【決定版】『金田一耕助シリーズ』全作品ガイド|おすすめ作品・読む順番・評価まとめ

  • URLをコピーしました!

絵:悠木四季

古い屋敷、血に染まった因習、名家に隠された秘密、そしてボサボサ頭の探偵。

金田一耕助シリーズには、いま読み返しても思わず身を乗り出してしまう魔力がある。

横溝正史が描いた事件は、ただ犯人を当てるだけのパズルではない。地方の旧家に残るしがらみ、戦後の混乱、家制度の重苦しさ、人間の情念と悲哀。そうしたものが、奇怪な死体や大胆なトリックと結びつき、唯一無二の横溝ワールドを作り上げている。

しかも、その中心にいる金田一耕助がまたいい。名探偵というより、どこか頼りなさそうで、飄々としていて、事件現場にふらりと現れる風変わりな人物。

けれど彼は、血と怨念にまみれた惨劇の奥から、冷静に真実を掘り起こしていく。その落差こそが、シリーズの大きな魅力だと思う。

この記事では、そんな金田一耕助シリーズを全体的に評価しながら、特におすすめしたい作品を紹介していく。

本陣殺人事件』『獄門島』『八つ墓村』『犬神家の一族』といった代表作はもちろん、意外な読みどころを持つ作品にも触れつつ、どこから読めばいいのか、どの作品が自分に合いそうかを整理していきたい。

横溝正史のミステリは怖い。だが、それ以上に哀しい。

そして、その哀しさを論理で照らしていくところに、金田一耕助シリーズの忘れがたい味わいがある。

昭和の闇と本格推理の快楽が絡み合うこの巨大なシリーズを、ここからあらためて歩いてみよう。

星マークについて
悠木四季

タイトルの横に星マークをつけている。

この星マークは私のおすすめ度を示している。

 傑作中の傑作。読まずに死ねない。最優先で読むべし。

 傑作。優先度高し。読まないと損。

 名作。読んで損なし。

 とても面白い。

 ミステリとしては面白いけど、横溝正史にしては普通。

という感じ。

ぜひご参考までに。

『金田一耕助シリーズ』「長編」全作品の読む順番

1.『本陣殺人事件(4.0)

──和風の情念と機械的密室トリックが噛み合った、金田一耕助シリーズの原点にして戦後本格ミステリの記念碑。

2.『獄門島(5.0)

──俳句の美と孤島の因習が、戦後の闇の中で連続殺人へ変わる日本ミステリの金字塔。

3.『夜歩く(4.0)

──首なし死体と一人称の手記が、身元も語りもぐらつかせる横溝流の怪奇本格。

4.『八つ墓村(5.0)

──祟りの伝説と地下迷宮の冒険が、人間の欲と村社会の恐怖をあぶり出す横溝ミステリの代表作。

5.『死仮面(3.0)

──死者の顔を写したデス・マスクが、美貌の姉妹と身元の謎を絡め取る横溝流アイデンティティ・ミステリ。

6.『犬神家の一族(5.0)

──遺産相続の欲望と戦後の傷を、ゴムマスクと見立て殺人で包み込んだ横溝ミステリの様式美の頂点。

7.『女王蜂(2.5)

──美貌の令嬢をめぐる求婚者殺しに、孤島の因縁と過去の悲恋を絡めた横溝流ロマン・ミステリ。

8.『悪魔が来りて笛を吹く(4.0)

──没落華族の退廃と呪われた血の秘密を、フルートの旋律があぶり出す横溝正史の耽美的代表作。

9.『不死蝶(3.0)

──鍾乳洞に封じられた二十三年前の悲恋と怨念が、現在の連続殺人としてよみがえる伝奇本格ミステリ。

10.『幽霊男(3.0)

──包帯の怪人が都会の退廃を舞台に殺人を見せびらかす、横溝正史きっての劇場型猟奇スリラー。

11.『迷路の花嫁(3.0)

──悪徳行者の支配と戦後の歪みを、若い小説家の視点から追いかける異色の救済サスペンス。

12.『三つ首塔(3.5)

──巨額の遺産と血の秘密を背負ったヒロインが、首を供える塔の呪いから逃げ惑う怪奇ロマン・スリラー。

13.『吸血蛾(2.0)

──華やかなファッション界を舞台に、狼男めいた怪人と過去の罪が暴れ回る都会派怪奇ミステリ。

14.『死神の矢(2.5)

──恋の競技として放たれた矢が、密室殺人と痛切な復讐劇へ変わる端正な本格ミステリ。

15.『魔女の暦(2.0)

──浅草レビューの舞台裏で、不可能犯罪と劇団の欲望が連鎖する劇場型ミステリ。

16.『迷路荘の惨劇(4.0)

──からくり屋敷と隻腕の影が、二十年前の怨念を現在の殺人へつなぐ館ミステリの快作。

17.『悪魔の手毬唄(5.0)

──童唄見立ての連続殺人を通して、村の因習と血縁の悲劇をえぐり出す金田一シリーズ最高峰の一作。

18.『壺中美人(3.0)

──壺に消える曲芸の怪しさを使って、見た目と正体への思い込みをひっくり返す異色の不可能犯罪。

19.『支那扇の女(3.0)

──悪女の肖像と夢遊病の不安を利用して、血の宿命に見せかけた殺意を組み上げる妖しい異色作。

20.『扉の影の女(3.5)

──銀座の裏路地で交差した偶然と悪意が、都会ならではの乾いた悲劇を生むミステリ。

21.『スペードの女王(4.0)

──消えない刺青を逆手に取り、身元の混乱と入れ替わりを成立させる視覚トリック系本格。

22.『悪魔の寵児(4.0)

──死体への異常な執着と戦後社会の歪みが結びついて生まれた、金田一シリーズ最凶クラスの猟奇長編。

23.『白と黒(3.0)

──高度成長期の団地を舞台に、匿名性と監視の不安が複雑な犯罪へ変わっていく都会派金田一。

24.『悪魔の百唇譜(3.5)

──唇に残された記憶が身元と関係性を狂わせ、過去の脅迫が連続殺人として再起動する都市型ミステリ。

25.『夜の黒豹(3.0)

──都会の連れ込み宿を舞台に、猟奇的な青蜥蜴の印と血縁の秘密が交差するエログロ本格。

26.『仮面舞踏会(4.0)

──科学的な伏線と宿命的な悲劇が、軽井沢の明るさの下で美しく絡み合う後期横溝の代表作。

27.『悪霊島(4.0)

──怪奇演出の極北まで行きながら、最後には血筋と執念の論理へ着地する岡山編の集大成。

28.『病院坂の首縊りの家(4.5)

──二十年越しの血縁の迷宮と人間の後悔を、金田一耕助が最後に見届ける壮大な完結編。

目次

1.『本陣殺人事件』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

和風の情念と機械的密室トリックが見事に噛み合った、金田一耕助シリーズの原点にして戦後本格ミステリの代表作。

和の屋敷に仕掛けられた、戦後本格ミステリ最初の大密室

雪、旧家、祝言、琴の音、そして足跡のない離れ座敷。

この材料を並べられただけで、ミステリ好きの脳内では景気よく不穏な太鼓が鳴り始める。

横溝正史『本陣殺人事件』は、まさにその期待を真正面から受け止め、日本的な風土の中に本格ミステリの論理を叩き込んだ記念碑的な作品である。

初出は1946年、戦後間もない『宝石』誌上。物語の時代は昭和12年11月、舞台は岡山県の宿場町にある旧家・一柳家だ。かつて本陣として栄えた格式ある家で、長男・賢蔵と久保銀造の義妹・克子の婚礼が行われる。

ところがその夜、屋敷に不気味な琴の音が響き、新郎新婦は離れ座敷で惨殺されてしまう。しかも周囲の雪には足跡がない。庭の石灯籠には血まみれの日本刀が突き刺さっている。

どう考えても絵面が強烈すぎる。いや、事件現場がもう横溝正史の名刺みたいな迫力なのである。

そこで登場するのが、金田一耕助だ。ボサボサ頭に袴姿、お釜帽、興奮すると頭をかきむしってフケを飛ばす。名探偵というより、第一印象だけなら頼りない青年である。だが、この見た目と頭脳の落差が実にいい。

横溝正史は、シャーロック・ホームズのような颯爽とした探偵ではなく、どこか人間くさく、少し情けなく、それでも事件の核心へするすると近づいていく新しい探偵像を生み出した。

金田一耕助は、この作品で日本ミステリ史にふらふらと現れ、そのまま居座ってしまったのだ。

和風の情緒を、論理の部品に変えた密室劇

『本陣殺人事件』のすごいところは、日本家屋や琴、日本刀、屏風、雪といった和の意匠を、雰囲気づくりだけに使っていない点だ。それらはすべて、事件を成立させるための部品として配置されている。

琴は単なる不気味な音の演出ではなく、密室の仕掛けと深く結びつく。日本刀も、庭の石灯籠も、三本指の男の影も、いかにも怪しげな小道具でありながら、最終的には論理の網の中へ回収されていく。

このあたりが、横溝正史のたまらないところだ。旧家の因習、血筋への執着、封建的な家意識。そうした湿った情念をたっぷり漂わせながら、事件の解明そのものは機械的で、パズルとして鋭い。情緒は濃いのに、謎解きは冷徹。この温度差が癖者で、横溝作品特有の味を作っている。

しかも作中では、ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』など、海外本格ミステリへの言及もある。つまり横溝正史は、自分が何をやっているのかをとても意識していた。

西洋の密室ミステリをそのまま輸入するのではなく、日本の家、風習、道具、家族制度の中へ移し替える。その結果、『本陣殺人事件』は単なる密室トリック小説ではなく、日本型本格ミステリの出発点のような位置を持つ作品になったのだ。

角川文庫版では、表題作に加えて『車井戸はなぜ軋る』『黒猫亭事件』などが収録されることも多い。なかでも『黒猫亭事件』は、金田一が作者の分身めいた人物に宛てた手紙から始まる形式が面白く、シリーズ全体の語りの仕掛けにも関わってくる短編である。

『本陣殺人事件』で金田一耕助という探偵の誕生を見届けたあと、ほかの収録作に進むと、横溝ミステリが持つ幅の広さも見えてくるのでおすすめだ。

密室の謎、三本指の男、琴爪の手がかり、そして旧家の奥に眠る動機。派手な怪奇趣味と、きっちりした論理が同じ座敷に並んでいる。この混ざり方こそが横溝正史であり、『本陣殺人事件』の古びない迫力だと思う。

祝言の夜に鳴った琴の音は、ただの事件の合図ではなかった。

あれは日本の本格ミステリが新しい時代へ踏み出すための、とても不吉で、最高に鮮烈なファンファーレだったのだ。

悠木四季

琴、日本刀、雪、旧家という和の道具立てが、雰囲気だけでなく推理の材料として組み上げられているところが最高においしい。

2.『獄門島』

おすすめ度:(5.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

俳句の美と孤島の因習が、戦後の闇の中で連続殺人へ変わる日本ミステリの金字塔。

横溝正史が日本ミステリに刻んだ、あまりにも美しく残酷な悪夢

海に囲まれた島、というだけで心はざわつく。そこに旧家、因習、三姉妹、奇妙な遺言、そして俳句になぞらえた連続殺人まで揃ったら、もう逃げ場がない。

横溝正史『獄門島』は、そういう濃厚すぎる材料を、ただのおどろおどろしい怪奇趣味にせず、きっちり本格ミステリの論理へ組み上げた怪物のような作品である。

物語の時代は昭和21年。復員船の中で、金田一耕助は戦友・鬼頭千万太の死に立ち会う。千万太は死の間際、故郷である獄門島へ行ってほしいと頼み、さらに不吉な言葉を残す。三人の妹たちが殺される、と。こうして金田一は、瀬戸内海の孤島へ渡ることになる。

島を支配する本鬼頭家には、月代、雪枝、花子という三姉妹がいた。どこか現実離れした奔放さを持つ彼女たちは、島の閉鎖性と旧家の重苦しさの中で、異様な存在感を放っている。そして金田一の到着後、千万太の予言めいた言葉の通り、殺人が起きる。

花子は梅の木に逆さまに吊るされ、事件は松尾芭蕉らの俳句になぞらえた見立て殺人として展開していく。

見立て殺人が、ただの趣味では終わらない

『獄門島』の凄みは、俳句による見立てが、単なる犯人の悪趣味や飾りではないところにある。

死体を異様に演出するだけなら、いくらでも派手にできる。だが本作では、なぜその形でなければならなかったのか、という理由が物語の中心に食い込んでいる。見立てが、犯人の心理、手段、時間、状況、そして島の構造と結びついているのだ。

ここが横溝正史の怖いところである。梅の木、吊り鐘、祈祷所、海辺の風景。どの場面にも日本的な情緒が漂っているのに、それらはただの背景ではない。死体の置き方、俳句の選び方、島の人間関係、そのすべてが真相へ向かう部品になっている。美しい景色の中に、論理で組まれた殺意が置かれている。この組み合わせが強烈だ。

さらに本作は、戦後社会の影を深く背負っている。復員船の疲弊、戦友の死、帰る場所を失った人々、古い家制度と新しい時代の衝突。獄門島は孤立した島でありながら、戦後日本そのものの縮図にも見えてくるのが怖い。

閉ざされた島の中では、古い血筋や家の掟がまだ幅を利かせている。しかし外の世界はすでに変わり始めている。そのズレが、事件の底に不気味な圧力を生んでいるのだ。

金田一耕助の姿も忘れがたい。彼は名探偵でありながら、すべてを先回りして救える万能の存在ではない。事件を解くことと、命を救うことは同じではない。その苦さが、この作品を単なるパズル小説以上のものにしているように思う。真相に辿り着くほど、金田一の胸にも重いものが残る。その人間くささが、シリーズ全体の魅力を支えているのだ。

『獄門島』は、孤島ミステリとしても、見立て殺人ものとしても、戦後文学としても読める。しかも、そのどの顔も中途半端ではない。

俳句の優雅さと、死体の残酷さ。海の明るさと、島の因習。論理の快感と、真相のやりきれなさ。それらが一つの島の中でぶつかり合い、逃げ場のない悲劇を形作っている。

これほど美しく、これほど嫌な後味を残す見立て殺人は、やはり横溝正史でなければ書けない。

俳句、孤島、旧家、三姉妹、戦後の影。どれか一つだけでも十分に濃い材料を、『獄門島』はすべて抱え込んで、それでもなお本格ミステリとして破綻しない。むしろ、その過剰さこそが作品の迫力になっている。

美と怪奇と論理が、瀬戸内海の孤島で最悪の形に結びつく。

『獄門島』は、日本ミステリが生んだ、あまりにも鮮烈な悪夢である。

悠木四季

横溝正史の怪奇趣味、社会性、ロジックが最高密度で噛み合った、金田一耕助シリーズ屈指の代表作だ。

3.『夜歩く』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

首なし死体と一人称の手記が、身元と真相をぐらつかせる横溝流の怪奇本格。

首を失った死体が、名前と正体まで奪っていく

夜に歩く者がいる。

しかもそれが、ただの不気味な噂ではなく、血筋や家の秘密、殺人事件のからくりにまで絡んでくるとなれば、横溝正史の暗い沼がいよいよ口を開けた感じがする。

『夜歩く』は、金田一耕助シリーズの中でも妖しく、ややこしく、そして技巧的な一作である。

初出は1948年から1949年にかけての『男女』。物語は、大学生の屋代寅太による一人称の手記として進んでいく。これがもう、いかにも危ない。誰かが自分の見たこと、聞いたこと、感じたことを書いている。

その形式だけで、ミステリ好きとしては背筋を少し正したくなる。なぜなら、一人称の語りは、いつだって真相をまっすぐ見せてくれるとは限らないからだ。

発端は、屋代が友人の仙石直記から受けた相談である。直記の腹違いの妹・古神八千代のもとに、佝僂の画家・蜂屋小市から不気味な脅迫状が届く。そこには、八千代の結婚にまつわる呪いめいた言葉が記されていた。さらに古神家には、無意識のうちに夜を徘徊する夢遊病の血筋があるという。八千代自身も、その発作に怯えている。

東京の仙石家から岡山の古神家へ。舞台が移るにつれて、物語の空気は一気に湿り気を帯びてくる。近代的な屋敷の人間関係から、因習の濃い旧家の血の物語へ。

横溝正史おなじみの導線だが、本作ではそこに「首なし死体」という強烈なカードが切られる。発見された死体には首がない。しかも右太ももには、蜂屋小市がかつて受けた銃創と同じ傷がある。ところが、古神家の長男・守衛にも同じ位置に同じような傷があるという。

では、死体は蜂屋なのか。守衛なのか。顔を奪われた死体は、名前まで曖昧にしてしまう。

一人称の手記と首なし死体が作る、身元の迷宮

『夜歩く』の見どころは、猟奇的な絵面の派手さだけではない。首なし死体という物理的なトリックと、屋代寅太の一人称による記述の危うさが、がっちり重なっているところにある。

屋代は事件を追う案内役であり、こちらは彼の目を通して現場を知ることになる。だが、その視点は万能ではない。見たものは限られ、聞いたことには偏りがあり、理解したつもりの事実も後から揺らいでいく。

つまり本作では、死体の正体だけでなく、語られている情報そのものが不安定なのだ。誰が誰なのか。誰が死んだのか。誰が生きているのか。そんな基本中の基本が、霧の中で形を変えていく。

太ももの傷という識別点も実にいやらしい。普通なら、それは身元確認の決め手になるはずだ。だが本作では、その決め手が複数の人物にまたがっている。唯一の手がかりだと思ったものが、逆に混乱を深める。ミステリの約束事を利用しながら、その足場をそっと外してくる感じがある。

さらに、夢遊病というモチーフも効いている。夜、意識のないまま歩き回る八千代の姿は、ゴシックホラーとして不穏だ。白い服、夜の廊下、記憶のない行動。いかにも怪談めいた素材でありながら、横溝はそれを超自然の方向へ逃がさない。

夢遊病は恐怖の演出であると同時に、犯行計画や疑惑の配置に関わる材料になる。ここが横溝作品の面白いところだ。怖がらせるための道具が、最後には推理の部品として戻ってくる。

金田一耕助も、本作ではなかなか渋い位置にいる。屋代の手記の中では、彼は常に前面に出続けるわけではない。どこか脇に控え、事件の奇怪さに翻弄されているようにも見える。

だが、最終的には首なし死体の意味、入れ替わりの構造、古神家を覆う愛憎の絡まりを解きほぐしていく。その姿は、派手な名推理というより、絡まった糸を一本ずつほどく職人に近い。

『夜歩く』は、『本陣殺人事件』や『獄門島』のような代表作群に比べると、少し癖がある。だが、その癖こそが魅力でもある。

首なし死体のインパクト、夢遊病の不気味さ、一人称記述の罠、古神家の血と恋のもつれ。これらが重なったとき、物語は単なる猟奇事件ではなく、正体そのものが揺らぐ悪夢になる。

夜を歩いているのは、八千代だけではない。名前を失った死体も、語りの奥に潜む秘密も、暗がりの中でこちらの足元まで近づいてくる。

首を失うとは、顔を失うことだ。顔を失うとは、名前と人生を奪われることでもある。

『夜歩く』は、その恐怖を本格ミステリの仕掛けへ変えた作品だ。

闇の中を歩いていたものの正体が見えたとき、事件の輪郭だけでなく、人間そのものの危うさまで浮かび上がってくる。

悠木四季

太ももの傷という身元確認の手がかりが、逆に事件を混乱させる仕掛けとして働くところがいやらしい。

4.『八つ墓村』

おすすめ度:(5.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

祟りの伝説と地下迷宮の冒険が、人間の欲と村社会の恐怖をあぶり出す横溝ミステリの代表作。

祟りの村で、地下迷宮と人間の欲が牙をむく

村には入った瞬間からもう逃げられない場所がある。

地図の上ではただの山奥でも、そこには血の記憶が積もり、噂が腐り、古い恨みがいまも口を開けている。

横溝正史『八つ墓村』は、まさにそんな場所を舞台にした、金田一耕助シリーズ屈指の人気作である。

祟り、連続殺人、地下迷宮、財宝、村人の集団心理。盛り込み方が尋常ではない。ミステリというより、もはや横溝印の巨大なお化け屋敷である。

物語の主人公は、寺田辰弥。戦後間もない時期、自分の出生にまつわる秘密を知らされた彼は、岡山県の山奥にある八つ墓村へ向かう。この村には、四百年前に村人たちの裏切りで殺された八人の落武者が、末代まで村を呪うと叫んで死んだという伝説が残っている。さらに辰弥の父とされる多治見要蔵は、かつて村で三十二人殺しという凄惨な事件を起こした男だった。

