小林泰三おすすめ小説15選 – ミステリ、ホラー、SF、全てが最高峰の作家

小林泰三(こばやし やすみ)の小説を一言で説明するのは難しい。ただ、とにかく面白いのは確かだ。
ホラーを読んでいたはずなのに、気づけば本格ミステリの謎を必死で考えている。SFの奇抜なアイデアに驚いていたら、いつの間にか人間とは何なのか、自分とは何なのかというところまで頭を引っ張っていかれる。
しかも、とんでもなくグロテスクな場面の直後にブラックな笑いを放り込んできたりする。このジャンル感覚のめちゃくちゃさが最高なのだ。
そして何より、小林泰三は発想がおかしい。もちろん褒め言葉である。
壊れた人間を玩具のように修理する。人間の身体へ動物の臓器を移植する。脳へ人工物を取り付けて感情を管理する。
さらには、死んだ人間がゾンビになる世界で殺人事件を考える。記憶が十分しか続かない社会を作る。さらにはアリスやピーター・パンまで血まみれの本格ミステリへ連れていく。
普通なら一作だけでも十分すぎるアイデアを、この人は次から次へと出してくる。
しかも強烈な設定を思いついて終わり、という作家でもない。そんな世界だったら何が起こるのかを徹底的に考え、奇想を論理で固め、最後にはこちらが納得するところまで押し切ってしまう。
ありえない話を読んでいるはずなのに、途中からこっちの世界のほうがおかしい気さえしてくる。この感覚を味わえる作家は本当に少ない。
怖い。気持ち悪い。頭を使う。笑える。切ない。そして、とにかく発想がぶっ飛んでいる。
それらが一冊の中で平然と同居してしまうのが、小林泰三という作家である。
代表作の玩具修理者をはじめ、本格ミステリとして楽しいメルヘン殺しシリーズ、ゾンビと論理を組み合わせた奇想ミステリ、記憶や自我をかき回すSF、そして海を見る人のような美しく切ないハードSFまで、本当に振れ幅が広い。
ホラー作家として小林泰三を知った人には、ぜひSFも読んでほしい。SFから入った人にはミステリも読んでほしい。ミステリから入った人には、覚悟を決めてホラーへ進んでほしい。
一つ読むと、たぶん別の一冊も読みたくなる。
今回はそんな小林泰三の作品から、とくにおすすめしたい15作品を選んだ。
ミステリ、ホラー、SF。
その全部でこんなに面白いものを書ける作家がいたのだという驚きを、ぜひ。
・衝撃度:設定、展開、グロテスクさ、結末を含めたインパクト
・独創性:アイデアや世界観がどれだけぶっ飛んでいるか
・論理性:奇抜な設定をどこまで理屈で成立させているか
・技巧性:伏線、仕掛け、構成、見せ方の巧さ
・物語性:純粋に物語としてどれだけ夢中になれるか
1.壊れたのは玩具か、人間か── 『玩具修理者』
何でも直す男が連れていく、悪夢のような世界
小林泰三といえばこれ!と言いたくなるのが、短編集『玩具修理者』である。
表題作に加え、SF仕立ての『酔歩する男』を収録した、まさに名刺代わりの作品集だ。
まずは表題作『玩具修理者』。壊れたものなら何でも直すという謎の男をめぐる物語である。玩具はもちろん、壊れた猫ですら直してしまうらしい。
死んだ猫をどうやって直すのか。その時点ですでに嫌な予感しかしないのだが、主人公が修理屋へ持ち込むものが、さらにえげつない。
真夏のうだるような暑さ、腐臭、歪んでいく視界。ページをめくるほど、まとわりつくような感覚が脳へ入り込んでくる。怪談を読んでいるというより、自分の感覚そのものが少しずつ狂わされていくような怖さがある。
そして、直すという行為が何を意味していたのかが明らかになった瞬間、それまで見えていた景色まで一変する。グロテスクな恐怖の奥には、生と死、人間を人間たらしめているものへの不穏な思索まで潜んでいる。
短い話なのに、この破壊力。小林泰三の代表作として長く語られているのも納得である。
理屈を追うほど怖くなる『酔歩する男』
続く『酔歩する男』は、これまたひと筋縄ではいかない話。タイムリープや多世界解釈をベースにした、理詰めのSF的構造を持ちながら、やっぱり不気味で気味が悪い。ホラーなのか、SFなのか、読みながら脳が焼かれていく感覚がある。
小林泰三は、理屈で脅してくる。論理的に説明されればされるほど、こちらの理解が追いつかなくなって、そのズレが不安と恐怖を生む。言葉の精度が高すぎて、イメージが脳にダイレクトに流れ込んでくるのも、彼の文体の特徴だ。
どちらの作品も、短いページ数にしては記憶への残り方が異常だ。正直、ホラーが苦手な人は夜読まない方がいい。脳裏に焼きつく映像が、何日も離れないので。
でもその怖さが、たまらなく気持ちいい。怖いものを読みたいなら、いや、怖いものを感じたいなら、まずはこの本を手に取るべきだ。
ホラーとSFのはざまにある、小林泰三の異常な才能が、ここには詰まっている。
2.人間と動物のあいだで── 『人獣細工』
自分の身体が、自分のものではなかったら
『人獣細工』は、読んでいてぞわぞわする。グロテスクな描写も容赦がなく、ときには内臓の奥からヒヤッとさせられる。
表題作はその名の通り、人と獣の境目を危うくしていく物語だ。
主人公の夕霞は、臓器移植を繰り返しながら生きてきた少女である。幼い頃から何度も手術を受け、その体には無数の傷跡が刻まれている。
ところがあるとき、彼女は恐ろしい事実を知ってしまう。自分の体内に移植されているのは、人間の臓器ではなくブタの臓器だった。
それを知った夕霞が抱える感情は、怖いとか気持ち悪いとか、そんな単純な言葉では片づけられない。それまで自分自身だと思っていた身体が、別の生き物のパーツによって成り立っていたとしたら。しかも、それを与えた人物が愛する父親だったとしたら。
ここで恐ろしいのが、父親の行為に単純な悪意だけを見出せないところだ。娘を救いたいという愛情と科学への執念が絡み合い、その結果として夕霞の身体は人間と獣の境界へ追いやられていく。
荒唐無稽に思える設定なのに、ほんの少し先の未来なら本当に起こりそうな感触があるのも怖い。医学が進歩し、移植技術が発達した先で、人間はどこまで身体を置き換えられるのか。
