんでこんなことが起きたのか」という問いに導かれるように読まされていくのが、本作の怖いところだ。そしてその理由が明らかになったとき、誰もが少し黙り込むことになる。
読み終わったあと、「これは人の業を描いた小説だったな」としみじみ感じる。ミステリーなのに、オカルトなのに、最後に残るのは人間くささ。それがこの作品のすごさだ。
情報が多くて、登場人物も多くて、分厚さにもびびるけど――読めば絶対に忘れられない。脳の奥に張りつくような感覚が、ずっと残る。
『魍魎の匣』は、まさに読む体験そのものを更新する物語だ。
読んだ者だけが、箱の中身を覗くことができる。
その中にあったのが、自分の中のどんな感情だったのか。
気づくのは、読んだあとになってからだ。
67.信じることさえも、命がけだった―― 高見 広春『バトル・ロワイアル』
1997年の大東亜共和国。
修学旅行のバスごと無人島に拉致された、城岩中学校3年B組の七原秋也ら生徒42人は、政府主催の殺人プログラムに強制参加させられる。
生還できるのは一人のみで、そのためには他の全員を殺害しなくてはならない――。
発表当時に日本中で話題となった、説明不要のデスゲームノベル。
クラスメイト42人、全員敵。
無人島に連れてこられて、ルールはただ一つ。
「最後の一人になるまで殺し合え」。
高見広春『バトル・ロワイアル』は、そんな絶望の真っ只中に叩き込まれる物語だ。
舞台は架空の全体主義国家・大東亜共和国。突然、修学旅行中の中学生42人が無人島に拉致される。目的はたったひとつ。殺し合いだ。政府が定めたプログラムの名のもと、最後の一人になるまで殺し合えと命じられる。拒否権なし。脱出不可。与えられたのは武器と制限時間、そして死のルール。
この物語に登場するのは、ただの「モブ」なんかじゃない。全員に名前があり、家庭があり、仲間や恋がある。だからこそ、誰かが死ぬたび、胸が痛む。感情移入のスピードは異常だ。三村の葛藤、桐山の狂気、相馬の優しさ――そして七原秋也の選択。読み進めるうちに、42人の群像が立ち上がってくる。
何が正しいかなんて、もうわからない。殺されたくない。でも、殺したくもない。そのはざまで、彼らはそれぞれの理由を抱えて戦い、倒れていく。
銃やナイフだけが武器じゃない。信頼も、裏切りも、恋情すらも、この島では武器になる。むしろ“人間であること”そのものが危うさを増幅させていく。
すごいのは、ここまで極端な設定にもかかわらず、物語がどこまでもリアルに感じられるところだ。友だちを信じたい。でも、信じることは死を意味するかもしれない。そんな状況でどう動くか。読むのを止めたところで、気持ちは冷めない。むしろ、自分だったらどうするかと頭の中がざわつく。
映画や漫画にもなり、大きな議論も呼んだ作品だけど、それだけ多くの人の核心に刺さったということだろう。
『バトル・ロワイアル』は、ただのデスゲーム小説じゃない。
それは、極限の場所に立たされたとき、自分が何を選ぶのか――その感情の濁流をまざまざと見せつける、壮絶な青春の記録だ。
68.幸福という名の檻の中で―― 伊藤計劃『ハーモニー』
21世紀の後半、後に「大災禍」と呼ばれる世界規模の混乱を経て、高度な福祉厚生社会を築き上げた人類。
病気が存在せず、一見やさしさや思いやりに満ちた「ユートピア」を憂い、3人の少女は自殺を図る。
13年後、この世界を憎む霧慧トァンは、再び「地獄」に身を投じる。
整えられた世界、病も飢えも差別もないユートピア
病も飢えも差別もない、完璧な社会。誰もが健康で、正しく、穏やかに生きている――はずだった。
伊藤計劃の『ハーモニー』は、理想社会の仮面を引き剝がし、「調和」の名のもとに抑圧された個人の意志を描く、近未来ディストピアSFの傑作だ。
物語の発端は、かつて3人の少女が一斉に命を絶とうとした出来事にある。13年後、ただひとり生き残った霧慧トァンは、世界保健機構の職員として表向きはシステムに従う日々を送っているが、その胸の内には常に「怒り」がくすぶっている。
この世界には、あらゆる不自由がない。でもそれは、すべてが制御されているからだ。身体はナノマシンで管理され、行動や言葉にも倫理的な最適化が求められる。誰もが「善良」であることを強制されている社会――つまり、「やさしさ」の暴力が横たわっている。
そんな中、再び起こる集団自殺事件。そして、死んだはずの少女・御冷ミァハの存在が、トァンを過去と対峙させていく。
本作はSFでありながら、感情の描写が驚くほど生々しい。トァンが感じる違和感、反抗心、自己嫌悪。過去の後悔と、未来への絶望。そのどれもがズシンと胸を突いてくる。
登場するのはAIでも宇宙人でもなく、「完璧な人間たち」だ。そしてその完璧さこそが、最大の異常として描かれている。
正しすぎる世界では、間違えることすら赦されない。そこでは、悩むこと、迷うこと、苦しむことすら「非効率」として排除される。しかし、トァンはその非効率さの中にこそ、人間らしさを見出そうとする。
終盤、ミァハの思想と行動の全貌が明らかになるとき、この物語は「個の消失」についての寓話として結晶する。そして、ある選択を迫られるトァンの姿に、胸が締めつけられる。
この社会は本当に、幸福なのか。この体、この心は、本当に自分のものなのか。
答えは用意されていない。ただ、読み終えたあと、自分の意志で「考える」ことだけが残る。
美しい皮をかぶった狂気の中で、それでも生きようとした少女の物語。
それが『ハーモニー』だ。

69.時の狭間に咲く恋―― 筒井康隆『時をかける少女』
クラスメイトの男子2人と仲良くする女子高生。
ある日、故障した自転車で交通事故に巻き込まれそうになった瞬間、彼女はタイムリープしてしまい――。
細田守監督の映画で有名な、ほのかな恋とタイムリープの物語
何気ない放課後、何も変わらない毎日のはずだった。
でもその日、芳山和子は時間から滑り落ちた。
『時をかける少女』は、筒井康隆が1960年代に発表した青春SFの金字塔だ。でも、その古さは微塵も感じない。むしろ、いま読んでも「これ、今の話でしょ?」って思ってしまうくらい、みずみずしい感情が詰まっている。
芳山和子(よしやま かずこ)は、ごく普通の高校生。クラスメイトの男子2人となんとなく楽しくやっていて、いつも通りの毎日を過ごしていた。ところがある日、理科室で妙な匂いを嗅いだ瞬間から、彼女の中で何かがズレ始める。
何かをやり直した気がする。でも記憶にない。既視感だけが残っている。それが、和子に起こった「タイムリープ」だった。
こう書くと難しそうだけど、作品の空気は軽やかだ。どこにでもあるような教室の風景や、自転車で走る帰り道の景色の中に、非日常がじんでくる。しかも、作者のユーモアが効いていて、シリアスに寄りすぎない。だからこそ、ふいに訪れる切なさが、なおさら胸に響く。
登場するのは、和子、浅倉、深町の三人。とくに深町一夫という人物が、物語の核心を担う存在として立ち上がってくる。クラスメイトのはずなのに、どこか浮いている。親切なのに、どこか遠い。
彼の正体が明かされたとき、和子の目の前にある日常は、ほんの少しだけ別の色を帯びる。
そして別れの場面。和子は、自分が何を失おうとしているのかに気づく。でも、それを引き止める術はない。このシーンがもう、シンプルに泣ける。
『時をかける少女』は、ラブストーリーでもあり、時間SFでもあり、青春そのものでもある。ジャンルの境界をひょいっと飛び越えて、「大切なものってなんだろう」と自然に思わせてくれる。
何かを強く語ろうとはしない。だけど、読み終わったあと、自分の中にぽつんと何かが残っている感じがする。
未来と過去、そして今をつなぐのは、決して複雑な装置や理論ではなく、「あなたを想う心」なのだと。
この小説は、そんな温かな真実を、短い時間の中に確かに刻んでいる。
――少女は、ほんの少しだけ時をかけた。
そして、それは彼女の人生を、決定的に変えたのだ。
70.星の海を駆けるふたりの天才―― 田中芳樹『銀河英雄伝説 1 黎明編』
銀河系に一大王朝を築いた帝国と、民主主義の自由惑星同盟が繰り広げる、飽くなき闘争。
帝国の天才「ラインハルト」と、同盟の”不敗の魔術師”「ヤン・ウェンリー」が相まみえる。
壮大な宇宙叙事詩がいま、始まる。
日本SFの古典にして大傑作。壮大なスケールのスペースオペラ
宇宙を支配するのは、重力でも戦艦でもない。
それは、信念と、知恵と、誇りだ。
『銀河英雄伝説』は、銀河系全体を舞台に繰り広げられる壮大なスペースオペラだ。その始まりとなる『黎明編』では、歴史に名を刻むふたりの若き天才がついに動き出す。
帝国側はラインハルト・フォン・ローエングラム。類いまれなる軍才と野望を持ち、姉と共に腐敗した貴族社会を打ち破ろうとしている。
対する自由惑星同盟側にはヤン・ウェンリー。戦争を嫌いながらも戦術の天才として名を馳せる、穏やかで皮肉屋な歴史マニア。
性格も思想もまるで正反対なのに、どちらにも抗いがたいカリスマがある。このふたりがついに戦場で交差する。アスターテ会戦を皮切りに、イゼルローン要塞攻略、アムリッツァの激突へと、物語は次第に熱を帯びていく。
この物語のすごさは、単なる戦争描写では終わらないところ。どの人物も、自分なりの理想と矛盾を抱えながら、葛藤し、選択し、生きている。
誰が正しいのか、誰が間違っているのかなんて簡単に決められない。だからこそ、それぞれの一手が、重く響いてくる。
戦うのは、軍人だけじゃない。情報士官、戦術家、民衆、政治家――あらゆる立場の人間が、それぞれの視点で銀河の未来を見ている。
田中芳樹の文体は、冷静で客観的。でもそこに潜む情熱や怒り、皮肉が滲み出ていて、気づいたらこの宇宙の行く末を見届けたくなっている。
戦争、政治、革命、腐敗、理想、友情、忠誠。どれかひとつに絞れないほど、多層的で重厚なテーマが折り重なっている。
そして何より、「物語としての完成度」が恐ろしく高い。伏線の仕掛け、群像劇のバランス、台詞の鋭さ……どこをとっても無駄がない。
銀河を揺るがす物語は、ここから始まる。
まだ何も知らないあなたも、もう何度目かの再会になるあなたも、ラインハルトとヤンの始まりを見届けるには絶好のタイミングだ。
あとは、この小説の中に、飛び込むだけ。
71.仮面の夜に灯る言葉の火―― 多崎礼『煌夜祭』
冬至の夜。
仮面をつけて正体を隠し、古今東西の物語を口伝する”語り部”が、どこからともなく集まってくる。
今年も始まる「煌夜祭」。廃墟の中で、語り部の2人が紡ぐ物語。
短いお話が積み重なって1つの物語に集約される、完成度の高いファンタジー
その祭りは、一年でいちばん夜が長い日にだけ開かれる。場所も時間も決まっていない。でも、語るべき物語さえあれば、誰でも辿り着ける。
『煌夜祭』は、そんなひと晩だけの祝祭を描いたファンタジーだ。仮面をつけた語り部たちが集まり、物語だけを手に語り合う。それだけなのに、どうしてこんなにも胸を打つのか。
舞台は、崩れかけた聖堂の中。語るのはふたりの語り部。若さと情熱をまとった者と、沈んだ影を背負った者。交互に語られる短い物語たちは、それぞれ独立した世界を持っている。でも、読み進めるうちに見えてくる。すべてはやがて一つの大きな物語に繋がっていくんだと。
魔女の願い、王子の後悔、名もなき者の祈り。誰かの記憶と痛みが、やわらかな声になって積み重なっていく。それぞれがまるで小さな灯火。決して派手じゃないけど、確かにあたたかい。
この作品がすごいのは、「語る」という行為そのものを中心に据えているところだ。物語が誰かの救いになったり、別の誰かの償いになったり、言葉にすることでだけ存在できる気持ちがあるんだって、まっすぐ伝えてくる。
物語とは、読んで終わりじゃない。誰かに渡すことで初めて、生き続ける。そんな感覚が、この本にはある。
文章はとても丁寧で、だけど硬すぎない。どこか昔話のような懐かしさと、現代的なリズムがうまく混ざり合っていて、不思議な読み心地になる。気がつけば、こっちも語り部の一人みたいな顔で、祭りに混ざってる気分になっていた。
そして最後には、そっと差し出されるように物語が終わる。
でも、その終わりは「おしまい」じゃない。
むしろ、ここから自分の中で何かが始まるような、そんな感覚が残る。
『煌夜祭』は、ファンタジーだけど、ただの異世界の話じゃない。語りたいことがある人、何かを残したいと思っている人にこそ響く。そんな本だ。
誰かに語り継ぎたくなる物語。自分だけの秘密にしておきたい物語。
そのどちらでもあるような、特別な夜が、ページの中で待っている。
72.燃え尽きるように逃げた女の名を―― 宮部みゆき『火車』
担当した事件で傷を負って休職中の刑事、本間俊介。
遠縁の男性から、自分の婚約者である関根彰子を探してほしいと依頼を受ける。
彼女は徹底的に痕跡を消し、自らの意思で失踪していた。
なぜ彼女は、姿を消さなければならなかったのか――。
多重債務者の悲惨な人生が明らかになっていく、ミステリーの傑作
休職中の刑事・本間俊介が引き受けたのは、親戚の頼みだった。婚約者が消えた。警察沙汰にはしたくない。探してくれないか――と。
失踪した女性、関根彰子。調べれば調べるほど、おかしい。住民票も職歴も、見事なまでに何もない。まるで最初から存在していなかったかのように、完璧に痕跡を消していた。
何が彼女をそこまで追い詰めたのか。なぜ、自分の人生を焼却しなければならなかったのか。
宮部みゆきの『火車』は、ミステリーのかたちをとりながら、金と社会のひずみに迫る物語だ。物々しい事件は起きない。血も飛ばない。けれど、現実のほうがよほど怖い。
テーマは「多重債務」。クレジットカード、キャッシング、督促、自己破産、そして追い詰められていく日常。1992年の作品だけど、驚くほどリアルで、いまの時代にも通じる重みがある。
刑事・本間の捜査は、派手さとは無縁。コツコツ地道に、人と会って話を聞き、資料を漁り、地図をにらむ。その一歩ずつが、まるで彼女の人生を逆再生するような流れをつくっていく。
どんな人物だったのか。どこで生きていたのか。そして、何を手放してしまったのか。
読み進めるほど、関根彰子という名前の向こうに、血の通った人間の姿が浮かび上がってくる。完璧に消えたはずの誰かの「かつて」が、紙の上にひそやかに蘇っていく。
この物語、ラストに向かうにつれ、謎は明かされていく。でも、それは決してスッキリする真相ではない。むしろ、胸の奥にズシンと残る重みのようなものが広がっていく。
逃げたのではなく、生き延びようとした。嘘をついたのではなく、名を守ろうとした。ただ普通に暮らしたかっただけの誰かが、それすら許されない社会のなかで、必死に足掻いた結果だった。
『火車』は、犯罪の裏にある生活の崩壊を描く作品だ。
名作って、派手じゃなくても記憶に残るものだと思う。この本はまさにそう。読後に胸に残るのは、サスペンスの緊張感よりも、生きることの重さだ。
あの女は、なぜ名前を捨ててまで姿を消したのか。
その理由が、本を閉じた後もずっと頭に残る。
自分は大丈夫――そう思っている人ほど、気づいたらこの「火車」に乗っているかもしれない。
73.鏡の中のもう一人―― 殊能将之『ハサミ男』
2003年の東京。
別々に殺害された2人の女子高生の喉には、ハサミが深く刺さっていた。
マスコミより「ハサミ男」と名付けられた彼は、3人目の犠牲者を探していく中、彼と全く同じ手口で殺害された死体を発見する。
先を越された彼は、誰の仕業なのか調査を開始する。
殺人事件の犯人が自分の模倣犯を追っていくという、新しい展開の作品
女子高生の喉にハサミを突き立てる殺人鬼がいた。世間は彼を「ハサミ男」と呼んだ。
しかし、その本人がある日、見つけてしまう。自分と同じ手口で殺された死体を。
――誰かが先に、殺していた。
犯人が、自分の模倣犯を追い始める。そんな倒錯した展開から始まるのが、殊能将之の『ハサミ男』だ。
ふつうなら、警察が犯人を追う。なのにこれは逆。殺人犯が、ニセモノを探しにいく。しかも、ハサミ男は完璧な狂人じゃない。日常の中に紛れ込んでるような、妙にリアルな人物として描かれている。
そして、事件はどんどん捻じれていく。殺された女子高生たち、操作する刑事たち、冷静な語り口。それらが、バラバラのパズルみたいに並べられていく。
でも、そのピースは、実は最初から「ある罠」を仕込まれていた。
何気なく読み進めていたつもりでも、ある地点を越えた瞬間、これまでの理解がごっそり裏返る。あの瞬間の、脳がズルッと滑る感じ。まさにこの作品最大のトリックだ。
仕掛けそのものは一発勝負型だけど、それだけじゃ終わらない。人物の背景、語りの構造、言葉の選び方、全部がその結末に向けて緻密に設計されている。
なのに、それを「仕掛けてますよ〜」とひけらかす感じは一切ない。むしろ、どこか淡々としてる。淡々としてるのに、芯がゾッとする。そんな独特の雰囲気が、この小説をただのどんでん返しものにしない。
それにしても、ハサミ男は何者だったのか。誰が模倣したのか。どこからが本物だったのか。
記憶も、名前も、善悪すらも、どんどん曖昧になっていく構造の中で、最終的に浮かび上がるのは、「自分が自分である」という感覚すら揺らいでいく怖さだ。
結末を知ってからもう一度読み返すと、あちこちに細かく仕込まれた違和感が見えてくる。
この作品、最後までいってからが本番だ。
真相がわかった時点で終わるんじゃない。
真相を知ってから、最初に戻って自分を疑い始めるところから、もう一周が始まるのだ。