この設定だけで、もう空気が重い。しかも辰弥が村に入ると、歓迎どころか、不審な死が続発する。親族や村人たちが毒によって倒れ、村中に恐怖が広がっていく。人々は祟りだと騒ぎ、辰弥を災厄の中心に据えようとする。

外から来た者、血筋に不吉な過去を持つ者、村の秩序を揺さぶる者。そう認定された瞬間、辰弥は人間というより、村全体の不安を押しつけられる器になってしまう。

ホラー、冒険、ミステリが一つの洞窟でぶつかり合う

『八つ墓村』の魅力は、横溝正史の得意技が贅沢に詰め込まれているところにある。

まず、祟りの伝説がある。八人の落武者の惨殺、呪いの言葉、村に染みついた因習。こうした伝奇的な要素が、物語全体に濃い影を落としている。

だが、横溝正史はそれを単なる怪談では終わらせない。祟りは、人間の恐怖を操るための装置でもある。村人たちは、理屈よりも伝説を信じる。いや、信じたがる。そうした集団心理があるからこそ、犯人の計画はより不気味に見えるし、事件は村全体を巻き込む騒動へ変わっていく。オカルトめいた空気の奥に冷えた人間の欲がある。この二重構造がたまらない。

そして本作を特別なものにしているのが、鍾乳洞の存在だ。地下に広がる巨大な迷宮。そこには逃走、追跡、財宝探し、過去の秘密が全部詰まっている。普通の館ものや密室ものとは違い、『八つ墓村』には冒険小説の血が流れている。

暗い洞窟を進む場面には、殺人事件の緊張と、宝探しのワクワクが同時にある。この組み合わせはずるい。怖いのに先を知りたくなるし、血なまぐさいのに妙なロマンまである。

有名な多治見要蔵のビジュアルも忘れがたい。頭に懐中電灯を角のようにつけ、闇夜を駆ける姿。あれはもはや日本ミステリの怪物的アイコンである。津山事件を思わせる現実の凶行の影を持ちながら、横溝正史はそこへ落武者伝説と村落の因習を重ね、現実と伝奇の境目を不穏に溶かしていく。

金田一耕助の立ち位置も独特だ。本作では、彼が最初から全体を支配する探偵として動くわけではない。物語の中心にいるのは辰弥であり、金田一は中盤以降、救いの手を差し伸べる存在として現れる。だからこそ、金田一が真相を語る場面には、単なる謎解き以上の重みがある。

祟りに見えたものを人間の企みとして解き明かしながら、それでもなお、村に残る怨念めいた空気までは完全に消し去れない。その後味が横溝作品らしい。

『八つ墓村』は、推理小説として読むと少し破格である。純粋なパズルだけを求めると、むしろ大きすぎる。だが、この大きさこそが本作の魅力だ。

祟りの恐怖、村の排他性、血筋への執着、地下洞窟の冒険、財宝の誘惑、人間の欲。すべてが一つの村に押し込められ、息苦しいほど濃い物語になっている。

八つ墓村は、ただ呪われた村ではない。人間が自分たちの罪を祟りの名で覆い隠し、その暗がりの中でまた新しい罪を育ててしまう場所なのだ。

だからこそ、この物語の怖さは洞窟の奥では終わらない。

村を出たあとも、あの懐中電灯の光だけが、妙に頭の中でちらつき続ける。

悠木四季

鍾乳洞という舞台が、逃走劇、財宝探し、過去の秘密を一気に抱え込み、物語をただの連続殺人に収めないところが抜群である。

5.『死仮面』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

死者の顔を写したデス・マスクが、美貌の姉妹と身元の謎を絡め取る横溝流アイデンティティ・ミステリ。

死者の顔を写した石膏が、美貌と正体をねじ曲げる

人間の顔ほど、信用できそうで信用できないものもない。

名前より先に記憶され、感情より先に判断され、ときには人生そのものまで決めてしまう。

横溝正史『死仮面』は、そんな「顔」をめぐる不安を、石膏のデス・マスクという嫌なガジェットに凝縮した一作である。派手な村の呪いや巨大な地下迷宮はない。だが、死者の顔を型取り、それを残された者へ送りつけるという発想だけで十分にぞわっとくる。

時代は昭和23年秋。『八つ墓村』の事件を解決した直後の金田一耕助は、岡山県警に挨拶へ訪れ、磯川警部から奇妙な事件を聞かされる。東京で殺人を犯した容疑者の女が、岡山のマーケット付近で腐乱死体となって発見された。しかもそのそばには、石膏で作られた不気味なデス・マスクが残されていたという。

ここまでは、いかにも横溝らしい猟奇事件である。だが話はそこから東京へ広がっていく。金田一のもとを訪れたのは、死んだ女の姉だった。美貌の三姉妹のもとに、三女の顔を写し取った死仮面が送りつけられたというのである。

殺人だけでも十分に不気味なのに、犯人はわざわざ死者の顔を保存し、それを遺族へ突きつける。これは肉体への暴力だけでなく、記憶や感情まで傷つける悪意だ。

舞台は岡山から東京、そして女学校へと移る。横溝作品の中でも、この移動感はなかなか面白い。地方の事件として始まったものが、都市の人間関係や女学校の多感な空気へ接続されていく。

『八つ墓村』のような山奥の閉鎖性とはまた違い、本作には戦後の都市が持つ落ち着かなさが漂っている。

顔をめぐる謎が、死体の正体まで揺らしていく

『死仮面』の見どころは、何といってもデス・マスクという小道具の不気味さだ。死者の顔を石膏で写し取る。それだけなら、葬送や記録の意味を持つ行為にもなりうる。だが本作では、それが明らかに加害の道具として使われるのだ。

死んだ者の顔を残すことで、残された者に恐怖を植えつける。顔が記憶の象徴である以上、その複製はただの物体ではない。本人がいないのに、顔だけがこちらを見続けている。これは非常に嫌な怖さである。

しかも本作では、顔が個人を証明するものだという前提そのものが揺らいでいく。腐乱死体、デス・マスク、美貌の姉妹、身元の混乱。横溝正史が好んだアイデンティティの錯綜が、ここでは「顔」という一点に集められている。

顔があれば誰かがわかる。そう思いたいのに、その顔が石膏になり、死体から切り離され、別の場所へ送られてくる。すると、顔は証明ではなく、むしろ混乱を生む仮面になるのだ。

中盤で女子生徒・白井澄子の視点が加わる構成も印象的だ。血縁と愛憎の湿った事件から、女学校という比較的明るい空間へ場面が移ることで、かえって事件の異様さが際立つ。若さや美しさに満ちた場所へ、死者の顔を写した仮面が割り込んでくるこの落差が、物語に独特の気味悪さを与えているのだ。

本格ミステリとしては、デス・マスクがいつ、どこで、どう作られたのかという時間と場所のパズルが核になる。犯人はなぜそんな手間のかかることをしたのか。金田一の近くで、どのように工作を進めたのか。

その大胆さが明らかになるにつれ、事件は単なる猟奇趣味から、計算された仕掛けへと姿を変えていく。横溝正史の作品では、こういう変換がやはり楽しい。怖い小道具が、最後には論理の部品として組み直されるわけだ。

磯川警部とのやり取りも見逃せない。岡山の事件から東京の人間関係へと捜査が広がることで、金田一シリーズの世界が少しずつ拡張されていく感覚がある。

『本陣殺人事件』や『獄門島』のような圧倒的代表作に比べると、『死仮面』はやや小ぶりに見えるかもしれない。だが、顔、仮面、美貌、腐敗、身元確認というモチーフのまとまりはとても濃い。横溝正史の中期らしい、妖しさと技巧の混ざり具合が味わえる作品である。

死者の顔を写した仮面は、ただ過去を保存するものではない。むしろそれは、生きている人間の隠したいものを暴き、顔の裏にある欲望や執着を浮かび上がらせるものだ。

『死仮面』を読み終えると、顔とは本人を示すものではなく、ときに他人を欺くための一番身近な仮面なのだと思えてくる。

悠木四季

デス・マスクが単なる不気味な飾りではなく、身元確認と心理的加害の両方に関わる仕掛けになっているところが最高に面白い。

6.『犬神家の一族』

おすすめ度:(5.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

遺産相続の欲望と戦後の傷を、ゴムマスクと見立て殺人で包み込んだ横溝ミステリの様式美の頂点。

遺言状が一族を裂き、湖面に足が突き刺さる

湖面から逆さまに突き出た二本の足。

白いゴムマスクをかぶった復員兵。

この二つの絵だけで、もう『犬神家の一族』は勝っている。いや、勝ちすぎている。

横溝正史の作品には忘れがたいビジュアルがいくつもあるが、本作ほど一瞬で脳に焼きつく場面を持つものは少ない。しかも、その派手な絵面がただの見せ場ではなく、遺産相続、血縁、戦争の傷、過去の罪ときっちり絡み合っている。ここが実に横溝正史である。

舞台は信州・那須湖畔。犬神財閥の創始者・犬神佐兵衛が莫大な財産を残して死ぬ。問題は、その遺言状だ。

佐兵衛の恩人の孫娘である野々宮珠世が、犬神家の三人の孫、佐清、佐武、佐智のいずれかと結婚することで相続権を得る。つまり、財産と結婚と血筋が、これ以上ないほどいやらしい形で結びつけられているのだ。

そこへ、戦地から長男・佐清が帰ってくる。だが彼は顔に大きな傷を負い、白いゴムマスクで素顔を隠している。これがもう不気味だ。本人なのか。本当に佐清なのか。顔が見えないだけで、人間の存在はここまで疑わしくなるのかと思わされる。

やがて犬神家の家宝である斧、琴、菊になぞらえた見立て殺人が始まり、一族の欲望と疑念は一気に血の匂いを帯びていく。

様式美の奥にある、戦後の顔なき不安

『犬神家の一族』の見どころは、古典的な遺産相続ミステリを、横溝正史らしい濃厚な見立てと怪奇趣味で包み込んだところにある。

遺言状によって一族が争う、という骨格は王道だ。だが、そこにゴムマスクの佐清、湖面の足、菊人形の生首といった強烈な意匠が重なることで、ただの親族争いでは終わらなくなる。

特にゴムマスクは本作の中心となる要素だ。顔を隠す道具であり、戦争で負った傷の象徴であり、身元を揺るがすミステリ上の仕掛けでもある。戦後という時代に、帰ってきた男が本当に以前と同じ人物なのか。その不安が、マスク一枚に凝縮されている。

外見の損傷だけでなく、家族や社会がその人をどう受け入れるのかという問題まで滲んでくるからすごい。マスクの白さが、戦後の空白そのものに見えてくるのだ。

野々宮珠世の存在も大きい。彼女は単なる相続の景品ではない。美しさと気高さを持ちながら、置かれた状況を見極める冷えた判断力もある。三人の男たちが彼女をめぐって争う構図は、財産目当ての椅子取りゲームであると同時に、犬神佐兵衛が死後に仕掛けた残酷な劇でもある。亡くなった男の意志が、生き残った者たちを操り続ける。その気持ち悪さがたまらない。

金田一耕助は、いつものように風采の上がらない姿で登場しながら、この過剰なほど様式化された惨劇に論理の刃を入れていく。斧、琴、菊という見立ては、派手な飾りではなく、犯人の狙いや偽装と結びついている。

つまり、絵として怖いだけではなく、推理の材料としてもちゃんと働いているのだ。この両立が、本作をシリーズ屈指の知名度に押し上げた理由だと思う。

『犬神家の一族』は、横溝ミステリの大衆的な魅力がほとんど全部入った作品である。遺産、旧家、美女、復員兵、変装、見立て殺人、過去の罪、そして最後に差し込むわずかな救い。

濃い。実に濃い。だが、その濃さが不思議と破綻しない。むしろ、すべてが犬神家という巨大な呪いの舞台装置の中で、見事に噛み合っている。

湖から突き出た足は、ただのショックな絵面ではない。

あれは、犬神家という一族が隠してきた罪が、ついに水面を突き破って現れた瞬間なのだ。

悠木四季

スケキヨのマスクと湖面の足が、ただの名場面ではなく、身元の不安と一族の罪を象徴しているところが本当に素晴らしい。

7.『女王蜂』

おすすめ度:(2.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

美貌の令嬢をめぐる求婚者殺しに、孤島の因縁と過去の悲恋を絡めた横溝流ロマン・ミステリ。

美しき令嬢のまわりで、求婚者たちは血を流す

美しい人のまわりで、なぜか男たちが次々と死んでいく。

こう書くと、いかにも古典的なメロドラマの香りがする。

だが横溝正史『女王蜂』は、その甘い香りの奥に血の匂いと機械仕掛けの殺意を忍ばせてくる。

伊豆沖の孤島、月琴島。絶世の美女・智子。彼女に近づく求婚者たち。そして、女王蜂に近づく働き蜂は殺されるという不吉な警告状。もう設定の段階で、横溝ワールドの濃い蜜がたっぷり垂れている。

物語の中心にいるのは、19歳の誕生日を迎えようとしている大道寺智子である。彼女の母・琴絵は、19年前に恋人を崖からの墜落事故で失うという悲劇に見舞われ、その記憶に囚われたまま世を去った。智子が成人し、京都の義父・欣造のもとへ引き取られることになると、彼女に求婚する三人の若者が現れる。

しかし、その前に届くのが例の警告状だ。智子は女王蜂であり、近づく男たちは殺される。普通なら悪趣味な脅しとして片づけたいところだが、月琴島ではそうはいかない。

やがて第一の求婚者が、島の大時計の歯車に巻き込まれるような凄惨な形で殺される。

時計台、歯車、血まみれの死体。ロマンチックな孤島の風景が、一気に悪夢へ変わる瞬間である。

女王蜂という比喩が、愛と支配の物語に変わる

智子は女王蜂と呼ばれる。つまり、彼女を中心に男たちが群がり、競い、そして死んでいく。

だが本作は、単に美貌の女性が男たちを破滅させる話ではない。むしろ、智子自身もまた、周囲の欲望や過去の因縁に閉じ込められた存在なのだ。

ここが切ない。智子は魔性の女として描かれているようでいて、実際には自分の出生、母の過去、男たちの執着に振り回される。女王と呼ばれながら、自由に飛ぶことはできない。彼女の美しさは祝福ではなく、周囲の人間が勝手に意味を貼りつけていく呪いのようにも見えてくる。

本格ミステリとして軸になるのは、19年前の墜落事故と現在の連続殺人がどう結びつくのか、という点だ。過去の悲劇が、現在の殺人を呼び寄せるという横溝作品ではおなじみの構造だが、本作ではそこに時計台という巨大な機械が加わることで、派手な見せ場が生まれている。大時計の歯車を使った殺害場面は、視覚的にも鮮烈だ。

また、舞台が月琴島から修善寺のホテルへ移り、さらに島へ戻る構成も面白い。逃げても逃げきれない。場所を変えても、過去の因縁は追ってくる。まるで事件そのものが、智子を中心に円を描いているようだ。

孤島の閉塞感と、外の世界へ出てもほどけない血縁のしがらみ。その両方が絡み合い、物語に独特のうねりを与えている。

金田一耕助は、本作で智子を守るような位置に立ちながら、同時に探偵として事実を積み上げていく。彼の優しさと冷徹さが、ここではよく出ている。どれほど悲しい事情があっても、殺人の真相は明らかにしなければならない。

だが、その解明の先にあるのは、単純な犯人断罪ではない。愛情が歪み、独占欲となり、やがて殺意へ変わっていく。その過程の痛ましさが、『女王蜂』をただの連続殺人ものにしていない。

『女王蜂』は、横溝正史の中でもロマン色の濃い作品である。月琴の音色、孤島の風景、崖にまつわる過去、智子をめぐる男たちの熱。それらが美しく配置されているのに、中心にはずっと血の匂いがある。甘い蜜の中に毒が混じっている、と言えばいいだろうか。

女王蜂とは、智子のことだけではない。過去の恋も、血筋も、家の秘密も、すべてが人を引き寄せ、逃がさず、最後には刺してくる。

月琴島に響く音色は美しい。だがその余韻の底には、愛に名を借りた執着の恐ろしさが沈んでいる。

悠木四季

時計台の歯車という機械的な殺害装置が、月琴島の幻想的な空気とぶつかることで、事件の異様さを一段と際立たせている。

8.『悪魔が来りて笛を吹く』

おすすめ度:(4.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

没落華族の退廃と呪われた血の秘密を、フルートの旋律があぶり出す横溝正史の耽美的代表作。

フルートの旋律が、没落華族の血の秘密を呼び覚ます

横溝正史を読んでいると、ときどき本格ミステリの顔をした怪夢に迷い込むことがある。

論理でできているはずなのに、屋敷の空気はどこか腐っていて、登場人物たちはみな過去に取り憑かれていて、事件の背後には説明だけでは片づかない嫌な熱が残る。

『悪魔が来りて笛を吹く』は、まさにそういう一作である。しかもめちゃくちゃ濃い。社会派めいた毒殺事件から始まり、没落華族の屋敷、砂占い、フルートの怪音、そして呪われた血筋の秘密へと潜っていく。その沈み方が見事なのだ。

発端となるのは、銀座の宝石店「天銀堂」で起きた毒殺強盗事件。東京都衛生係を名乗る男が店員たちに毒薬を飲ませ、宝石を奪う。あまりにも生々しい導入だ。

横溝正史がここでやっているのは、まず現実に足をつけることなのだと思う。戦後の不穏な都市、実際にありえそうな大量毒殺、その空気の上に物語を置くことで、後からやってくる異様な屋敷の怪談じみた雰囲気が、かえっていやに現実味を帯びてくる。

この事件の容疑者として疑われたのが、元子爵の椿英輔である。彼は不名誉に耐えかね、自殺の前に「悪魔が来りて笛を吹く」という不気味な言葉を残す。だが半年後、娘の美禰子が金田一耕助を訪ね、死んだはずの父が屋敷に戻ってきているようだと訴える。

ここから先はもう、横溝正史の独壇場である。椿邸という没落華族の屋敷に、砂占いという怪しげな儀式、停電の闇、どこからともなく響くフルートの旋律。

こういう舞台を出されるとミステリ好きとしては警戒しつつ、でも嬉しくなってしまう。

音が怖くなる瞬間を描いた、横溝屈指の退廃ミステリ

『悪魔が来りて笛を吹く』の凄さは、まず音の使い方にある。横溝作品には印象的な小道具が多いが、本作のフルートは特別だ。目に見えない。触れない。なのに、音だけで空気を変えてしまう。

停電の中で響く曲『悪魔が来りて笛を吹く』は、ただ不気味な演出として鳴るのではない。それは事件の進行と密接に結びつき、死の予兆であり、過去の亡霊を呼び出す合図でもある。視覚ではなく聴覚から追い詰めてくる怖さが、本作にはある。

そして、この作品を傑作たらしめているのが、椿家を中心とした没落華族の描写だろう。華族制度は消え、富も権威も崩れた。それでも彼らは、かつての格式や血筋の幻想から抜け出せない。

ここに描かれているのは、ただの旧家の因習ではない。もう失われたはずの身分意識が、戦後にもまだ腐ったまま残っているという嫌な現実である。斜陽族という言葉の持つ、華やかさと腐敗の両方が、この作品では実にいやらしく匂い立っているのだ。

本格ミステリとして見ても強い。イントネーション、何気ない言い回し、小物の扱い、人物同士の距離感。そうした細部が終盤で一気に意味を持ち始める構成は鮮やかだ。しかも、最大の秘密が単なる犯人当てで終わらない。

「火焔太鼓の痣」と呼ばれる悪魔の紋章の意味が明らかになったとき、事件全体は一つの忌まわしい血の歴史へ収束していく。ここが本作の本当に恐ろしいところで、個別の殺人事件の裏に、一族そのものの歪みが口を開けているのである。

金田一耕助も、この作品では単なる謎解き役ではない。もちろん彼は論理で事件を解体していくのだが、その先に待っているのは爽快な解決だけではない。彼が見届けるのは、時代に取り残され、血筋に縛られ、愛情さえ歪んだ形でしか残せなかった人々の終わり方である。

なので『悪魔が来りて笛を吹く』は、解決編まで読んでもすっきりしすぎない。むしろ、真相が見えたことでいっそう深く刺さる。

横溝正史の代表作を挙げるとき、『犬神家の一族』や『獄門島』の名前が先に出ることは多い。もちろんそれも納得なのだが、この『悪魔が来りて笛を吹く』には、また別種の圧がある。