肉体の大部分が別の生き物由来になったとき、それでも自分は自分なのか。そんな不安が、生々しいグロテスク描写と一緒に迫ってくる。三篇それぞれが、人間という存在を揺さぶってくる。
三篇それぞれが、人間という存在を揺さぶってくる
収録されている『吸血狩り』『本』も、それぞれ方向の違う異色作だ。
『吸血狩り』では吸血鬼という古典的な題材を扱いながら、生きているとはどういう状態なのかという感覚そのものをぐらつかせてくる。怪物を退治する単純な怪奇譚を期待していると、思いもしなかった方向へ連れていかれる。
そして『本』は、タイトル通り本をめぐる話なのだが、こちらも普通に終わるはずがない。読書という行為そのものがどこか恐ろしく感じられてくるような、短く鋭い一撃が待っている。
『玩具修理者』などと比べると、派手なえげつなさは少し控えめに感じるかもしれない。それでも精神の奥へ入り込んでくる不気味さは健在である。
自分の身体はどこまで自分なのか。親から与えられたものを、どこまで自分として受け入れられるのか。そして人間と動物を隔てているものは何なのか。
そんなことを考えながら読み進めているうちに、いつの間にか自分自身の身体まで少し奇妙に感じられてくる。
胸の奥で鳴っている心臓。その中身まで、本当に自分のものだと言い切れるだろうか。
悠木四季『人獣細工』を読むと、自分の身体って本当に自分のものなんだろうかと急に怖くなる。ブタの臓器という設定だけで終わらせないところが、やっぱり小林泰三なのだ。
3.その思考は誰のもの?── 『脳髄工場』
感情まで制御されたとき、人は同じ人間でいられるのか
『脳髄工場』は、読み進めるほど頭の芯まで侵されていくような短編集だ。
表題作『脳髄工場』に登場するのは、人工脳髄と呼ばれる不穏なテクノロジー。犯罪を防ぐため、人間の脳へ装着して感情を抑制する装置である。
しかもこの世界では、それがすっかり社会へ浸透している。大人になれば誰もが人工脳髄を装着する。それが当然とされる世界なのだ。
そんな社会の中で、主人公の少年と親友は人工脳髄を拒んでいる。
自分の感情くらい、自分で持っていたい。怒りも悲しみも含めて自分自身なのだから、機械に制御されたくない。二人は天然脳髄のまま生きる道を選ぶ。
ところが、親友が人工脳髄の装着を強いられたことで状況は一変する。
姿も声も以前と同じ。記憶だって失われていない。それなのに、目の前にいる親友がもう別人のように思えてしまう。
ここからが本当に怖い。感情を抑えることは、本当に悪いことなのか。怒りや衝動を技術によって消せるなら、社会はもっと安全になるかもしれない。しかし、苦しみも怒りも欲望も削り取られた人間を、以前と同じ人物と呼べるのだろうか。
犯罪を減らすための装置だったはずが、いつの間にか人間そのものを書き換える装置に見えてくる。この感覚が恐ろしい。
小林泰三は派手な怪物を出さなくても、人間の常識をほんの少しずらすだけで世界を悪夢へ変えてしまう。
11篇を読むうちに、自分の頭まで信用できなくなる
本書には表題作を含む11篇を収録。
作品ごとに設定も味わいも異なるが、どこか共通しているのは、人間が当然だと思っているものを危うくしてくるところだ。意識、記憶、感情、自我、そして自分という存在。その輪郭が、物語を読むたび少しずつ怪しくなっていく。
小林泰三というと強烈なグロテスク描写を連想する人も多いだろう。本書では肉体的なえげつなさは比較的控えめで、そのぶん精神へ直接入り込んでくるような不気味さが目立つ。
怖い光景を見せられるというより、自分が信じていた常識を一つずつ壊されていく感じ、とでも言えばいいだろうか。
そして何篇も読んでいるうちに、妙な疑いが頭をもたげてくる。
今考えていることは、本当に自分で考えたことなのか。
自分の価値観だと思っているものも、社会や教育や周囲の人間によって植え付けられたものかもしれない。そこまで考え始めると、人工脳髄という設定が急に遠いSFの話とは思えなくなってくる。
そう考えると、『脳髄工場』という本そのものが一種の人工脳髄みたいで面白い。
ただし、こちらの思考を抑える装置ではなく、頭の中を引っかき回し、自分でも見たくなかった考えまでむき出しにしてしまう人工脳髄なのだ。
4.夢で殺されると、現実でも死ぬ世界── 『アリス殺し』
不思議の国で起きた殺人が、現実の死につながっていく
ふざけた夢の世界で起きた殺人が、現実では本物の死体になる。
夢オチなんて言葉があるけれど、『アリス殺し』に限ってはそんな生ぬるい話では済まない。
小林泰三の『アリス殺し』は、夢の中で人が殺されると、現実でも誰かが死ぬ。そんな物騒すぎる夢と現実の連動を描いた、ファンタジーとホラーと本格ミステリが入り乱れる奇妙な長篇である。
モチーフはもちろん『不思議の国のアリス』。チェシャ猫もいれば帽子屋もいて、会話はちぐはぐ、理屈は屁理屈すれすれ、世界そのものが常識から外れている。ところが、そのふざけた夢の向こう側では、本当に人間が死んでいる。
物語の中心にいるのは、夢の世界でアリスと呼ばれる主人公。
彼女は不条理な裁判や奇妙な住人たちに振り回されながら、次々と起こる殺人事件の謎を追っていく。一方、現実世界でも死体が発見され、警察による捜査が進んでいく。
夢と現実。まるで無関係に思える二つの世界が少しずつ結びつき、ある人物が夢で死ぬたび、現実のどこかでも誰かが命を落としていることが見えてくる。
この対応関係がとにかく気味が悪い。チェシャ猫が意味不明なことを言い、帽子屋たちが妙な理屈をこねているすぐ隣で、殺人だけは洒落にならないほど本気なのだ。童話めいたかわいらしさと、生々しい死の落差が妙な恐怖を生み出している。
しかも話が進むにつれ、夢と現実の境目まで怪しくなってくる。今見ている世界はどちらなのか。夢の人物と現実の人物はどう対応しているのか。
