原作小説シャーロック・ホームズシリーズのおすすめの読む順番をご紹介させていただきます。
名探偵シャーロック・ホームズ――その名を知らない人はいないと言っても過言ではないでしょう。ロンドンのベイカー街221Bに暮らし、驚異的な観察眼と論理的思考で数々の難事件を解決するこの探偵は、19世紀末に生まれながら、今なお世界中で愛され続けています。
しかし、いざ読んでみようと思っても、長編と短編が入り混じった膨大なボリュームに、どこから手をつけるべきか迷ってしまう方も多いはずです。初登場作から順番に読むべきなのか、それとも人気作から読むべきなのか? 物語の時系列は? ワトスンとの出会いはどこから始まるのか――。
本記事では、これからホームズ作品を読み始めたい方に向けて、「初めてでも楽しめるおすすめの読む順番」をわかりやすく紹介します。
さて、結論から言いますと、
①『シャーロック・ホームズの冒険』(短編集)
②『シャーロック・ホームズの思い出』(短編集)
③『シャーロック・ホームズの帰還』(短編集)
④『緋色の研究』(長編)
⑤『四つの署名』(長編)
⑥『バスカヴィル家の犬』(長編)
⑦『恐怖の谷』(長編)
⑧『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』(短編集)
⑨『シャーロック・ホームズの事件簿』(短編集)
⑩『シャーロック・ホームズの叡智』(短編集)
という順に読むことをおすすめします。
以下、それぞれの作品のあらすじや魅力などをご紹介していきます。
ご参考にしていただければ幸いです。
1.『シャーロック・ホームズの冒険』
まだホームズを読んだことがない!という方はまずこの短編集から読む事をおすすめします。
名探偵シャーロック・ホームズとジョン・ワトソン医師が、ガス灯揺らめく19世紀末のロンドンを舞台に、次々と持ち込まれる様々な難事件に挑む姿を描いた、シリーズ初の短編集。その内容は多岐にわたり、ボヘミア国王から持ち込まれた国際的な醜聞に関わる繊細な事件、赤毛の男が奇妙な組合に巻き込まれるユーモラスながらも裏に陰謀の潜む事件、そして依頼人の生命を脅かす恐ろしい秘密が隠された「まだらの紐」の謎など、ホームズはその卓越した観察眼と論理的な推理力を駆使して、いかなる複雑な事件の真相をも鮮やかに解明していく。
各短編はそれぞれ独立した物語でありながら、シャーロック・ホームズという比類なき探偵の個性的な人物像と、彼を支えるワトソン医師との揺るぎない友情が、ヴィクトリア朝時代のロンドンの活気ある雰囲気と共に生き生きと描き出されている。
短編ならではの多彩な事件と鮮やかな解決
『シャーロック・ホームズの冒険』は、ホームズシリーズ最初の短編集として、読者に凝縮されたミステリーの面白さを存分に提供します。例えば、「ボヘミアの醜聞」では、ホームズが唯一「あの女性(ひと)」と呼び敬意を払ったとされるアイリーン・アドラーが登場し、彼の計算高い知性だけでなく、人間味あふれる一面が垣間見える点が興味深いです。
また、「赤髪連盟」では、あまりにも奇妙な依頼内容にホームズとワトソンが思わず笑い出してしまう場面もあり、そのユーモラスな導入から一転、巧妙な犯罪計画が明らかになる展開は読者を惹きつけます。「まだらの紐」は、陰惨な雰囲気の中に息詰まるようなサスペンスと、最後に明かされる衝撃的な真相が用意されており、シリーズ屈指の傑作として名高い作品です。
その他、「青い紅玉」ではクリスマスという季節感あふれる中で、盗まれた宝石の行方を追う軽妙な物語が楽しめます。このように、各話がそれぞれ異なる魅力を持つ事件を取り扱っており、読者を飽きさせることがありません。この初期の短編集において、ドイルは既にホームズ物語の基本的な枠組みを完成させており、それが後年の長きにわたる人気に繋がったと考えられます。
そして、この短編集を通じて、シャーロック・ホームズの超人的とも言える観察力と推理力、そしてその活躍を記録し、時に読者の視点に立って疑問を投げかけるワトソン医師という、不滅のコンビネーションが確立されていく様子が見て取れます。ワトソンの記述があるからこそ、ホームズの天才性がより際立ち、また、ワトソンの常識的で誠実な人柄が、ともすれば非人間的にも映りかねないホームズの物語に温かみと安定感をもたらしているのです。