退廃、耽美、社会性、怪奇味、ロジック。その全部が高い密度で混ざっている。派手な見立てのショックだけではなく、人間の血と時代の澱がじっと沈殿している感じがある。

悪魔が吹く笛とは、たぶん呪いの音ではない。

それは、見ないふりをしてきた過去が、もう隠しきれないところまで来たことを告げる音なのだ。

悠木四季

フルートの音が単なる演出ではなく、事件の進行と一族の過去をつなぐ恐怖の媒介になっているところがたまらない。

9.『不死蝶』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

鍾乳洞に眠る二十三年前の悲恋と怨念が、現在の連続殺人としてよみがえる伝奇本格ミステリ。

鍾乳洞の闇から、二十三年ぶんの愛憎が這い出してくる

昔の事件が、終わったつもりで全然終わっていない。

横溝正史を読んでいると、そういう話にしばしば出くわす。

しかもその「終わっていない」が、ただの未解決事件ではなく、家同士の憎しみや、消えた恋人の影や、別の名前で生きてきた誰かの人生まで巻き込んで戻ってくるから厄介である。

『不死蝶』は、まさにそういう一作だ。鍾乳洞、二十三年前の殺人、宿敵同士の両家、そしてブラジル帰りの母娘。材料だけ見るとかなり盛っているのだが、それがちゃんと横溝ミステリの濃いロマンとしてまとまっている。

舞台は信州の射水。町には、古くから対立を続けてきた矢部家と玉造家がある。二十三年前、矢部家の次男・英二が鍾乳洞で殺され、その容疑者とされた玉造家の娘・朋子は姿を消した。

時間だけが流れ、事件はもう過去のものになった……はずだった。ところがそこへ、ブラジルのコーヒー王の養女となった鮎川マリと、その母・君江が現れる。しかも君江の顔は、失踪した朋子とうり二つである。

この時点でもう最高だ。横溝正史はこういう「過去から帰ってきたかもしれない人」を出すのが本当にうまい。本人なのか、別人なのか、偶然似ているだけなのか。その揺らぎがあるだけで、物語は一気に不穏になる。

さらにマリは、矢部家の孫・慎一郎と恋に落ちる。宿敵同士の家に生まれた若者たちの恋。いかにも古典的だが、横溝の手にかかると、それがちゃんと事件の火薬庫になるのだ。

やがて歓迎の宴の夜、矢部家の当主・杢衛が鍾乳洞で無惨な死を遂げる。二十三年前の事件をなぞるように、再び洞窟が血を吸うわけだ。

ここから先、金田一耕助は現在の殺人と過去の失踪事件をつなぐ糸を追い、暗い洞窟の奥へ入っていく。

過去の悲恋と洞窟トリックが見事に噛み合う

『不死蝶』の面白さは、二十三年前の事件がただの前史ではなく、現在の事件そのものを規定しているところにある。

横溝作品には、昔の罪がいまの殺人にまで尾を引く話が多いが、本作はその手触りがとても濃い。失踪した女、別人として生きてきたかもしれない人生、家同士の対立、そして若い世代の恋。過去は終わらず、ちゃんと形を変えて戻ってくる。

しかも、それが単なるメロドラマで終わらないのがいい。鍾乳洞という舞台が、本格ミステリの装置としてしっかり働いているからである。

『八つ墓村』でも洞窟は大きな役割を果たしていたが、『不死蝶』ではよりはっきりと出口の数と位置が焦点になる。どこから出入りできるのか。誰がその出口を知っていたのか。いつ隠され、いつ使われたのか。この物理的な条件が、事件の見え方を大きく変えていく。

ここが実においしい。洞窟はロマンの舞台であると同時に、論理の舞台でもある。暗くて広くて入り組んでいるから怖い、で終わらず、その構造そのものがトリックの核になるのだ。金田一が現場を確かめながら、空間の条件を一つずつ洗っていく流れには、本格ミステリらしい手応えがしっかりある。

もう一つ大きいのは、やはり悲恋の成分だろう。矢部家と玉造家の若者が恋に落ちる構図は、いかにもロミオとジュリエット的である。だが本作では、それが単なる添え物ではなく、事件の動機や行動の選択に深く関わってくる。

誰かを守りたい気持ち、過去をなかったことにしたい願い、家の憎しみを終わらせたい祈り。そうした感情が、殺人の論理と同じくらい重要な重みを持っている。

金田一耕助の立ち位置も、この作品では少し柔らかい。もちろん探偵として真相を暴くのだが、その先で人の不幸やすれ違いにちゃんと胸を痛めている感じがある。

謎が解ければ全部すっきり、とはならない。けれど、その痛みごと受け止めたうえで、最後に少しだけ光を残す。この加減が『不死蝶』の魅力だと思う。

『不死蝶』というタイトルもいい。蝶は美しく、はかなく、捕まえたと思ったらするりと逃げる。本作に出てくる不死蝶はブラジルの蛾に由来するモチーフだが、それは事件の象徴であると同時に、消えたはずの愛や記憶がまだ生きていることの比喩にも見えてくる。死んだはずの感情が、二十三年経ってもまだ洞窟の中を飛んでいるようだ。

『不死蝶』は、横溝正史の中期作品の中でも、伝奇ロマンと本格トリックの噛み合わせがとても気持ちいい一作である。愛の話として読んでも苦いし、洞窟ミステリとして読んでも面白い。

蝶は死なない。少なくとも、この物語の中ではそうだ。

鍾乳洞の闇に閉じ込められた感情は、長い時間を越えて、もう一度人の命を奪いにくる。

悠木四季

悲恋のロマンと洞窟トリックの論理がきれいに重なった、横溝正史らしさたっぷりの中期の名作だ。

10.『幽霊男』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

都会の退廃と見せびらかす殺意が結びついた、横溝正史きっての劇場型猟奇スリラー。

包帯の怪人が、東京という舞台で殺人ショーを始める

山奥の旧家でもなければ、因習に縛られた村でもない。それなのに、こんなにも嫌な空気が濃い。

『幽霊男』の面白さはまずそこにある。横溝正史というと、湖畔だの旧家だの鍾乳洞だのを思い浮かべたくなるが、本作は東京の裏側へずかずか踏み込んでいく。神田神保町の裏通り、ヌードモデル仲介所、目黒の怪しい屋敷、伊豆の山荘。

舞台がもう最初からいかがわしい。しかもそこへ、包帯で顔を覆い、三本しか歯のない口をのぞかせる「佐川幽霊男」まで現れる。ここまで来ると、もはや怪談と通俗スリラーと探偵小説が正面衝突している感じでなんとも楽しい。

発端は、ヌードモデル仲介所「共栄美術倶楽部」に幽霊男が現れ、モデルの恵子を指名して連れ去る場面だ。数日後、恵子はホテルの浴槽で刺殺体となって発見される。しかも犯人はそこで満足しない。次の犠牲者を予告する手紙を残し、警察も世間も挑発しながら、連続殺人をまるで見世物のように演出していく。

ここがこの作品の怖さであり、同時に面白さでもある。犯人はただ人を殺したいだけではない。見せたいのである。騒がれたいのである。自分の異常さを、都市全体のスクリーンに映し出したいのである。

猟奇スリラーの熱量で押し切りつつ、ちゃんと推理小説でもある

『幽霊男』は、横溝正史の中でも乱歩色の濃い一作だと思う。包帯の怪人、生き人形、ヌードモデル業界、猟奇趣味の秘密結社めいた影。材料だけ見るととても変格寄りである。

しかも犯人の行動には倒錯した自己顕示欲がべったり張りついていて、事件そのものが一種の舞台芸術みたいな顔をしている。このへんは、江戸川乱歩の怪人ものが好きな人にはたまらないはずだ。

ただ、本作が面白いのは、そこを勢いだけで走らないところである。ちゃんとミステリとしての骨組みも強い。とりわけ大きいのが、生身の人間と人形の入れ替えだ。実物そっくりの生き人形という、いかにも猟奇小説的なガジェットを出しながら、それをアリバイ工作や死体移動のロジックにまで組み込んでいる。

つまり、見た目は派手でも、やっていることは本格寄りなのだ。このバランスがいい。異様な見世物を見せられているうちに、いつのまにかこちらは「どうやってそれを成立させたのか」を考え始めている。

それにしても、1950年代の東京という舞台が実に効いている。戦後の混乱が完全には消えていない、けれど新しい欲望や商売もどんどん増殖していく、あの半端に明るくて半端に汚れた都市の感じ。『幽霊男』は、その都会の悪趣味な熱気を丸ごと吸い込んでいる。

地方の因習ではなく、都市の欲望が事件を育てている感じがあるのだ。芸術の名を借りた搾取、見世物としての犯罪、他人の身体を商品や道具として扱う感覚。そのどれもが、妙に現代的ですらある。

真犯人の造形も強烈だ。横溝作品にはろくでもない犯人が何人も出てくるが、本作の犯人はその中でも相当見苦しい部類に入る。追い詰められたあとの醜態まで含めて、とことん小さい。だが、それがいい。

怪人として派手に振る舞っていた人物の中身が、最後には情けないほど卑劣な人間として露出する。この落差が、『幽霊男』を単なる怪人小説で終わらせていない。

そして金田一耕助である。本作の金田一は、いつも以上に都会の悪意に振り回されながら、それでも必死に食らいついていく。犯人に出し抜かれ、先手を取られ、予告殺人を止めきれず悔しい思いもする。

だがそのぶん、最後に怒りをにじませる姿が効く。飄々とした名探偵ではなく、人間の下劣さにちゃんと腹を立てる探偵として見えてくるのだ。

『幽霊男』は、横溝正史の代表作群の中では少し毛色が違う。だが、その違いこそが魅力でもある。旧家の因習より、都会の退廃。家の呪いより、見せつけるための犯罪。

包帯の怪人という通俗的な派手さを前面に出しながら、その奥では戦後都市の薄暗さがずっと脈打っている。

東京という大舞台でしか成立しない、横溝流の劇場型悪夢である。

悠木四季

生き人形という怪しいガジェットが、雰囲気づくりだけでなくアリバイ工作や死体移動の論理にまでつながっているところが抜群に面白い。

11.『迷路の花嫁』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

悪徳行者の支配と戦後の歪みを、若い小説家の視点で追いかける異色の救済サスペンス。

名探偵より先に、若い小説家が戦後の闇へ踏み込んでいく

路地の奥に、見てはいけないものがありそうな夜がある。

しかも、ただ不気味なだけではなく、そこに誰かの欲望や支配や腐った善意まで絡んでいそうな気配があると、話は一気にいやな色を帯びてくる。

『迷路の花嫁』は、まさにそういう作品である。横溝正史の金田一耕助シリーズに連なる長編だが、読み味は異色だ。名探偵が颯爽と前へ出るというより、駆け出しの小説家・松原浩三が、戦後の湿った闇へずぶずぶ踏み込んでいく。

発端からして強い。ある雨催いの夜、浩三は異様な様子で路地裏へ消えていく若い女を見かける。不審に思ってあとを追うと、辿り着いたのは、ヤモリが這い、クモの巣に覆われた廃屋だった。そこで発見されるのが、真っ赤な猫の足跡に囲まれた、霊媒師・宇賀神薬子の全裸死体である。

しかも周囲では、返り血を浴びた猫たちが異様な声で鳴いている。この場面の絵面は凄まじい。横溝正史はときどき、事件現場を名場面として脳に焼き付けにくるが、本作の冒頭もその系統だと思う。

ただ、『迷路の花嫁』はこの猟奇的な導入から、そのままパズル中心の本格ミステリへ一直線には進まない。ここから前面に出てくるのは、悪徳行者・建部多門という嫌な存在である。怪しげな教義を振りかざし、美しい女たちを精神的にも肉体的にも支配し、搾取していく男。

殺人そのものももちろん恐ろしいのだが、本作の本当の怖さは、この多門が人の心を食い荒らしていく過程にある。

金田一が脇に退くことで、戦後の歪みがむき出しになる

『迷路の花嫁』の最大の特徴は、やはり金田一耕助の立ち位置だろう。

シリーズの看板探偵でありながら、本作の金田一は後景にいる。大森の割烹旅館「松月」の離れで半ば隠者のように暮らしつつ、浩三の行動を見守り、最後の局面でようやく本格的に動き出す。つまり、この物語を引っぱるのは金田一ではなく、松原浩三なのである。

これが面白い。浩三は名探偵ではない。だからこそ、彼の見聞きするものには戸惑いがあり、怒りがあり、素朴な正義感がある。事件を論理で切り分ける前に、目の前の理不尽さに反応してしまう。

その等身大の感覚が、本作では大事なところだと思う。もし最初から金田一が前面に出ていたら、この物語はもっと謎解きの比重が強くなっていたはずだ。だが浩三が中心にいることで、読んでいるこちらも、まずはこの社会の歪みや人間関係の毒にさらされることになる。

建部多門の存在も、その意味で非常に大きい。彼は単なる犯人候補ではなく、この作品全体の重苦しい推進力そのものだ。女性たちを囲い込み、怪しげな言葉で呪縛し、金も心も奪っていく。いわば「絶対的な悪役」として配置されているのだが、これが妙に戦後的でもある。

秩序が崩れ、人が拠り所を失った時代だからこそ、こういう種類の支配者が入り込む余地があるというわけだ。『迷路の花嫁』は、新興宗教めいたものや精神的搾取の怖さを、早い段階で小説の中に取り込んでいる。

さらに本作では、横溝らしい複雑な血縁や人間関係もたっぷり出てくる。誰と誰がどうつながり、誰が誰に操られ、誰が何を隠しているのか。その密度はなかなかのものだ。

だが、ただ複雑なだけではない。多門に翻弄されていた女性たちが、浩三の義侠心や周囲の善意によって少しずつ再生へ向かっていく流れがあり、そこがこの作品を少し特別なものにしている。陰惨な事件を扱いながら、どこか救いの方向へ目を向けているのだ。

もちろん最後には、金田一耕助がきっちり論理の光を入れる。それまでのドラマティックで混沌とした展開に対して、最後に探偵が冷静な整理を与えることで、物語はちゃんと本格推理として着地する。この締め方はやはり気持ちいい。金田一の出番が少ないぶん、最後の一手がきれいに決まる感じがある。

『迷路の花嫁』は、シリーズの中でも少し変わった位置にある作品だと思う。名探偵の活躍をたっぷり見たい人には、やや脇道に見えるかもしれない。だがそのぶん、戦後社会の歪み、人を支配する悪意、善意による救済という主題がむき出しになっている。

血塗られた廃屋から始まる物語が、ただの猟奇趣味では終わらず、人の心を取り戻す話にまで踏み込んでいくところに、この作品の独特な魅力があるのだ。

悠木四季

金田一耕助をあえて後景に置くことで、猟奇と人間ドラマがいつも以上に前へ出た、シリーズ屈指の変化球長編だ。

12.『三つ首塔』

おすすめ度:(3.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

巨額の遺産と血の秘密を背負ったヒロインが、首を供える塔の呪いから逃げ惑う怪奇ロマン・スリラー。

首を捧げる塔の下で、遺産と血の秘密が暴れ出す

こんなに物騒なのに、こんなに勢いよく読めてしまっていいのか。

『三つ首塔』を読むたびにそう思う。首を切り取って塔に供える連続殺人という、字面だけ見れば凄惨な話である。しかも中心にあるのは巨額の遺産相続、血縁の秘密、入れ替わり、逃亡劇、そしてヒロインの恋心の変化だ。

要素だけ並べると盛りすぎにも見えるのだが、横溝正史はこういう過剰さを、むしろ作品の推進力に変えてしまう。結果として本作は、金田一耕助シリーズの中でもスリラー色が濃くロマン色も強い、妙に熱量の高い一本だ。

発端は明治末年にまでさかのぼる。神戸の山里で凄惨な殺人を犯し、アメリカへ逃亡した佐竹玄蔵は、向こうで巨万の富を築き、昭和に入ってから帰国する。そして、自らが死に追いやった親友・高頭省三の供養のため、妙光寺に「三つ首塔」を建立する。

三人の男の首を祀る塔。もうこの時点でまともな話になるわけがない。だが横溝作品では、こういう最初から不吉すぎるモニュメントが、あとでちゃんと事件の中心になるからたまらない。

やがて玄蔵は莫大な遺産を残して死ぬ。その遺言がまたひどく奇妙だ。娘の宮本音禰と、まったく面識のない青年・高頭俊作を結婚させることを条件に、巨額の財産を相続させるというのである。

遺産相続に結婚条件をくっつけるあたり、横溝らしいいやらしさがよく出ている。財産、血筋、婚姻。この三つを無理やり結びつけた瞬間、人間関係はたちまちぎすぎすし始める。

そして、案の定というべきか、周囲では連続殺人が始まる。上杉博士の還暦祝いの夜を皮切りに、死体から首が持ち去られ、それが三つ首塔へ供えられていく。怪奇趣味としても強烈だが、この作品はそこで終わらない。

ヒロインの音禰が、謎の男・高頭五郎に助けられ、ともに逃亡生活へ入っていくところから、一気に読み味が変わっていく。

怪奇見立てと逃亡ロマンスが、ものすごい勢いで噛み合う

『三つ首塔』の最大の特徴は、金田一ものとしては珍しく、ヒロインの体感にぐっと寄った作品だという点だろう。

音禰の一人称手記という形式もあって、こちらは事件を解く前に、まず彼女と一緒に追われることになる。誰が敵なのか、誰を信じていいのかもはっきりしない中で、日本各地を転々としながら逃げる。この逃亡劇のテンポがとにかくいい。推理小説というより、ときどき冒険小説やメロドラマの熱気が前へ出ている感じだ。

しかも、その逃亡の相手が高頭五郎というのがまた大きい。いかにも横溝作品らしい野性味と危うさをまとっていて、最初は頼もしいのか不穏なのかもよくわからない。

そんな相手に助けられ、怯え、反発し、少しずつ感情が動いていく音禰の心理が、本作では重要な読みどころだ。恐怖が信頼へ、信頼が愛に近いものへと揺れていく流れがあり、そこがこの作品を単なる猟奇長編で終わらせていない。

もちろん、怪奇趣味も非常に強い。『三つ首塔』というタイトルそのものがすでに勝っているのだが、実際に首を切り離して塔へ供えるという見立ては悪趣味で、強く印象に残る。

しかもそれが単なるショック場面ではなく、玄蔵老人の罪悪感や、一族にこびりついた過去の犯罪の反復として機能しているのがすごい。猟奇的な絵面に見えて、その奥にはきっちり血の歴史が埋まっているのだ。

終盤には、横溝流の入れ替わりや血縁の秘密もちゃんと控えている。高頭俊作を名乗る人物の正体は何か。音禰自身の出生にはどんな真実が隠れているのか。ここまで逃亡劇やロマンスでぐいぐい引っぱっておいて、最後にはしっかり本格ミステリとしてどんでん返してくるのだから、なかなかずるい構成である。

金田一耕助は本作では少し引いた位置にいるが、そのぶん要所での介入が効く。変装まで交えながら、複雑に絡んだ欲望をほどいていく姿は、派手すぎる物語に最後の理性を差し込む役目を果たしている。

『三つ首塔』は、シリーズの中でも娯楽性の高い作品だと思う。遺産相続ミステリとして読んでもいいし、怪奇スリラーとして読んでもいいし、逃亡ロマンスとして読んでもいい。その全部が一つの作品の中で大きな顔をしている。

だから整いすぎた本格を求めると少し荒っぽく見えるところもあるのだが、その荒っぽさ込みで妙に面白い。

むしろ、過剰な感情と過剰な事件がぶつかり合っている感じが、この作品にはよく似合っている。

悠木四季

宮本音禰の一人称だからこそ、謎解きより先に追われる怖さと感情の揺れが前へ出てくるところが、この作品の独特な魅力である。

13.『吸血蛾』

おすすめ度:(2.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

華やかなファッション界を舞台に、狼男めいた怪人と過去の罪が暴れ回る都会派怪奇ミステリ。

華やかなファッション界に、狼男の牙が食い込む

横溝正史というと、どうしても旧家だの因習だの湖畔だのを連想しがちである。

だが『吸血蛾』を読むと、この人は都会のきらびやかな表面を汚すのもうまい、と改めて思う。

舞台は戦後復興の熱気に包まれた東京。しかもその中心にあるのは、ファッションモデルの世界だ。華やかで、新しくて、いかにも時代の先端を走っていそうな場所。

そこへ、狼男じみた怪人と、胸に蛾を置かれた死体が入り込んでくる。この取り合わせがまずいい。洒落た世界に、露骨に悪趣味な恐怖を流し込む。その温度差がたまらない。

事件の発端も印象が強い。有名デザイナーであり、自らモデルとしても前に立つ浅茅文代のもとへ、不気味な贈り物が届く。箱の中には齧られたリンゴ。それを持ってきたのは、「狼の歯」を持つ二重眼鏡の奇怪な男だ。