最初は単純に見えていた関係が少しずつ崩れ始め、気づけばこちらまで不思議の国の論理に巻き込まれている。
無茶苦茶に見える世界ほど、推理はきっちりしている
そして『アリス殺し』が面白いのは、この奇抜な設定をきちんとミステリへ落とし込んでいるところだ。
会話はふざけている。世界のルールも滅茶苦茶に見える。それでも殺人には理由があり、伏線が置かれ、終盤ではそれまで見えていた景色が何度もひっくり返される。
不思議の国の住人たちが繰り出す言葉遊びや屁理屈も、単なる笑い話として配置されているわけではない。意味不明に見えたものが別の角度から意味を持ち始める瞬間があり、幻想世界そのものが巨大な推理パズルへ変わっていく。
グロテスクな場面もそれなりに容赦がない。タイトルやアリスという題材から軽い童話パロディを想像していると、思わぬところで痛い目を見る。
かわいらしい衣装を着た登場人物たちが、不条理な会話を続けながら血なまぐさい事件へ突っ込んでいく。このアンバランスさがいいのだ。
一方で、会話中心でテンポよく進むため読みやすい。奇抜な設定を次々放り込みながらも物語の勢いは落ちず、気づけばアリスと一緒になって夢の中を走り回っている。
夢の論理と現実の殺人。童話とグロテスク。屁理屈と本格推理。
普通なら混ざりそうにないものを全部まとめて不思議の国へ放り込み、それでも最後にはきっちりミステリとして着地させてしまう。
こんなアリスなら、穴の底へ落ちてみるのも悪くない。
ただし、帰ってこられる保証はないけれど。
悠木四季チェシャ猫も帽子屋もいるのに、やってることはガチの連続殺人。この童話っぽさと血なまぐささの組み合わせがめちゃくちゃ好きなのだ。
4.車いすの少女が、夢と現実をかき乱す── 『クララ殺し』
クララがいる。現実にも、夢の中にも
『アリス殺し』に続くシリーズ第2弾。
今回の中心人物は、前作でもひょうひょうと登場していた井森である。夢の世界ではトカゲのビル。ちょっと頼りなくて、いつも状況に振り回されているのだが、その愛嬌が妙に癖になる人物だ。
そんな井森が今回迷い込むのは、草原がどこまでも続く、どこか懐かしさを感じさせる異世界。そこにいたのが、車いすに乗った少女クララと、彼女に付き添う老人である。
クララにおじいさん、そして広い草原。どう考えても『アルプスの少女ハイジ』のようだ。
ところが、小林泰三がそんな素直な世界を用意するはずもない。現実世界の井森の前にも、くららという名の車いすの少女が現れる。
彼女は何者かに脅されているらしい。夢の世界にはクララ。現実世界にはくらら。名前も境遇も重なっている二人を前にして、またしても夢と現実が奇妙につながり始める。
前作『アリス殺し』で味わった、どちらが現実なのか分からなくなっていくあの感覚が再びやってくるのだ。
ただし今回は、世界そのものがさらに入り組んでいる。作品を彩る大きなモチーフとなるのがE・T・A・ホフマンだ。『くるみ割り人形とねずみの王様』『砂男』『スキュデリ嬢』など、幻想文学の名作を思わせる人物や設定が次々と顔を出す。
知っていれば思わずニヤリとする場面も多いが、予備知識がなくても物語には入っていける。そもそも井森自身が何が何だか分からないまま歩き回っているのだから、こちらもビルと一緒に首をひねっていればいい。
そして、この頼りない案内役が実に楽しい。とんでもない出来事が起きても井森はどこか呑気で、夢の住人たちとの噛み合わない会話に巻き込まれていく。
その軽妙さのすぐ隣に、死体や血や殺人が平然と置かれている。この落差が相変わらずひどい。もちろん褒め言葉である。
童話の皮をめくれば、そこには本格ミステリが待っている
会話を中心にテンポよく進んでいく読みやすさは前作そのまま。
草原、少女、幻想世界という柔らかな雰囲気の中へ、いつの間にかグロテスクな殺人が入り込み、その裏側でしっかり推理ゲームが始まっている。夢だから何でもあり、で終わらせないところがシリーズの面白いところだ。
どれほど奇妙な世界でも、そこで起きる事件にはルールがある。人物の言動や世界の食い違いにも意味があり、気軽に読み飛ばした部分が後になって別の顔を見せる。
今回も油断していると、後半で気持ちよく足元を払われる。
クララとくらら。井森とビル。夢と現実。ホフマンの幻想世界と殺人事件。
似たものがいくつも重なりながら、その対応関係が少しずつずれていくので、何を基準に考えればいいのか分からなくなってくる。その混乱自体が罠になっているのだから厄介だ。
しかも小林泰三は、童話や幻想文学の雰囲気を借りながら、最後にはきっちり論理で追い詰めてくる。ふわふわした草原を歩いていたつもりが、いつの間にか巨大な推理迷路へ入り込んでいる感覚である。
前作『アリス殺し』が不思議の国を血まみれのミステリへ変えた作品なら、『クララ殺し』はさらに複数の幻想文学を混ぜ込み、夢と現実の境目をもっとややこしくしてきた続編だ。
クララを追えばくららに行き当たり、くららを追えば夢へ戻される。
そうして右往左往しているうちに、いつの間にか井森と一緒になって、出口の見えない草原をさまよっている。
油断は禁物。
この草原は、見た目ほどのどかではない。
6.魔法と死体と、蜥蜴のビル── 『ドロシイ殺し』
オズの国で見つかった、一体の死体
『アリス殺し』『クララ殺し』に続くシリーズ第3弾。
今回も、現実世界ではどこか冴えない井森が、夢の中ではトカゲのビルとなり、奇妙な事件へ巻き込まれていく。
舞台となるのは、果てしなく砂漠が広がる異世界。そこでビルが出会うのが、少女ドロシイ、かかし、ブリキの木こり、臆病なライオンである。
そう、今回のモチーフは『オズの魔法使い』だ。ただし、小林泰三がオズの国をそのまま歩かせてくれるはずがない。
物語の中心となるのは、オズマ女王の宮殿で発見された死体である。魔法が存在し、人間とはまるで違う者たちが暮らしている世界で、いったい誰が、何のために、どうやって殺したのか。
そもそも、おとぎ話のような世界へ死体が転がっている時点で、すでに何かがおかしい。