二人の間のウィットに富んだ会話や、事件解決に向けて協力し合う中で育まれる互いへの深い信頼感は、ミステリーの緊張感を適度に和らげると同時に、物語に人間的な深みを与えています。

ホームズが唯一意識した女性アイリーン・アドラーの登場する「ボヘミアの醜聞」をはじめ、赤毛の男に便宜を図る不思議な団体「赤毛組合」の話、アヘン窟から話が始まる「唇のねじれた男」、ダイイングメッセージもの「まだらの紐」など、最初の短編12編を収録。
2.『シャーロック・ホームズの思い出』
名探偵シャーロック・ホームズの初期の事件から、彼の名を不滅のものとした数々の冒険、そして彼のキャリアにおいて最大の敵と目されるジェームズ・モリアーティ教授との運命的な対決に至るまでを、盟友ジョン・H・ワトソンの筆を通して描いた第二短編集。
ホームズが大学在学中に初めて手掛け、彼を探偵の道へと決定的に導いた「グロリア・スコット号」の事件、ホームズの実兄であり、彼自身がその推理力を認めるマイクロフト・ホームズが初登場する「ギリシャ語通訳」、そして、ヨーロッパ全土にその犯罪網を広げるモリアーティ教授との知力の限りを尽くした死闘の果て、ライヘンバッハの滝壺へと姿を消すまでを克明に記した「最後の事件」など、ホームズの探偵としての軌跡における重要な転換点が鮮やかに語られる。
宿命の対決!モリアーティ教授の登場と「最後の事件」
本作『シャーロック・ホームズの思い出』における最大のクライマックスは、疑いなく「最後の事件」で描かれる、シャーロック・ホームズと宿敵ジェームズ・モリアーティ教授との宿命の対決でしょう。モリアーティ教授は、ホームズをして「彼こそが、ロンドンに渦巻く悪事の半数を、そして未解決事件のほぼすべてを操る黒幕だ。天才であるばかりか博学で抽象思考にも長けている」と言わしめたほどの、まさに「犯罪界のナポレオン」と称されるべき知能犯です。
その彼が率いる巨大な犯罪組織を壊滅させるため、ホームズは自らの危険を顧みず、ヨーロッパ大陸を舞台に息詰まる追跡劇を繰り広げます。そして、スイスのライヘンバッハの滝における両者の対峙は、シリーズ全体を通じても屈指の劇的な場面として、多くの読者の記憶に深く刻まれています。
この「最後の事件」は、単に知的なパズルを提供するミステリーとしてだけでなく、ホームズの探偵としての使命感、そして悪に対する断固たる決意を鮮烈に描き出した物語として、非常に高い評価を得ています。モリアーティという強大な敵の存在が、ホームズの物語に一層の深みと緊張感を与えたことは間違いありません。
「最後の事件」の衝撃があまりにも大きいため、やや影が薄れがちですが、本短編集にはホームズの人物像をより深く理解する上で重要なエピソードが他にも収録されています。「グロリア・スコット号」では、ホームズがまだ大学に在籍していた頃に初めて遭遇した事件が描かれ、彼が類稀なる観察力と推理力を自覚し、探偵という職業に自身の天賦の才を見出すに至る原点が明らかにされます。
ドイルが「最後の事件」で一度はホームズの物語に終止符を打とうとしたことはよく知られていますが 、この結末が読者に与えた衝撃の大きさは、まさにホームズとワトソンのコンビがどれほど愛されていたかの証左と言えます。
宿敵モリアーティとの緊迫感あふれる対決を描いた傑作短篇「最後の事件」をはじめ、学生時代のホームズや探偵初期のエピソードなど、さまざまな物語でその魅力を描いた、第二短編集。
3.『シャーロック・ホームズの帰還』
スイス、ライヘンバッハの滝壺にて宿敵モリアーティ教授と共にその姿を消し、世間から死亡したものと思われていた名探偵シャーロック・ホームズが、約三年の空白期間を経て、突如としてロンドンに劇的な帰還を果たす。彼の最も忠実な友人であり記録者でもあるジョン・H・ワトソン医師の前に、巧妙な変装を解いて再び姿を現したホームズは、死を偽装していた間の驚くべき世界各地での冒険譚を語る。