もうこの時点で、まともな相手ではない。そしてその後、「虹の会」のモデルたちが次々と襲われ、殺された女の胸には蛾の死骸が置かれる。世間が犯人を「吸血蛾」だの「狼男」だのと呼び始めるのも無理はない。

この作品は見世物としても強い。狼の歯、仮面、美女の死体、昆虫の添え物。江戸川乱歩的な耽美と猟奇の香りが濃く、横溝作品の中でも怪奇趣味が前へ出ている部類だと思う。しかも、それが単なるショック場面の連発ではなく、ちゃんとフーダニットの興味につながっているのが素晴らしい。

犯人は誰なのか。本当に怪物じみた存在なのか。それとも、都会的な顔をした誰かが仮面をかぶっているだけなのか。見た目の派手さが、そのまま謎の核にもなっている。

モダンな舞台の裏で、過去の罪が腐っている

『吸血蛾』の面白さは、猟奇的な見せ方だけではない。この作品がゆっくり効いてくるのは、華やかな世界の裏にある孤独と後ろ暗さである。

中心にいる浅茅文代は、日本で成功したモダンな女性に見える。だが、彼女の背後にはパリ時代の忌まわしい過去があり、それが現在の事件としっかり結びついている。

つまり『吸血蛾』は、ただ怪人が美女を襲う話ではなく、戦後的な自由や成功の裏に、消しきれない罪や記憶がへばりついている話なのだ。

ここがいい。ファッション界という、最先端で自由そうな世界を舞台にしながら、実際には登場人物たちの多くが過去に縛られている。パトロン、愛人、嫉妬、強請り、見栄。人間関係はどろどろしているし、都会的な洗練はそのまま人間の成熟を意味しない。むしろ、飾れば飾るほど中身の醜さが目立つ。個人的にも、横溝正史のこの手の描き方がとても好きだ。

それにしても「蛾」というモチーフが実にいやらしい。蝶ならまだ華やかさや幻想がある。だが蛾は少し湿っていて、夜にまとわりつく感じがある。しかも「吸血蛾」である。

美女の死体に蛾が置かれるという趣向は、耽美というには生々しすぎて、怪奇というにはどこか人工的でもある。その中途半端な不快さが、むしろ強い。狼男の獣性と、蛾の湿った不吉さ。この二つを重ねているところに、本作の悪趣味のセンスがよく出ている。

本格ミステリとしてもちゃんと気持ちいい。怪人が仮面や特殊メイクで現れ、誰がその裏にいるのかを探る構図は映画的でありながら、同時に論理の遊びにもなっている。怪物が本当に怪物であるはずはない、と頭では思う。

だが、ではその怪物めいた存在をどう成立させたのか、というところでちゃんと推理の手応えが出てくる。このへんの見せ方は、横溝が大衆小説としてのサービス精神を意識している感じがある。

金田一耕助も本作ではなかなか面白い。等々力警部と組みながら都会の事件を追い、さらには自ら狼男に扮して真犯人へ揺さぶりをかける。こういう大胆な動きを見せる金田一は少し珍しい。飄々としているだけでなく、芝居っ気もあるし、相手の心理を崩すためなら思い切ったこともやる。その立ち回りが、作品全体の劇場性にぴたりとはまっている。

『吸血蛾』は横溝正史の中でも都会的で、派手で、見世物感のある作品である。旧家の呪いとは違う。これは都市の夜が育てた怪人の物語だ。

ネオンの裏、ファッションの裏、成功の裏。そこに溜まっていた醜さが、狼の歯と蛾の羽になって飛び出してくる。

美しいドレスの陰には、血の染みがある。

『吸血蛾』は、そのことを妙にけばけばしく、妙に楽しげに、そしてちゃんと嫌な気分にさせながら見せてくる一作である。

悠木四季

狼男の仮面や蛾の死骸といった派手な怪奇ガジェットが、雰囲気づくりだけでなく犯人像と過去の秘密をつなぐ核になっているところがおいしい。

14.『死神の矢』

おすすめ度:(2.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

恋の競技として放たれた矢が、密室殺人と痛切な復讐劇へ変わる端正な本格ミステリ。

湖上の的当てが、密室殺人と復讐劇へ反転する

琵琶湖の湖上にハート形の標的を浮かべ、それを射抜いた男に娘を嫁がせる。

婿選びの方法として、これはだいぶ嫌である。いや、嫌というか、最初から事件の匂いしかしない。

考古学者にして弓の蒐集家でもある古館博士が持ち出したこの奇妙な催しは、風雅というより執念の産物に見える。

横溝正史『死神の矢』は、そんな芝居がかった幕開けから、きれいに本格ミステリの地獄へ滑り込んでいく。

会場に居合わせるのは、休暇がてら釣りに来ていた金田一耕助と等々力警部。こういう偶然の巻き込まれ方が、いかにも金田一ものらしくて楽しい。競技では高見沢康雄が見事に的を射抜くのだが、直後に謎のモーターボートが現れ、放たれた三本の矢を持ち去ってしまう。

この時点ですでに不穏だが、夜の祝賀会で事件は一気に本番へ入る。求婚者の一人・伊沢透が、浴室の密室内で、自分のものだった白い羽の矢に胸を貫かれて死んでいるのだ。

この設定がまず面白い。矢という遠距離武器を使いながら、浴室は内側から閉ざされている。しかも犯行に使われたのは、本人が昼に射たはずの矢である。道具立ては派手なのに、やっていることは端正な不可能犯罪だ。

さらに一ヶ月後、第二の求婚者までもが、自分の青い羽の矢で殺される。この反復のきれいさが、いかにも本格ミステリ的でいい。

矢のトリックの鮮やかさと、復讐の痛ましさが並び立つ

『死神の矢』の魅力は、まずトリックの見せ方にある。婿選びの競技、色分けされた矢、密室の浴室、消えた三本の矢。どの要素もわかりやすく印象的で、しかも最後にはきちんと一本の論理に束ねられる。

横溝作品には怪奇趣味や因習の濃い長編も多いが、本作は比較的すっきりした骨格で、古典本格の手触りが前へ出ている。衒学的な趣向がありつつ、変に気取りすぎず、事件の見せ方が実にいい。

ただし、この作品がただのトリック小説で終わらないのは、被害者側の醜さがはっきり描かれているからだろう。求婚者たちは表向きには立派な男たちに見えても、過去を掘り返すと、三田村文代という美しいバレリーナを死へ追いやった卑劣な人間たちとして浮かび上がってくる。

ここで物語の空気が変わる。密室殺人の謎を追っていたはずなのに、いつのまにかこちらは、誰が矢を放ったかだけではなく、なぜここまでの憎しみが生まれたのかを見つめることになるのだ。

この切り替わりがとても横溝作品らしい。パズルの鮮やかさを残したまま、その底に人間の痛みや恨みを沈めている。犯人の行動はもちろん許されるものではない。だが、そこに至るまでの感情の重さを思うと、単純な断罪だけでは片づかない苦さが残る。金田一耕助が暴くのは、矢の飛び方だけではなく、過去に踏みにじられた人生の痕でもあるのだ。

金田一の役回りも本作では気持ちいい。等々力警部と並びながら、複雑すぎない事件の輪郭を着実に押さえ、最後に論理の芯を示す。

その解決には派手すぎる演出はないのだが、だからこそ矢のトリックの鮮明さが際立つ。長大な横溝作品にある濃密な因習劇とは少し違う、引き締まった本格ミステリとしての魅力がここにはある。

『死神の矢』は、見た目の華やかさに対して中身は苦い。湖上のハート形の的という、少し滑稽でさえある恋の舞台装置が、やがて死神の矢を呼び込む。この反転の美しさが、本作のいちばん忘れがたいところかもしれない。

恋を祝うはずの矢が、過去の罪を貫く復讐の武器へ変わる。その皮肉が、最後まで実に鮮やかである。

悠木四季

ハート形の標的、色分けされた矢、消えた三本の矢という舞台装置が、そのまま事件のロジックを支える骨組みになっているところが見事だ。

15.『魔女の暦』

おすすめ度:(2.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

浅草レビューの舞台裏で、不可能犯罪と劇団の欲望が連鎖する劇場型本格ミステリ。

浅草の舞台で、魔女たちは本当に人を殺し始める

舞台の上というのは、たいてい何かが嘘である。

照明も、衣装も、台詞も、血さえも。だからこそ、その嘘のど真ん中で本物の殺人が起きた瞬間の気味悪さは、ふつうの事件とはまるで質が違う。

『魔女の暦』は、そのいやらしい境目をついてくる作品である。

舞台は昭和三十一年の浅草、レビュー小屋「紅薔薇座」。ギリシャ神話を題材にした創作ダンス劇『メジューサの首』が大当たりし、客席は連日満員。その華やかな舞台に、「魔女の暦」と署名された不穏な予告状が届くところから、物語は始まる。

この導入がまずいい。浅草レビュー、三人の魔女、一つの目を共有する不気味な演出、そして差出人不明の挑戦状。横溝正史は、ときどきいかにも見世物的な舞台を用意して、そこに本格ミステリの刃を差し込んでくる。

本作はその代表格のひとつだ。金田一耕助が興行に通い詰め、観客と一緒に舞台を見守るうち、ついに事件が起きる。魔女役のひとり・飛鳥京子が、劇のクライマックスで毒を塗られた吹き矢に射抜かれて死ぬのである。

しかも、それは数百人が見ている前で起きる。舞台上では蛇の頭髪が揺れ、京子の姿はまるで本当にメジューサの首が転がったような凄惨な光景になる。ここが本作の強烈なところだ。もともと作り物の残酷さを見せる場で、現実の残酷さが混ざってしまう。

観客はすぐにはそれが本物の死だと理解できないかもしれない。その時間差まで含めて、とてもいやな場面である。

舞台の虚構を利用した、不可能犯罪の切れ味が鋭い

『魔女の暦』の見どころは、なんといっても「演劇」という作為の塊の中で、不可能犯罪を成立させてしまうところにある。

衆人環視の舞台で、どうやって吹き矢が放たれたのか。誰が、どこから、どうやってあの一撃を成立させたのか。この第一の事件だけでも惹きがあるのだが、本作はそこからさらに、予告状どおりに殺人を重ねていく。吹き矢、鎖、といった具合に凶器や手口が連鎖し、犯人はまるで演出家のように次の惨劇を仕掛けてくる。

この「劇場型」の感触がすごくいい。犯人はただ人を殺したいだけではなく、見せたいし、読ませたいし、金田一に解かせたい。挑戦状まで含めて、事件全体をひとつの舞台作品のように作っているわけだ。

なので『魔女の暦』は、普通の連続殺人ものよりもずっと芝居がかっている。だが、その芝居っ気がそのまま本格の面白さに直結しているのが見事なのだ。

もうひとつ大きいのは、劇団という場のどろどろした人間関係である。レビュー小屋の世界は表向きには華やかだが、裏に回れば、パトロン、内縁関係、不倫、嫉妬、立場争いが渦巻いている。美貌の青年俳優をめぐる情念もあれば、支配人の執着もある。

つまり、舞台の外でも人間たちは十分すぎるほど芝居をしているのだ。ここが実に横溝正史らしい。舞台上の仮面だけでなく、日常の顔もまた仮面である、という嫌な実感がずっとつきまとう。

浅草という場所の選び方も効いている。戦後の混沌と活気、安っぽい夢と生々しい欲望が入り混じるあの街の空気が、この作品にはよく似合う。山奥の旧家や湖畔の館とは違い、『魔女の暦』の恐怖はもっと猥雑で、もっと熱気がある。照明の熱、楽屋の湿気、客席のざわめき。そんな空気の中で殺人が起こるから、妙に現実感があるのだ。

金田一耕助も、この作品では少し熱い。犯人からの露骨な挑発に対して、いつもの飄々とした感じだけでは済まない場面がある。名探偵としての意地が前に出る、というか、虚構の舞台を使って人を弄ぶ犯人に対して、ちゃんと腹を立てている感じがあるのだ。その感情が見えるぶん、解決編にも独特の熱が宿る。

『魔女の暦』は、横溝正史の中でも舞台性の強い作品である。エログロの匂い、芸能界の裏側、不可能犯罪のロジック、挑戦状の遊び心。その全部が浅草レビューの舞台に押し込められている。

しかも最後には、生命保険や脚本の意図といった別の線まで絡み合い、複数の伏線がきれいに収束していく。このあたりの構成はとくに気持ちいい。

浅草レビューの華やかさ、舞台裏の愛憎、観客の前で起きる本物の死。

それらが混ざり合った紅薔薇座は、最後には舞台というより、欲望を閉じ込めた見世物小屋のように見えてくる。

悠木四季

舞台の虚構と現実の殺人をねじり合わせた発想が鮮やかな、横溝正史らしいエログロ本格の快作だ。

16.『迷路荘の惨劇』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

からくり屋敷と隻腕の亡霊めいた影が、二十年前の怨念を現在の殺人へつなぐ館ミステリの快作。

からくり屋敷の奥で、二十年前の怨念がまだ息をしている

こういう館ものを出されると、やはり少し身を乗り出してしまう。

どんでん返し、隠し扉、地下通路、巨大な洞窟。しかもそこに、二十年前の血なまぐさい事件と、左腕のない男の亡霊めいた噂まで重なるとなれば、もう舞台装置として強い。

『迷路荘の惨劇』は、その名の通り「迷路」を中心に据えた作品だが、面白いのは屋敷の構造だけではない。迷っているのは人の出入りだけではなく、過去と現在、愛情と憎悪、正体と偽装の境界そのものなのである。

舞台となる名琅荘、通称「迷路荘」は、富士の裾野に建つからくり屋敷だ。明治の元勲が建てた別邸で、屋敷のあちこちに仕掛けが施されている。これだけでも十分に魅力的なのだが、本作はそこへ昭和五年の惨劇を重ねてくる。

当時の当主・古館一人伯爵は、妻の不貞を疑って彼女を殺し、さらに相手と目された尾形静馬の左腕を切り落とす。しかし逆に返り討ちに遭い、静馬は裏手の「鬼の岩屋」へ逃げ込んで消息を絶つ。もうこの背景だけで、一本長編が書けそうな濃さである。

そこから二十年後、屋敷は新興実業家・篠崎慎吾の手に渡り、ホテルとして再出発しようとしていた。だがそこへ、篠崎の名刺を持つ左腕のない謎の客が現れ、忽然と姿を消す。さらに古館家の息子が殺され、続いて密室の浴室殺人まで起きる。

過去の亡霊が戻ってきたように見えるが、もちろん横溝正史がそんな話をそのまま怪談で終わらせるわけがない。

迷路そのものが、犯人の武器になっている

『迷路荘の惨劇』の醍醐味は、やはり屋敷の構造がそのままトリックの核になっているところにある。

こういう屋敷が出てくるミステリは、雰囲気だけで終わってしまうものもあったりする。だが本作では、隠し扉も抜け穴も地下通路も、ちゃんと犯人の移動経路やアリバイ崩しに関わってくる。

しかも人工の仕掛けだけでなく、天然の洞窟まで組み合わさるから厄介だ。館の中と外、地上と地下がねじれたようにつながっていて、読んでいるこちらも地図を頭に浮かべながら追いかけることになる。この感覚がとても楽しい。

同時に、本作は隻腕の男という強烈な記号を使って、二十年前の因縁を現在へ引きずり出してくる。尾形静馬は本当に生きているのか。誰かがその影を利用しているのか。

そのホラーめいた不安と、最後に明かされるロジカルな解決の落差が良い。怪談のように始まるのに、最後はきっちり本格として決まる。このあたりは横溝正史の凄さがよく出ている。

人物まわりも意外と濃い。篠崎慎吾と倭文子のねじれた関係、没落した側の誇り、新興の側の欲望、戦後社会で居場所を探す人々の忠誠心。単なる館のパズルに終わらず、時代の変わり目の空気まで滲んでいるのがいい。だから真相が見えてくると、からくりの面白さ以上に、人間の感情のややこしさが残る。

『迷路荘の惨劇』は、館もの好きにはうれしい一作である。からくり屋敷の楽しさ、隻腕の男の怪奇性、密室殺人の切れ味、そして終盤の少し粋な余韻まで揃っている。

からくり屋敷を歩いていたつもりが、気づけば二十年前の惨劇の中まで入り込んでしまう。

その引きずり込み方が、実に横溝正史らしい。

悠木四季

抜け穴だらけの屋敷の面白さと、過去の因縁が現在へ噴き出す重苦しさが見事に両立した完成度の高い長編だ。

17.『悪魔の手毬唄』

おすすめ度:(5.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

童唄見立ての連続殺人を通して、村の因習と血縁の悲劇をえぐり出す金田一シリーズ最高峰の一作。

手毬唄が鳴るたび、村の過去が血を吹き返す

こういう話を読まされると、横溝正史はやはり怖い。

怪奇趣味が怖いのでも、因習の濃さが怖いのでもない。そういうものを全部使いながら、最後には人間のどうしようもなさだけを、やけにくっきり残していくところが怖いのである。

『悪魔の手毬唄』は、まさにその代表みたいな作品だ。童唄をなぞる連続殺人、二十三年前の未解決事件、村を二分する旧家同士の対立、そして歌に埋め込まれた血縁の秘密。材料は横溝ミステリの王道だが、その組み上げ方があまりに美しく、あまりに残酷で、シリーズ最高傑作の名が挙がるのもよくわかる。

物語の舞台は、岡山県と兵庫県の県境にある鬼首村。長引く事件で疲れていた金田一耕助は、磯川警部の紹介でこの人里離れた村を訪れ、温泉宿「亀の湯」に滞在することになる。

ここでまず重要なのが、金田一が最初から新しい事件のために来たわけではない点だ。発端にあるのは、二十三年前に起きた「亀の湯」の主人・青池源治郎殺しである。顔を焼かれて殺されたまま、真相は長く宙に浮いたまま。その古傷がうずくところへ、村出身の人気歌手・大空ゆかりの帰郷が重なり、村は祝祭めいた熱気に包まれる。

しかし、横溝作品の祝祭はたいてい長く続かない。やがて村に伝わる不気味な手毬唄になぞらえて、若い娘たちが次々と殺されていく。由良家の娘、仁礼家の娘。死体には「枡」や「秤」など、唄の詞章を思わせる異様な意匠が添えられている。この見立ての強烈さがまず凄い。

『獄門島』の俳句見立ても見事だったが、『悪魔の手毬唄』では、そもそもその唄自体が横溝正史の創作である。にもかかわらず、まるで昔から村にあった呪いの唄みたいに響く。この手つきが本当に好きだ。

童唄殺人の完成形が、人間の悲劇へそのままつながっている

『悪魔の手毬唄』の見どころは、もちろん手毬唄を使った見立て殺人の完成度にある。

唄の歌詞が予告であり、暗号であり、犯人の情念の発露にもなっている。死体に施された装飾はただの悪趣味ではない。むしろ、犯人の胸の中で長く煮え続けてきた感情が、どうしてもそういう形でしか現れなかったように見える。

だからこの作品の見立ては、派手な演出で終わらない。残虐なのに、どこか切実なのだ。しかも本作のすごいところは、その見立ての恐ろしさがちゃんと大きな物語の骨組みとつながっている点である。

二十三年前の殺人、恩田幾三という怪しい男の存在、旧家同士のいびつな対立、そして村に残された血の混線。それらがばらばらに置かれているようで、最後には一本の線につながる。

ここで浮かび上がるのは、単なる犯人当てではない。家父長制や因習、女たちの生きづらさ、血筋に振り回される人生そのものだ。村に残された種が、次の世代の悲劇を呼び寄せる。この構図の冷たさが読んでいてきつい。

本作でもうひとつ大きいのが、磯川警部の存在である。金田一ものには名脇役が多いが、磯川はその中でも特別だと思う。金田一が心から信頼している相手であり、地方の事件にしみついた人情や痛みを、彼は自分の身体で知っている。

その磯川が、「亀の湯」の女将リカに対して抱いてきた気持ちが、事件の背景にうっすらと差している。この成分があるから、『悪魔の手毬唄』はただの名作本格で終わらない。事件が解けたあとに残る情感まで含めて、作品の厚みになっているのだ。

金田一耕助の推理も、もちろん冴えている。だが本作では、名探偵の鮮やかさだけを味わうには少しつらい。真相が明かされるほど、ここまで来るしかなかった人間たちの痛ましさが見えてしまうからだ。