ドロシイたちのおなじみの顔ぶれが登場し、ぱっと見れば楽しげなファンタジーなのに、その真ん中では容赦なく殺人事件が進行していく。このかわいらしさと血なまぐささの落差が、シリーズらしくて実に嫌な感じである。
もちろん、現実世界でも不可解な出来事が起きる。夢で起きたことと現実で起きたことが少しずつ重なり、どちらの出来事を手掛かりとして考えればいいのか分からなくなっていく。
『アリス殺し』から続く夢と現実の対応関係を利用しながら、今回は『オズの魔法使い』という一つの物語へ焦点を絞っているため、前作より状況を追いやすい。
そのぶん、事件そのものの奇妙さがストレートに目へ飛び込んでくる。
おとぎ話を歩いていたはずが、いつの間にか推理ゲームになる
ドロシイ、かかし、ブリキの木こり、臆病なライオン。
原典を知っていれば、それぞれの人物が登場するだけでも楽しい。ところが小林泰三は、親しみのあるキャラクターたちを遠慮なく自分の世界へ引きずり込み、理不尽さと残酷さをたっぷり混ぜ込んでくる。
ポップな姿をした登場人物が平然と奇妙な理屈を語り、その隣に死が転がっている。
童話と論理。魔法と殺人。かわいらしい登場人物とグロテスクな出来事。相反するものが同じ場所に並ぶことで、『オズの魔法使い』だったはずの世界が少しずつ別物へ変わっていく。
そして、その奇妙な世界を今回もビルがふらふらと歩き回る。英雄的な探偵とはほど遠く、状況が飲み込めないまま右往左往している井森=ビルだからこそ、この異世界が妙に身近に感じられるのも面白いところだ。
さらにシリーズを追ってきた人なら、『玩具修理者』や『酔歩する男』を連想させる部分にも気づくだろう。単独の事件を楽しみながら、これまで描かれてきた世界同士がどこかでつながっているような感触も味わえる。
シリーズ第3作にして、夢の世界について見えてくるものも少しずつ増えてきた。
とはいえ、安心して歩ける場所が増えたわけではない。
黄色いレンガの道の先に待っているのが魔法使いとは限らない。
小林泰三のオズでは、その途中に死体が転がっていてもまったく不思議ではないのだから。
7.無邪気な殺意と、最後の夢の国── 『ティンカー・ベル殺し』
殺人鬼ピーター・パンが探偵になる
メルヘン殺しシリーズ第4作『ティンカー・ベル殺し』。
今回も主人公の井森は、夢の世界でトカゲのビルとなり、どこか壊れたファンタジーの世界へ迷い込む。
舞台は、あのネヴァーランド。子どもたちが永遠に遊び続け、妖精が飛び回り、ピーター・パンが空を駆ける夢の島……と言いたいところだが、小林泰三版のネヴァーランドはそんなに優しくない。
大人と子どもが平然と殺し合い、海賊も妖精も命を奪われる。正義も常識もまともに通用しない。
そして、その中心にいるのがピーター・パンである。本作のピーター・パンは、とにかく怖い。
誰かを殺すことに罪悪感がない。悪意すら薄い。笑いながら敵を殺し、少し経てば何事もなかったように振る舞う。無邪気だからこそ恐ろしい。
しかも、この異様な人物像は小林泰三が勝手にねじ曲げたものというより、原典のピーター・パンが持っていた危うさを思い切り膨らませたものだ。
永遠に子どもであるということは、成長しないということでもある。善悪の感覚さえ大人の基準へ届かないまま、圧倒的な力だけを持っていたらどうなるのか。
その答えが、このピーター・パンなのだ。
そんなネヴァーランドで、ティンカー・ベルが惨殺される。当然、疑いの目はピーター・パンへ向けられる。普段から人を殺しているのだから無理もない。ところが当のピーター・パンは、ビルこと井森とともに犯人捜しへ乗り出してしまう。
犯人を追う側と殺す側の境目までぐちゃぐちゃになり、誰を信用すればいいのか分からなくなる。しかも登場人物は多く、事件が進むたび死者も増えていく。グロテスクな描写にも遠慮がなく、シリーズの中でも血の量は相当なものだ。
童話の世界を借りながら、やっていることはほとんど殺戮劇である。
その横でビルが相変わらず右往左往しているのだから、この異常な温度差がたまらない。
アーヴァタールの正体へ。シリーズ最後の夢
今回、事件を解くうえで重要になるのが双子という存在である。
似ている者。入れ替わる者。同じように見えて、実は違う者。
この要素が物語のあちこちへ配置され、終盤になるにつれて事件の見え方を変えていく。シリーズおなじみの夢と現実の対応関係とも絡み、誰が誰なのかという感覚まで怪しくなってくる。
さらに、本作ではこれまで謎に包まれていたアーヴァタールという異世界についても、大きな答えが示される。
『アリス殺し』から始まり、『クララ殺し』『ドロシイ殺し』と続いてきた夢の世界。その成り立ちに踏み込み、四作を追ってきた人ほどニヤリとできるものが用意されている。
だからこそ、『ティンカー・ベル殺し』は単なる第4弾という感覚より、シリーズ全体の終着点として読むほうがしっくりくる。
そして、ここにはもう一つ避けられない事実がある。
本作は小林泰三の遺作となった。
アーヴァタールの謎が明かされ、シリーズが一つの地点へたどり着いたところで、作者自身の物語も終わってしまった。そう思うと、ネヴァーランドという舞台が妙に胸へ刺さる。
永遠に子どものまま生き続けるピーター・パン。何度でも夢の世界へ迷い込む井森。そして、ページを開けば何度でも始まる物語。
新しいメルヘン殺しを読むことはもうできない。それでも本を開けば、ビルはまたネヴァーランドを歩き始めるし、ピーター・パンは無邪気な顔で誰かを殺し、ティンカー・ベルの死をめぐる謎も再び動き出す。
童話と殺人。論理と夢。子どもの無邪気さと、大人が知ってしまった死。
シリーズの最後に待っていたのは、どこまでも小林泰三らしい、残酷で奇妙で、それでも猛烈に面白い夢の国だった。
8.死と論理が同居する、ゾンビ本格ミステリ── 『わざわざゾンビを殺す人間なんていない。』
死んでもゾンビになる世界なら、殺人事件はいったいどう変わる?