そして、かつての拠点ベーカー街221Bに戻り、再びワトソンを相棒として、次々と舞い込む難事件の捜査に乗り出すのである。帰還後最初の事件となる「空き家の冒険」では、モリアーティ教授一味の残党で最も危険な狙撃手セバスチャン・モラン大佐との息詰まる対決が描かれる。その他、ノーフォーク州の旧家で起こる「踊る人形」の暗号に隠された悲劇や、連続して破壊される石膏像の謎を追う「六つのナポレオン」など、ホームズの推理は以前にも増して冴え渡り、読者を魅了する。
伝説の復活!「空き家の冒険」の衝撃
『シャーロック・ホームズの帰還』における最大の注目点は、何と言っても、死んだはずのホームズがワトソンの前に再び姿を現す「空き家の冒険」でしょう。作者ドイルは、読者からの熱烈な要望に応える形で、巧妙なトリックを用いてホームズを”帰還”させました。古本屋の老人に扮したホームズが、ワトソンの書斎でその正体を明かす場面の劇的な展開は、ワトソンの驚愕と心からの喜び、そして長年の友との再会の感動を鮮やかに描き出しており、シリーズ屈指の名場面として知られています。
このエピソードでは、ホームズが不在の間に暗躍していたモリアーティ教授の右腕、セバスチャン・モラン大佐という新たな強敵との対決も用意されており、復活したホームズの健在ぶりを印象づけるに十分なスリルと興奮を提供します。この「大空白時代」と呼ばれるホームズ不在の期間と彼の帰還は、ドイルにとって物語の新たな可能性を広げるものであり、シリーズの再開を待ち望んでいたファンにとってはまさに福音でした。
本短編集には、ホームズの卓越した知性が遺憾なく発揮される、創意工夫に富んだ事件が数多く収録されています。「踊る人形」では、一見子供のいたずら書きのような可愛らしい人形の絵が、実は恐ろしいメッセージを伝える暗号であり、ホームズはその解読に挑み、悲劇を未然に防ごうと奔走します。暗号解読のプロセスは非常に論理的で、読者もホームズと共に謎解きの興奮を味わうことができるでしょう。
また、「六つのナポレオン」では、次々と破壊される安価なナポレオンの石膏像の謎を追う中で、意外な貴重品と殺人事件が絡み合っていることが判明します。これらの事件は、ホームズの推理の幅広さと、日常に潜む些細な事柄から重大な犯罪の糸口を見つけ出す彼の非凡な才能を改めて示しているのです。帰還後のホームズは、より複雑化する犯罪に対峙し、時には直接的な行動も辞さないなど、その捜査手法の変化にも注目です。
自ら歴史小説家と称していたドイルは『最後の事件』をもってホームズ物語を終了しようとした。しかし読者からの強い要望に応え、巧妙なトリックを用いて、滝壼に転落死したはずのホームズを“帰還”させたのである。
4.『緋色の研究』
アフガニスタンでの従軍中に負傷し、イギリスへ送還された元軍医ジョン・H・ワトソンは、ロンドンでの新たな生活に苦慮していた。そんな折、旧友スタンフォードの紹介により、風変わりで謎めいた男シャーロック・ホームズと出会う。科学的な探求心と特異な知識を持つホームズに興味を抱いたワトソンは、彼とベーカー街221Bの部屋を共同で借りることを決める。共同生活が始まって間もなく、ブリクストン街の空き家でアメリカ人のイーノック・ドレッバーが殺害されるという奇怪な事件が発生する。
被害者に外傷はなく、部屋の壁には血で「RACHE」(ドイツ語で「復讐」の意)という文字が残されていた。スコットランドヤードのグレグスン警部とレストレード警部が捜査に難航する中、ホームズは独自の観察と推理を展開し、ワトソンを伴って事件の真相究明に乗り出す。
名探偵と名記録者の歴史的出会い
本作『緋色の研究』の最大の意義は、何と言っても、文学史上最も有名な探偵コンビ、シャーロック・ホームズとジョン・H・ワトソン医師が初めて出会い、彼らの伝説的なパートナーシップが産声を上げる瞬間を描いている点にあります。傷痍軍人としてロンドンに戻り、目的を見失いかけていたワトソンと、風変わりな化学実験に没頭する卓越した知性の持ち主ホームズ。二人の出会いは偶然のようでありながら、後の展開を思えば必然であったかのようです。