とりわけ、顔を焼かれた死体という本格ミステリの伝統的な仕掛けが、ここではあまりにも悲しい文脈で使われる。この再定義の仕方が見事すぎて、うまい、などという軽い言葉では済ませにくい。

『悪魔の手毬唄』は、横溝正史の代表作というだけでなく、彼が得意としてきたものがほとんど全部入っている作品だと思う。

村の因習、見立て殺人、過去の事件、血縁の秘密、地方警察との連携、そして最後に差し込まれるやるせない情感。それらがひとつの唄の中に、きれいすぎるほど収められている。

手毬唄は、本来なら子どもの遊びの歌である。けれどこの作品では、それが村の罪を数え上げるための暦になってしまった。

事件は解かれるが、村に染みついた悲しみまでは消えない。『悪魔の手毬唄』は、その苦さまで含めて、横溝正史の到達点と呼びたくなる作品である。

悠木四季

見立て殺人の美しさと、人間ドラマの切なさがこれ以上ない密度で噛み合った、横溝正史の代表作中の代表作だ。

18.『壺中美人』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

壺に消える曲芸の怪しさを使って、思い込みをひっくり返す異色の不可能犯罪ミステリ。

壺の中から消えたのは、人間か、それとも正体か

人が壺の中に入る、というだけで少し変である。

しかもそれが単なる曲芸ではなく、殺人事件の現場から犯人が消えるための手段かもしれないとなると、一気に話はいやな輝きを帯びてくる。

『壺中美人』は、そんな妙な絵面を真正面から持ってくる作品だ。巨大な壺、関節をありえない角度に曲げて潜り込む女、そして密室同然のアトリエ。怪奇趣味の匂いが濃いのに、最後はきっちり本格ミステリとして着地する。この混ざり方が実に横溝正史らしい。

発端は、陶器収集を趣味とする画家・井川の殺害である。場所は成城の高級住宅街にある自宅アトリエ。第一発見者の女中・たえが見たのは強烈な光景だ。

血塗られたパレットナイフを握ったまま、室内の巨大な壺の中へ、身体をねじ込むように入っていく不気味な女。ところが警察が駆けつけたとき、壺の中は空っぽ。現場はほとんど密室状態で、犯人はまるで壺の中からこの世ごと消えてしまったように見える。

この時点で勝っている。壺に消える美女、というだけなら見世物として成立する。だがそこに殺人が重なることで、見世物の不気味さがそのまま犯罪の不可能性へ変わる。

金田一耕助と等々力警部が思い出すのは、二人でテレビ観戦した中国曲芸「壺中美人」。一抱えもある壺に美女が入り、いつのまにか消えてしまう、あの胡散臭くも魅力的な芸だ。

この発想の持っていき方が面白い。戦後の新しい娯楽や風俗を、横溝正史はちゃんとミステリの部品にしてしまう。

見た目の怪しさの奥で、身元と性別の境界が揺さぶられる

『壺中美人』のいちばんの見どころは、もちろん「壺の中に人間が消える」という不可能興味だ。

壺の大きさと人間の体格はどう考えても噛み合わない。だったら何を見落としているのか。ここで横溝正史が持ち出してくるのが、身体の柔軟性、視覚的な思い込み、そして「誰を見ていたのか」という認識そのもののズレである。

壺という閉じた空間を使って、人間の正体まで曖昧にしてしまう。この発想がいやらしくて、すごく好きなところだ。

本作が面白いのは、単なる物理トリックに終わらないところにもある。捜査が進むにつれて、井川の遺産をめぐる複雑な家庭事情が見えてくる。つまり事件の核には、いつもの横溝正史らしく金と血縁と欲望がしっかりあるのだ。

巨大な壺や曲芸という派手な小道具は、その上にかぶせられた目くらましにすぎない。いや、すぎないと言うと小さく聞こえるが、むしろこの目くらましがあまりにも鮮やかだからこそ、背景にある人間関係のどろどろが後からよく効いてくるのである。

さらに本作では、とある思い込みが重要な意味を持つ。ここがこの作品のちょっと不穏で、ちょっと先を行っているところだ。当時の社会感覚を映した部分もあるので、いま読むと引っかかる箇所がないとは言いにくい。

だが少なくとも横溝正史は、見た目と身体、社会的な役割と実際の個人が必ずしもきれいに一致しないことを、早い段階でミステリの核に持ち込んでいた。壺の中に隠されていたのは犯人の身体だけではなく、周囲が勝手に決めつけていた「その人らしさ」だった、とも言える。

金田一と等々力警部のやりとりも、この作品ではとても楽しい。白黒テレビを一緒に見て、中国曲芸の話題で盛り上がる二人の姿には、事件前の少しのんきな空気がある。大事件の前に、ふっとこういう生活の匂いが入るのがいい。金田一ものは、怪奇と猟奇の印象が先に立ちやすいが、こういうちょっとした日常描写があることで、かえってその後の異様さが際立つ。

『壺中美人』は、シリーズ屈指の有名作という感じではないかもしれない。けれど、見世物小屋めいた怪しさ、戦後東京の風俗、本格ミステリの論理、そして人間の欲望が一つの壺の中にぎゅっと押し込まれているような面白さがある。

派手な長編とは少し違うが、そのぶん仕掛けの妙がはっきり見える一作だ。

長編大作の迫力とは違うが、こういう妙な小品にこそ横溝正史の悪戯っぽい冴えが光る。

悠木四季

巨大な壺という視覚的なインパクトの強い装置が、犯人の隠蔽工作と認識の錯誤を支える核心になっているところが見事なのだ。

19.『支那扇の女』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

悪女の肖像と夢遊病の不安を利用して、血の宿命に見せかけた殺意を組み上げる妖しいミステリ。

肖像画の悪女が、七十年越しに現代へ戻ってくる

昔の事件は、終わったから昔になるわけではない。

いったん片づいたように見えても、誰かの恨みや恐怖の中でまだ生きていて、ある日ふいに別の顔で戻ってくることがある。

『支那扇の女』は、まさにそういう話である。しかも戻ってくるのが、明治時代の毒殺魔として知られた女の肖像画だというのだから、横溝正史らしい怪しい匂いが最初から濃い。

舞台は成城の高級住宅街。人気児童文学作家・辺見の邸宅で、凄惨な流血事件が起きる。廊下には寝巻姿の妻・美奈子が血溜まりの中に倒れ、離れでは義母が額をザクロのように割られて死んでいる。もう冒頭の時点で絵が強い。

しかも美奈子は一命を取り留めたものの、自分が明治の毒殺魔・八木克子の肖像画「支那扇の女」に瓜二つであること、さらに自分に夢遊病の癖があることに怯えている。自分が眠っているあいだに殺してしまったのではないか。そう思い詰めて、自殺まで考えてしまう。この導入の不穏さはなかなかのものだ。

ここで効いてくるのが、「肖像画」という古典的すぎるほど古典的な装置である。過去の悪女の顔と、現代の女の顔がぴたりと重なる。血は似姿として現れ、運命まで引き寄せるのか。そんなゴシック小説めいた不安を、横溝はただの雰囲気で終わらせない。

夢遊病という心理的な盲点、失われた支那扇、辺見の複雑な女性関係、不自然なアリバイ。怪談じみた入口から入っておきながら、やがて話はきっちり人間の計算と悪意のほうへ収束していく。

悪女の顔を借りて、人間の恨みが動き出す

『支那扇の女』の面白さは、まず「血の宿命」といういかにも抗いがたい題材を、論理の土俵へ引きずり下ろしているところにある。

美奈子が夢遊病であること、悪女の肖像に生き写しであること、それ自体は本人の意志ではどうにもならない。そこに真犯人がつけ込み、本人に「もしかして自分がやったのではないか」と思わせる。ここがいやらしい。

殺人そのものだけでなく、罪の意識まで植えつけようとする計画だからだ。肉体に傷を負わせるだけでなく、心まで壊しにくる。そこにこの作品の本当の冷たさがある。

しかも本作では、その仕掛けの中心に「肖像画」がある。絵というのは本来ただの像でしかないのに、そこへ血筋や噂や過去の犯罪の記憶が貼りつくと、一気に呪物のような力を持ち始めてしまう。『支那扇の女』では、その怖さがよく出ているように思う。

悪女の面影がいまも誰かの顔に現れる、というだけで人は十分に怯えるものだ。そこへ夢遊病まで重なるのだから、美奈子が自分を疑ってしまうのも無理はない。

ただ、読み進めるほど見えてくるのは、血の呪いよりむしろ人間の執念のほうである。辺見の周囲にある複雑な女性関係、過去から持ち越された感情のもつれ、そして周到に組まれた隠蔽。

真相の核にあるのは超自然ではなく、長い時間をかけて醸成された恨みと欲望だ。この感じが横溝正史らしい。怪奇の仮面をかぶって現れるが、最後に顔を出すのは結局いつも人間の感情なのである。

金田一耕助の立ち位置も、この話ではなかなか面白い。本作は、金田一の助手・多門修が初登場する作品としても知られていて、探偵事務所の仕事ぶりや金田一の職業人としての顔が少し強めに出ている。

金田一というと、地方の旧家にふらりと現れて事件を解くイメージが強いが、ここではちゃんと都市の探偵として動いている感じがある。助手とのやりとりも含めて、少し都会的で、少し現代的だ。そのぶん、成城の高級住宅街という舞台もよく似合う。

『支那扇の女』は、長大な代表作群に比べると規模はややコンパクトかもしれない。だがそのぶん、肖像画、夢遊病、血の因縁、アリバイ工作といった要素がきれいにまとまり、密度の高い一作になっている。

ゴシックホラーの入口から入って、本格ミステリの出口へ抜ける。その途中で、人がどれほど長く恨みを育てられるかを見せつけられる。短めでも満足感が強いのは、そのせいだと思う。

悠木四季

肖像画に似ているという不安と夢遊病の癖が、本人に自己疑惑を抱かせる心理トリックとして働いているところがとてもうまい。

20.『扉の影の女』

おすすめ度:(3.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

銀座の裏路地で交差した偶然と悪意が、都会ならではの乾いた悲劇を生む異色の金田一ミステリ。

銀座のネオンの裏で、偶然と悪意がぶつかり合う

横溝正史というと、山奥の旧家や因習の村など、そういう湿った場所をまず思い浮かべる。

だが『扉の影の女』は、そのイメージを少し横へずらしてくる。舞台は昭和三十年の年の瀬、銀座や築地を中心とした大都会だ。

ネオン、バー、裏路地、橋の下、夜行急行。人が多く、光も多いのに、そのぶん誰かの不幸があっけなく見えなくなってしまう。そんな都会特有の冷たさが、この作品には濃く漂っている。

事件の発端は、銀座の高級バー「モンパルナス」に勤める加代子が、深夜の曳舟稲荷の路地裏で一人の男とぶつかる場面である。男は慌てて飛び出してきて、血のついたハット・ピンを落としていく。

ここからはもう映画のようだ。深夜の路地、ぶつかった相手、落ちた凶器めいた小物。横溝作品の中でも、本作はずいぶん都会的なスリラーの顔をしている。

やがて築地の橋の下で、加代子の恋敵だった女の死体が見つかる。だが加代子の証言では、犯行の現場は築地ではなく西銀座の路地裏であるはずだった。では死体はなぜそこへ移されたのか。そもそも加代子の見たものは何だったのか。

ここから事件は、単純な殺人では済まない様相を見せ始める。被害者のパトロンである資産家、浮気性のボクサー、ヒロポン中毒に苦しむ名家の娘。都会の夜に集まる人間たちが、それぞれ別の欲望や破綻を抱えたまま、少しずつ事件の輪の中に入ってくる。

旧家の呪いではなく、都会の偶然が人を殺す

『扉の影の女』の面白さは、因習や血筋の呪いではなく、都会の無機質な偶然が事件を複雑にしていくところにある。

本作の背後にはヒロポン密売組織の存在があり、路地裏はレストランの裏口を隠れ蓑にしたその拠点でもあった。さらに、そこへ轢き逃げ事故まで重なってくる。

つまりこの作品では、ひとつの明確な悪意だけで世界が動いているわけではない。悪意、欲望、依存、偶然、そしてその場しのぎの隠蔽がいくつも重なりあって、結果として悲劇が膨らんでいくのである。

このあたり、なかなか現代的でもある。横溝作品の多くは、過去の罪が長い時間を経て噴き出す形を取る。だが『扉の影の女』は少し違う。もちろん背景には人間のだらしなさや身勝手さがあるのだが、それ以上に「都会では不幸が連鎖しやすい」という感触が強い。

誰かひとりの巨大な悪意というより、皆が少しずつ壊れていて、その壊れ方がたまたま最悪の形で接触してしまう。読後に残るのは、旧家ものとは別種の虚無感だ。

本作でもうひとつ楽しいのは、金田一耕助の日常がはっきり見えるところである。浪費癖、経済的な困窮、依頼料をめぐる現実的なやりとり、そして等々力警部との長年の信頼関係。

名探偵というより、都市でどうにか食っている探偵としての金田一が見える。これがいい。ボサボサ頭の天才探偵でありながら、生活は案外みみっちい。その人間くささが、都会の事件にはよく似合う。

等々力警部との距離感も本作では魅力的だ。地方警察との名コンビものとはまた違って、東京の雑多な事件を前にした二人には、付き合いの長い仕事仲間らしい呼吸がある。派手に感情をぶつけ合うわけではないが、互いの腕を信じているのがよくわかるのだ。この安定感が、作品全体の乾いた空気の中でちょっとした救いにもなっている。

また、昭和三十年代初頭の東京の風俗が細かく入っているのも面白い。ヒロポン、公職追放解除、ハット・ピン、夜行急行「月光」。いまでは少し遠い記号ばかりだが、それが単なる時代の飾りではなく、ちゃんと事件のピースになっている。横溝正史はこういうのが本当に得意だ。時代の空気を閉じ込めたまま、それをミステリの論理へつなげてしまう。

ネオンに照らされた欲望、薬で濁った目、恋に敗れた苛立ち、そして偶然という名の小さな事故。それらが夜の銀座でぶつかったとき、人はあっけなく死体になり、真相は別の場所へ運ばれていく。

『扉の影の女』は、横溝正史が都市の明るさの裏に見た、ひどく乾いた闇の記録である。

悠木四季

旧家の因習ではなく都市の風俗と無機質な連鎖で読ませる、都会派金田一の拾いもの的な佳作だ。

21.『スペードの女王』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

消えない刺青を逆手に取り、身元の混乱と入れ替わりを成立させる視覚トリック系本格ミステリ。

顔を消しても、皮膚に刻まれた証は消えない

顔を消せば、誰だかわからなくなる。

これはミステリにおいてとても古典的な発想だが、『スペードの女王』はそこにひとつ厄介な要素を持ち込む。

刺青である。

消えない印をわざわざ残しておきながら、同時に身元を曖昧にする。この矛盾した状態をどう成立させるのか。その一点だけでも惹きつけられる。

物語は、世田谷へ拠点を移した金田一耕助のもとに持ち込まれる、妙に生々しい相談から始まる。未亡人の語る話は、いかにも怪しい。亡き夫は刺青師「彫亀」。あるとき目隠しされて連れ去られ、眠らされている若い女の内股に「スペードの女王」を彫らされたという。

ここからすでに、江戸川乱歩的な湿度が高い。だが横溝正史はこれを雰囲気だけで終わらせない。この奇妙な体験談が、そのまま現実の死体へ接続される。

やがて片瀬の海岸で、首を切り落とされた女の死体が発見される。そしてその内股には、例の「スペードの女王」の刺青。これで一気に話は加速する。顔はないのに、識別できるはずの印がある。

だがその印が、かえって混乱を広げていく。さらに同じ刺青を持つ別の女の存在まで浮上し、事件は単純な身元特定の話ではなくなっていく。

消えない印が、むしろ正体を曖昧にする

『スペードの女王』の面白いところは、「刺青」という本来は個体識別に使えそうな要素を、逆にトリックの中心へひっくり返している点にある。

顔がない死体という古典的な仕掛けに、消えないはずの印を重ねる。普通ならこれで身元は確定しそうなものだが、そうならない。むしろ刺青があることで、誰が誰なのかがさらに混線する。この構造がとてもいい。証拠が増えるほど真相が遠のく感触が、きれいに作られている。

刺青という題材そのものもいい。皮膚に刻まれた図柄は、単なる模様ではなく、その人の身体の一部であり、同時に他人の手で与えられた痕跡でもある。そこに支配や記憶のニュアンスがどうしても混ざってしまう。

本作では、その妖しさがそのまま事件の雰囲気を支えているのだ。目隠しされた彫り師が、闇の中で施術する場面などは、ほとんど儀式のようで印象に残る。

舞台が江の島へ移ってからの展開もいい。片瀬の海岸、島の入り組んだ地形、逃げ場の少ない空間。トラベル・ミステリ的な楽しさと同時に、どこか閉じ込められているような感覚がある。横溝正史のこういう場所の使い方がやはり好きだ。広がりがあるのに、心理的には追い詰められていく感じがある。

さらに本作では、戦後の闇、麻薬密売といった要素も絡んでくる。ただしそれが前面に出すぎることはない。あくまで人間関係の歪みを補強する材料として機能している。このバランスが絶妙だと思う。社会的な背景を入れつつ、最終的にはしっかり「誰が誰と入れ替わったのか」という本格の核心へ収束していく。

金田一耕助の立ち回りも、今回はわりと受難気味である。中盤で窮地に立たされる場面があり、単に余裕で解いていく探偵ではない。そのぶん終盤の解決が効いてくる。刺青の位置や図柄のわずかな差異、人間の思い込み、その積み重ねで真相が浮かび上がる過程はとても気持ちいい。

『スペードの女王』は、派手な見立て殺人で押すタイプの作品ではない。むしろ、視覚的に強烈なモチーフを使いながら、その内側では緻密なパズルを組んでいる。

怪奇と論理の距離感が絶妙で、読んでいるあいだずっと少し気味が悪く、それでいて最後にはちゃんと腑に落ちる。

顔を消したはずの死体は、何も語らない。

だがその皮膚に刻まれた印だけが、嘘と真実を同時に指し示してしまう。

そのねじれた構造こそが、この作品のいちばんの魅力である。

悠木四季

身元特定に役立つはずの刺青をあえて残すことで、逆に人物の識別を混乱させる二重構造が見事だ。

22.『悪魔の寵児』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

死体への異常な執着と戦後社会の歪みが結びついて生まれた、金田一シリーズ最凶クラスの猟奇長編。

雨のたびに現れる怪物が、死体を作品へ変えていく

横溝正史を読んでいると、ときどき「これは本当に金田一ものなのか」と妙な顔をしたくなる作品に出くわす。

もちろん金田一耕助はいる。謎もある。犯人当てもある。だが、その外側に広がっている闇の質が、どうにもいつもより濃い。『悪魔の寵児』は、まさにそういう一作である。

金田一シリーズの中でもとりわけエログロ色が濃く、死体の扱いから犯人の嗜好まで遠慮がない。しかもそれを単なる悪趣味で終わらせず、戦後社会の歪みや、人間の愛情の壊れ方へつなげてしまう。そこが怖い。

物語は、新興実業家・風間欣吾の愛人たちのもとに届く、奇妙な挨拶状から始まる。風間の妻・美樹子と、彼女の肖像画を描いていた画家・石川宏の連名による外遊の知らせ。だがその葉書には不吉な黒枠が施されている。

この嫌な感じが好きだ。何かを祝っているようで、すでに弔いの匂いがする。そして案の定、愛人たちが石川のアトリエを訪ねると、そこには絞殺された美樹子の死体と、瀕死の石川がいる。ここまではまだ、異常な心中偽装事件と見えなくもない。

だが本作が本気を出すのはここからだ。警察の監視下にあったはずの美樹子の死体が、何者かに盗み出されるのである。死体が消える。しかもただ隠されるのではなく、その後、蠟人形館で「作品」のように加工された形で現れる。これがもうめちゃくちゃきつい。

人が殺されるだけでも十分なのに、その死体に対してなお執着が向けられ、別の意味を与えられてしまう。『悪魔の寵児』の怖さは、殺人そのものより、その先にある。

怪奇の見せ場の奥で、戦後の歪みが腐っている

本作の最大の見どころは、やはり死体の扱いにある。横溝作品には猟奇的な死体描写が少なくないが、『悪魔の寵児』はその中でも一段深いところまで踏み込んでいる。

死体は証拠ではなく、犯人の歪んだ感情を映す対象だ。蠟人形として塗り込める、組み合わせて異様なオブジェにする。その発想は生理的に厳しい。だが、その嫌悪感の強さこそが、この作品の中心にある倒錯の深さを示している。