74.「真相」は、雪のように降り積もる―― 倉知淳『星降り山荘の殺人』
中規模広告代理店で働く杉下和夫は、上司と揉めたことをきっかけに、芸能部に左遷される。
そこでマネージャー見習いとして担当したのが、スターウォッチャーの星園詩郎だった。
2人は仕事で山荘に訪れるが、翌朝、他殺死体が発見される。
予備知識なしで読むべき、衝撃のミステリー作品
雪に閉ざされた山荘、限られた登場人物、そして起きてしまった殺人事件。
「来たな、王道ミステリー」――そんな気配を漂わせておいて、この物語は読んだ人を見事に裏切ってくる。
倉知淳『星降り山荘の殺人』は、いわゆるクローズド・サークルのスタイルを借りながら、読み手の常識を根こそぎ揺さぶってくるような一作だ。
主人公の杉下和夫は、広告代理店でややくすぶり気味の男。上司とのトラブルをきっかけに芸能部に異動になり、スターウォッチャーという肩書きを持つ変わり者・星園詩郎のマネージャー見習いとなる。
ふたりは仕事で山荘に赴くのだが、滞在中に事件が起きる。血も叫びもなく、ただしっかりと、人が命を落とす。
そこから先は、あまり詳しく語れない。なぜならこの本は、先入観なしで読み進めたときにこそ、真価を発揮するから。
構成としてはミステリーのお約束をなぞっているように見せかけつつ、気づかぬうちに、とんでもない地雷を抱えている。しかもそれが、最後の最後に、きっちり爆発する仕掛けになっている。
本筋だけ見ればシンプルなはずなのに、気づいたときには自分の「読み方」が問われている。
この作品のすごさは、どんでん返しがあることではなく、読者自身の理解が、ある地点でがらりと反転してしまうところにある。
「そんなはずはない」と思いつつ、ページをめくる手が止まらなくなる。もしかして自分は最初から騙されていたのか? それとも、見落としていただけなのか?
読み終えたあとに最初へ戻りたくなる作品は数あれど、本書ほど戻る理由が強いものは珍しい。最初の一文からすでに仕組まれていたことに、再読してようやく気づかされるからだ。
雪の山荘で起きたひとつの殺人。それだけの物語なのに、なぜこんなにも後を引くのか。
ミステリーのかたちをしているが、ただの謎解きでは終わらない。いや、むしろ謎解きの外側にあるものこそが、この物語の本質なのだ。
その正体に触れたとき、あなたの中で「物語とは何か」が、少しだけ変わるかもしれない。

75.夢の行き先は、その動画の向こう側に―― 野尻抱介『南極点のピアピア動画』
月に彗星が衝突したことで、携わっていた月面探査計画が頓挫し、恋人にも逃げられてしまった大学院生の蓮見省一。
すべてを失った彼は、ピアピア動画でボーカロイドに彼女への想いを歌わせていた。
しかし、衝突によるジェット気流で、宇宙に有人飛行できることを発見する。
ニコニコ動画、ボーカロイドなど、古き良きネット文化を感じる作品
失恋した。月面計画も吹っ飛んだ。残されたのは歌だけだった。
大学院生・蓮見省一は、自作ボカロ曲に未練をぶちこんで動画をアップしていた。「宇宙開発も恋愛も終わった」そう思っていた彼の前に、ある日、とんでもないチャンスがやってくる。――それは「宇宙に飛べるかもしれない気流」の発見。
…それを知ったのが、ピアピア動画のコメント欄だったら?
『南極点のピアピア動画』は、ネット民とオタクの情熱が理論武装されて、気づけば地球圏の外にまで飛び出していく、前代未聞のSF連作だ。
登場するのは、スペオペの英雄でも、NASAの研究者でもない。掲示板と動画サイトで知り合った、ただの理系オタクたち。けれど彼らは、ロケットの構造をガチで語り、飛行可能性を実地検証し、知恵とツールと情熱だけでプロジェクトを動かしていく。
そのノリは、真剣なバカたちの文化祭。笑えるし、熱いし、なにより「オタクの夢が全部詰まってる」感がすごい。
ボーカロイド「小隅レイ」が歌えば、誰かが応援コメントをつけ、誰かが新たな構想図をあげ、気づけばそれが、月や南極や宇宙への第一歩になる。笑いごとじゃない。本当に進んでいく。すごいのは、それがちゃんと理屈で組み上がっていることだ。
もちろん、全部がうまくいくわけじゃない。夢見て傷ついた人、何かを失った人も出てくる。けれど、その痛みさえ、誰かの次の行動を生むきっかけになる。たとえば「歌」として。たとえば「設計案」として。
そうやって、誰かの失意が、誰かの希望になる構造が、インターネット的でたまらない。
「オタクって、ここまで本気で世界変えられるのか」って思わされる。しかもそれが、めちゃくちゃ楽しくて、なんか泣けるんだ。
ピアピア動画の中で育まれた共感は、国境を越え、言語を越え、ついには惑星間通信すら越えてしまう。
これが読めば読むほど「あり得る」って思えてくるのは、野尻抱介という作家が描く科学と感情のバランスがあまりに見事だからだ。
夢が現実に近づくとき、そこには仕組みがある。技術がある。そして、画面の向こう側で応援してくれる、見知らぬ誰かがいる。
そんな世界で、今日も誰かが動画をアップしている。
小さな思いと、大きな宇宙を、ボカロに乗せて。