ゾンビが世界を覆っている。
そんな設定から始まる物語なら、人類滅亡寸前のパニックホラーを想像するところだが、『わざわざゾンビを殺す人間なんていない。』は最初から方向が違う。
この世界では、ゾンビがいること自体が日常なのである。人間は死ぬとゾンビになる。ゾンビを家畜として飼う者もいれば、野良ゾンビがその辺を歩いていることもある。人々は悲鳴を上げて逃げ回るどころか、そんな光景を当たり前のものとして受け入れている。この乾いた日常感がまず面白い。
そんな世界で発生するのが、研究者の突然のゾンビ化事件だ。場所は密室。研究者は死亡し、すでにゾンビとなっていた。しかし、明らかに殺されたと判断できる痕跡が見当たらない。
事故なのか。自然死なのか。それとも誰かが殺したのか。
普通のミステリなら死体が発見された時点から殺人事件が始まる。ところが、この世界では人が死ねばゾンビになる。そのルールがあるだけで、死体をめぐる常識が根本から変わってしまう。
この無茶苦茶な状況へ挑むのが、探偵の八つ頭瑠璃である。周囲にはゾンビがうろつき、常識そのものがこちらの世界とは違う。それでも彼女の推理は冷静そのもの。起きた出来事を一つずつ整理し、この世界で成立する論理によって事件を追いつめていく。
ゾンビと本格推理。この組み合わせだけでも楽しいのだが、本作はゾンビを単なる賑やかしとして使わない。
人間は死ねばゾンビになる。だったら死体とは何なのか。死亡時刻はどう考えるのか。殺された人間とゾンビを、どこで区別するのか。
ゾンビが存在する世界だからこそ成立する謎が次々と生まれ、それがそのまま推理の材料になっていく。
ゾンビという設定が、そのままミステリのルールになる
本作の愉快なところは、これほど荒唐無稽な世界なのに、読み進めるうちに妙な説得力が生まれてくるところだ。
ゾンビが歩いていても誰も騒がない。飼育していたゾンビが逃げても、人々の反応はどこか事務的。ゾンビ映画なら大惨事になる出来事さえ、この世界ではちょっとした日常トラブルとして処理される。そのズレがブラックユーモアになっているのもいい。
そして小林泰三らしいのが、そんな奇抜な設定を最後まで論理の道具として使い切るところだ。ゾンビという存在を導入したことで、生と死の境界そのものが変わっている。ならば殺人事件の常識も変わる。その特殊なルールをきっちり積み上げ、普通の世界では成立しないトリックへ結びつけていく。
グロテスクさで押し切るゾンビ小説というより、アイデアの切れ味を楽しむ奇想ミステリという感触が強い。
そしてタイトルの『わざわざゾンビを殺す人間なんていない。』もいい。そりゃそうだ。すでに死んでいるゾンビを、わざわざ殺す理由なんて普通は考えない。
だが、小林泰三がこんなタイトルを付けた時点で、その常識こそ疑ったほうがいい。
ゾンビが日常になった世界で起きる、一風変わった殺人事件。
八つ頭瑠璃と一緒に考えているうちに、こちらまで死体を見る目がおかしくなってくる。
ゾンビを見ても逃げず、まず死亡状況を確認したくなってきたら、もう完全にこの世界の住人である。
悠木四季ゾンビが出てきたら普通は逃げるのに、この本を読んでいると死因を考え始めてしまう。ゾンビものなのに頭を使う方向が完全に本格ミステリなのが好きだ。
9.記憶の喪失は、世界の再構築── 『失われた過去と未来の犯罪』
10分しか記憶できない世界で、人間はどう生きるのか
記憶が10分しかもたない。
その設定だけでも十分に頭がおかしくなりそうなのに、『失われた過去と未来の犯罪』では、人々がそんな世界で普通に生活している。
会話をしていても、少し時間が経てば何を話していたのか分からなくなる。昨日何をしたかも、誰に会ったかも、自力では思い出せない。
そこで人間は、自分の記憶を保存する外部装置へ頼るようになる。つまり、自分が自分であり続けるために、機械の助けが必要なのだ。
この設定がまず抜群に面白い。記憶が短時間で失われるなら、仕事はどうするのか。人間関係はどう築くのか。約束はどう守るのか。
そして、犯罪が起きたらどうなるのか。犯行時刻の記憶が本人にない。目撃者もすぐに見たものを忘れる。昨日の自分が何をしていたのか、自分自身ですら証言できない。
普通のミステリで当たり前に使われている記憶や証言という材料が、最初から信用できない世界なのである。そんな状況でも、人々はそれなりに社会を作り、それなりに暮らしている。
記憶が10分しか続かない者同士の会話は、ときにコントのようで笑ってしまう。だが、その滑稽さのすぐ裏側には、自分の人生を自分で保持できないという怖さが張り付いているのだ。
さっきまで笑っていた場面が、考えれば考えるほど恐ろしくなってくる。このブラックユーモアがとても小林泰三らしい。
記憶と身体が別々になったとき、自分はどちらにいる?
さらに厄介なのが、記憶を外部保存できるだけで終わらないところだ。やがて記憶は、別の身体へ移すことまで可能になっていく。
すると当然、もっと面倒なことが起きる。自分の記憶を持った別人が存在したら、その人間は自分なのか。反対に、自分の身体へ他人の記憶が入った場合、その身体はいったい誰のものになるのか。
身体と記憶が一致していることを前提にしていた人間の感覚が、どんどん壊れていく。ここに犯罪が絡むので、さらにややこしくなっていく。
犯人とは身体を指すのか。それとも、その身体に入っていた記憶を指すのか。記憶が移動できる世界で、アリバイはどう証明するのか。責任を負うべきなのは誰なのか。
現実世界の常識をそのまま持ち込もうとすると、途中で完全に足場を失う。だから面白い。この世界にはこの世界なりのルールがあり、そのルールを飲み込んだ瞬間から、無茶苦茶だった設定が妙な論理を持ち始める。
『失われた過去と未来の犯罪』は、記憶喪失というアイデアを一発ネタで終わらせず、そこから社会、犯罪、人格、自我へと発想を広げていくSFミステリだ。
自分とは身体なのか。記憶なのか。あるいは、その両方がたまたま同じ場所に収まっている状態を、自分と呼んでいるだけなのか。
10分前の自分すら信用できない世界を歩いていると、こちらの記憶まで急に頼りなく思えてくる。
さて、この文章を読み始めたとき、自分が何を考えていたかちゃんと思い出せるだろうか?
悠木四季記憶が10分しかもたないだけでも大変なのに、そこから記憶の移植まで始めるのが小林泰三すぎる。
10.そこは本当に老人ホームなのか── 『未来からの脱出』
老人ホームの日常が、少しずつ脱出ゲームへ変わっていく
気がつけば、森に囲まれた老人ホームにいた。
そんな始まり方からして、何かがおかしい。
小林泰三の『未来からの脱出』は、これまでの作品に見られる強烈なグロテスク描写やホラー色をぐっと抑え、その代わりに、自分が立っている場所そのものを信用できなくなるような不安を味わわせてくるSFミステリである。
主人公のサブロウは、施設での暮らしに大きな不満を抱えているわけでもない。ところが、あるとき気づいてしまう。自分には、ここへ来る以前の記憶がない。その小さな違和感をきっかけに、それまで当たり前だった日常が一気に怪しくなっていく。