しかも犯人像として置かれる「雨男」がまた強烈だ。防水レインコートに長靴、黒眼鏡。雨の日にだけ現れる怪人というだけで十分に印象は強いのだが、この設定がきっちりミステリの装置にもなっているのが面白い。

雨具は匿名性を高め、体格も顔も曖昧にする。複数の人物が同じ格好をすれば、誰が誰だかわからなくなる。つまり「雨男」は怪奇趣味の見せ場であると同時に、ミスディレクションの核でもあるのだ。

ここに本格推理としての気持ちよさがある。蠟人形館だの死体愛好だの、材料だけ見ると変格寄りなのに、金田一はそこを血液型鑑定なども交えながら、ちゃんと論理で詰めていく。このバランスが横溝らしい。

どれほど嫌なものを見せられても、最後には「誰が何をどうやったのか」へ戻ってくる。その帰還の感触があるから、読んでいられるのだと思う。

ただし、本作を本当に重くしているのは風間欣吾という人物だろう。この男が実に不快だ。自立した女を愛人として囲いながら、家庭には旧貴族の娘を据える。

新しい時代の自由と、古い制度の都合のいい部分だけを両方つまみ食いしているような人間である。まさに「戦後派の怪物」という言葉が似合う。事件の背景にあるのは、こういう男に踏みにじられた女たちの時間であり、血のつながりや居場所を奪われた者たちの蓄積された痛みだ。

だから『悪魔の寵児』は、ただの猟奇小説では終わらない。犯人の嗜好は異常で、行為も救いがたい。けれど、その怪物性の土台には、戦後社会が生んだゆがんだ人間関係がある。愛情が支配になり、保護が搾取に変わり、家族という形すら人を守らない。その果てに現れる「悪魔の寵児」は、突然変異の怪物ではなく、社会の歪みが育ててしまった怪物なのだ。

金田一耕助は、そんな地獄のような事件の中を歩き続ける。等々力警部らおなじみの顔ぶれとのやりとりが、かろうじて息継ぎの場所にはなる。だが結末は決して軽くない。むしろ、真相が明かされてもなお悪の連鎖が終わっていないことが見えてしまう。

この後味の悪さが、『悪魔の寵児』を単なるショッキングな異色作で終わらせていない。シリーズ屈指の不気味さとは、たぶんこの「まだ続くかもしれない」という感じのことだ。

死体を作品に変えるのは、愛ではない。だがその歪んだ執着は、愛に似た顔をして人に近づいてくる。

雨男の怪奇性、蠟人形館の悪趣味、戦後社会のゆがんだ人間関係。

それらがひとつに絡み合ったとき、事件は単なる猟奇殺人ではなく、人間そのものが腐っていく物語になる。

悠木四季

エログロの過激さを前面に出しながら、その奥で血脈とアイデンティティの喪失を描き切る、重たく不気味な問題作だ。

23.『白と黒』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

高度成長期の団地を舞台に、匿名性と監視の不安が複雑な犯罪へ変わっていく都会派金田一ミステリ。

団地の白い壁の内側で、過去はまったく消えていなかった

横溝正史というと、どうしても山奥の旧家や因習の残る村を思い浮かべてしまう。

だが『白と黒』は、そのイメージを鮮やかに裏切ってくる。

舞台は昭和35年、高度経済成長の象徴でもあった最新のマンモス団地「日の出団地」。コンクリートの箱が整然と並び、誰もが新しい生活を始められそうに見える場所だ。ところが、その新しさのただ中で起きるのは、横溝作品らしいどろどろした人間の感情である。この取り合わせがまず面白い。

事件の発端は、団地にばらまかれる怪文書だ。そこには住人たちが隠しておきたい過去や、他人に知られたくない事情が執拗に書き立てられている。団地というのは、本来ならみんなが平等に、きれいな箱の中で新しく暮らすための場所だったはずだ。

だが実際には、壁一枚隔てた向こうにどんな人生があるのかほとんどわからない。その匿名性が、怪文書によって一気に毒へ変わる。誰が書いたのか。誰がどこまで知っているのか。そこから疑心暗鬼が広がり、空気が一気に悪くなる。

そこへさらに、ダストシュートから女の死体が見つかる。しかも顔は工事用タールで塗りつぶされ、判別できない。ここが実にいやらしい。無機質で近代的な団地の設備が、そのまま死体遺棄の装置になってしまうのだ。

古い土蔵でも井戸でもない。最新の団地だからこそ成立する犯罪。この発想がいい。

近代的な団地を舞台に、人間の古い闇がむき出しになる

『白と黒』の見どころは、まず舞台設定のうまさにある。団地という場所は、田舎の共同体とは違って、血縁や因習でつながっているわけではない。だが、だから安心というわけでもない。むしろ、隣人の顔が見えないまま距離だけは近い。

そういう都会的な不安が、この作品では強く前へ出ている。近代的な生活空間の中で、人間関係だけがまるで近代化していない。このねじれが本作の怖さだと思う。

そして、タイトルにもなっている『白と黒』が良い。最初は単なる色の対比に見えるのに、捜査が進むにつれて、それが時代や価値観、人間の隠してきた部分に深く関わる言葉だとわかってくる。

このキーワードの回収が見事で、本作をただの団地ミステリで終わらせていない。昭和30年前後の社会の空気まで巻き込みながら、金田一が少しずつ意味を掘り当てていく流れは本当に気持ちがいい。

それに、本作は「ひとりの犯人が全部やった」という単純な形を取らない。怪文書を書いた者、殺した者、隠した者。それぞれが別の思惑で動き、その結果として事件が複雑化していく。ここが面白い。

巨大な悪意が一つあるというより、皆が少しずつ自分を守ろうとして、最悪の形で噛み合ってしまう。団地という場所にふさわしい、現代的な複合犯罪のかたちである。

金田一耕助も、この作品では少し違って見える。名探偵としてぐいぐい押し切るというより、住人たちの話を聞き、秘密をほどき、半ば相談役のように振る舞う場面が多い。その人間味がこの作品にはよく合っている。閉ざされた村で因習を暴くのとは違い、団地では人の心のほころびを一つずつ拾う必要があるからだ。

『白と黒』は、横溝正史が自分の得意な世界をきちんと更新してみせた作品だと思う。古い村を離れ、誰もが新生活を夢見る団地へ舞台を移しても、人間の心に沈むものはたいして変わらない。

白く塗られた壁の中で隠されていたのは、清潔な未来ではなく、持ち込まれた過去の澱だったのだ。

悠木四季

ダストシュートや怪文書といった団地ならではの要素が、現代的な匿名性の恐怖とそのまま結びついているところが抜群に面白いのだ。

24.『悪魔の百唇譜』

おすすめ度:(3.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

唇紋という異様な証拠物件を核に、過去の脅迫と現在の連続殺人を結びつける都会派本格ミステリ。

唇の記憶が、五年前の罪をいまも離さない

こういう題名を出されると、まず少し身構える。百唇譜。字面からして、まともな趣味ではない。しかもそれが「悪魔の」と来るのだから、当然ただごとでは済まない。

横溝正史『悪魔の百唇譜』は、その不穏な題名にたがわず、嫌な執着を事件の中心に据えた作品である。しかも、その嫌さを単なる怪奇趣味では終わらせず、都市型の本格ミステリとしてきっちり成立させているところが良い。

物語の幕開けは鮮烈だ。成城の高級住宅街に乗り捨てられた外車。そのトランクの中から、胸をえぐられた美女・本郷朱美の刺殺体が見つかる。しかも傍らには、トランプの「ハートのクイーン」。

この導入がまず強い。死体、カード、外車。どれも視覚的に派手で、いかにも何かのルールに従った連続殺人の始まりを思わせる。さらに別の場所では男子高校生が殺され、そこには「ハートのジャック」が残される。

ではカードの意味は何か。被害者の属性なのか、順番なのか、それとも別の暗号なのか。こうして金田一耕助は、五年前の未解決事件へと引き戻されていく。

その過去の事件の中心にいたのが、歌手・都築克彦である。この男がまたいやらしい。関係を持った女たち三十人以上の唇紋を採り、それをアルバム「百唇譜」として集めていたというのだから、発想の時点でもう気持ちが悪い。

しかもそれを証拠として脅迫に使う。単なる女好きではなく、相手の身体の痕跡を所有し、それで支配しようとする男なのである。この都築の存在が、本作のすべての嫌さの出発点になっている。

唇紋という異様な証拠が、都会の復讐劇を動かしていく

『悪魔の百唇譜』の見どころは、まず「唇紋」というモチーフの強烈さだろう。指紋ではなく、唇の跡。しかもそれが、恋愛や性の記憶と切り離せない形で残されている。

ここが本作の独特なところだ。単なる個人識別の証拠ではなく、恥や欲望や脅迫の記録として機能している。つまり「百唇譜」は証拠物件であると同時に、都築という男の歪んだ収集癖そのものでもあるのだ。この気味の悪さが、作品全体の体温を少し下げている。

その一方で、ミステリとしてはしっかりパズル寄りである。とくに面白いのが、自動車を使った死体移動のトリックだ。犯人は複数の車を乗り継ぎ、死体を移動させ、捜査の視線をずらしていく。これが実に慌ただしく、都会的だ。

馬車でも列車でもなく、自動車が事件の論理を支えている。横溝作品には因習の村や旧家の館がよく似合うが、本作はむしろ舗装道路と車の動線が似合う。都会の機動力そのものがトリックの部品になっている感じがある。

トランプのカードの使い方も独特だ。クイーン、ジャックと並べられると、どうしてもこちらはそこに意味を読み込みたくなる。犯人のシグネチャーなのか、予告なのか、序列なのか。

本作ではその読みを逆手に取るようなミスディレクションが効いていて、単なる飾りでは終わらない。視覚的に派手な小道具でありながら、ちゃんと推理の芯にも食い込んでいるところがいい。

そして何より、本作の根っこにあるのは五年前の事件から続く人間関係の澱である。都築が残した「百唇譜」は、ただのアルバムではない。あれは、関わった女たちの人生にべったり張りついた過去そのものだ。

だから現在の連続殺人も、誰か一人の狂気が突然噴き出した話ではない。過去の脅迫、沈黙、恥、怒りが長く残り、その果てにいまの惨劇へつながっている。ここが横溝正史らしいと思う。都会の乾いた事件に見えて、底にはちゃんと「血」の話が流れているのだ。

金田一耕助も、この作品では少し苛立ちを見せる。警察の手際の悪さにいらつき、被害者の女性たちの心情にもちゃんと気を配る。超人的な名探偵というより、都市の中で人間のややこしさに向き合う探偵として描かれている感じだ。その人間味が、本作の冷たい構造に少し温度を入れている。

『悪魔の百唇譜』は、派手な怪奇長編ではない。けれど、唇紋、トランプ、外車、死体移動といったモチーフがきれいに組み合わさり、都会派金田一として完成度が高い。

題材は偏愛的で嫌なはずなのに、読んでいると不思議と論理の気持ちよさが勝ってくる。そのあたりの配合が絶妙だ。

唇の跡は、触れた記憶の痕である。本来なら親密さの証でもあるそれが、この作品では脅迫と復讐の設計図に変わってしまう。

そこに『悪魔の百唇譜』の薄気味悪く、面白いところがある。

悠木四季

気味の悪い題材と自動車を使った死体移動トリックが見事に噛み合った、都市型金田一の佳作である。

25.『夜の黒豹』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

都会の連れ込み宿を舞台に、猟奇的な身体の印と血縁の秘密が交差するエログロ本格ミステリ。

ホテルの密室に残された青い印が、都会の血の秘密を暴き出す

こんなに下世話な舞台なのに、ちゃんと横溝ミステリになるのか。

『夜の黒豹』は、そう思わせる作品である。舞台は渋谷や芝高輪のホテル。しかもただのホテルではなく、いわゆる連れ込み宿だ。旧家でもなければ因習の村でもない。

もっと俗っぽくて、もっと湿った、都会の裏面そのものみたいな場所である。だが横溝正史は、そういう卑俗な空間をきっちり怪奇探偵小説の舞台へ変えてしまう。

発端は、渋谷のホテル「女王」で起きる異変だ。ベルボーイの山田三吉は、ドアの隙間から水が流れ出しているのに気づき、部屋へ踏み込む。そこにいたのは、猿轡を嵌められ、ストッキングで拘束された女。

しかも彼女の乳房のあいだには、マジックインキで「青蜥蜴」が描かれている。この絵がまず異様に強い。エロティックで、気味が悪くて、いかにも意味ありげで、しかも一度見たら忘れにくい。

だが女は口止めを頼み、その場を去る。そして一週間後、今度は芝高輪のホテル「竜宮」で、同じく「青蜥蜴」を描かれた女性の死体が発見される。犯人は黒ずくめで、まるで黒豹のようだったという証言まで出る。

ここから話は一気に、和製ジャック・ザ・リッパーめいた都市怪談の顔を見せ始める。

青蜥蜴という印が、猟奇趣味と論理の両方を支えている

『夜の黒豹』の最大の魅力は、やはり「青蜥蜴」というモチーフの強さだろう。乳房に描かれる蜥蜴。字面だけでも癖があるし、実際これほど露骨に身体を記号化する仕掛けは横溝作品の中でも目立っている。

だが面白いのは、それが単なる悪趣味な飾りでは終わらないところだ。青蜥蜴は犯人の異常性を示すだけではなく、ある一族の秘密や犯行立証の手がかりへとつながっていく。つまり本作では、この猟奇的な印が、雰囲気づくりと謎解きの両方を担っているのだ。

ここがおいしい。横溝正史はしばしば、見た目のショックが強い小道具を出してくる。だが本当にうまい作品では、それが最後に論理の部品として戻ってくる。『夜の黒豹』の青蜥蜴もまさにそうで、最初はただ異様に見えるものが、終盤ではちゃんと意味を帯びる。この変換の感触がとてもいい。

さらに、黒豹のような犯人像も楽しい。全身黒ずくめ、神出鬼没、都会の夜をすり抜ける怪人。通俗的だし、芝居がかっている。だがこの「いかにも怪人」な見せ方が、そのまま変装トリックや目撃証言の曖昧さにつながっているから素晴らしい。乱歩的な見世物の楽しさを出しつつ、本格ミステリの土俵からは落ちていない。このあたりの踏ん張りが横溝正史らしい。

金田一耕助の教養人としての側面が強めに出ているところも面白い。美術への造詣、画廊や画家に関する知識、作品を見る目。あのボサボサ頭で、ただ事件現場をうろついているだけではないのだと改めて思わされる。猟奇と変装が前面に出た作品ほど、こういう知的な横顔が少し効いてくる。

それにしても、やはりこの作品の底にあるのは「家」の話である。舞台は都会のホテルだし、表面上は現代的な猟奇スリラーに見える。だが掘っていくと、そこには血のつながり、家父長制、血のつながらない親族同士のねじれた関係といった、横溝正史おなじみのどろどろがしっかり埋まっている。

つまり『夜の黒豹』は、都会へ引っ越した横溝ミステリなのだ。場所が変わっても、人間の情念の濃さはまったく変わらない。

短編版『青蜥蜴』より長編版のほうが、誰が犯人かという驚きより、どうやってその犯行を立証するかに比重があるのも面白い。

だから読後感としては、怪人譚というより、都市の喧騒の中で冷たく積み上げられる論理の話として残る。見た目は派手なのに、中身はきっちりしている。そのギャップが魅力だと思う。

青蜥蜴は、ただの印ではない。

それは、都会の匿名性の中で見失われそうになる人間関係を、嫌でもひとつの血の物語へ引き戻してしまう、冷たい目印なのである。

悠木四季

通俗スリラーの派手さと本格推理の論理がきれいに同居した、都会派横溝の代表的な一作だ。

26.『仮面舞踏会』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

科学的な伏線と宿命的な悲劇が、軽井沢の明るさの下で美しく絡み合う後期横溝の代表作。

軽井沢の陽光の下で、仮面の奥に潜んでいたもの

横溝正史というと、血まみれの見立て殺人や、強烈な怪奇趣味を思い浮かべたくなる。

けれど『仮面舞踏会』は、そうした外連味を抑えながら、それでもなおシリーズ屈指の凄みを見せつけてくる作品である。むしろ、派手な仕掛けを減らしたぶん、論理の緊密さと人間の感情の痛さがむき出しになる。

軽井沢の明るい夏の空気のなかで進む話なのに、気づけば心の深いところまで重く沈んでくる。こういうタイプの横溝正史は本当に強い。

舞台は昭和35年の軽井沢。避暑地らしい華やかさの裏で、女優・鳳千代子の三番目の夫だった画家・槇恭吾が、洪水で孤立したアトリエで死体となって発見される。しかも千代子の過去二人の夫も、ここ二年のあいだに相次いで謎の死を遂げていた。

ここだけ見れば連続怪死事件なのだが、本作はそこをセンセーショナルに煽りすぎない。むしろ、千代子を囲む人々の関係、過去の心中事件、没落貴族の矜持といった要素が、少しずつ重なっていくことで不穏さを増していく。

科学的な伏線が、そのまま悲劇のかたちになっている

『仮面舞踏会』の見どころは、なんといってもロジックの美しさである。事件の鍵になるのは、現場に残されたマッチ棒のパズルめいた跡、血液型、色盲といった、一見すると地味にも思える要素だ。

だが、この地味さがいい。派手な猟奇趣味に頼らず、人物の身体的条件や見落とされがちな事実を積み上げて真相へ迫っていく。その流れがあまりに端正で、読み進めるほどに唸らされる。

しかも本作では、その論理が単なるパズルで終わらない。血液型や色盲といった条件が、ただ犯人を指し示す記号ではなく、その人がどう生き、どう誤解され、どう追い詰められたかにまでつながっている。ここがすごい。トリックの説明が、そのまま人生の痛みの説明にもなっているのである。

軽井沢の描写も印象深い。台風のあとに広がる明るい空、泥水に囲まれたアトリエ、茶室の張りつめた空気。どの場面にも気品があり、その上に人間の暗い感情が落ちている。この対比が美しい。横溝作品の舞台は濃密で怪しい場所が多いが、本作の軽井沢はむしろ開けた場所だからこそ、隠されてきたものの影がいっそう濃く見える。

登場人物たちもいい。鳳千代子の華やかさ、笛小路篤子の誇り、そして善意から沈黙してしまう人たちの不器用さ。誰か一人だけが極端に悪い、という単純な話ではない。善かれと思った行動が、結果として悲劇を深めてしまう。そのどうしようもなさが、本作にはずっと流れている。

金田一耕助も、この作品では派手に暴れない。須磨や明石、淡路島まで足を運び、過去の断片を地道に拾い集めていく。その姿は名探偵というより、壊れた時間をひとつずつ縫い合わせる人に近い。だからこそ最後に明かされる真相は、謎が解けた爽快感よりも、もう少し深い場所に残る。

『仮面舞踏会』は、横溝正史が本格ミステリでどこまで行けるかを、真正面から示した作品だと思う。外連味を抑え、論理と感情だけでここまで読ませる。

そのうえで最後に残るのは、犯人当ての快感より、人は生まれや血や沈黙からどこまで逃れられるのか、という重たい余韻である。

仮面舞踏会という題は華やかだが、この物語で剥がされるのは飾りではない。人がどうにか抱えて生きてきた痛みそのものだ。

悠木四季

派手な怪奇趣味を抑えながら、論理の切れ味と人間ドラマの深さで圧倒する、本格ミステリの完成形の一つだ。

27.『悪霊島』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

怪奇演出の極北まで行きながら、最後には血筋と執念の論理へ着地する岡山編の集大成。

鵼が鳴くたび、島は過去の亡霊を吐き出す

横溝正史の岡山ものには独特の湿り気がある。

海に囲まれた島でも、山奥の村でも、そこで生きる人々はいつも「いま」だけでは動いていない。ずっと前に埋まったはずの過去、忘れたことになっている血の話、家の中でだけ通じる理屈。そういうものが、時間を超えて現代へ染み出してくる。

『悪霊島』は、その岡山編を締めくくる最後の大長編にふさわしく、横溝ミステリの怪奇趣味と人間ドラマを、これでもかというほど詰め込んだ作品である。

物語の始まりからしていやな気配が濃い。昭和42年、金田一耕助はアメリカ帰りの億万長者・越智竜平に依頼され、瀬戸内海の刑部島をめぐる人探しに関わることになる。だが、探していた男は瀕死の状態で見つかり、不気味な言葉を残して死ぬ。

あの島には悪霊が取り憑いている、腰と腰がくっついた双子、鵼の鳴く夜は気をつけろ──。こういうダイイング・メッセージを出されると、横溝好きとしてはわくわくする半面、ろくでもないことしか待っていない予感も強烈である。