特に、ホームズが初対面のワトソンに対し、彼がアフガニスタン帰りであることなどを瞬時に言い当てる場面は、その驚異的な観察眼と演繹的推理力を読者に鮮烈に印象づけ、これから始まる物語への期待感を高めます。この出会いがなければ、ベーカー街221Bを舞台とした数々の名事件がワトソンの筆によって語り継がれることもなかったでしょう。まさに、ここから全てが始まったのです。
『緋色の研究』は、シャーロック・ホームズというキャラクターの特異性を読者に提示する上でも重要な役割を担っています。作中、ワトソンはホームズの知識の範囲と限界をリストアップする形で整理し、その偏りを明らかにします。それによれば、ホームズは文学、哲学、天文学といった一般的な教養には驚くほど疎い一方で、化学、解剖学、毒物学、イギリスの法律、そして過去の犯罪事例に関する知識は非常に深く、まさに探偵という職業に特化した知識体系を構築していることが示されます。
この極端なまでの専門性と、それ以外の事柄への無関心さというアンバランスさが、ホームズという人物の唯一無二の個性を際立たせ、彼の人間的魅力の一つともなっているのです。彼の捜査手法が科学的アプローチに基づいていることも、この時点で明確に示されており、後の探偵小説に大きな影響を与えました。
……というわけで、これまでの短編集を読んできたならば、もうホームズの虜になっていることでしょう。ここから長編が続きます。これぞ原点。ホームズとワトスンの出会いを描いた、シャーロック・ホームズシリーズ一作目の長編作品でございます。
「え?シリーズ一作目ならこの作品を最初に読んだ方がいいんじゃないの?」と思うかもしれませんが、これには理由があります。なぜ短編集からおすすめしたかというと、ホームズ作品を全く読んだことがない方がいきなり長編を読むのは少し大変かと感じたからです。
第一短編集『シャーロック・ホームズの冒険』は素晴らしい作品ですので、まずは短編集でホームズの楽しさを存分に感じていただき、慣れたら長編を読んでいただいた方が良いでしょう。
文学の知識―皆無、哲学の知識―皆無。毒物に通暁し、古今の犯罪を知悉し、ヴァイオリンを巧みに奏する特異な人物シャーロック・ホームズが初めて世に出た、探偵小説の記念碑的作品。
5.『四つの署名』
ある霧の深い夜、美しくも憂いを秘めた依頼人メアリー・モースタン嬢が、シャーロック・ホームズのもとを訪れる。彼女は、十年前にインドから帰国後、謎の失踪を遂げた父アーサー・モースタン大尉の消息と、六年前から毎年匿名で送られてくる高価な真珠の謎について調査を依頼する。そしてその日、メアリー嬢のもとには差出人不明の手紙が届き、今宵会合の場に来るよう指示されていた。
ホームズとワトソン医師はメアリー嬢に同行し、手紙の指示に従って指定された場所へ向かう。そこで彼らを待っていたのは、故モースタン大尉の同僚であったショルトー少佐の息子、サディアス・ショルトーであった。サディアスは、父の遺言と、インドの秘宝「アグラの財宝」を巡る恐るべき陰謀、そして「四つの署名」と名乗る謎の集団の存在を明らかにする。
しかし、事態は急転し、サディアスの双子の兄バーソロミューが密室で殺害され、財宝は奪われてしまう。ホームズは、鋭敏な嗅覚を持つ犬トビーの助けを借り、テムズ川を舞台にした壮絶な追跡劇の末、事件の真相と財宝の行方に迫っていく。
秘宝を巡る冒険活劇と異国情緒
『四つの署名』は、シャーロック・ホームズの卓越した推理が光るミステリーであると同時に、失われた秘宝「アグラの財宝」を巡るスリリングな冒険活劇の要素を色濃く有しています。物語の背景には、植民地時代のインドにおける陰謀や裏切りが横たわっており、異国情緒豊かな雰囲気が作品全体を包んでいます。
特に、ホームズが捜査犬トビーを駆使して犯人の足跡を追跡する場面や、夜のテムズ川を舞台に繰り広げられる蒸気船による追跡劇は、手に汗握るアクションシーンとして読者を魅了するでしょう。また、アンダマン島原住民であるトンガという特異なキャラクターの登場 も、物語にエキゾチックで不気味な彩りを添えています。これらの要素が融合することで、単なる謎解きに留まらない、エンターテインメント性の高い作品となっているのです。