76.言葉の海を越える舟―― 三浦しをん『舟を編む』
言葉への鋭いセンスを買われて、辞書編集部に引き抜かれた、出版社の営業部員、馬締光也。
彼は編集部のメンバーと新しい辞書『大渡海』の完成に向け奔走する。
辞書づくりに情熱を傾ける、個性豊かな同僚たち。そして彼は、運命の人と出会う――。
辞書の編纂がテーマ。とても熱量あふれる物語
この世界は、言葉でできている。
日々交わす挨拶も、胸の奥にしまった想いも、あの人の言葉に救われた夜も。
でも私たちは、そのひとつひとつの言葉の意味を、正確に知っているだろうか。
三浦しをんの『舟を編む』は、言葉の海を渡るための「舟」――辞書を作る人々の物語だ。
出版社の営業マンだった馬締光也(まじめ みつや)。超がつくほど真面目で、コミュニケーションは苦手。けれど、言葉へのアンテナだけは一級品。そんな彼がある日、辞書編集部にスカウトされる。
始まったのは、壮大な「辞書作りプロジェクト」。タイトルは『大渡海』。この世にあるすべての言葉を乗せて、誰かが安心して渡っていける舟を目指して―― なんて、ロマンチックすぎる。でも、本当にそうなのだ。
辞書は、単なる調べ物の道具じゃない。日常に転がるすべての言葉を、一つずつ拾い上げ、定義し、意味を考え、並べる。そんな地道すぎる仕事に、何年も、何十年もかける人たちがいる。
編集部のメンバーもクセが強い。言語オタク、理屈っぽい上司、ガサツな先輩、ベテラン校閲者……それぞれ違うけれど、みんな「ことば」を大事にしている。地味だけど本気。無名だけど情熱は火山級。
で、これがただの職場ドラマかと言えば、それだけじゃない。
馬締は、下宿先で出会った香具矢さんに惹かれていく。恋愛慣れゼロの男が、どう想いを伝えるか? ――もちろん、手紙だ。しかも辞書編集者らしく、選んだ言葉は一つひとつが精密機械レベル。泣けるほど、誠実だった。
この物語がすごいのは、辞書という超地味なテーマに、これでもかと熱を込めてくるところだ。
「誰かの役に立ちたい」と、声高に言わない。でも、目の前の一語に全力で向き合う。10年かかっても、完成するかもわからなくても。それでもやる。
そういう人たちがいるからこそ、言葉は日々生き続けてるのかもしれない。
読んだあと、本棚の隅にある分厚い辞書が、急に眩しく見えてくる。
こんなに人の手と想いが詰まってたなんて。
「舟を編む」という言葉は、地味だけど力がある。
言葉を選び、届け、つなぐという仕事の重さと美しさ。
遠回りな生き方も悪くないって、そっと背中を押してくれる物語だ。
77.時の大河を渡る旅―― 小松左京 『果てしなき流れの果てに』

無限に砂が流れるという不思議な砂時計が、なぜか中世代の地層から発見された。
理論物理学研究所の野々村は砂時計の見つかった古墳に赴くが、帰還後、次々と変死、行方不明、意識不明となる関係者たち。
それは、時空を超えた壮大な物語の始まりに過ぎなかった――。
とてつもなく壮大なスケールで展開する傑作
理系ロマンの話をしよう。
中生代の地層から、ひとつの砂時計が発見される。恐竜が歩いていたはずの時代に、どう考えても人間がつくった工芸品が、なぜ。
しかもその砂は、止まらない。永遠に落ち続ける。
物理の常識が崩れた瞬間。すべての始まりは、そこだった。
小松左京『果てしなき流れの果てに』は、時間という謎に真っ向から飛び込む、壮大でディープな時間SFだ。現代、過去、未来、そして時間そのものへ。ページが進むたび、世界の輪郭がどんどん塗り替えられていく。
主人公は、理論物理学研究所の研究員・野々村。謎の砂時計の調査をきっかけに、彼の周囲で次々と異変が起こりはじめる。変死、消失、発狂、沈黙。どれもバラバラに見えて、すべてがある〈時間の歪み〉と繋がっていた。
この物語、いわゆる「タイムマシン」ものとは一線を画す。もっと根本的だ。時間とは何か。人間が生きているこの「今」とは、どんな構造の中にあるのか。そんな根源的なテーマが、理論物理と想像力のジェットエンジンでぶっ飛んでいく。
科学だけじゃない。哲学も、歴史も、宗教も、ぜんぶ巻き込んでくる。恐竜時代の地層に残された人為的な物体。それを見つけた人間の意識が、別の時代に飛ぶ。
そしてその先で見えてくるのは、進化、文明、滅び、そして―― 未来ですらない何か。
小松左京は、ただ突飛なネタを書いているわけじゃない。むしろ逆だ。ディテールは恐ろしく緻密。読んでいるうちに「これ、フィクションじゃなくね?」って思うほど、リアルに感じる瞬間がある。
しかし最終的に胸に残るのは、切ない人間の姿だ。どんなに遠くへ行けたとしても、自分の足で立ち、自分の選択で進むしかない。そんな感覚が残る。
この物語は、時間の彼方へ跳ぶための、思考のブースターだ。
地層、砂時計、時間移動。最初は不思議なパズルだけど、読み終わるころには、自分が世界の端っこに立っているような気分になる。
最後にたどり着く流れの果て――そこに広がる風景は、ぜひご自身の目で確かめていただきたい。
本を閉じたあと、きっとあなたもまた、今この一瞬の尊さを抱きしめたくなるはずだ。
なぜなら、私たちもまた、果てしなき時の流れの旅人なのだから。
78.風を纏って駆け抜けた男―― 司馬 遼太郎『竜馬がゆく』
幕末の土佐藩に生まれた坂本龍馬。
弱気で泣き虫、かつ学問も剣術もからっきしダメな彼だったが、江戸で修行を積み、一流の剣士となる。
黒船襲来をきっかけに勤王党に入り、攘夷思想を持つが、思想的乖離が決定的となり、脱藩して自由に活動を始める。
一般的な戦後の竜馬像をつくりあげた、司馬遼太郎氏の歴史小説
時は幕末。藩という枠に人のすべてが詰め込まれていたこの国で、「国そのものを変えよう」と本気で思った奴がいた。
名前は坂本龍馬。
いまでは偉人の代名詞みたいになってるけど、最初からスゴかったわけじゃない。むしろ正反対。泣き虫、ヘタレ、鈍くさい。そんな少年が、江戸に出て剣を学び、時代の鼓動に触れ、どんどん坂本龍馬になっていく。
司馬遼太郎『竜馬がゆく』は、そんな「成長」では収まらない、とてつもなくでっかい話だ。
だって、舞台は「国そのものの形が変わる」瞬間。身分制度が崩れ、刀が役目を終え、西洋の波がガンガン押し寄せるなかで、誰よりも早くそれに気づいた男がいた。
彼は自由を愛した。思想を掲げることよりも、現実を動かすことを選んだ。薩摩と長州を繋げ、大政奉還を夢見た。戦をしないで国を変える。それを実行しようとした。
「今がつまらないなら、自分の手で変えてしまえばいい」
この本に詰まってるのは、そんな無茶で、でも本気なエネルギーだ。
登場人物もとにかく魅力的。武市半平太、勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎……そのすべてとぶつかり、語り、駆け抜けていく龍馬の姿が、やたら熱い。そしてユーモアがある。まっすぐで、情に厚くて、でもちゃっかりしてて、無鉄砲で。そういう人間くささが、時代を超えて胸に刺さる。
司馬遼太郎の筆は、史実に寄り添いながらも、あくまで「ひとりの男の魂」を描き切る。教科書で名前を見たことのあるあの人が、ちゃんと呼吸して、笑って、怒って、夢を語る。その描写がとにかくうまい。
何巻読んでも熱が下がらない。
ここには、ひとつの答えがある。
――どうせ生きるなら、風の中をまっすぐに。
時代がどうであれ、自分の足で立って、自分の言葉で誰かを動かせる人間になりたい。そう思わせてくれる物語だ。
この国を、未来を、そして自分の生き方を、もう一度見つめ直したくなったとき。
坂本龍馬という風に出会いに、『竜馬がゆく』をぜひ手に取ってみてほしい。
そのとき、あなたの胸にもまた、新しい風が吹くかもしれない。
79.人は、裁かれるべきなのか―― アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』
イギリスの「兵隊島」に招待される、8人の男女。
しかし、2人の召使いはいたものの、招待主の夫妻は姿を表さず、送られた招待状もニセ物だと判明する。
不安のなか始まった晩餐で、告発される彼らの罪。その直後より、1人、また1人と、不審な死を遂げていく。
クローズド・サークル+見立て殺人。ミステリーの古典的原点
ある日突然、招かれた十人の男女。行き先は絶海の孤島「兵隊島」。だが、迎えるはずの招待主は姿を見せず、ただレコードの声が響く。
「あなた方は過去に罪を犯した」。
その瞬間から、彼らの死のカウントダウンが始まった。
童謡に合わせるように、一人、また一人と命を落としていく。殺された理由も、手口も不明。そして誰も信じられない。なにしろ、島には彼ら十人しかいないのだから。
クローズド・サークル。見立て殺人。どこかで聞いたような設定かもしれないが、『そして誰もいなくなった』はその原点にして完成形。それでいて、今読んでもまったく古びていない。むしろ、この閉じた空間と圧倒的な孤立が、現代の読者に刺さる。
おもしろいのは、「誰が犯人か」だけではない。誰がどんな罪を背負ってここへ来たのか、そもそも罰を下す権利は誰にあるのか。精神を追い詰めていく展開が怖い。そして、容赦ない。
とくに秀逸なのは、その結末だ。よくある推理では済まされない、綿密な仕掛け。ラストにすべてを回収してみせる構成は、まさにクリスティにかできない所業だ。何気ない描写がすべて伏線だったことに気づくと、もう一度最初から読み返したくなる。
この作品を通してアガサ・クリスティが描いたのは、密室でもトリックでもなく、「人の心」だ。
秘密、罪、恐怖、そして裁き。逃げ場のない孤島で明かされていくのは、外ではなく内にある地獄なのかもしれない。
ミステリーが好きな人はもちろん、何かに追い詰められた気持ちになったことのある人にも、強く刺さる傑作。
読み終えたあと、誰かと感想を語り合いたくなるはずだ。
ただし、その「誰か」が信じられる存在かどうかは、保証できない。


80.二重の迷宮に誘われて―― アンソニー・ホロヴィッツ『カササギ殺人事件』
イギリスの片田舎にある屋敷で、家政婦の葬儀がしめやかに行われていた。
彼女は、伴のかかった屋敷の階段から落ちて死んでいるところを発見され、不慮の事故死として処理される。
その息子、ロバートは自分が母親を殺したのではと噂されたため、名探偵に捜査を依頼する。
構想から執筆まで15年。二重三重の驚きに満ちたミステリー
これは、まぎれもない推理小説だ。
でも、ページをめくっていくうちに気づくことになる。――この作品は、ただのミステリーじゃない。構造そのものが仕掛けになっている「二重の罠」だ。
物語のはじまりは、クラシカルなイギリスの田舎。階段から転落して命を落とした家政婦。事故か、それとも……? 村に漂う空気は重く、誰もが何かを隠している。登場するのは、名探偵アティカス・ピュントとその助手。ふたりが、村にしみついた過去の澱をかき回しながら、犯人を追っていく。
と、ここまでは「よくある英国ミステリー」の体裁。しかし、物語はそこで終わらない。
ある地点で、視点が切り替わる。今度の舞台は現代のロンドン。登場するのは、編集者スーザン・ライランド。彼女はピュントの事件を書いた作家、アラン・コンウェイの死をきっかけに、別の事件の渦中に巻き込まれていく。
ここで読者は驚かされる。「カササギ殺人事件」は作中作だったのだ、と。だが、それで終わりじゃない。むしろここからが本番だ。
スーザンが読む「物語の中の物語」と、彼女自身が足を踏み入れる「現実の事件」。この二つの世界が、まるで合わせ鏡のように反射し合いながら、ゆっくり真相に向かって交差していく。
ホロヴィッツは、本格ミステリの王道を踏襲しつつ、それを現代的にアップデートしてみせた。伏線の張り方も、人物の造形も、すべてが二重に仕組まれていて、一度読んだだけでは到底回収しきれない。
そして特筆すべきは、「どちらの世界にも、本物の謎がある」という点だ。作中作である『カササギ殺人事件』自体が、単体で完成されたパズルとして成立している。そのうえで、それを取り巻く現実の事件がまた独立して魅力的だ。これはもはや、「二冊分の傑作が一冊に収まっている」と言っても言い過ぎじゃない。
タイトルも含めて、あらゆる部分がミステリーのルールを知り尽くした作者による「遊び」であり、「挑戦」でもある。だけどそれを、決して理屈っぽく見せない。とにかく面白く、最後まで引っぱられてしまう。
読後、思わず最初のページに戻りたくなる。その理由が、ちゃんと用意されているから。
物語の中に仕掛けられた真実に気づいたとき、あなたの中にひとつの声が浮かぶはずだ。
――ああ、やられた、と。