舞台となる刑部島は、因習に縛られた閉鎖的な島だ。そこを支配してきた刑部一族の世界に、越智竜平のレジャーランド開発という、いかにも昭和後期らしい外からの資本の論理が押し寄せている。この構図がまず面白い。

古い世界と新しい世界の衝突は、横溝作品ではおなじみだが、本作ではそのぶつかり方が露骨だ。島はただ古いだけではなく、過去を守るために外を拒み続けてきた場所でもある。そこへ変化が入ってきたとき、埋まっていたものがまとめて吹き出す。

怪奇趣味の極致なのに、最後はやはり人間の話になる

『悪霊島』の見どころは、なんといっても怪奇演出の濃さである。鵼の鳴き声、シャム双生児の悲劇、離島の因習、洞窟に隠された秘密。材料だけ並べると、まるで怪談か伝奇小説みたいだ。

しかも横溝正史は、その全部を本気で不気味に描く。鵼の声が鳴るたびに何か起きそうな気がするし、島そのものが巨大な呪いの容れ物みたいに見えてくる。この「いかにも何か出そう」な空気の濃さは、晩年の作品とは思えないほど勢いがある。

けれど、ここがやはり横溝正史である。どれほど怪奇趣味を前面に出しても、最後にはそれを人間の論理へ引き戻す。悪霊に見えるものの背後には、遺産、血筋、執念、復讐、そして家に縛られた人間たちの感情がある。

つまり『悪霊島』は、怪奇の皮をかぶっているが、中身は徹底して人間の話なのだ。そのあたりの踏ん張りが、本作を単なるおどろおどろしい長編で終わらせていない。

しかも本作では、磯川警部の存在が大きい。岡山編をずっと支えてきた名相棒が、ここで深く事件に関わってくる。亡き妻への思い、抱え続けてきた悔恨、そして島の悲劇との響き合い。

この成分があるから、『悪霊島』は単なる集大成ではなく、長く続いたシリーズへの返歌のようにも読める。金田一耕助と磯川警部、この二人が岡山という土地で積み重ねてきた時間まで含めて、この作品は締めくくろうとしている感じがある。

また、昭和40年代という時代設定も効いている。ヒッピーの若者たち、開発の波、古い共同体の崩壊。昔ながらの因習世界に、まったく別の価値観を持つ若者たちが出入りすることで、島の閉鎖性がいっそう際立つ。

新しい時代が希望として描かれるわけではない。だが、古い世界がそのまま残ることの不気味さもまた浮き上がる。このどちらにも簡単には肩入れできない感じが、本作の苦さになっている。

トリック面でも、本作はガチガチにしっかりしている。明治の大災害による崖崩れという過去の出来事が、現在の物理的な仕掛けや隠蔽の構造にきっちりつながっていく。このへんの運びは本当に面白いと思う。大きな歴史的事件を、ただの背景で終わらせず、いまの殺人の条件として再利用してくるのだから気持ちがいい。島全体が、地形ごと過去を抱え込んでいるのである。

『悪霊島』は、岡山編の最後を飾る作品として、たしかにふさわしい。離島、血縁、因習、過去の災害、怪奇演出、そして人間のどうしようもない執着。横溝正史がこの土地で何度も描いてきたものが、ほとんど全部入っている。そのうえで、ただ繰り返しにはならず、昭和40年代の空気や世代の断絶まで取り込んでいるのがすごい。

悪霊とは、島に棲む何かではないのだと思う。

それは、誰にも手放せなかった過去そのものだ。

鵼が鳴く夜に甦るのは、祟りではなく、人間たちが守りすぎた血の記憶なのである。

悠木四季

離島の因習と昭和後期の変化をぶつけ合わせ、横溝正史らしい怪奇と哀感を最後まで貫いた総決算だ。

28.『病院坂の首縊りの家』

おすすめ度:(4.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

二十年越しの血縁の迷宮と人間の後悔を、金田一耕助が最後に見届ける壮大な完結編。

もじゃもじゃ頭の探偵が見届けた、血の迷宮の終わり

長く続いた物語には、終わり方そのものが作品になる瞬間がある。

『病院坂の首縊りの家』は、まさにそういう小説だ。横溝正史が自ら「金田一耕助最後の事件」と銘打ったこの長編は、ただシリーズの最終作というだけではない。

ここには、これまで金田一ものが抱え込んできた「家」の呪い、血縁の錯綜、戦後という時代の歪み、そして探偵という存在の老いまでが、まとめて流れ込んでいる。スケールが大きい。しかも大きいだけでなく、最後にはきちんと胸のあたりに重いものを残していく。

物語は昭和28年と昭和48年、二つの時代をまたいで進む。第一部では、本條写真館の跡取り・直吉が、いわくつきの廃墟での結婚写真撮影を依頼されるところから始まる。これがすでに嫌な予感しかしないのだが、案の定、現場で待っているのは「生首風鈴」というシリーズ屈指の強烈な光景である。

天井から風鈴のように吊るされた男の生首。字面だけでもひどい。だが横溝正史は、こういう悪夢じみた見立てを、ただのショック場面で終わらせない。ここから法眼家という名門一族の複雑な血縁と、戦後の若者たちの熱と退廃がじっと、底から浮かび上がってくる。

そして第二部。二十年後、等々力警部は定年を迎え、金田一も白髪を交えた老境に差しかかっている。かつての事件の関係者たちが再び殺され、止まっていたはずの歯車が動き出す。この「二十年後」という時間の重みが本作の最大の特徴だろう。

未解決の謎を解く話であると同時に、人が二十年抱えてしまった後悔や執着そのものを掘り返す話にもなっているのだ。

謎を解く物語でありながら、時間そのものを見つめる大河ミステリ

『病院坂の首縊りの家』のいちばんすごいところは、事件のトリックや血縁の複雑さ以上に、「時間」が主題になっていることだと思う。

第一部の若者たちは、第二部ではすでに歳を取り、それぞれ別の重荷を背負っている。人生をやり直せた者もいれば、結局まったくやり直せなかった者もいる。その変化と不変が、二十年という長い時間を挟んでくっきり見えてくる。この感触は、単なる長編ミステリというより、大きな時間を扱った小説ならではのものだ。

もちろん、横溝作品らしい見どころもたっぷりある。「生首風鈴」のインパクトは凄まじいし、法眼家と五十嵐家をめぐる家系の入り組み方も相当なものだ。誰が誰とどうつながり、どの血がどう混じり、何が隠されてきたのか。

家系図を前にして頭を抱えたくなるほど複雑なのに、それが最終的にはきちんと一本の悲劇へ収束していく。ここが素晴らしい。横溝正史は、血縁をただややこしくするために使っているのではなく、人がどうしても逃れられなかったものとして配置している。

また、戦後のジャズ・コンボ「アングリー・パイレーツ」の面々が二十年後に再登場する構成も印象的だ。青春の熱気がすっかり冷え、残ったのは現実と疲労と後悔。こういう時間の残酷さが、本作では強烈にしみる。

若いころにはただ騒がしく、どこか眩しく見えた人間関係が、二十年後には別の陰を帯びて見える。その変化を、金田一は名探偵である前に、長く生きてきた一人の人間として見つめているのだ。

そして、やはり最後である。事件が解けたあと、金田一耕助は巨額の寄付を残し、アメリカへ去って消息を絶つ。この幕切れが本当にいい。派手に消えるわけでもなく、劇的な死を迎えるわけでもない。ただ、長く多くの死と向き合ってきた男が、ふっと舞台から降りていく。

その去り方が、あまりにも金田一らしいし、あまりにも寂しい。もじゃもじゃ頭の探偵は、最後まで名探偵だった。だがそれ以上に、時代の終わりを見届ける証人でもあったのだと思う。

『病院坂の首縊りの家』は、金田一シリーズの完結編という以上に、横溝正史が「家」と「血」と「時間」という主題を最後にもう一度、全部まとめて引き受けた作品なのだろう。

派手な怪奇趣味もある。難解な血縁パズルもある。だが、読み終えたあとにいちばん残るのは、二十年という時間の長さと、その長さでも消えなかった人間の痛みである。

病院坂の先にあったのは、ただ最後の謎ではなかった。

それは、長く続いた物語がようやく閉じる瞬間にしか見えない、探偵と時代の別れそのものだったのである。

悠木四季

シリーズ最大級のスケールと、時間が人に残す傷の重さを両立させた、金田一耕助最後の事件にふさわしい大作だ。

中短編集

『金田一耕助シリーズ』「中短編集」全作品の読む順番

1.『毒の矢

──匿名の密告と象徴的な殺人が、新興住宅地に潜む隣人同士の悪意を暴き出す都市型ミステリ。

2.『悪魔の降誕祭

──探偵事務所を汚す予告殺人を通じて、人間の悪意そのものを露出させる緊迫の金田一ミステリ。

3.『幽霊座

──芝居小屋のからくりと役者たちの執念が、十七年前の失踪と現在の殺人を結びつける中編。

4.『貸しボート十三号

──水上の密室めいた貸しボートで起きた猟奇殺人から、犯人のためらいと歪んだ情念が浮かび上がる異色中編。

5.『華やかな野獣

──退廃的な仮面舞踏会を舞台に、享楽の空虚さと猟奇殺人の論理が噛み合う都会派ミステリ。

6.『殺人鬼

──戦後の焼け跡を舞台に、義足の足音が時代の傷と殺意を呼び覚ます初期金田一スリラー。

7.『

──獄門岩の見立て殺人を通じて、猟奇の奥にある人間的なためらいまで描き出す岡山ものの秀作。

8.『金田一耕助の冒険1

──都会で暮らす金田一耕助の日常と、小粒で鋭い本格パズルが気持ちよく噛み合った短編集。

9.『金田一耕助の冒険2

──昭和30年代東京の風俗を背景に、小さな愛憎と認識のズレを鮮やかに切り取る都会派短編集。

10.『七つの仮面

──聖女と呼ばれた女の仮面が剥がれるたび、自己の多面性と内面の歪みが露わになる心理ミステリ。

『毒の矢』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

新興住宅地を舞台に、匿名の密告と象徴的な殺人が隣人社会の不気味さを暴く都市型ミステリ。

近代住宅地の白い壁に、匿名の悪意が染み出す

村の因習はなくても、人はちゃんと人を追いつめる。

『毒の矢』を読むと、その当たり前すぎる事実がやけに嫌な形で迫ってくる。

横溝正史というと、血筋や旧家や土着の呪いを連想しがちだけれど、本作の舞台はそういう場所ではない。

昭和31年の東京、世田谷区緑ヶ丘町という新興の高級住宅街である。新しい家が並び、近代的で、いかにも清潔そうな場所だ。だが、その白っぽい景観の中で広がっていくのは、顔の見えない悪意と、隣人同士の不信である。

発端は、「黄金の矢」と名乗る何者かから住人たちに送りつけられる密告状だ。そこに書かれているのは、他人に知られたくない私生活、隠しておきたい過去、家庭のきしみ、性的な秘密。つまり、外から見ればきれいに整っているこの住宅街の中で、それぞれがどうにか覆い隠していたものばかりである。

ここが怖い。怪物が出るわけではないし、古い祟りがあるわけでもない。ただ、他人に覗かれたくない部分を、紙切れ一枚で暴かれる。それだけで共同体はあっさり壊れていく。

やがて事態は、悪質ないたずらでは済まなくなる。アメリカ帰りの富裕な未亡人・的場奈津子が、新築の自邸の客間で死体となって発見されるのだ。しかも背中には「からす羽根の矢」が突き立ち、さらに背中のトランプの刺青、その中の「ハートのクイーン」を正確に射抜いている。

この絵がまた強い。新興住宅地のモダンな空気の中に、やけに象徴的で芝居がかった殺人のイメージが置かれる。その異様さがまず印象に残る。

隣人がいちばん得体の知れない存在になる怖さ

『毒の矢』の魅力は、土着の因習ではなく、都市の匿名性そのものを怖がらせてくるところにある。物理的には近い。壁一枚向こうに他人がいる。けれど心理的にはひどく遠い。何を考え、何を隠し、どこまでこちらを見ているのかわからない。

この距離の近さと心の遠さが、本作ではずっと不穏に働いている。新興住宅地という近代的な舞台を選んだのは、とても面白いと思う。昔ながらの村よりもむしろ、こういう場所のほうが他人の秘密に敏感で、しかも無責任になれるからだ。

密告状という仕掛けもよくできている。これが対面の告発ではないところが重要なのだろう。名前も顔も見せずに、ただ相手の心の急所だけを狙う。だから本作の怖さは、矢が刺さる前からすでに始まっている。紙が届いた時点で、人間関係は少しずつ壊れ、住人たちは互いを疑い始める。殺人はその後に起こるが、共同体の崩壊自体はもっと前から進んでいるのだ。

奈津子という被害者の造形も、単なる金持ちの未亡人で終わらないところがいい。サーカス経営に関わっていたという異色の経歴や、彼女が抱えていた性の葛藤が、事件の動機へしっかり食い込んでくる。

横溝正史の作品では、こういう人の見せたくない部分が、事件の核に据えられることが多い。しかもそれは安直な暴露話には流れず、きちんと殺人の論理へつながっていく。

中編らしい引き締まり方も魅力だ。長大な血縁パズルが展開するタイプではなく、舞台やモチーフが比較的絞られているぶん、「密告状」「矢」「刺青」という要素がくっきり立つ。都市型金田一の面白さが凝縮されている感じだ。田舎の閉鎖性ではなく、都市のほうがずっと冷たい形で人を孤立させる、という視点も効いている。

『毒の矢』を読んでいると、近代的な街並みや新しい暮らしが、人間を少しも善良にはしないのだとよくわかる。

むしろ見た目が整えば整うほど、中に隠したいものは増えていくのかもしれない。そしてその秘密は、匿名の悪意にいちばん狙われやすい。

古い村でなくても、人間関係は十分に閉ざされる。

『毒の矢』は、近代住宅地の明るさの中に、横溝正史が見つけた別種の闇である。

悠木四季

密告状という見えない攻撃が先に共同体を壊し、そのあとで殺人が起きる構造がとてもいやらしく、そして面白い。

『悪魔の降誕祭』

おすすめ度:(2.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

探偵事務所への挑発から始まる予告殺人を通じて、犯人の悪意の質そのものを描いた緊迫のミステリ。

探偵事務所に死が置かれたとき、金田一耕助は本気で怒る

金田一耕助ものを読んでいて妙にぞくっとするのは、犯人がただ人を殺すだけではなく、探偵そのものに喧嘩を売ってくるときである。

『悪魔の降誕祭』は、まさにそういう作品だ。殺人事件の舞台は、なんと金田一自身の探偵事務所。しかも被害者は、助けを求めてそこへ来たはずの女である。これだけで、事件の嫌さは際立つ。単なる密室や館の惨劇ではない。探偵が人を守るはずの場所が、逆に殺人の現場として使われてしまうのだ。

発端は昭和32年12月20日。年末の慌ただしさの中、金田一が事務所へ戻ると、面会の約束をしていた志賀葉子がソファで毒殺されている。彼女は人気ジャズシンガー・関口たまきのマネージャーで、自らの身に迫る危険を訴えようとしていた人物だった。

つまり犯人は、ただ葉子を殺したのではない。助けを求める行為そのものを踏みにじり、金田一の縄張りでそれをやってのけたのである。これは悪質だし、挑発的だ。

しかも犯人はそれだけでは終わらない。部屋のカレンダーを無理やり12月25日にめくっていく。次はクリスマスだ、と。新しい殺人はその日に起こる、と。こういう見せ方が実にいやらしい。予告殺人のかたちを取りながら、相手に止められるものなら止めてみろと言っているわけだ。

金田一シリーズには怪奇趣味の濃い作品が多いが、『悪魔の降誕祭』の怖さはもっとストレートに「犯人の性格が悪い」ところにある気がする。

犯人の論理だけでなく、悪意そのものが前へ出る

『悪魔の降誕祭』の見どころは、まず探偵の聖域が破られるという設定の強さだろう。金田一耕助の事務所は、金田一ものの中でたびたび登場する場所ではあっても、事件の中心そのものになることはそう多くない。

その場所が汚される。しかも、相談に来た人間がそこで殺される。この一点だけで、作品全体の緊張感が高い。探偵が受け身ではいられなくなるのだ。

そのうえで本作は、予告殺人ものとしてもなかなか面白い。カレンダーをめくる、という行為が実に単純で、実に効果的である。大げさな暗号ではない。誰の目にも意味がわかる。次の惨劇の日付を、犯人が勝手に決めていく。この露骨さが、かえって恐ろしい。

しかも金田一は、その予告を知ったうえで何とか防ごうと動く。ここが本作の大きな特徴で、単に起きた事件を解くだけでなく、「次を止められるか」が前に出るぶん物語に切迫感がある。

また、本作は犯人の悪魔的な心理の描き方が印象深い。ただ計画的に人を殺すだけなら、まだ論理の範囲で読める。だがこの犯人は、相手を追いつめ、時間差を利用し、死にかけの状態を見せつけるといったねじれた残酷さを持っている。

ここが題名の『悪魔』とつながっているのだろう。超自然の悪魔が出るわけではない。人間の中の、他人をいたぶることに快感を見出す部分が、あまりに露骨だから悪魔的なのだ。

金田一耕助の見え方も少し特別だ。いつもの飄々とした探偵ではなく、自分の名前と場所を汚された男として、この事件に向き合っている感じがある。もちろん表面上はそこまで激情を露わにするわけではない。だが、予告を前にして必死に防ごうとする姿には、明らかにいつもと違う熱がある。探偵としての矜持が前へ出ているのである。

『悪魔の降誕祭』は、長大な代表作ほどの規模ではないかもしれない。けれど、設定の切れ味、予告殺人の見せ方、犯人の嫌らしさ、金田一の本気度がきれいにまとまっていてとても読みやすい。怪奇趣味を前面に押し出すというより、探偵小説としての緊迫感で引っぱるタイプの佳作だと思う。

クリスマスは、本来なら祝福の日である。だがこの作品では、その日付を犯人が勝手に奪い取り、死の予告状に変えてしまう。

だから『悪魔の降誕祭』という題名は、ただ仰々しいだけではない。

そこには、祝祭の皮をかぶって現れる人間の悪意そのものが、たしかに宿っている。

悠木四季

カレンダーを12月25日にめくるという単純な行為だけで、次の殺人予告を成立させてしまう見せ方がとても鮮やかである。

『幽霊座』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

伝統芸能の華やかさと舞台裏の執念を、巧みなトリックと哀感で包んだ中編の佳作。

芝居小屋の闇で、消えた役者と現在の死がつながる

芝居の世界を舞台にしたミステリには、独特のうさんくささと華やかさがある。幕が上がれば人は別人になり、照明が落ちればさっきまでの情念も拍手の中へ紛れてしまう。

だが横溝正史『幽霊座』は、その化ける場所そのものを、殺人と失踪のからくりへ変えてしまう。古い芝居小屋、17年前の失踪事件、再演のたびに濃くなる呪いの噂。材料だけでもおいしいのに、それをちゃんと本格ミステリとして組み上げてくるところが実に横溝正史らしい。

舞台は昭和27年、岡山の久賀村にある古びた芝居小屋「相生座」。発端は、旅回り一座の若手役者・水木京三郎と、同行していた岬乙女の心中死体が見つかる場面である。だが金田一耕助は、それが心中に見せかけた殺人だとすぐに見抜く。

ここから話は単なる男女のもつれでは終わらず、一気に17年前の事件へ潜っていく。当時、同じ芝居小屋で『鯉つかみ』を上演中、人気役者の市川鶴之助が「早変わり」の最中に忽然と姿を消していたのだ。

この設定がまずいい。舞台の上で人が消える。しかもそれが演目の仕掛けと重なっている。芝居の嘘と現実の不在がぴたりと重なるわけで、これはミステリ好きにはたまらない。

舞台のからくりが、そのまま殺人の論理になる

『幽霊座』の見どころは、何と言っても芝居小屋ならではの装置を使ったトリックだろう。花道、奈落、早変わり、舞台裏の導線。芝居の世界では観客を驚かせるための仕掛けが、ここではそのまま殺人や失踪の条件に変わっていく。

見せるためのはずの演出が、気づけば隠すための仕掛けになっている。その反転こそ、横溝ミステリの怖さであり面白さだ。本作でも、劇場のからくりが雰囲気づくりではなく、事件の骨組みそのものになっている。