なぜ自分はここにいるのか。ここは本当に老人ホームなのか。そして、自分はいったい何者なのか。サブロウが疑い始めると、施設のあちこちから妙なものが見えてくる。
謎めいたメッセージ。協力してくれる仲間。簡単には立ち入れない場所。少しずつ広がっていく行動範囲。このあたりの展開は、まるで脱出ゲームを遊んでいるようで楽しい。
手掛かりを見つけ、それを使って次の場所へ進み、また新しい情報を手に入れる。閉ざされた施設内を少しずつ攻略していく感覚には、RPGのような面白さもある。
しかも主人公たちは老人である。若者のように走り回れるわけでもなく、体力にも限界がある。その条件まで物語の味になっていて、派手なアクションに頼らず、知恵と工夫で前へ進んでいく。
そして場所を知れば知るほど、この老人ホームが普通の施設とは思えなくなってくる。
最初は穏やかに見えていた日常が、一枚ずつ薄皮を剥がされるように別の姿を見せ始めるのだ。
脱出した先に待っているのは、自分自身の過去
もちろん、小林泰三が単純な施設脱出ゲームだけで終わらせるはずもない。サブロウたちが追っているのは、出口だけではなく、自分たちがここにいる理由でもある。
記憶が失われているなら、それを取り戻すことは本当に幸福なのか。忘れているからこそ穏やかに暮らせているのだとしたら、過去を知ることにはどんな意味があるのか。物語が終盤へ向かうにつれ、施設の謎とサブロウ自身の謎が重なっていく。
そこで待っているのは、人の死と、仕掛けられていた真実。前半の軽快な脱出ゲーム感覚から、いつの間にかSF、サスペンス、ミステリが絡み合う展開へ移っている。この運びがうまい。
そして意外なのが、どこか切なさを感じさせるところだ。自分の人生を忘れてしまった人間は、それでも以前と同じ自分なのか。過去を失うことは不幸なのか。それとも、ときには新しい人生を与えてくれるのか。
記憶という題材を扱いながら、『失われた過去と未来の犯罪』とはまた違った方向から、自分という存在を揺さぶってくる。
グロテスクな小林泰三を期待すると少し驚くかもしれない。そのぶん、アイデア、謎解き、サスペンス、そして人物の感情を前面に出した作品になっている。
ハードなホラーが苦手な人にも入りやすく、小林泰三のSFミステリとして最初に選ぶのもいい。
サブロウが探している出口は、老人ホームの外へ出るためだけのものなのか。
扉の向こうへ進んだとき、そこに待っている未来まで、自分が望んだものとは限らない。
悠木四季老人ホームから脱出する話だと思っていたら、途中から自分たちが何者なのかまで分からなくなってくる。グロ控えめでも、やっぱり小林泰三は人の頭をいい感じに混乱させてくる天才なのだ。
11. 小林泰三の優しい顔── 『海を見る人』
物理法則の向こう側に、こんなにも切ない恋と人間の物語が待っている
小林泰三といえば、グロテスクなホラーや悪夢のようなミステリを思い浮かべる人も多いだろう。
ところが『海を見る人』を読むと、こんな繊細なSFまで書くのか、と驚かされる。
本書は全7篇を収録したSF短編集。物理法則、時間、宇宙といったハードSF寄りの題材を扱いながら、その中心に置かれているのは人間の感情である。
もちろん、少々手強い理屈が登場する話もある。理系分野に馴染みがないと、何を説明されているのか途中で首をひねるかもしれない。
それでも、そこで本を閉じるのはもったいない。数式や理論の向こう側に、とても人間くさい物語が待っているからだ。
その代表が表題作『海を見る人』である。描かれるのは、時間の流れ方が大きく異なる場所に生きる男女の物語。片方にとっての一年が、もう片方にとっては百年にもなる。同じ時間を生きることのできない二人にとって、たった一度の出会いさえまったく違う重みを持つことになるわけだ。
設定だけ聞けば、いかにもハードSFらしい。ところが実際に物語を動かしているのは、時間理論そのものよりも、会いたい相手と同じ速度で人生を歩めないという切なさだ。
小林泰三の作品なのに、血まみれの死体も凄惨な怪物も必要ない。時間という絶対に抗えないものだけで、これほど胸を締めつけてくる。
科学的なアイデアと感情がぴたりと重なったとき、表題作の世界が急に広く見えてくる。その瞬間がとてもいい。
七つの物語で味わう、小林泰三のSFの広さ
ほかの収録作も、それぞれ違った方向からSFの面白さを見せてくれる。
知的パズルのような作品もあれば、常識そのものをひっくり返してくる話もあり、思わず笑ってしまうようなコミカルな一篇もある。
共通しているのは、奇抜なアイデアを思いついただけで満足せず、その条件の中で人間がどう生きるのかまで考え抜いているところだ。
世界の法則が変われば、人間の生活も変わる。時間の進み方が違えば、恋愛の形まで変わる。宇宙や物理という途方もなく大きな題材を扱いながら、最後には一人の人間の寂しさや喜びへ戻ってくる。そこが『海を見る人』の面白いところだと思う。
小林泰三は怖い、グロい、という印象から敬遠している人にも薦めやすい。もちろんSFとしての歯応えはあるので、全部が軽々読めるタイプの短編集ではない。それでも、難しい理屈を追いかけた先でふっと感情に触れる瞬間があり、そのたびにこの作家の引き出しの多さを思い知らされる。
『玩具修理者』で人間の身体を壊し、『脳髄工場』で思考を揺さぶった作家が、ここでは時間や宇宙の広がりを使って、人と人が出会うことの不思議を描いている。
同じ小林泰三でも、見えてくる景色はまるで違う。その中でも『海を見る人』という題名はやはり美しい。
途方もない時間と距離を隔てながら、それでも誰かを見つめる。
小林泰三の作品で、こんなふうに海を眺めることになるとは思わなかった。
12.これは夢か、それとも現実か── 『目を擦る女』
もしこの世界が、誰か一人の夢にすぎなかったら
「あなたの生きているこの世界は、私の夢の中なの」
そんなことを本気で言ってくる女に出会ったら、どうするだろう。笑って聞き流すか、それとも少しだけ信じてしまうか。
小林泰三の『目を擦る女』は、そんな現実と妄想の境目を危うくしていく全8篇のSFホラー短編集である。
どの作品にも奇妙な設定と鮮やかな仕掛けが用意されていて、短い話を一つ読むたび、それまで当たり前だった世界の見え方が少しずつ怪しくなっていく。怖い。でも、それ以上に嫌なのは、荒唐無稽なはずの話へ妙な理屈が通っていることだ。
表題作『目を擦る女』に登場するのは、奇妙なことを語る一人の女。この世界は自分が見ている夢であり、自分を起こしてはいけないという。もし彼女が目覚めれば、世界は闇に包まれてしまうらしい。
もちろん、普通に考えればありえない。一人の人間が眠っているから世界が存在しているなんて、まともに信じる理由はどこにもない。ところが物語を追っているうちに、そのありえない話が少しずつ説得力を帯びてくる。
ひょっとして、本当に彼女の言う通りなのでは。