「君、ありえないことをすべて消去してしまえば、あとに残ったものが、どんなにありそうもないことでも、それが真実なんだ」という、シャーロック・ホームズの最も有名な推理哲学の一つが、本作において明確に語られます。この原則は、彼の捜査方法の核心を示すものであり、後の多くのミステリー作品や探偵キャラクターに影響を与えました。
また、物語の冒頭でホームズが事件のない退屈を紛らわすためにコカインを使用している場面は、彼の複雑な内面や、ヴィクトリア朝時代の薬物に対する認識の一端を垣間見せる描写として衝撃的です。これらの要素は、ホームズという人物を単なる天才探偵としてだけでなく、影を抱えた一人の人間としても描き出しており、作品に深みを与えています。
ある日、ベーカー街を訪れた若く美しい婦人。父がインドの連隊から帰国したまま消息を断って十年になるが、この数年、きまった日に高価な真珠が送られてくるという……。
6.『バスカヴィル家の犬』
イングランド南西部、デヴォン州に広がる荒涼としたダートムアの地に建つ旧家バスカヴィル家には、代々語り継がれる恐ろしい魔犬の伝説があった。それは、バスカヴィル家の当主を祟り殺すという巨大な地獄の猟犬の物語である。その伝説を裏付けるかのように、当主であるチャールズ・バスカヴィル卿が、自邸の庭で謎の死を遂げる。彼の死体のそばには、人間のものではない巨大な犬の足跡が残されていたという。
バスカヴィル家の顧問医であり、チャールズ卿の友人でもあったモーティマー医師は、新たに当主を継ぐことになった若きヘンリー・バスカヴィル卿の身を案じ、ロンドンの名探偵シャーロック・ホームズに事件の調査とヘンリー卿の保護を依頼。ホームズは、まずワトソン医師をヘンリー卿と共にダートムアへ派遣し、現地の状況を報告させる。
ワトソンは、陰鬱な雰囲気に包まれたムーアで、怪しげな隣人たちや次々と起こる不可解な出来事に遭遇しながら、魔犬の伝説とチャールズ卿怪死事件の真相を探っていく。やがて、密かに現地入りしていたホームズの驚くべき推理が、恐怖の伝説の背後に隠された巧妙な人間の企みを白日の下に晒し出すのであった。
ゴシックホラーと本格ミステリーの融合
『バスカヴィル家の犬』は、シャーロック・ホームズシリーズの中でも特にゴシックホラーの色合いが濃く、多くの読書家や批評家からシリーズ屈指の傑作として名高い作品です。物語の舞台となるのは、イングランド南西部のダートムア。荒涼とした湿原、立ちこめる霧、古代の遺跡、そして夜ごと沼地から響くという不気味な犬の遠吠えが、全編にわたり重く神秘的なムードを作り上げています。
バスカヴィル家を代々苦しめてきたとされる「魔犬の伝説」もまた、この作品に特有の恐怖感を与える要素のひとつ。超自然的な存在への畏怖が、読者の不安をかき立てます。しかし、その背後には、人間の冷酷な意志と、科学的知識を駆使したトリックが潜んでおり、ホームズは持ち前の論理と思考によって、それらを一つずつ暴いていきます。この恐怖と論理の融合が、本作の最大の魅力といえるでしょう。
犯人は、魔犬の伝説を巧みに利用し、あたかも超常的な現象であるかのように見せかけながら、計画を進めていきます。その演出が事件を複雑に見せ、登場人物たちのみならず読者さえも巧妙にミスリードしていきます。そして終盤、明かされる犯人の正体と冷酷な動機は、それまで丁寧に張られていた伏線と見事に結びつき、大きな衝撃をもたらすのです。
幻想と現実の境界が曖昧になるなか、ホームズが全貌を科学的かつ論理的に明らかにする展開には、ミステリーとしての醍醐味が詰まっています。伝説と人間の心理が複雑に絡み合う本作は、まさに本格推理とホラー的要素が融合した、完成度の高い名作といえるでしょう。
深夜、銀幕のような濃霧のたちこめた西部イングランドの荒野に、忽然と姿を現わした怪物。らんらんと光る双眼、火を吐く口、全身を青い炎で燃やす伝説にまつわる魔の犬は、名家バスカヴィル家の当主ヘンリ卿を目がけて、矢のように走る――。
7.『恐怖の谷』
イギリス、サセックス州の片田舎に佇む古い館で、その主人ジョン・ダグラスが奇怪な状況下で殺害される。彼の顔面は至近距離から散弾銃で撃ち抜かれ、原形を留めていなかった。現場には、被害者の結婚指輪が抜き取られている、窓が開け放たれているが外部からの侵入の形跡がない、といった不可解な点が多数残されていた。さらに、被害者の胸には奇妙な焼印が押されていた。