81.十字に架けられた謎―― エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』
ウェストバージニアの片田舎で、T字路にあるT字型の道標に磔にされた、首なし死体が発見される。
迷宮入りするかに見えた事件は、6ヶ月後、T字型のトーテムポールに磔にされた首なし遺体が発見され、大きな展開を迎えていく。
読者への挑戦状を確立した、エラリー・クイーンの最高傑作
冬の風が吹きすさぶ、ウェストバージニアの片隅。雪に閉ざされたT字路の真ん中に、異様な光景が浮かび上がる。
T字型の道標に縛りつけられた人間の遺体。
しかも首がない。
あまりに象徴的で、あまりに不穏なその姿は、ただの殺意とは思えない強い何かを帯びていた。
そのまま迷宮入りかと思われた事件は、半年後に再び姿を変えて現れる。別の州で、今度はT字型のトーテムポールに首なし死体。しかも状況は酷似している。これは偶然ではなく、確かな「意図」の連なりだ。
エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』は、名探偵エラリーがアメリカ各地を巡りながら奇怪な連続殺人に迫る、異色の長編。国名シリーズの中でも飛び抜けた存在感を放つ傑作だ。
あまりに異様なビジュアル、繰り返される磔の構図、そして奇妙な共通点―― ただの残虐さに終わらないのは、そこに論理と整合があるからだ。バラバラな出来事に見えて、すべては緻密に編まれている。それぞれの死に、明確な構図と狙いがある。
そして本作におけるもう一つの軸、それが「挑戦」の構造だ。
エラリー・クイーンはある段階で、物語を止める。
そして、こう宣言する。
「ここまでに、必要な情報はすべて明かされている」
つまりこの物語では、ただ流れに身を委ねているだけでは済まされない。推理小説という形式そのものが、「参加」を促してくるのだ。
この構造は、ゲームであり、決闘であり、ひとつの知的な実験とも言える。
しかも、この作品に詰め込まれている仕掛けの密度は異常だ。ふつうなら一作にひとつ盛れば十分なほどのアイデアが、惜しげもなく連打される。しかもそれらが整然と繋がり、最終的にはピタリと合致していく。無駄はひとつもない。
構成は大胆だが、理屈は極めて精緻。死体の置き方、地名の選び方、人の動線、すべてが布石。だからこそ、読み進めるうちに、いつのまにか物語そのものと格闘しているような感覚が生まれてくる。
そしてすべてが解き明かされたとき、その仕掛けの見事さに息を呑む。これは単なる異常性を描いた犯罪小説ではない。その背後には、きちんと「人間の思考」が通っている。論理と狂気が紙一重で並び立つ構造が、最後に強く浮き彫りになる。
『エジプト十字架の秘密』は、ただのトリック勝負では終わらない。ひとつの殺意に宿る歪んだ美学、偶然と見せかけた必然、そして秩序と崩壊のせめぎ合い。そのすべてが、この一作に凝縮されている。
名探偵が残した挑発に、自分自身の思考で立ち向かう。
エラリー・クイーンの真骨頂がここにある。

82.ドルリー・レーンという悲劇の名優―― エラリー・クイーン『Xの悲劇』
満員列車の中で、ニコチン液に浸した針を凶器とした殺人事件が発生する。
捜査の過程で1人の容疑者が逮捕され裁判にかけられるが、無罪放免となる。
しかし彼も、釈放後に乗り合わせた列車の中で射殺されてしまう。
その左手は、中指と人差し指で「X」の形を作っていた。
魅力的なキャラクター、ドルリー・レーンが活躍する不朽の名作
満員列車のざわめきの中で、一人の命が消えた。騒ぎもなく、気づかれないまま。その手には針。ニコチン液を染み込ませた、目立たない凶器。
ほどなくして、捜査は始まり、容疑者も逮捕された。しかし裁判の結果は無罪。だが、彼は解き放たれた後、再び列車内で命を落とす。倒れた男の左手が描いたのは、交差した二本の指――まるで「X」のようなサインだった。
これが、エラリー・クイーン『Xの悲劇』の始まり。しかし、いつもの名探偵エラリーは登場しない。その代わりに物語の中心に立つのは、引退した元舞台俳優・ドルリー・レーンという人物だ。
レーンは聴覚を失っている。だが読唇術と鋭い観察眼を駆使し、どんな小さな違和感も見逃さない。探偵というより、真実を引き寄せる存在だ。劇場に立っていた頃の勘が、今度は事件という舞台で冴え渡る。
古典的な密室や名探偵の様式をまといながら、この物語はそれだけに留まらない。列車内の殺人、謎めいた符号、そして次第に明かされていく意外な動機。すべてがレーンの前に散りばめられ、繋がっていく。
レーンは探偵でありながら、どこか役者のようでもある。仮面をかぶり、言葉ではなく沈黙の中に真実を読み取る。だからこそ、犯人の仕掛けたXという符号にも、誰よりも深く踏み込むことができる。
そしてこのXが意味するのは単なる記号ではない。罪と罰、判断と赦し、交錯する人の想い――それらすべてを抱え込んだ、ひとつの象徴なのだ。
事件はやがて終幕を迎える。舞台上のすべての謎が明かされる頃、レーンは袖へと身を引く。観客のような私たちは、気づけばその背中を目で追ってしまっている。
『Xの悲劇』は、単なるミステリーではない。そこには、劇のような構成美と、痛みに満ちた人間模様がある。
言葉を失った名優が、再び声を取り戻すかのように挑む、知と感情の推理劇。
本を閉じたあとも、その「X」は、きっと頭から離れない。
83.霧のロンドンに響くヴァイオリン―― コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』
19世紀のロンドンに登場した名探偵、シャーロック・ホームズは、次々と巻き起こる奇怪な事件を見事に解決していく。
その彼の活躍を、忠実なる助手のワトソンが綴る。
世界で一番有名な名探偵、シャーロック・ホームズの活躍を描く、初の短編集
ロンドン、19世紀末。霧が立ちこめる夜、街灯の下でコートの裾をなびかせる人物がいる。
帽子を深くかぶり、パイプをくわえているその男こそ、世界中に知られるあの探偵、シャーロック・ホームズだ。
アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』は、ホームズの事件ファイルとして初めてまとめられた短編集だ。ここから、伝説が本格的に動き始める。
収録作は全部で12編。たとえば『まだらの紐』や『赤毛組合』など、聞いたことがあるタイトルも多いはず。それぞれが、ほどよい長さで構成されていて、テンポよく読めるのも魅力のひとつだ。
物語の形はほぼ共通している。依頼人がベイカー街221Bを訪れ、ホームズに奇妙な話を持ち込む。ホームズが冷静に観察し、分析し、現場へ足を運び、推理でもって事件を解決する。そのそばには、語り手であり相棒でもあるワトソンがついている。
今では定番すぎるこのパターン、じつはこの短編集でひとつの型として完成した。つまり、現代ミステリーの土台を築いた重要作というわけだ。
それにしてもホームズの目はすごい。人の履いている靴の汚れ具合から職業を言い当てたり、タバコの灰から銘柄を特定したり。推理というより、もはや魔法かと思わせる観察力と論理力で、謎を片っ端から解き明かしていく。
そして忘れてならないのが、ワトソンの存在だ。彼がいるからこそ、ホームズの鋭さが際立つ。医師であり、戦地帰りの軍人でありながら、どこか不器用で真面目な男。そんな彼が、時にツッコミを入れつつ、ホームズの暴走(?)をあたたかく見守っていく姿に妙な安心感がある。
推理だけじゃない。人間関係、人生の皮肉、救いようのなさ、皮肉な結末、意外な優しさ。物語の芯には、そうした要素も散りばめられていて、それがまた心に残る。
まさに、原点にして頂点。
ミステリー好きなら避けて通れないし、物語を楽しみたい人にとっても、入り口としてうってつけ。今読んでも、まったく古くない。それどころか、「やっぱりホームズってかっこいいな」と思わせてくれる力を持っている。
221Bのドアをノックする準備はできた?
ホームズとワトソンは、いつだってそこにいて、事件の始まりを待っている。


84.猫と発明家と、夏を探しに―― ロバート・A. ハインライン『夏への扉』
親友マイルズと会社を興した、天才発明家のダン。
しかし、秘書で婚約者のベルと共謀され、会社を追われてしまう。
さらにダンはベルに麻薬を注射され、コールドスリープとなった。
30年後に目覚めた彼は、自分を慕ってくれていた心優しいマイルズの義理の娘を追う。
猫好きによる猫好きのためのSF小説。タイムパラドックスがテーマ
「すべての猫好きに、この本を捧げる」
そう語りかけるようにして始まる本作は、1956年に発表されたにもかかわらず、今なお色褪せることのない傑作だ。
理不尽な目に遭ったとき、すべてをやり直したくなる。そんな気持ちを、誰もが一度は味わったことがあるんじゃないだろうか。
ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』は、その気持ちを抱えたまま未来に放り込まれた男の物語だ。発明家ダンは、信じていた人間に裏切られ、会社も発明も婚約者も奪われ、薬を盛られて冷凍睡眠に突っ込まれる。
30年後、彼は目を覚ます。何もかもが変わってしまった世界で、頼れるのはかつて愛した猫・ピートの記憶と、未来に残された断片的な記録。そして、たったひとり信じられた、少女リッキーの存在だけ。
失ったものは多い。だが、彼はあきらめない。
ダンは過去に戻る方法を探し出し、もう一度、取り返しに行く。すべてを、未来じゃなく、自分自身の手でやり直すために。
この物語には、冷たさがない。時間移動というSF的なギミックはあるけれど、どこまでも人間の感情に寄り添っている。信じていた相手に裏切られた怒り。発明にかけた情熱を踏みにじられた悔しさ。守りたい誰かの未来のために動こうとするやさしさ。そういう感情が、物語の根っこを支えている。
そしてこの本が何よりも特別なのは、猫の存在だ。
ダンの相棒である猫・ピートは、物語のあちこちで彼の心を照らす。ピートは冬が嫌いで、家じゅうのドアを開けさせては、「この先に暖かい季節がある」と信じて歩き回る。タイトルの『夏への扉』は、そんなピートの姿から名づけられた。
裏切られて、失って、それでもまだ前に進みたいと思ったとき。ダンは、あの猫のように信じ続けることを選ぶ。どこかに、まだ開いていないドアがあるはずだと。
誰かにひどい目に遭わされたとき、あるいは、自分で選んだ道が間違っていたと気づいたとき。そんなときにこの物語と出会えば、「それでもまだ、人生はやり直せる」と思えるかもしれない。
過去を変える方法はひとつしかない。
未来を信じて動くこと。
ダンがそうしたように。
ピートが、夏を探してドアを開け続けたように。

85.月の死体と、始まりの物語―― ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』
月面調査隊は、月で人の遺体が発見する。
驚くことに、その遺体は5万年前の人間のものだった。
チャーリーと名付けられたその遺体の構造は、現代人とほぼ変わらないことが判明する。
果たして彼は何者で、どこからきたのだろうか――。科学者たちが、その謎に挑む。
月面で発見された5万年前の遺体の謎に挑む、SFミステリー
月面で、人の死体が見つかった。
しかも、それは5万年前のものだった。
冗談みたいなこの一文が、本当に物語の始まりだとしたら、ワクワクしないだろうか。ジェイムズ・P・ホーガンのデビュー作『星を継ぐもの』は、まさにそんなワクワクを極限まで詰めこんだSFだ。
発見された男はチャーリーと名付けられる。死後何万年という時を越えても、その身体は現代人とそっくりだった。
誰なんだ。どこから来たんだ。なぜ月にいたんだ――。この謎に、科学者たちが全力で挑みはじめる。
ここで描かれるのは、よくある宇宙戦争でも、宇宙人とのドンパチでもない。徹頭徹尾、科学そのものが主役だ。物理学、生物学、言語学、考古学、天文学……ありとあらゆる分野の知識が、チャーリーという問題を解き明かすために集結する。
そこにあるのは、派手なアクションではない。けれど、次々と明かされていく仮説の美しさ、緻密に積み上がっていく論理の強度、それだけで読み進める手が止まらなくなる。読みながら感じるのは、知識が謎を解き明かしていくときの、あの独特の高揚だ。
そして物語が進むにつれ、チャーリーの正体はひとつの星に、そしてある文明へと繋がっていく。それは、知られざる歴史であり、失われた進化の系譜であり、人類という存在の原点に関わる話でもある。
つまりこれは、遠い誰かの話では終わらない。読んでいるうちに、自分自身がこの壮大な物語の一部であるような気がしてくる。
宇宙は広い。けれど、その広さのなかで、かつて誰かが生き、何かを残そうとした証が、今につながっている。そんな実感が、この物語にはある。
タイトルにある「星」は、たんに彼方の世界を指しているんじゃない。それは、知の光であり、人のつながりであり、未来へと手渡される意志のことだ。
ラストまで読めば、この作品が冷たいSFなんかじゃないことがよくわかる。
むしろ、ものすごく優しい。
思わず空を見上げたくなる、そういう話だ。