そんな疑いが生まれた時点で、もうこちらの負けである。現実だと思っている世界を証明する方法なんて、意外と少ない。
今見えているものが本物だと、どうやって確かめればいいのか。自分が夢を見ている側なのか、それとも誰かに夢を見られている側なのか。
表題作は、そんな足場の危うさを短い物語の中で一気に突きつけてくる。
八つの物語が、現実の輪郭を少しずつ壊していく
ほかの収録作でも、現実と非現実の境目が何度も揺らされる。
夢。記憶。認識。自分が見ているもの。普段なら疑いもしないものに小さな亀裂を入れ、そこから別の可能性を覗かせてくる。
血や内臓を前面に出した小林泰三作品とは少し趣が違い、本書で強く感じるのは、頭の奥へ入り込んでくるような不安である。
目の前の景色は同じなのに、世界について一つだけ変な事実を教えられた途端、すべてが違って見えてくる。その感覚が気持ち悪く、同時に癖になってしまう。
しかも、小林泰三は奇怪な出来事を理屈抜きの怪異として放り出さない。そんなことが起きるはずがないと思いながら読んでいると、作中の理屈によって少しずつ逃げ道を塞がれていく。そして気づいた頃には、現実よりも作品内の異常なルールのほうを信用し始めてしまうのだ。
全8篇なので、一篇ずつテンポよく読めるのも嬉しい。SF的なアイデアを楽しむ話もあり、ホラー寄りの不気味さを味わう作品もある。短編らしい切れ味を保ちながら、どれも最後に少しだけ世界を見る角度をずらしてくる。
本を閉じても、すぐ普段の感覚へ戻れるとは限らない。
目の前の部屋も、窓の外の景色も、本当にさっきまでと同じなのか。
そして何より気になる。
もし今この瞬間、どこかで誰かが目を擦っていたら。
その人には、どうかもう少し眠っていてほしい。
13.宇宙とグロとエロと小林泰三── 『天体の回転について』
誰も宇宙を見なくなった世界で、ひとり月を目指す
宇宙にロマンを感じる人には、ぜひ読んでほしい。
いや、昔は宇宙が好きだったのに、いつの間にか遠いものになってしまった人にこそ向いているかもしれない。
小林泰三の『天体の回転について』は、科学や宇宙への好奇心を軸にしながら、グロテスクさもエロティックな要素も遠慮なく混ぜ込んだSF短編集である。
理屈っぽい。変態的。ときどき残酷。なのに、その奥には妙にまっすぐな科学への憧れがある。この混ざり方が、いかにも小林泰三だ。
表題作『天体の回転について』の舞台は、科学技術が高度に発達した未来。かつて人類の夢だった軌道エレベーターさえ存在している。ところが人々は、科学そのものへ興味を失ってしまった。
あまりにも便利になりすぎた結果、どうして物が動くのか、なぜ宇宙へ行けるのか、そんなことを考える必要さえなくなっている。
科学が進歩した先で、科学への好奇心が消えてしまう。この皮肉が面白い。
そんな世界で、ひとり月を目指そうとする青年がいる。周囲から見れば時代遅れの夢かもしれない。それでも彼は、誰も見上げなくなった空を見て、まだ月へ行こうとする。その姿には、どこか懐かしい熱がある。
科学とは本来、便利な道具だけを意味するものではなく、知らないものを知りたいという欲望から始まったはずだ。表題作は、その原始的な好奇心を未来世界から逆照射してくる。
そして青年が月で出会うのが、実体を持たない謎めいた少女である。言葉も噛み合わず、何者なのかもよく分からない。それなのに彼女が現れた瞬間、物語はハードSFから少し幻想的な方向へ傾いていく。
月という圧倒的に科学的な場所に、説明しきれない存在がいる。その組み合わせがどこか美しい。
科学の話をしていたはずが、いつの間にかグロと欲望まみれになる
短編集全体を見ると、かなり振れ幅が大きい。宇宙や物理を扱う知的なSFがある一方で、グロテスクな描写もあれば、性的な欲望を前面に出した作品もある。
しかも、そのどれもが単なる刺激物で終わらない。身体が壊れる。欲望が暴走する。常識から外れた状況へ人間が放り込まれる。
そこで小林泰三は、人間が何を欲し、何を恐れ、どこまで理屈を使って自分を正当化するのかを容赦なく掘ってくる。だから気持ち悪い。でも、妙に筋が通っている。
小林作品を読んでいると、とんでもない話なのに、説明を聞いているうちに納得させられてしまうことがある。この本でもその感覚は健在だ。
物理や科学に馴染みがないと、少し手強く感じる部分もある。それでも、全部理解してから楽しめというタイプの本ではない。
分からないところがあっても、まず物語を追える。そのうえで、少しずつ世界のルールが見えてくる。だから理系分野が得意でなくても十分楽しめるのだ。
むしろ、学生時代に天体や物理を暗記科目としてしか覚えていない人ほど、この本のほうが宇宙を面白く感じられるかもしれない。
月。軌道。重力。科学。そんな言葉の向こう側に、人間の欲望や寂しさや好奇心がある。
宇宙を描いているのに、人間臭い。そして人間を描いているのに、ときどき宇宙そのものより気味が悪い。
そんな小林泰三らしいアンバランスさが、『天体の回転について』には詰まっている。
空を見上げることなんて最近なかった、という人にこそ似合う。
次に月を見たとき、ただの丸い光では終わらなくなるかもしれない。
悠木四季宇宙の話を読んでいたはずなのに、いつの間にかグロとエロに巻き込まれている。でも最後にはちゃんと月を見上げたくなる。このごった煮感が小林泰三らしくて好きだ。
14.内臓が語りはじめるとき── 『臓物大展覧会』
心臓も肺も腸も、それぞれの物語を持っている
タイトルからして容赦がない。
『臓物大展覧会』。
本屋でこの文字列を見かけたら、思わず二度見したくなる。しかも小林泰三である。嫌な予感しかしないし、その予感はだいたい正しい。
グロい。痛い。気味が悪い。それなのに、なぜか次の展示物も見たくなってしまう。本書は、ある男が迷い込んだ奇妙な展覧会を軸に、9つの物語を見せていく短編集だ。男はそこで臓物の声に耳を傾け、それぞれの内臓が語る物語を鑑賞していくことになる。
心臓、肺、肝臓、腸。普段なら身体の中に隠され、わざわざ意識することも少ない臓器たちが、ここでは主役になる。そして彼らには、それぞれ語るべき物語がある。欲望があり、恐怖があり、ときには妙なユーモアまである。人間の一部にすぎないはずの臓物が、下手をすると持ち主より人間臭く見えてくるのだから面白い。
もちろんタイトル通り、描写には遠慮がない。肉体は開かれ、血は流れ、身体の内側にあるものが容赦なく姿を現す。それでも、臓物を見せることだけが目的のスプラッターにはならず、奇怪な物語を追いかけていると、その向こう側から人間の欲深さや弱さ、滑稽さが浮かび上がってくる。
身体の中身をさらけ出すことで、人間の内面まで一緒に剥き出しにしてしまう。
臓物を描いているのに、結局もっとも生々しく見えてくるのは人間のほうなのだ。
ページの向こうから、腐臭まで漂ってきそうだ
さらに本書で妙に印象へ刻み込まれるのが、匂いである。
小林泰三は視覚的なグロテスクさだけで攻めてこない。湿った肉、血、腐敗、臓物。そうしたものが発するはずの匂いまで、文章を追っているだけで鼻の奥へ入り込んでくるような感覚がある。