シャーロック・ホームズは、スコットランドヤードのマクドナルド警部からの依頼を受け、捜査を開始する。彼は、事件の背後に宿敵ジェームズ・モリアーティ教授の影を感じ取り、警戒を強める。物語は二部構成となっており、後半は一転して、事件の二十数年前のアメリカ、ペンシルベニア州の炭鉱町「恐怖の谷」が舞台となる。
二つの時代の物語が複雑に交錯し、やがてイギリスでの殺人事件の驚くべき真相へと繋がっていく、壮大なスケールのミステリー。
二つの舞台、二つの物語が織りなす重層的ミステリー
本作『恐怖の谷』は、『緋色の研究』と同様に、物語が大きく二部構成になっている点が最大の特徴です。前半にあたる第一部では、イギリスの伝統的なカントリー・ハウスを舞台に、ホームズが密室風の殺人事件に挑みます。ここでは古典的な探偵小説らしい展開が繰り広げられ、論理的な謎解きの醍醐味が味わえます。
ところが後半では、一転して舞台がアメリカへ移ります。19世紀後半のペンシルベニア州、炭鉱地帯の荒れ果てた風景の中、秘密結社「スコウラーズ」による非道な犯罪と、それに立ち向かう一人の男の闘いが描かれます。まるで西部劇やギャング映画のような迫力と緊張感が漂います。
この二つの異なる物語が、終盤で意外な形で結びつき、第一部で起きた殺人事件の真相へとつながっていく。その構成の巧みさこそが、本作の大きな魅力のひとつです。ドイルは、実在の秘密結社モリー・マグワイアズなどに着想を得て、物語に厚みと現実味を加えたのでしょう。
イギリス編の捜査が進む中、ホームズは事件の背後に宿敵ジェームズ・モリアーティ教授の存在を察知します。教授本人が直接登場することは少ないものの、その不気味な影は常に物語に漂い、登場人物にも読者にも緊張感をもたらします。事件が一応の決着を見たあとも、ホームズはダグラス夫妻の身を案じ、モリアーティの魔の手が再び迫ってくるであろうことを警告するのです。
この作品は、時系列的にはモリアーティとの最終対決を描いた「最後の事件」の前に位置づけられるとも考えられ、二人の宿命的な闘いの前哨戦としての意味合いも持つと言えるでしょう。過去の行動からの逃避がいかに困難であるか、そして強力な犯罪組織による報復の執念深さというテーマが、物語全体を貫いています。
ホームズのもとに届いた暗号の手紙。時を同じくして起きた暗号どおりの殺人事件。サセックス州の小村にある古い館の主人が、散弾銃で顔を撃たれたというのだ。
8.『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』
第一次世界大戦勃発前夜の緊迫した国際情勢を背景に、名探偵シャーロック・ホームズが様々な事件に挑む姿を描いた短編集。表題作「最後の挨拶」では、長年の探偵業から引退し、サセックス州の田舎で養蜂を営みながら隠遁生活を送っていたホームズが、イギリス政府からの極秘の依頼を受け、ドイツの諜報網の摘発という国家の命運を左右する重大な任務に、最後の力を振り絞って挑む姿が描かれる。
この作品集には他にも、南米の独裁者がらみの陰惨な事件「ウィステリア荘」、ホームズの兄マイクロフトが登場し、盗まれた潜水艦の設計図の行方を追う「ブルース・パーティントン設計書」、正体不明の下宿人の謎に迫る「赤い輪」、そしてホームズ自身が重病を装い、ワトソンの友情を試すかのような行動をとる「瀕死の探偵」など、バラエティに富んだ7つの短編が収録されている。
戦争前夜の緊迫感とホームズの愛国心
本短編集の白眉は何と言っても表題作「最後の挨拶」でしょう。この物語は、第一次世界大戦がまさに始まろうとする1914年の夏を舞台に、探偵業を引退していたシャーロック・ホームズが、祖国イギリスのために一世一代の諜報活動を行う姿を描いています。アイルランド系アメリカ人の情報提供者アルタモントに扮し、ドイツのスパイ組織に潜入、敵の首領フォン・ボルクを欺いて重要情報を奪取するホームズの活躍は、これまでのロンドンを舞台にした探偵としての活躍とは趣を異にし、彼の強い愛国心と、国家の危機に際して発揮される非凡な能力を鮮やかに示しています。