86.地球の空に天蓋が降りるとき―― アーサー C クラーク『幼年期の終り』
米ソによる宇宙開発競争が激化した20世紀後半、突如として世界の主要都市の上空に巨大な宇宙船が出現する。
地球を自分たちの支配下に置くと宣言した彼らは、特に支配するような素振りは見せず、自分たちの科学力を授けていく。
あらゆる苦悩から開放された人類だったが――。
圧倒的なスケールで語られる、異星人とのファーストコンタクト
ある朝、世界中の空に巨大な宇宙船が現れた。
音もなく、攻撃もせず、ただそこにいる。それだけで、地球の力関係は一変した。
アーサー・C・クラーク『幼年期の終り』は、そんな突拍子もない始まりから、ものすごく遠くまで連れていかれる物語だ。最初は「SFあるある」に思える。宇宙人が来て、地球を支配する。ありがちだ、と。
でも、読み進めていくとわかる。これはまったく別ものだ。
彼ら――〈オーバーロード〉と呼ばれる異星人たちは、人間に文明の終わりを宣言しにきたわけじゃない。むしろ、戦争を止め、貧困をなくし、あらゆる問題をスッと片付けてしまう。地球はあっさりユートピアになる。誰も死なず、反乱も起きない。それは侵略ではなかった。
……じゃあ、これはハッピーエンドの話なのか?
残念ながら、そうとも言い切れない。
なぜなら、気づいたときにはもう、「人間であること」が少しずつ消えていっているからだ。芸術、宗教、文化、家族。人間らしさの根っこにあるものが、緩やかに役目を終えていく。
それでもオーバーロードは焦らせない。見守るだけだ。なぜなら彼らが導こうとしているのは、人間の進化の次の段階だから。
時間が何十年、何百年と進み、物語の視点は個人から人類全体へとスライドしていく。そう、これは「誰かの話」ではなく、「人類そのものの話」になっていく。
終盤、タイトルの意味がハッキリする瞬間がある。「幼年期の終り」とは、種としての人間が、次のフェーズに進むこと。つまり卒業だ。ただ、その先にあるのは、喜びだけじゃない。
見送られる側に残る、喪失感や寂しさ。そして、もう二度と戻れないという確信。それでも、この物語は冷たくない。むしろとても優しく、そっと背中を押してくるような感覚がある。
オーバーロードがなぜあの姿をしていたのか。それを知ったとき、思わず息をのむはずだ。
『幼年期の終り』は、宇宙規模の話をしながら、実は「人間とは何か」に真っ向から向き合っている。
自由とは。進歩とは。希望とは。個と集団、過去と未来。その全部を、わずか300ページちょっとの中で描ききるという離れ業。
ラストの数行を読んだとき、胸の奥で何かが震える。
それが、未来への期待か、取り残される切なさかは、人それぞれ。
でもきっと、この物語を読んだあとでは、人間という存在が、少し違って見えてくるはずだ。
そこには、人類の未来と、あなた自身の「終り」と「始まり」が息をひそめて待っている。
87.人間らしさの定義を、あなたは持っていますか―― フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
第三次世界大戦によって、放射能灰に汚染された地球では、生きた動物を所持していることがステータスとなっていた。
人工の電気羊しか持たないリックは、本物の生きた羊を手に入れるため、逃亡して懸賞金がかかる火星のアンドロイド8人を狙い、決死の狩りを始める。
人間とアンドロイドの違いとは?映画「ブレードランナー」の原作小説
灰がすべてを覆った世界で、ひとりの男が羊を欲しがっていました。
それも、電気ではない、本物の羊を。
――世界大戦後の地球。人類は荒廃した都市に住み、自然は崩壊し、あらゆる生命が貴重品となっていました。生きた動物を所有することが、かつての宝石や自動車のような「社会的ステータス」を象徴していたのです。
その中で暮らす主人公・リック・デッカードは、電気仕掛けの羊しか持たない賞金稼ぎ。彼が追うのは、火星から逃げてきた8体のアンドロイド。人間に紛れ、人間のように振る舞う彼らを「処分」することが、彼の仕事でした。
けれど、その狩りの最中で、彼は何度も、自分の中に浮かび上がるある疑念に向き合うことになります。
「人間とアンドロイドを分けるものは何か?」
それは心か、記憶か、それとも……他者への共感か。
フィリップ・K・ディックが1968年に発表したこの作品は、たんに「アンドロイド狩りの物語」ではありません。むしろ、そうしたジャンルの枠を超えて、「人間性とは何か」を問う、極めて哲学的でメタフィクショナルな小説です。
電気羊を撫でる主人公の孤独は、読む者の胸を締めつけます。そこには、人間であることに対する焦燥と、アンドロイドにすら備わっているかもしれない「心」に対する恐れとが同居しているのです。
本書に登場するアンドロイドたちは、決して典型的な機械ではありません。彼らは涙を流し、愛を口にし、死に怯えさえするのです。そして時に、人間よりも人間らしいと感じさせる存在として、ページの奥から語りかけてきます。
では、人間とは一体何者なのか?
記憶を持ち、共感し、倫理を語る生き物?
それとも、他者を効率よく排除するだけの存在?
ディックは、読者に一方的な答えを押し付けません。むしろ、あらゆる「定義」を疑うことこそが、この作品の読書体験なのです。
タイトルにある「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という言葉もまた、実に象徴的です。
それは、「心があるのか?」と問うのではありません。
「夢を見るのか?」と、より詩的に、内的に、存在の深部を探ろうとするのです。
この作品は、1982年に映画『ブレードランナー』として映像化され、のちにSF映画史に残る金字塔となりました。けれど原作のもつ静けさと哲学性、そして主人公の内面に潜るような「孤独な思索」は、むしろ文学の領域に近いと言えます。
未来を描いているはずなのに、どこかレトロで、どこか無機質なこの世界。読者はやがて、その世界がまるで「心の奥にある、もう一つの現実」であるかのように感じ始めるはずです。
この本を閉じたあと、あなたはきっと、自分のまなざしの奥にある「人間らしさ」というものに手を伸ばしたくなるでしょう。
「共感すること」
「夢を見ること」
「誰かの存在に意味を見出すこと」
それらが、まだあなたの中にあると信じられるなら、あなたはきっと人間なのです。


88.やさしさと知性のあいだで―― ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』
優しい性格の青年チャーリイは知的障害を持っており、賢くなって周囲の友だちと同じになりたいと願っていた。
パン屋で働きながら、知的障害者向けの学習クラスに通うチャーリイ。
担任に勧められて脳手術の臨床試験を受け、驚異的なIQを手に入れるのだが――。
アルジャーノンとチャーリイ。幸せとは何かを考えされられる一冊
チャーリイ・ゴードンの文章は、拙く、まちがいだらけで、読み手に不安を与えるほどです。
けれど、そこにはあたたかく、誠実な光が宿っていました。
誰かを笑わせたい、誰かに褒められたい、ただ「友だちと同じになりたい」という、まっすぐな願いが、綴られた言葉の奥に確かに息づいていたのです。
パン屋で働きながら、知的障害者向けのクラスに通う青年チャーリイ。彼は、世界をもっと理解したいと願い、脳手術という実験的な処置に志願します。
そして手術は成功し、彼のIQは急激に上昇。言葉も、思考も、やがて周囲を凌駕するほどの知性を持つようになります。
しかし、知性の光は、時にあまりにも冷たく鋭く、彼の心を深く裂いていきます。
かつて「友だち」と思っていた人々が、実は彼を笑っていたことに気づいた時。
かつて見えなかった差別や偽善、孤独が、鮮やかに輪郭を持って彼の前に立ちはだかった時。
チャーリイは、知るということが必ずしも「幸福」へと結びつかない現実に、ひとりで向き合っていかねばならなくなるのです。
この物語は、知的能力の飛躍を描いた「SF」でありながら、どこまでも「人間の心」を描いた作品でもあります。チャーリイと同じく手術を受けたハツカネズミ、アルジャーノンの存在が、作品全体をやさしく、けれども深く支えています。
彼がケージの中でどのように走るか。彼が何を失い、何を残していくのか。
読み進めるうちに、チャーリイの文体が変わっていくことに気づくでしょう。
誤字脱字が減り、文法が整い、言葉に深い思索と繊細な分析が含まれてくる。
この変化を目の当たりにすることで、読者は彼の成長に驚き、そして、やがて訪れる転調に胸を締めつけられることになるのです。
「知る」ということは、果たして祝福なのか、それとも呪いなのか。
「賢さ」と「優しさ」は、共存することができるのか。
そして、「幸せ」とは一体、どこにあるものなのか。
物語を通して描かれるチャーリイの姿は、読む者にもまた、自分の中にある答えを探すきっかけをそっと手渡してきます。
この作品が読後に深い余韻を残すのは、登場人物の数奇な運命に心を動かされるからだけではありません。私たち自身の「あり方」に、言葉を超えた鏡を差し出してくるからなのです。
ラストに綴られる、チャーリイからのあるお願い。
その短い一文に、彼のすべてが込められているといっても過言ではありません。
それは、彼の優しさであり、彼の孤独であり、そして彼が人間として生ききった証です。
『アルジャーノンに花束を』は、物語を読んだというよりも、ひとつの魂に触れたような読書体験を与えてくれます。
涙をこらえることができなくても、それは決して悲しみのためだけではないはずです。
この本を手に取ったその瞬間から、世界の色が少しだけ変わり始めます。
優しさとは何か、思いやりとは何か――その想いが、心の中でいつまでも灯り続けてくれることでしょう。
89.地の底にひそむ夢と、科学と、神話のあいだで―― ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』
ドイツ・ハンブルクに住む鉱物学教授のオット―は、骨董店で見つけた古書から、ルーン文字で書かれたメモを発見する。
暗号解読に成功した彼は、甥のアクセルと共に、そこに書かれていた「地底への入り口」を目指し、アイスランドへ旅立つ。
江戸時代に書かれた、未知で危険な地底世界を旅する冒険譚
物語の扉が開かれるのは、ドイツ・ハンブルクのとある書斎です。
鉱物学教授のオットー・リーデンブロックが手にしたのは、年代不詳の古書。
その中から、古代アイスランド語で書かれたルーン文字の暗号が見つかり、すべてはそこから始まります。暗号はやがて、地球の中心へ至る道を示すものとして解読されます。
教授は大興奮。甥のアクセルを巻き込み、ふたりは一路、アイスランドの火山・スネフェルスを目指します。
それは、常識も理屈も超えた、大いなる冒険の始まりでした。
ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』は、地球の表層ではなく、その「内側」を舞台にした稀有なSFです。
本作が発表されたのは1864年。科学がようやく「夢」を描き始めた、そんな時代でした。
本書の醍醐味は、なんといってもその驚くほど豊かな想像力にあります。
火口から降りていく暗い洞窟、無音の地底湖、巨大なきのこの森、先史時代の生物たち――
一歩ごとに目の前の世界が広がり、読者はアクセルとともに、息を呑みながらこの未知の世界に足を踏み入れていきます。
ときには歩くだけの地味な場面が続きます。けれど、それでも胸が高鳴るのは、描写のひとつひとつに「未知のものに触れている」という実感が宿っているからです。
ジュール・ヴェルヌは、科学的な思索を物語に織り込みつつ、あくまでも読者の「好奇心」に従って筆を進めていきます。
オットー教授の暴走ぶり、甥・アクセルの慎重な性格、寡黙なアイスランド人ガイド・ハンスの頼もしさ――登場人物たちのやりとりもまた、単なる冒険を超えた「人間劇」を見せてくれます。
地底世界は、過去の遺物が眠る場所であると同時に、まだ誰も見ぬ未来の夢が隠されている場所でもあります。
恐竜や古代の海、雷鳴のような地響き。
読みながらふと、私たちの足元に広がっているはずの「現実の地球」の底に、本当に何があるのだろうか、と考えずにはいられません。
科学の進歩によって、「地球の中心」に到達することは、現実には難しいとされています。けれど、この物語に描かれる地底世界は、そうした物理的制約を超えた場所、すなわち「想像の奥底」に存在する世界なのかもしれません。
本書を閉じたあとも、地底の静寂と暗がり、そしてそこでうごめく巨大なものたちの気配は、心のどこかに残り続けます。
ヴェルヌが紡いだ物語とは、まるで「地球そのものに宿る夢の断片」を描いた詩のようなのです。
150年以上前に書かれた作品であるにもかかわらず、いまもなお多くの読者を魅了し続けている理由は、ここにあるのではないでしょうか。
現実に疲れたとき、あるいは世界の広さに戸惑ったとき。
この物語を手にとってみてください。
ページを開けば、そこには、いまも変わらず「地底への扉」が待っています。
そしてあなたもまた、アクセルとともに、知られざる地の奥深くへと旅立つことになるでしょう。
90.夜の果てに消えた女と、死刑執行までの祈り―― ウイリアム・アイリッシュ『幻の女』
外に愛する女性を持ち、妻のマーセラに離婚を申し出るスコット。
しかし話し合いを拒否された彼は、家を飛び出した先のバーで”幻の女”と出会い、一時を過ごす。
深夜、家に戻ると妻が絞殺されていた。
その場で逮捕されたスコットは、妻殺しの罪で死刑を宣告されてしまう――。
百人いたら百人が満足する、古典名作ミステリー
死刑執行まで、あと何日――。
その冷たい数字が、章の扉を叩くたびに、読者の心にじわりと死の気配が染みこんでいきます。
物語が刻むのは、時を遡る物語ではなく、未来へと向かってゆっくりと、だが確実に迫る終焉の鼓動です。
ウィリアム・アイリッシュによる『幻の女』は、冤罪という取り返しのつかない不条理と、夜の都市に沈む絶望の光景を、研ぎ澄まされた文体で描ききった、アメリカ・ノワールの金字塔です。
主人公は、平凡な中年男スコット・ヘンダースン。
妻とは冷え切った関係にあり、ついに離婚を切り出すも、突き返され、家を飛び出してしまう。
その夜、バーで出会った「名もなき女」と過ごした時間が、彼の人生にわずかな救いを与えた――はずでした。
だが、帰宅すると、妻は無残にも絞殺されており、スコットは即座に逮捕されます。
「自分にはアリバイがある」と叫ぶスコット。
しかし、その証人である“幻の女”は、どこにもいない。
彼女の姿を見た者は一人もおらず、まるで最初から存在していなかったかのように、空気のように消え去ってしまったのです。
この物語の特異な点は、犯人探しではありません。
真犯人の影は背景の奥深くに潜み、読者が見つめるべきは、スコットを救おうと奔走する人々の「祈りのような執念」なのです。
無実を信じる人間たちが、証人を探し、足跡を追い、もみ消された真実の欠片を拾い集めていく。そこにあるのは、ミステリーの論理的快楽ではなく、むしろ祈りに近い感情――「まだ間に合ってほしい」という、焦がれるような思いなのです。
夜の都市は常に湿っていて、息が詰まりそうなほどに閉ざされている。街の明かりはすべて彼方の出来事を拒絶し、人々の顔には冷たい影が落ちています。
その中で、スコットを救うためだけに動く者たちの心だけが、あたたかく、そして痛々しいほどに人間的です。
この作品が語りかけてくるのは、「事実」ではありません。
事実はときに覆い隠され、消え、作り替えられる。
だが、真実だけは、どんなに深い闇の中でも、かすかに光り続けている。
そう信じる者が一人でもいる限り、物語は終わらない――本作は、そう語っているかのようです。
エラリー・クイーンやクリスティのような論理性に満ちたミステリーとは異なり、『幻の女』はむしろ詩のような、あるいは夢のような余韻を残します。
読後に残るのは解決のすがすがしさではなく、胸の奥をずしりと叩くような感情。その感情こそが、アイリッシュの筆の魔力です。
「百人いたら百人が満足する」と称される理由も、ここにあるのでしょう。
緻密でありながら情緒的、絶望的でありながら美しい。
1940年代という時代にこれほど完成された構成と文体をもつ物語が書かれたことに、ただ驚かされます。
終章で、すべての「数字」が止まるその瞬間。
読者は、あまりの静けさに息を詰めながら、本を閉じるしかないのです。
そしてきっと、ふと夜道の片隅に、あの幻の女の横顔を思い出すことでしょう。