ページに匂いなんて付いていない。分かっている。それでも、ときどき本から少し顔を離したくなる。この嗅覚まで刺激してくるような生々しさも、『臓物大展覧会』らしいところだろう。
しかも9篇それぞれに趣向があり、似たような残酷話を並べただけにもなっていない。ブラックユーモアが顔を出したかと思えば、妙な寓意を感じる物語もある。気味の悪さに笑わされ、笑っていたら次の瞬間には嫌なものを見せられる。その振り回され方が心地いい。
当然、人を選ぶ作品ではある。内臓や身体損壊の描写が苦手なら、気軽に薦められる本でもない。しかし、小林泰三のグロテスクな想像力を思い切り浴びたい人なら、この題名を見た時点でもう半分くらい勝負は決まっている。
臓物が展示され、それぞれがこちらへ向かって自分の物語を語り始める。こんな展覧会、普通なら入口で引き返したい。なのに一度入ってしまうと、次の展示室に何があるのか気になって仕方がなくなる。
今も心臓は脈打ち、肺は膨らみ、腸は動いている。こちらが聞こうとしないだけで、彼らにも何か言いたいことがあるのかもしれない。
読む人を選ぶ。たしかにそうかもしれない。でも、この本にしかない読書体験があるのも事実だ。
内臓に話しかけられるなんて、そうそう経験できない。
気づけば、痛みや臭いに耐えながら、その声に耳をすませてしまっている。
臓器たちは、今日も語りたがっている。
あなたの中にある、あなたよりもあなたを知っている臓物たちが──。
15.空の下に足を向けて── 『天獄と地国』
地面は頭上、足元には宇宙が広がっている
またしても、とんでもない世界を見せつけてくれた。
小林泰三『天獄と地国』は、こちらの常識を物理的な意味でひっくり返してくる。
この世界では、地面が頭の上にあり、足元には空が広がっている。そこから落ちれば、そのまま宇宙空間へ吸い込まれて終わり。奇抜な比喩でも夢の中の出来事でもなく、最初から最後までその法則で世界が成り立っているのだからすごい。
人々は頭上の大地にしがみつくように暮らし、限られた資源を分け合いながら生きている。当然、そんな過酷な環境にもならず者はいて、資源を奪いながら生きる空賊まで存在する。
主人公たちは、その空賊が取りこぼした物資を拾って暮らす落穂拾いだ。華やかな英雄とはほど遠く、毎日を生き延びるだけでも精いっぱい。それでも彼らは、どこかにもっとまともに暮らせる場所があると信じ、今いる世界の果てを目指して旅へ出る。
この設定だけでも十分に面白いのだが、小林泰三は逆さまの世界を単なる珍しい舞台装置で終わらせない。移動するにも、戦うにも、物を落とすにも、こちらの世界とはすべて勝手が違う。何気ない行動ひとつに命の危険があり、足元へ広がる空を意識するだけでとてつもない緊張が走るのだ。
読んでいるうちに、こちらの重力感覚まで少しおかしくなってくる。地面は下にあるという当たり前の感覚が通用せず、立つ、歩く、落ちるといった日常的な動作さえ別の意味を持ち始める。この身体感覚を直接揺さぶってくるところが、本作ならではの面白さだ。
世界の果てを目指す旅が、やがて世界そのものの謎へ変わる
『天獄と地国』の原型となったのは、短編集『海を見る人』に収録された同名短篇。そのアイデアを長篇へと大きく膨らませたことで、逆転世界の暮らしや社会、旅の危険、そこで生きる人々の姿まで、さらに奥深く描かれるようになった。
落穂拾いたちの旅は、やがて単なる新天地探しから、この世界そのものの成り立ちへ踏み込んでいく。なぜこんな世界が存在するのか。自分たちが当然だと思ってきたものは、本当に正しいのか。進めば進むほど、足元の空だけでなく、それまで信じていた常識まで頼りなくなっていく。
もちろん小林泰三なので、素直な冒険譚のまま終わるはずもない。旅の途中で見えてくる真実が、それまでの景色を次々と別のものへ変えていく。世界の裏側へ近づくほど、上下だけでなく価値観まで反転していく感覚がある。
そして終盤。ここまで徹底して逆さまの世界を描いてきた意味が、最後にもう一度大きく効いてくる。
物理も心理も上下逆さま。それなのに、この世界には妙な説得力がある。読み始めた頃には荒唐無稽だったはずの光景を、いつの間にか当然のものとして受け入れている自分に気づく。
頭上の地面へしがみつき、足元の宇宙を見下ろしながら進む旅。その果てに何が待っているのか。
『天獄と地国』を読み終える頃には、地面が足元にあることさえ、少しだけ不思議に思えてくる。
おわりに
15作並べてみても、やっぱり小林泰三という作家はおかしい。もちろん最高の意味でだ。
玩具修理者のような生理的に嫌なホラーを書いたかと思えば、『アリス殺し』では童話を血まみれの本格ミステリへ変え、『わざわざゾンビを殺す人間なんていない。』ではゾンビの存在そのものを推理のルールとして使ってしまう。
さらに『海を見る人』では、同じ作家が書いたとは思えないほど美しく切ないSFまで見せてくる。この振れ幅を見せられると、ジャンルで小林泰三を説明しようとすること自体が無理なのだと思えてくる。
ただ、どの作品にも共通しているものはある。
とんでもないアイデアを思いつき、その条件を徹底的に考え抜き、最後まで論理で押し通してしまうことだ。
人が死んだらゾンビになるなら、殺人事件はどう変わるのか。記憶を外部へ保存できるなら、自分とは何を指すのか。夢と現実が対応しているなら、そこで起きた殺人をどう解けばいいのか。普通なら設定だけで満足してしまいそうなところから、もう一段、二段、平気で奥へ進んでいく。
だから小林泰三の小説は、読み終えてからさらに面白くなるのだ。本を閉じても、さっきまで当たり前だと思っていたことが少し怪しく感じられる。
自分の身体は本当に自分のものなのか。記憶が変わっても自分は自分なのか。死ぬとは何なのか。現実だと思っているこの世界は、本当に信用していいのか。
こんなことを考え始めたら、もう完全に小林泰三の術中である。
そして私がこの作家を好きなのは、難しい理屈や凄惨な場面をこれでもかと詰め込みながら、根っこの部分にはいつも物語を楽しませようというサービス精神があるところだ。
怖がらせたい。驚かせたい。騙したい。笑わせたい。頭を混乱させたい。その全部を全力でやってくる。
だから一冊読むと、次も読みたくなる。ホラーから入ってもいい。ミステリからでもいい。SFからでもいい。
入口はどこでも構わない。そこから少しずつ別の作品へ手を伸ばしていけば、小林泰三という作家がどれほど異様な広さを持っていたのかが見えてくるはずだ。
まだ読んでいない作品があるなら、ぜひ一冊手に取ってみてほしい。
次にページの向こうで待っているのが怪物なのか、殺人事件なのか、宇宙なのか、それとも自分の常識を丸ごとひっくり返す何かなのか。
それは読んでみるまで分からない。
だからこそ、小林泰三の小説はやめられないのだ。
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