また、本短編集には、国際的なスパイ事件から、日常に潜む不可解な謎、さらには心理的なサスペンスに富んだ事件まで、実に様々なタイプの物語が収録されており、読者を飽きさせません。例えば、「ブルース・パーティントン設計書」では、ホームズの兄であり、彼以上の知性を持つとされるマイクロフト・ホームズが再び登場し、盗まれた最新鋭潜水艦の設計図の行方を追うという、国家の安全保障に関わる重大事件に兄弟で挑みます。ここでもシャーロックの推理力は健在で、複雑な状況の中から真相を見抜く手腕はさすがです。
また、「瀕死の探偵」では、ホームズ自身が致死性の高い奇病に罹ったと見せかけ、ワトソンを巧みに操って真犯人を罠にかけるという、彼の演技力と策略家としての一面が際立つ異色の作品です。これらの多様な事件は、ドイルが探偵小説というジャンルの様々な可能性を追求し続けていたことを示しています。
シリーズを通して一貫して描かれてきたシャーロック・ホームズとワトソンの間の深い友情は、この後期の短編集においても変わることなく、むしろより円熟味を増して描かれています。特に「瀕死の探偵」では、ホームズの重篤な(と見える)病状を目の当たりにし、心から彼の身を案じ、必死に助けようと奔走するワトソンの姿が感動的に描出されています。そして、表題作「最後の挨拶」のラストシーン、大戦の嵐が吹き荒れる直前、東風が吹くであろう未来を語り合う二人の姿は、長年にわたる彼らのパートナーシップと、これから訪れるであろう困難な時代への静かな決意を象徴しており、読者に深い印象と感慨を残すことでしょう。
引退して田舎に引籠っていたホームズが、ドイツのスパイ逮捕に力を貸す、シリーズ中の異色作「最後の挨拶」。
9.『シャーロック・ホームズの事件簿』
シャーロック・ホームズシリーズの最後を飾るこの短編集は、円熟期を迎えた名探偵ホームズが、長年の相棒であるワトソン医師と共に、あるいは時には自身の視点から事件を語りつつ、奇怪な謎や複雑な人間関係が絡み合う数々の難事件に挑む姿を描いている。「高名な依頼人」では、ある高貴な女性の結婚を阻止すべく、危険な恐喝犯に立ち向かう。サセックス州の田舎で起こる「サセックスの吸血鬼」騒動では、迷信と人間の愛憎が絡み合う事件の真相を暴き出す。
また、「白面の兵士」や「ライオンのたてがみ」といった作品では、従来のワトソンによる記述ではなく、ホームズ自身が事件の語り手を務め、彼の内面や事件に対する独自の考察がより直接的に読者に示される点が特徴的である。他にも、「三人ガリデブ」の奇妙な遺言相続の謎 、「這う男」の老教授の不可解な若返りと奇行など、バラエティに富んだ全12編の事件が収録されている。
円熟期のホームズとワトソンの変わらぬ絆
本短編集『シャーロック・ホームズの事件簿』の最も顕著な特徴の一つは、「白面の兵士」や「ライオンのたてがみ」など、これまで主にワトソン医師の筆を通して語られてきた事件の記録を、シャーロック・ホームズ自身が語り手となって記述している作品が含まれている点です。ホームズ自身の視点から語られる物語は、彼の思考プロセス、推理の組み立て方、そして時には彼の感情の機微までもがよりダイレクトに読者に伝わり、これまでの作品とは異なる新鮮な読書体験を提供します。
ワトソンの温かく人間味あふれる記述とは対照的な、ホームズならではの冷静かつ分析的な語り口は、彼のキャラクターを新たな角度から照らし出し、その知性の深さを改めて印象づけるでしょう。この手法は、ドイルがシリーズの終盤に至ってもなお、物語の形式に新たな試みを加えていたことを示しています。
シャーロック・ホームズシリーズの最終短編集ということもあり、ここに収録された事件に挑むホームズとワトソンの関係性は、長年のパートナーシップを経て円熟の域に達していると言えるでしょう。互いの性格や能力を深く理解し、絶対的な信頼で結ばれた二人の姿は、多くの事件解決の基盤となっています。例えば、「三人ガリデブ」では、捜査中にワトソンが凶弾に倒れるという危機的な状況が発生しますが、その際のホームズの動揺とワトソンへの深い気遣いは、彼の冷静な仮面の下にある熱い友情を強く印象づけます。