91.地球は消え、ガイドだけが残った―― ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』
ある日、宇宙船団が飛来し、「銀河ハイウェイ建設工事の立ち退き期限が過ぎたので、工事を開始する」と人類へ一方的に通告。
地球を破壊してしまう。生き残った地球人のアーサーは、仲間とともに宇宙を放浪していく――。
ブリティッシュジョーク満載の、振り切れた宇宙SFシリーズ
朝、目を覚ますと家が取り壊されようとしていた――。
その数分後には、地球そのものが宇宙のインフラ計画の一環として爆破されてしまう。
そんなあり得ない出来事が、まるで「ちょっと天気が悪いですね」と言うかのように、淡々と描かれる。
それが、ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイクガイド』の世界です。
この物語は、1978年にラジオドラマとして始まり、翌年には小説として発刊されるや否や、世界中の読者を魅了しました。
その最大の魅力は、徹底してふざけているのに、妙にリアルな「宇宙の不条理」を描き切っているところにあります。
「人生、宇宙、すべての答えは42」
この答えにたどり着くために、超知的存在が設計したコンピューターは、数百万年かけて計算を続けました。しかし、肝心の「問い」が何だったのか、誰も知らない。
一見、荒唐無稽に見えるこの設定こそが、アダムスの本質です。
生きるということには、はっきりとした答えが存在しない。
だからこそ、私たちは笑いとともに、生き延びていくしかない。
その姿勢こそが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』の核であり、美しさでもあります。
物語は、アーサーとフォードを中心に、二つの頭を持つ自称大統領ザフォド・ビーブルブロックス、謎の美女トリリアン、そして憂鬱すぎるロボット・マーヴィンといった、奇天烈なキャラクターたちとともに、銀河の果てまで続いていきます。
宇宙の理不尽に翻弄されながらも、彼らは時に叫び、時に笑い、時に心から諦めながら、それでも旅を続けていきます。
本作は、SFというジャンルを借りながらも、その枠を軽々と飛び越えていく作品です。
そこにあるのは、皮肉とジョークに満ちた「生の哲学」。
意味がないからこそ、私たちは自分なりの意味を与えるのです。
「タオルを忘れるな」
これは本作を象徴する言葉であり、宇宙を旅する者の必需品とされています。
それは道具ではなく、生きる姿勢の表れ。
何も分からなくても、タオルさえあれば、なんとかなる。
それは不条理な世界を生き抜くための、ささやかな希望のしるしです。
地球は消えました。けれど、ガイドがあり、タオルがあれば、旅は続けられます。
不条理を笑い飛ばす勇気と、どこまでも突き抜けた想像力を手に入れたいすべての読者へ。
ダグラス・アダムスのこの宇宙的傑作を、どうか今、あなたの本棚に迎えてみてください。

92.再生と希望の物語―― オグ・マンディーノ『十二番目の天使』
世界第3位のコンピュータソフト会社において、最高経営責任者に就任した主人公。
幸せの絶頂にあった彼だったが、その2週間後、妻子を交通事故で亡くしてしまう。
打ちひしがれ、自殺も考えた彼に、親友はリトルリーグ「十二番目の天使」の監督就任を依頼する。
身構えていても泣いてしまう、生きる勇気をもらえる一冊
人は、何を失えば「生きる意味」を見失うのでしょうか。
世界第3位のソフトウェア企業。その頂点に立った主人公ジョン・ハーディングは、まさに栄光の只中にいました。
愛する妻、可愛い息子。家庭も仕事も、誰もが羨むような人生。けれど、その幸福は、ある日突然、音もなく崩れてしまいます。
交通事故で家族を失ったジョンの心には、大きな空洞が生まれます。
目を覚ましても、もう笑顔はそばにない。食事の意味も、仕事の価値も、すべてが灰色に見える日々。
自ら命を絶とうとさえ思い詰めた彼を、過去の親友が救います。
その親友が差し出したのは、ひとつの誘い――地元のリトルリーグ、「エンジェルズ」の監督を引き受けてほしいというものでした。
少年野球の監督など、かつての自分が関わるはずもなかった場所。しかし、そこで彼はティモシー・ノーブルという少年と出会います。
小柄で運動神経も乏しく、試合で活躍することなど望めそうもないティモシー。それでも彼は、明るく、真っ直ぐに。
そして何よりも誰よりも「努力」することをやめません。
「今日のぼくは、きのうのぼくより少しだけよくなってる」。
その言葉に嘘はなく、どんな失敗にも笑顔を添え、どんな挫折にも立ち上がる勇気を忘れないのです。
ジョンは、次第にこの小さな戦士に心を動かされていきます。少年の眼差しには、未来を信じるまっすぐさが宿っていました。
それは、かつて自分が持っていたはずの輝きであり、家族を失って見失っていた「生きる理由」そのものでした。
本作は、オグ・マンディーノによる再生の物語です。
一人の少年が、一人の大人を救う。
涙なしには読めない、とは、こういう物語にこそふさわしい言葉です。
文章は平易で読みやすく、野球の知識がなくともまったく問題はありません。むしろ、これはスポーツ小説ではなく、「人生に折れそうな人間の魂が、どのように再び立ち上がるか」を描いた、魂のドラマなのです。
「十二番目の天使」というチーム名には、天使のような存在が人の中に必ずいる、というメッセージが込められています。
それは時に友人であり、時に子どもであり、あるいは自分の中の小さな声かもしれません。
苦しみの中にあるときこそ、人はその声に耳を澄ませるべきなのです。
もし、あなたがいま、何かを失いかけているとしたら。
あるいは、自分の人生に意味があるのかと、立ち止まっているとしたら。
この物語は、きっとあなたの背をそっと押してくれることでしょう。
「生きていてよかった」と、もう一度思えるようになるまで。
この本を、そばに置いてください。
93.静かなる時の守り人―― ミヒャエル・エンデ『モモ』
円形劇場の廃墟に住みついた、不思議な少女モモ。
町の人は、粗末な身なりをした彼女に話を聞いてもらうことで、幸せな気持ちになっていた。
しかし、世界中の余分な時間を盗む「灰色の男たち」の出現によって、町中の人は次第に心の余裕を無くしていく。
余裕のない現代社会に対する警鐘。社会人が読むべき一冊
世界の片隅。古びた円形劇場の廃墟に、ひとりの少女が住んでいました。
名前はモモ。年齢も、出自も、持ち物すら定かではありません。
けれど、彼女にはひとつだけ、他の誰にもまねできない特技がありました。
それは「人の話を聞くこと」。
モモの前で話すと、人はなぜか心が軽くなるのです。
誰にもわかってもらえなかったこと。
長年抱えてきた孤独や不安。
とるに足らないと思っていた夢――
そんな言葉たちが、モモの大きな瞳に受けとめられるとき、人は自分の命が尊いものであると、そっと思い出すのです。
町の人々はモモのもとに集い、ただ話すことの喜びを取り戻していきました。けれど、ある日、灰色の服を着た男たちがやってきます。
彼らは言いました。
「あなたの時間は無駄に使われている」と。
貯蓄口座に時間を預けるよう促され、人々はひとつ、またひとつと、余裕や会話、笑いの時間を手放していきます。
忙しさが正義となり、効率が美徳とされ、街は息苦しく、ぎすぎすした場所へと変貌してゆきました。
モモは気づきます。人々が心を失ってゆくその理由に。
そして、ひとりで立ち向かいます。
相手は、見えない「時間」を盗んでゆく灰色の男たち。
武器も力もない少女が、その手で守ろうとするのは、人々のかけがえのない「人生の時間」です。
本書『モモ』は、ドイツの作家ミヒャエル・エンデが1973年に発表した児童文学ですが、その射程は決して子ども向けにとどまりません。
むしろ、現代社会の歯車の中で「忙しさ」に追われる大人たちにこそ、切実に響いてくる物語です。
わたしたちは、日々の生活のなかで「時間がない」とつぶやきます。
けれど、その時間を奪っているのは、果たして何なのでしょう。
スマートフォン、SNS、会議、通勤、スケジュール……
もしかすると私たちも、知らず知らずのうちに灰色の男たちと握手を交わしているのかもしれません。
本書の魅力は、寓話としての深みだけでなく、エンデの筆致に宿る「静けさ」そのものにあります。
どこか懐かしく、ゆっくりと流れる時間のなかで、人が人として生きていくために大切なこと――
「耳を傾けること」「待つこと」「そばにいること」――そういった力を、モモという小さな存在が全身で体現しているのです。
モモは戦いません。ただ、歩き、語りかけ、抱きしめる。彼女の姿は、子どもらしくもあり、大いなる賢者のようでもあります。
そして、読者であるわたしたちもまた、読み終えたあと、ふと時計を見るでしょう。
今ある一分一秒が、どれほど贅沢なものなのかに、改めて気づかされるはずです。
どうか、あなた自身の「時間」に耳を澄ませてください。
そして、大切な人の言葉に、心を寄せてみてください。
モモがそうしたように。
『モモ』は、読むたびに「自分の生き方」そのものを見つめ直すきっかけをくれる物語です。
灰色に染まりかけた日常のなかで、あなたの心に、ひとすじの光を灯してくれるでしょう。
94.物語に愛されし者―― ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
いじめられっ子で居場所もない、少年バスチアン。
ある日、たまたま一冊の本「はてしない物語」と出会う。
彼は、本の中の世界「ファンタージエン」に入り込み、旅を通じて本当の自分を探していく。
日本と関わりが深いエンデ氏による、愛することの尊さを教える本
雨に濡れた通学路。
教室の片隅。
誰にも気づかれず、居場所を探していたあの頃のあなたは、きっとバスチアンだったのかもしれません。
太っていて、運動もできず、友達もいない。
父とは心が通わず、学校ではいじめに遭い、自分の存在が世界からこぼれ落ちてしまったような気がしていた少年。
そんな彼が、逃げ込んだ古本屋で出会ったのが、あの一冊――『はてしない物語』です。
ミヒャエル・エンデが1979年に発表したこの作品は、児童文学に分類されながらも、読む者の年齢や立場によってその顔を変える、まさに“生きている本”です。
バスチアンが読みふけるうちに、その物語の中で起きている出来事が、どこか彼自身に関係しているように感じ始めます。
そして、ページをめくる指先が、次第に物語そのものに引き込まれ、彼はとうとう“本の中”の世界――ファンタージエンへと入り込んでしまうのです。
ファンタージエンは、想像力によって作られ、想像力によって保たれる世界。そこではすべてが自由で、すべてが可能で、夢も恐れも具現化されてゆきます。
この物語が優れているのは、バスチアンが“ヒーローになる旅”を通じて成長するだけでなく、その過程で「願うこと」「信じること」「愛すること」の本当の意味に出会っていくところにあります。
最初は純粋だった願いが、やがて傲慢さに姿を変え、欲望を満たすためだけの魔法になっていく。力を持つことの責任、自己喪失の恐怖、そして何より「他者とつながること」の尊さ。
やがて彼は気づきます――本当の勇気とは、自分を捨てて他者を思うこと。
本当の幸せとは、誰かの心に触れ、共に生きることだということに。
ファンタージエンでの冒険のあと、バスチアンはもう、以前のバスチアンではいられません。
そう、この本を読み終えたあなたが、もう以前の自分ではいられなくなるように。
物語の中の物語。読む者を登場人物に変え、読まれることによって完成する不思議な一冊。
『はてしない物語』は、その名の通り、終わらない旅です。
読み終えてもなお、物語の奥に潜む声が、そっとあなたの心に触れてきます。
「きみは、自分の真の望みを知っているか?」と。
ページの色が赤と緑に分かれているのは、現実世界と物語世界の重なりを示すものであり、現実と幻想の境界が崩れていく感覚を、読者に視覚的に伝えてくれます。
ファンタージエンは想像力で再生され、物語は読まれることで永遠になる――そのことを、エンデは揺るぎなく教えてくれるのです。
今、大人になったあなたへ。
この本は、幼い頃に閉じたままの心の扉を、再び開けてくれる鍵となるかもしれません。
あなたが「忘れていた大切な何か」に出会うために、そして「ほんとうの願い」を知るために、どうか、もう一度ページを開いてみてください。
そこには、あなたの物語が、まだ待っています。

95.少年たちの夏、「それ」との対決―― スティーヴン・キング『IT』
小さな町に暮らす、7人の子どもたち。
それぞれ問題を抱える彼らは、居場所のない子供たちが集まる「ルーザーズ・クラブ」で交流していた。
そこに、奇怪なピエロ、ペニーワイズが現れる。
「IT―それ」と呼ばれた彼は、子どもたちをどん底の恐怖に突き落としていく。
はみだしクラブの少年少女7人が、”それ”に立ち向かう青春小説
あの夏の日差しの中に、今も残っている気がします。
川辺のざわめき、自転車のきしみ、誰にも言えなかった秘密と、確かに存在した友情の手触り。
『IT/イット』は、そのすべてを抱えて、闇の中からそっと手を伸ばしてくる物語です。
物語の舞台は、アメリカの片田舎・デリー。
見た目は穏やかなこの町の地下深くに、“それ”は棲んでいます。
27年ごとに現れては、子どもを喰らう、名もなき怪物。
人の恐怖を喰い、変化し、形を持たず、正体すら掴ませない“IT―それ”。
そして、その“それ”に立ち向かうのが、7人の子どもたち。
居場所のなかった者たち。からかわれ、無視され、親に愛されず、世界の端っこで息を潜めていた子どもたちが、「ルーザーズ・クラブ」として出会います。
彼らは互いの傷を知り、受け入れ合い、そして絆を育んでいきます。
“それ”に立ち向かうのは、ただの怪物退治ではありません。
彼らが直面するのは、自分自身の恐れであり、社会の歪みであり、大人になるという避けられない現実です。
スティーヴン・キングは、この重厚な長編の中で、ホラーの枠を超えて、青春の痛みと美しさを織り込みます。ときに残酷で、凄惨な描写に震えながらも、ページを閉じることができないのは、彼らの歩みが、どこか私たち自身の記憶と重なるからでしょう。
物語は、子ども時代と大人になった彼らの時間が交差するように描かれます。27年後、ふたたび“それ”が現れ、過去を封印していた彼らは、約束を胸にデリーへと戻ります。
そこで待っていたのは、決して忘れることのなかった恐怖と、かつての自分たちとの再会。
彼らの物語は、恐怖に打ち克つ英雄譚ではありません。むしろ、それぞれが背負った孤独や喪失感の中で、それでも友と共に立ち上がろうとする姿が描かれています。
『IT』は、ホラーであると同時に、胸を締めつけるほどの友情の物語です。
たとえ世界が暗闇に覆われても、手をつなげば怖くない――
そう信じさせてくれる力が、この小説にはあります。
読み終えた後、あなたはきっと、誰かの名前を思い出すでしょう。
あの夏、共に過ごした誰か。
あの橋の下、秘密基地、夕暮れの空――
すべてが、“それ”と向き合った日々のように、かけがえのないものだったと、気づかされるのです。

96.さよならは夏の光の中で―― マイクル・コーニイ『ハローサマー、グッドバイ』
夏休暇をすごすため、港町パラークシを訪れた政府高官の息子ドローヴは、少女ブラウンアイズとの再開を果たす。
戦争の影が忍び寄る中で、愛を深めていく2人。
少年にとって忘れることの出来ない、ひと夏の青春を描く。
恋愛を通して少年の成長を描く、SF青春ラブストーリー
少年は夏に出会い、夏に別れます。
それは誰にとっても一度きりの体験であり、記憶のなかでいつまでも色褪せない、心の中の小さな季節。
『ハローサマー、グッドバイ』は、そんなひと夏の光と影を、異星という舞台に託して描いた、珠玉の青春物語です。
舞台は地球ではない、どこか遠い星。しかしそこには、青い海があり、焼けつくような太陽があり、そして心を揺らす感情があります。
主人公は政府高官の息子ドローヴ。社会の中枢に位置し、恵まれた環境に育ちながらも、その世界に違和感を覚えている少年です。
彼は、港町パラークシへと旅に出ます。休暇を過ごすための、ひとときの逃避行。
そこで彼は再び、昨年出会った少女、ブラウンアイズと再会します。名も知らぬまま別れたあの夏の少女が、今、目の前にいる。
物語は、彼と彼女のふたたびの出会いから始まり、少しずつ、丁寧にふたりの時間を紡いでいきます。互いの目に映る景色が、日に日に変わっていく中で、少年は確かに成長していきます。
恋に落ちるということ。
愛するということ。
そして、自分の人生を自らの手で選びとるということ。それらを知るには、ほんのひと夏でも十分すぎるのかもしれません。
ブラウンアイズは、ただの恋の相手ではありません。彼女は、ドローヴの見る世界を変える鍵となる存在です。
社会の「下」に生きる彼女との交わりは、少年の中に眠っていた反抗心を呼び起こします。
父に決められた将来、戦争という名の強制、支配と被支配の構造――
この作品は、ただの青春物語ではなく、階級や価値観といった社会的テーマをもはらんでいるのです。
そして何より、この物語の最大の魅力は、ラストシーンにあります。
この瞬間のためにすべてがあったと感じさせる、完璧な幕引き。
ページを閉じた後、誰もが思わずタイトルを見つめ返すのです。
「ハローサマー、グッドバイ」――その言葉の意味が、胸に沁み渡ります。
SFでありながら、テクノロジーや未来都市ではなく、「感情」と「選択」に焦点を当てた本作。異星であっても、描かれるのは私たち人間そのものです。
むしろ、遠い星だからこそ、日々の現実に覆い隠されていた“本質”が、より鮮やかに浮かび上がってくるのです。
夏の終わりは、何かが始まる合図でもあります。
ドローヴが見つけたもの。
ブラウンアイズが選んだもの。
それぞれの「さよなら」の意味を、どうかあなたの中で受け止めてください。
ひと夏の物語を読み終えたあと、胸のどこかに残るものは、きっとこの先もあなたの中で呼吸を続けていくはずです。
この作品は、そんな「記憶の光」を抱くための、小さな文学の結晶です。
97.あなたの心にも、ビッグ・ブラザーはいる―― ジョージ・オーウェル 『1984』
1950年代に起きた核戦争を経て、3つの大国に分割された世界。
その1つ、オセアニアは独裁者が支配する全体主義国家であり、市民は常時、党の監視下に置かれていた。
1984年、ある新聞記事を見つけた主人公は、絶対的存在だった党に疑問を覚えていく。
70年経過してもなお、多方面に影響を与え続ける歴史的名作
それは、遠い未来の話だったはずでした。
けれど私たちは、気がつくと、その未来の只中に立たされているのかもしれません。
ジョージ・オーウェルによって1949年に刊行された小説『1984』は、全体主義と情報操作、監視社会の恐怖を描いたディストピア文学の金字塔です。
タイトルに冠された「1984」は、オーウェルにとって、あくまで象徴的な“未来”であり、人間性の喪失と自由の崩壊が、いかにして制度と機構によって正当化されていくかを、恐るべきリアリズムで描き出しました。
舞台は、3つの超大国に分断された世界のひとつ、オセアニア。
そこでは、“党”がすべてを支配しています。
歴史も、言語も、記憶すらも。
人々は無数の監視カメラ――テレスクリーンに見張られ、常に「ビッグ・ブラザーが見ている」という圧力のもとに生きているのです。
物語の主人公・ウィンストン・スミスは、党の下で働く下級官僚です。彼の仕事は、過去の新聞や記録を改ざんし、現在の党の主張に都合よく書き換えること。
「現在」が変われば、「過去」も変えられる。こうして、“党は常に正しい”という神話が支えられていくのです。
しかし、ウィンストンの内奥には、密かに燻る違和感と疑念がありました。
過去を忘れてしまうことへの恐怖。
誰かの言葉に盲従し、自分で考えることを放棄することへの拒絶。
そのわずかな反抗心が、やがて彼を“真実”を求める行動へと駆り立てていきます。
ある日、彼は同じ党員であるジュリアと密かに親密な関係を築きます。ふたりが共有するのは、体制の外にある、ささやかな自由の感覚。
隠れ家で交わす言葉、眼差し、沈黙――それは、人間が人間であるために必要な最後の灯火であり、どこか聖域のように描かれます。
けれど、この物語に「救い」という言葉は似つかわしくありません。ふたりの希望は、しずかに、しかし無慈悲に摘み取られます。
“思考警察”という名の全能なる暴力の前に、個人の思想も愛も無力なのだと、オーウェルは容赦なく語ります。
この作品において、もっとも恐ろしいのは、誰かが自分を監視しているという事実ではなく、いつか自分が自分を監視するようになるという運命の予感です。
言語の抹消、記憶の再定義、思想の取り締まり。オーウェルが描いた「ニュースピーク」や「真理省」などの概念は、もはや比喩ではありません。
それらは、現代の情報社会におけるプロパガンダ、SNSでの言葉狩り、歴史認識の断絶といった現象と呼応しながら、ひそかに私たちの足元を浸食してきています。
『1984年』は、物語として読むことも、警告として受け取ることもできる作品です。
そして何よりも、この本を手に取る者の胸にそっと投げかけてくるのです。
「あなたは、本当に自由ですか?」と。
本書を読み終えた後、目の前に映る世界が、少しだけ違って見えてくるかもしれません。
誰かの目に怯えることなく、真実を語り、愛を選び取ること。
その当たり前が、どれほど脆く、そして尊いものであるかを、改めて感じさせられます。
ビッグ・ブラザーは、あなたを見ている。
それは決して過去のフィクションではなく、いまを生きる私たちへの警告なのです。
98.宇宙の果てで、少女は「答え」にたどり着く―― ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』
16歳の誕生日、両親から小型宇宙船をプレゼントされた少女、コーティー・キャス。
彼女は連邦基地の監視を潜り抜け、両親に内緒で宇宙へと飛び出す。
しかし、冷凍睡眠から目が冷めた彼女の頭の中には、エイリアンが住み着いていた――。
女性SF作家による、泣ける表題作と中編2篇
十六歳の少女が宇宙船を手に入れ、ひとり宇宙へ旅立つ――
それは、どこか夢のようで、きらめきに満ちた冒険譚のはじまりのように見えます。
しかし、物語はその甘やかさを許しません。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア――アリス・B・シェルドンという女性作家が男性名義で世に放ったこの短編集は、冷たいまなざしとともに、人間とは何かを読む者にそっと突きつけてきます。
表題作『たったひとつの冴えたやりかた』は、少女コーティー・キャスが主人公です。家族から贈られた小型宇宙船を駆り、連邦基地の監視をかいくぐって出発する彼女の姿には、無謀さと鮮烈な生命の輝きがあります。
しかしその先に待っていたのは、命を宿すべきではない“他者”との邂逅。冷凍睡眠から覚めたコーティーの脳内には、寄生型生命体イーアが棲みついていたのです。
異種との接触、寄生、そして共存。
やがて、ひとりの少女と、異星の知性体が言葉と感情を交わしながら築いていく関係は、美しく、そして深く哀しい。その結末には、読者が思わず息を呑むような、「選択」が用意されています。
“たったひとつの冴えたやりかた”――
それが何であるかは、ぜひ本書を通して感じ取っていただきたいのですが、そこには、命を燃やすような決意と、自らの存在に対する誇りが込められています。
この作品は、単なるSFではありません。それは、人間であることの尊厳と、存在の意味にまで迫ろうとする文学なのです。
作者であるティプトリーことアリス・B・シェルドンは、元CIA職員であり、心理学者であり、生涯を通して“他者との距離”というテーマを追い求め続けました。彼女の筆致は、シャープでありながら限りなく優しく、読者の心を傷つけ、そして癒します。
本書には、他にも2篇の中編が収められています。いずれも、視点の独自性と感情の深さが際立ち、ティプトリーの作家としての凄みに圧倒される内容です。
特に、女性の視点から描かれる宇宙や社会は、それまでの男性中心のSF世界では見えにくかった“痛み”と“選択”を、鮮烈に浮かび上がらせます。
ティプトリーは、自らの性別を長く伏せ続けてきました。それは、「物語」そのものが読まれるための戦略であり、また彼女自身が感じ続けた社会的偏見への抗議でもあったのでしょう。
そして、1987年。
愛する夫と共に、自らの命も絶ったティプトリー。
その最期には、誰にも見せなかった彼女自身の“たったひとつの冴えたやりかた”があったのかもしれません。
本作を読み終えたとき、あなたの胸には、痛みとともに不思議な温かさが残っているはずです。
生命とは何か。
愛とは何か。
そして、ひとりの少女が命を懸けて見出した「冴えたやりかた」とは、私たち自身の世界にも通じる真実かもしれません。
「答え」は、きっと遠くない。
そう信じたくなる読書体験が、ここにはあります。