また、「高名な依頼人」や「ソア橋」のような事件では、より複雑な人間関係や心理描写が重視されており、ホームズの推理も単なる物的証拠の分析に留まらず、人間の感情の機微を読み解く洞察力が求められます。時代の変化と共に、電話や自動車といった新しい技術が彼らの捜査に影響を与え始める様子が描かれるのも、この時期の作品ならではの興味深い点です。

端正で知的な顔の背後に地獄の残忍性を忍ばせた恐るべき犯罪貴族グルーナー男爵との対決を描く「高名な依頼人」。等身大の精巧な人形を用いて犯人の心理を攪乱させ、みごと、盗まれた王冠ダイヤを取戻す「マザリンの宝石」。
10.『シャーロック・ホームズの叡智』
本書『シャーロック・ホームズの叡智』は、アーサー・コナン・ドイル自身が編纂した作品集ではなく、日本の新潮文庫が、他のシャーロック・ホームズシリーズの短編集を文庫化する際にページ数の都合などで収録しきれなかった作品を、独自に集めて一冊にまとめたもの。そのため、ホームズのキャリアにおける特定の時期を代表するというよりは、様々な時期の珠玉の短編が収められている。
収録作には、ある朝ワトスン医師のもとに親指を無残に切断された水力技師が駆け込んでくる衝撃的な事件「技師の親指」、国家的な価値を持つ緑柱石の宝冠が盗まれ、銀行頭取の息子に盗難の嫌疑がかかる「緑柱石の宝冠」、そしてホームズが過労で倒れ、療養先のライゲートで遭遇する殺人事件「ライゲートの大地主」など、初期から中期にかけて書かれたとされる魅力的な8編の物語が含まれている。
新潮文庫独自編集による珠玉の短編集
『シャーロック・ホームズの叡智』という書名は、原典に存在するものではなく、新潮文庫版の訳者である延原謙氏が独自に命名したものです。この作品集は、新潮文庫がシャーロック・ホームズシリーズを刊行するにあたり、各短編集のページ数の制約などから他の巻に収録しきれなかった短編を、いわば「拾遺集」のような形で一冊にまとめた、日本独自の編集による貴重な一冊と言えます。
したがって、コナン・ドイル自身が特定のテーマや時期で編纂した他の短編集とは異なり、様々な時期の作品が混在していますが、それゆえにホームズの多彩な事件を異なる角度から楽しむことができるでしょう。この編集の背景を知ることは、日本のホームズ受容史の一端に触れることでもあり、作品への理解をより深めることに繋がります。
また、『シャーロック・ホームズの叡智』には、実に多様なタイプの謎が提示されています。親指を失った技師が語る恐ろしい体験と偽札製造団の影がちらつく「技師の親指」。名門大学のラグビーチームのスター選手が試合直前に謎の失踪を遂げる「スリー・クォーターの失踪」。大学内で起きた試験問題盗み見事件の犯人を特定する「三人の学生」。そして、競馬界の闇と古い屋敷の秘密が絡み合う「ショスコム荘」や、引退した絵具屋の妻の失踪事件「隠居絵具屋」。
どのような難事件、奇事件であっても、シャーロック・ホームズは持ち前の鋭い観察眼で些細な手がかりから事件の本質を見抜き、厳密な論理の力で鮮やかに解決へと導きます。その過程は、まさに知的なエンターテインメントの極致と言えるでしょう。
ある朝はやく、ワトスン博士はメイドにたたき起された。急患が来ているという。診察室に入ったワトスンが目にしたのは、片手に血だらけのハンカチをまきつけている若い技師だった。
まとめ
というわけで、私がおすすめるシャーロック・ホームズシリーズの読む順番は
①『シャーロック・ホームズの冒険』(短編集)
②『シャーロック・ホームズの思い出』(短編集)
③『シャーロック・ホームズの帰還』(短編集)
④『緋色の研究』(長編)
⑤『四つの署名』(長編)
⑥『バスカヴィル家の犬』(長編)
⑦『恐怖の谷』(長編)
⑧『シャーロック・ホームズの最後の挨拶』(短編集)
⑨『シャーロック・ホームズの事件簿』(短編集)
⑩『シャーロック・ホームズの叡智』(短編集)
です。
まずは読みやすい「短編集」でホームズシリーズの面白さをたくさん知ってほしい、というのが私の想いです。
ただ「どうしても自分は長編が読みたい」という方は、第一作目の長編『緋色の研究』を最初に読んでも大丈夫です。
ただそれ以降は順番通りに読むことをおすすめします。