99.誰にも触れさせたくない、わたしたちだけの城―― シャーリィ ジャクスン『ずっとお城で暮らしてる』
家族が皆殺しにされた屋敷に住み続ける、生き残りの姉妹。
村人に忌み嫌われた彼女たちは、外界との接点も最小限に止め、静かに暮らしていた。
そこに、従兄であるチャールズが来訪したことをきっかけに、閉ざされた美しい世界が、大きな変化を迎えていく――。
解説で「本の形をした怪物」と評された、おぞましき傑作
世界がひとつの屋敷に収縮していくとき、人はどれだけの夢と狂気をそこに閉じ込めることができるのでしょうか。
シャーリィ・ジャクスンの『ずっとお城で暮らしてる』は、美しくも歪んだ少女の語りによって綴られる恐怖の書です。
かつて、広々とした屋敷には家族が暮らしていました。しかし、ある晩の食卓に毒が盛られ、彼らは死に、残されたのは姉のコンスタンスと妹のメリキャット、そして身体の不自由な叔父ジュリアンだけ。
村人たちは口さがなく噂を囁きます。
「コンスタンスが毒を盛った」と。
その噂に怯え、家の外に出ることをやめた姉と、その姉を守るため、呪術的な思考に囚われた妹。世界の敵はすべて外にいる、わたしたちのこのお城だけが清潔で、無垢で、正しい――。
物語は18歳のメリキャットの一人称で語られますが、その語りには幼さと執着が交錯しており、読者は次第に彼女の世界観に取り込まれていきます。
村人たちの悪意はあまりにも生々しく、石を投げる子供たちや、いやらしい視線を投げる大人たちの姿は、メリキャットの瞳を通して歪み、過剰に恐ろしく映し出されていきます。
そして、物語の均衡が崩れるきっかけとして現れるのが、従兄のチャールズです。
彼の出現によって、姉妹の“閉ざされた楽園”は次第に壊れていきます。
部屋に積もった埃を拭い、金銭に口を出し、屋敷の扉を開け放とうとする男。それは、彼女たちにとっては侵略者であり、世界の終わりを告げる風のような存在でした。
この作品に流れる不穏な空気は、終始変わることがありません。それでも読者は目を離すことができず、頁をめくるたびにじわじわと、屋敷という“密室”の奥深くへ誘われていきます。
ジャクスンの筆は、どこまでも冷たく、正確で、無駄がありません。あらゆる情景が淡々と、しかし確実に狂気を孕みながら描かれていくその文体は、読者に現実と妄想の区別を失わせていきます。
そして気づけば、わたしたちもまた、この城の中に足を踏み入れているのです。
この物語には、明確な殺人や暴力はほとんど登場しません。けれども、それが逆に“本物の怖さ”を引き立てているように思われます。
人が持つ孤独、他者への猜疑心、排除されることへの恐怖、そして愛ゆえに育つ狂気――
そうしたものが、閉ざされた屋敷の空間に凝縮され、少しずつ、しかし確実に読者の心を侵食していきます。
作家の桜庭一樹氏は、解説の中でこの小説を「本の形をした怪物」と評しました。
その言葉は誇張ではありません。
静かに、優しく、ほとんど囁くようにしてあなたの胸を掴み、読後もずっと離してくれないこの怪物。
ラストシーンの、あの凍りついたような美しさと静謐さを、あなたもぜひ、味わってみてください。
たとえ、もう二度と外の世界に戻れなくなってしまったとしても――。
100.燃やされるのは紙の束か、それとも人の魂か―― レイ・ブラッドベリ『華氏451度』
「本」を禁じる世界において、それを焼き払う仕事に就く焚書官、モンターグ。
人々は小型ラジオや大画面テレビを通して、与えられている情報を無条件に受け入れていた。
しかし、ふとしたきっかけで「本」を手にしたモンターグは、自分の仕事に疑問を覚えていく。
記録すること、自分で思考することの大切さを訴えかけるSF作品
この世には、言葉が火よりも危険とされる時代があります。
レイ・ブラッドベリの代表作『華氏451度』は、そんな恐ろしい世界を舞台に描かれた炎のような物語です。
舞台は、本を所持することが違法とされた、ある未来社会。
人々は考えることをやめ、与えられる情報に身を委ね、巨大スクリーンに映る映像のなかで生きています。
感情も、記憶も、考えることさえも、すべて忘れたまま。
そして「ファイアマン」と呼ばれる男たちは、かつての火災を消す存在ではなく、本を“燃やす”者として存在しています。
その中のひとり、主人公のモンターグは、忠実な焚書官として長年働いてきました。疑うことなく、書物を火にくべ、その炎に正義を見出していたのです。
しかし、ある日彼は、隣人である少女クラリスと出会います。
彼女は奇妙でした。「あなた、幸せですか?」と唐突に尋ね、夜空を見上げて微笑むような少女。その無垢な一言は、モンターグの心の奥深くに眠っていた何かをそっと揺り動かします。
そして、もう一つの出会い――本とともに焼かれることを選んだ老女。
燃えゆく炎の中で崩れ落ちる彼女の姿は、モンターグの中の“常識”を、音を立てて崩壊させていきました。
なぜ人は、本を守ろうとするのか。
なぜ本は、ここまで恐れられ、消されなければならないのか。
秘密裏に持ち帰った数冊の書物を手に、モンターグは、はじめて“読む”という行為に向き合います。
書かれていたのは、知識や思想だけではありません。
痛み、悔い、祈り、そして、言葉によって世界を編み直そうとした人類の歴史そのものだったのです。
本作において、“火”は破壊と粛清の象徴であると同時に、再生の兆しでもあります。それはまるで、焼け跡に芽吹く緑のように、失ったものの中から未来を見出す光として描かれていきます。
モンターグの変化は、彼だけの物語ではありません。それは、情報の海に溺れる現代のわたしたち自身の姿を、そっと映し出しています。
便利さに浸るうちに、いつの間にか「考えること」をやめてしまってはいないか?
感情を揺さぶられることなく、ただ流れていくニュースやSNSに、心を明け渡してはいないか?
『華氏451度』が予見したディストピアは、もはや空想の世界ではなく、私たちのすぐ隣にまで迫っているのかもしれません。
“華氏451度”――それは紙が自然に燃えはじめる温度。
けれど、それは同時に、思想が炭となって散りゆく温度でもあります。
この物語に描かれたのは、知識の抹消ではなく、思考する自由への宣戦布告でした。
もしあなたが、疲れた日々のなかで何か大切なものを見失っていると感じたなら。
ぜひこの書を手に取ってください。
ページをめくるたび、あなたのなかで、忘れていた言葉が目を覚ますかもしれません。
そして最後には、火ではなく光としての言葉の力を、静かに実感することになるのです。
おわりに――物語を読むという、かけがえのない旅
面白い小説との出会いは、ちょっとした偶然から始まります。
書店で何気なく手に取った一冊、友人にすすめられた作品、あるいはこうした特集記事がきっかけになることもあるでしょう。
でも、いざ読みはじめてしまえば、ページの向こうには現実とは異なる世界が広がり、気づけば心を掴まれて離れなくなっている。
小説とは、そんな魔法のような体験を私たちに与えてくれるものです。
今回ご紹介した100冊は、どれも「読みやすくて、面白い」。
けれど、それだけでは終わらない物語ばかりです。
笑ったり、泣いたり、震えたり、考え込んだり――本を閉じたあと、ふと自分自身が少しだけ変わっていることに気づくような、そんな小さな“変化”をもたらしてくれるのが、本当に良い小説だと私は信じています。
ジャンルにこだわらず、心を動かす作品だけを選んだこの100選が、あなたにとっての“運命の一冊”と出会うきっかけになりますように。
そして、ページをめくるたびに訪れる未知の世界が、あなたの毎日にそっと寄り添ってくれますように。
本の中には、まだあなたの知らない人生が待っています。