しかも『幽霊座』は、怪談めいた空気をまといながら、最後にはきっちり人間の執念へ戻ってくる。呪われた芝居小屋、消えた名優、再び繰り返される惨劇。いかにも幽霊が出そうな題名だし、実際その噂は物語全体を支配している。

だが、金田一が掘り起こすのは怪異ではなく、人が人に抱き続けた愛憎の重さである。親子二代にわたる確執、役者という生き方に染みついた虚栄と執着、そして過去を終わらせられなかった人間たちの情念。そのあたりが見えてくるほど、この作品は幽霊話ではなく、過去に囚われた人間の話として効いてくる。

舞台が芝居小屋であることも、この主題によく合っている。役者は役を演じる。だが現実でもまた、人は何かの役を演じながら生きている。親として、一座の看板として、愛する者として、恨みを抱えた者として。

『幽霊座』では、その演技が崩れる瞬間がとても怖い。化粧と照明の下に隠されていたものが、殺人によって急にむき出しになるからだ。

規模としては長大な代表作ほどではない。けれど、そのぶん芝居小屋の仕掛け、失踪の謎、犯人の哀しさがきれいにまとまっていて密度が高い。

横溝正史の中編は、ときどきこういう見逃せない作品が紛れている。派手すぎないのに、読み終えると妙に印象が残る。『幽霊座』もまさにそういう一本だと思う。

悠木四季

「早変わり」や舞台装置といった芝居の技術が、そのまま失踪と殺人の論理へつながっていくところが非常に良い。

『貸しボート十三号』

おすすめ度:(4.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

水上の密室めいたボートの上で起きた猟奇殺人を通して、犯人のためらいと歪んだ感情まで浮かび上がらせる異色中編。

水の上に浮かぶ小さな密室で、人間の弱さがむき出しになる

こういう事件の絵面はさすがに強い。隅田川に漂う一艘の貸しボート。その中に、男女二人の死体。

しかもただ殺されているだけではなく、どちらの首も途中まで挽き切られたような「半斬り」の状態にある。正直きつい。

だが『貸しボート十三号』の面白さは、このショッキングな見た目を、ただの猟奇趣味で終わらせないところにある。むしろその異様な切断の中に、犯人の心理の揺れや、被害者との関係の歪みまで読み込ませてしまう。

舞台は昭和32年8月、真夏の東京。浜離宮に近い隅田川の沖で見つかった貸しボート十三号の中には、主婦の大木藤子と、彼女の娘の家庭教師だった大学生・駿河譲治が倒れていた。男はほぼ裸体で心臓を刺され、首を絞められた跡まである。女は派手なレインコート姿で、絞殺のあと胸を抉られている。

そして二人とも首が途中まで切られている。この「途中まで」というのが、実にいやらしい。ただ首を落としたのではない。やろうとして、どこかで止まっている。そこに、この事件特有の不気味さがある。

猟奇の形が、そのまま犯人の心の限界を示している

『貸しボート十三号』の見どころは、まさにこの「半斬り」に尽きる。普通なら、ここはショック場面として処理されがちなところだ。だが横溝正史は、この中途半端さそのものを手がかりに変えていく。

なぜ最後までやらなかったのか。できなかったのか。やめたのか。そこに犯人の性格や感情の限界が表れている。つまりこの作品では、死体の異様な状態が、そのまま論理の入口になっているのだ。ここがすごくいい。

しかも舞台がボートであることも効いている。水の上に浮かぶ小さな舟。逃げ場はなく、隠れる場所もない。館や島ほど大げさではないが、この狭さが妙に生々しい。揺れる水面の上で起きた殺人だからこそ、余計に不安定で、息苦しい。水上の密室という言い方がぴったりくる。事件のスケールは大きすぎないのに、閉塞感は強い。

そして本作のいいところは、猟奇的なわりに、最後に残る感触がそこまで派手ではないことだ。むしろ、犯人の中にあったためらいや、死者に向けられた歪んだ気持ちのほうが印象に残る。

殺意だけで突っ走ったのではなく、途中で何かが引っかかった。その引っかかりが、首の半斬りというかたちで残っている。ここには、人間の脆さというか、徹底しきれない感情の揺れがある。ただ残酷なだけの事件ではないのだ。

『貸しボート十三号』は、長編の代表作のような大きな血縁パズルではない。だが、そのぶん一つの異様なイメージをぐっと掘り下げていて、中編ならではの密度がある。

水の上の閉ざされた空間、真夏の湿気、死体の奇怪な状態、そしてそこから見えてくる犯人の心の傷み。派手なスケールではなく、近くでじっと見る怖さがある。

首を切ろうとして、最後まで切れなかった。

この中途半端さこそが、事件のいちばん人間的で、いちばん怖い部分なのだ。

悠木四季

強烈な死体描写のインパクトを、そのまま心理と論理の手がかりへ変えてしまう横溝正史らしい佳作だ。

『華やかな野獣』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

退廃の仮面舞踏会を舞台に、享楽の空虚さと殺意の論理が噛み合う都会派猟奇ミステリ。

仮面の夜がはがれたあとに残るのは、退廃ではなく剥き出しの殺意だった

横溝正史の作品には、古い因習や血筋の呪いを正面から描いたものが多い。けれど『華やかな野獣』は、その系譜を少し横へずらし、昭和30年代の都会近郊に漂う退廃と空虚さを舞台にしている。

相模湾を見下ろす別荘「臨海荘」に集まるのは、金と暇を持て余した男女たち。しかも全員が動物の仮面をつけ、互いの素顔を隠して狂乱の宴に興じている。もうこの設定だけで、まともな夜になるはずがない。

主催者は、莫大な遺産を背景に奔放な生活を送る越智奈々子。だがその宴の最中、奈々子は寝室で絞殺死体となって発見される。しかも左の乳房が刃物で抉り取られている。この場面のショックは強い。けれど本作は、その猟奇性をただの悪趣味で終わらせない。

むしろその異様な損壊こそが、犯行時刻と状況をずらして見せるための重要な仕掛けになっている。見た目の派手さが、そのまま論理の中核に組み込まれているわけだ。

仮面の下にいるのは獣ではなく、空っぽさに耐えられない人間たち

本作の面白さは、仮面舞踏会という舞台設定の使い方にある。

仮面は単に犯人を隠すための小道具ではない。誰もが別人になったふりをしながら、実際には欲望や嫉妬や依存をむき出しにしている。その意味で、題名の「野獣」とは見た目の仮装だけではなく、この場に集まった人間たちの内側そのものを指しているのだと思う。

さらに、この作品には戦後日本の新興階級特有の空虚さが濃く漂っている。古い名門の重苦しさとは違い、ここにあるのは刺激でしか自分を埋められない人間たちの浅い熱である。

麻薬取引、享楽、奔放な人間関係。そのどれもが派手なのに、どこかからっぽだ。その空虚さが殺意と結びついたとき、この作品の嫌な魅力が一気に立ち上がる。

金田一耕助がボーイに変装して潜入するという趣向も楽しい。いつもの飄々とした名探偵が、退廃的な宴のただ中に最初から入り込んでいるので、現場の熱気や嫌な空気を直接すくい取っていく感じがある。

派手な舞台設定と本格推理の手触りがきれいに両立していて、中編らしい切れ味もある。

都会派、風俗もの、猟奇もの、その全部がいい具合に混ざった一本である。

悠木四季

派手な絵面と冷たい推理がしっかり両立した、横溝正史の異色かつ痛快な快作だ。

『殺人鬼』

おすすめ度:(4.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

戦後の傷を引きずる東京を舞台に、義足の足音が恐怖そのものになる初期金田一の戦後派スリラー。

義足の音が鳴るたび、戦後の焼け跡から本物の悪夢が立ち上がる

横溝正史の初期作品を読んでいると、たまに後年の代表作とは少し違う、生々しい空気に息をのむことがある。

『殺人鬼』はまさにその一本だ。因習の村や旧家の血筋ではなく、舞台は戦後まもない東京。焼け跡、闇取引、復員兵、まだ何も立て直しきれていない街のざらつき。その不安定な地面の上で、義足の足音を響かせる「殺人鬼」が現れる。この設定の時点でもう強い。

発端は上野の遊園地のお化け屋敷で起きる殺人事件である。ここがまず面白い。偽物の恐怖を見せるための場所が、本物の死の現場になってしまう。しかも被害者は闇ブローカー。等々力警部は金目当ての事件と見るが、金田一耕助はそこにもっと嫌なものを感じ取る。

その後、金田一は亀井加奈子という女から助けを求められる。夜道で彼女が怯える理由は、顔を深く隠した奇妙な男の存在だ。帽子、マスク、サングラス。そして歩くたびに響く、コン、コンという義足の音。この音の怖さが、本作の核心にある。

見えないものそのものより、近づいてくる音のほうが怖い。しかも義足というモチーフには、戦争の傷がそのまま刻まれている。つまり『殺人鬼』は、怪人譚の顔をしながら、戦後日本の傷そのものを歩かせているのである。

偽物の怪談ではなく、戦争の後始末としての恐怖

『殺人鬼』の見どころは、義足の男という強烈なイメージを、ただの怪奇趣味で終わらせていないところだ。夜道に響く足音はもちろん怖い。だがそれは超自然の音ではなく、戦争で身体を損なった人間の現実の音でもある。

この二重性が、本作をただのスリラー以上のものにしている。恐怖の源が怪物ではなく、社会の側にある。戦争が終わっても、その傷は街の中を歩き続け、人間を壊し続けている。そういう感触がずっと底に流れている。

また、お化け屋敷、闇ブローカー、焼け跡の東京という舞台の選び方も絶妙だ。きれいに整えられた都市ではなく、まだ混乱がむき出しの都市。人が生き延びるために何でもありになっていた時代の空気が、そのまま事件の土台になっている。この時代だからこそ、義足の男は怪談めいた影と現実の悲惨さを同時に背負えるのだと思う。

金田一耕助も、この作品では初期らしい風合いを見せる。ゴミ溜めを漁りながら登場する、あの有名な場面の浮世離れした感じがまずいい。だがその奇矯さの裏で、彼は戦後の歪みをきちんと見ている。

単に犯人を当てるのではなく、その背後にある時代の傷まで嗅ぎ取っている。このあたりの金田一は、まだ伝説になる前の、生々しい探偵という感じがしてとても魅力的だ。

『殺人鬼』は、後年の横溝作品のような大掛かりな血縁パズルではない。そのぶん、恐怖がずっと近い。焼け跡の匂いのする路地を、義足の音が近づいてくる。

その距離感がたまらなく怖い。そして最後に見えてくるのは、怪物の正体というより、戦後という時代が生んでしまったやりきれなさそのものだ。

悠木四季

怪人小説のような怖さの奥に、焼け跡の時代が残した傷と歪みがくっきり見える、初期横溝の忘れがたい一作だ。

『首』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

獄門岩の見立て殺人を通じて、猟奇の奥にある人間的なためらいまで描き出す岡山ものの秀作。

獄門岩に置かれた生首は、呪いではなく人間の苦しさを語っていた

山奥の温泉地に、処刑場の名残を伝える「獄門岩」がある。この時点でもう、事件の舞台としてできすぎている。

横溝正史『首』は、そういういかにも不吉な土地の伝説を真正面から使いながら、最後にはきっちり人間の話へ着地させる短編である。岡山ものらしい因習の空気、見た目の強い猟奇性、そしてその奥にある深い哀しみ。短いのに、とても濃い。

舞台は岡山と兵庫の県境に近い山奥、「熊の湯」温泉。金田一耕助は静養のためにこの地を訪れるのだが、もちろん穏やかに休ませてもらえるわけがない。

滝の途中に突き出た獄門岩の上に、映画監督・里村の生首が置かれているのが見つかる。しかもそのやり方は、一年前の未解決事件とまったく同じ。村人たちは三百年前の呪いだと騒ぐが、金田一はそこにもっと現実的で、もっと切実な人間の意志を嗅ぎ取る。

この「獄門岩に首を置く」という見立てがまず強い。ただ殺すだけではなく、わざわざ伝説の場所へ運び、見せる形にしている。どう見ても呪いの再現であり、村人の恐怖を狙った演出だ。

だが本作の面白さは、その派手な見せしめの奥に、実は犯人の別の感情が潜んでいるところにある。なぜそこに置いたのか。脅かすためなのか、隠すためなのか、それとも別の意味があったのか。この謎が、短編の骨格をしっかり支えている。

生首の猟奇性の奥に、人間らしさが残ってしまう

『首』の見どころは、強烈な絵面と、犯人の心理の切なさがきれいに重なっているところだ。

生首を岩の上に置くというのは、横溝作品の中でも目を引く猟奇趣味である。だが、この作品ではその異様な行為が、単なる悪趣味では終わらない。

むしろそこには、犯人の職業的な感覚や、人間としてのためらいがにじんでいる。ここが実にいい。残酷なことをしているのに、その残酷さの中に妙な配慮が混じっている。その矛盾が、本作をただ怖いだけの短編にしていない。

岡山ものらしい村の人間関係も手堅い。閉ざされた土地、戦災で身寄りを失った者の孤独、土地に根づいた伝説と現実の利害。そのあたりが無理なく絡み合っていて、短編ながら世界がしっかり立っている。磯川警部との組み合わせもやはりよく、金田一がこの土地で見せる、少しやわらかな人間味も印象に残る。

特にいいのは終わり方だ。真相をすべて公にすることが、ほんとうに正しいのか。法の論理だけでは切れないものを前にして、金田一が情を選ぶ。この判断に、『首』という作品の後味が集約されている気がする。犯人当ての気持ちよさより、人の事情をどこまで暴いてよいのかという苦さが残る。そこがこの短編の良さだと思う。

派手な長編の陰に隠れがちかもしれない。けれど、岡山ものの魅力を短いサイズに凝縮した佳作として印象が強い。伝説、見立て、生首、村の閉鎖性、そして最後のやるせなさまで、必要なものがきっちり入っている。短編だからこその切れ味がある。

『首』は、横溝正史の猟奇趣味が前面に出た作品に見えて、実はとても情の深い短編だ。

金田一耕助が最後に見せる判断まで含めて、しみじみ苦い。

悠木四季

犯人の行為が単なる残虐性ではなく、職業意識と人道的配慮のねじれとして読めるところが、この作品をぐっと忘れがたいものにしている。

『金田一耕助の冒険1』

おすすめ度:(4.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

都会で暮らす金田一耕助の日常と、小粒で鋭い本格パズルが気持ちよく噛み合った短編集。

もじゃもじゃ頭の名探偵が、都会の片隅で小さく鋭い謎をほどいていく

金田一耕助という探偵には、山奥の旧家や因習の村が似合う。

なんて思っていると、『金田一耕助の冒険1』は気持ち良くそのイメージをずらしてくる。

ここにあるのは、血縁の迷宮でも、何代にもわたる呪いでもない。舞台は昭和30年代の東京。高級アパート、パチンコ屋、喫茶店、雨の舗道、霧の夜道。そんな都市の生活感の中に、小ぶりで鋭い謎がいくつも埋め込まれている。

この短編集の面白さは、まず金田一耕助の日常が見えることだろう。絣の着物でモダンなアパートに住み、近所でパチンコを打ち、蕎麦を食べ、ふらりと街を歩く。

あの名探偵が、伝説めいた存在ではなく、ちゃんと都会で暮らしている人として立ち上がる。この感じがいい。しかも、その生活の延長線上に事件が転がり込んでくるから、長編とは違う親しみやすさがある。

収録作もいい意味で粒が揃っている。『夢の中の女』では、過去の事件をなぞるような不気味な殺人が起こり、『傘の中の女』では梅雨の東京の湿り気そのものがトリックの肌触りになる。

『霧の中の女』は目撃証言のあいまいさをうまく使い、『洞の中の女』には閉鎖空間ものらしい息苦しさがある。どれも派手すぎないが、そのぶん日常のすぐ隣にある狂気という感触が濃い。

長編とは違う、都会派金田一の小粋な切れ味

『金田一耕助の冒険1』の見どころは、重たい血筋や因習をいったん脇へ置いて、純粋に本格推理の小品として勝負しているところだ。

長編の横溝正史には、どうしても大きな家の歴史や宿命がつきまとう。もちろんそれが魅力でもあるのだが、この短編集ではもっと軽やかだ。視覚の錯誤、思い込み、偶然の重なり、都市の風俗。そうした要素を使いながら、短い話の中できれいに謎を立てて、きれいに解く。その端正さが気持ちいい。

なかでも『瞳の中の女』のように、人間の記憶や視覚の不確かさを突いてくる話はとても印象に残る。人は見たものをそのまま覚えているつもりでも、実際には勝手に補ってしまう。その危うさが、都会のスピード感の中でふっと露呈する。このあたりは、派手な猟奇趣味ではなく、都市生活そのものの危うさを描く横溝正史としてとても面白い。

長編の濃密さとは別の魅力がこの本にはある。もじゃもじゃ頭の名探偵が、喫茶店やパチンコ屋のある東京の街角で、小さな違和感を拾い上げていく。その姿はどこか洒脱で、少しユーモラスで、それでいて謎解きの切れ味はちゃんと鋭い。

金田一耕助を大事件の名探偵だけでなく、都会で暮らす探偵として味わえるのが、この短編集のおいしいところだと思う。

大きな呪いがなくても、人は十分に間違える。

『金田一耕助の冒険1』は、そのことを東京の空気の中で、軽やかに、でもきっちり怖く見せてくれる。

悠木四季

パチンコ屋や喫茶店のある昭和30年代東京の生活感が、そのまま事件の手触りになっているところがとても楽しい。

『金田一耕助の冒険2』

おすすめ度:(3.0)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

昭和30年代東京の風俗を背景に、小さな愛憎と認識のズレを鮮やかに切り取る都会派短編集。

昭和の東京を歩きながら、小さな愛憎のねじれを鮮やかに解いていく

『金田一耕助の冒険1』が都会で暮らす金田一の日常と、小粒で鋭い謎の面白さを見せてくれる本だったとすれば、『金田一耕助の冒険2』は、その路線をもう少し意地悪く、もう少し人間くさく押し広げた短編集である。

本作でも「~の中の女」という統一感のある題が並び、昭和30年代の東京を舞台に、日常のすぐ脇に潜んでいる悪意や錯誤が描かれていく。長編のような巨大な血縁の迷宮はない。けれど、そのぶん人間の浅ましさや見落としが、ずっと身近なものとして迫ってくる。

収録作の幅もいい。『鞄の中の女』では、死体を鞄に詰めて運ぶという強烈な導入がまず目を引く。猟奇的なのに、どこか滑稽でもあるこの出だしから、保険金や愛人関係、欲にくらんだ人間たちの小さくて嫌な思惑が見えてくる。

『泥の中の女』は、ホラー映画みたいな不気味な見た目から始まりながら、最後には「顔をどう認識するか」という論理的な話へ落ち着く。この変換が見事だ。

さらに『赤の中の女』では、新婚夫婦の周囲に元恋人や元妻が現れるという、いかにも揉めそうな状況から、ぐいっと本格推理のどんでん返しへ持っていく。短編なのに、ちゃんと最後で裏返してくる感じが気持ちいい。

昼メロみたいな愛憎から、本格ミステリの切れ味へ

この短編集の面白さは、日常的で俗っぽい人間関係を、そのまま本格推理の材料に変えてしまうところにある。

保険金、痴情のもつれ、失踪、ちょっとした見栄、ちょっとした嘘。題材だけ見れば、どこか週刊誌的でもある。

だが横溝正史は、それをただのスキャンダルで終わらせず、認識の錯誤や思い込み、タイミングのズレといったミステリの論理へきっちり組み替える。だから読み口は軽いのに、解決は案外しっかりしている。このバランスがいい。

また、本作には昭和30年代の東京の空気が色濃く残っている。100円札の価値、小田急沿線の発展、成城あたりの生活感。そうした時代の細部が、背景ではなくちゃんと事件の手触りになっているのだ。

いま読むと、ミステリであると同時に小さな風俗資料みたいな面白さもあっていい。横溝が都市生活の細かな感触をよく見ていたことが伝わってくる。

金田一耕助の立ち位置も、このシリーズではやはり魅力的だ。大仰な名探偵というより、東京の片隅で人の揉め事と不可解な死を相手にしている、少し風変わりな探偵。その距離感が短編にはよく似合う。

しかも人間関係が小さければ小さいほど、金田一の観察眼や論理の運びがよく見える。派手さはなくても面白い、と感じる瞬間が多い。

『金田一耕助の冒険2』は、長編の金田一とは別の楽しみ方ができる一冊だ。因習も大河ドラマもない。そのかわり、都会の生活のなかで起きる小さな欲望の暴走が、短いページ数の中でくっきり浮かび上がる。

人間の業は大げさな舞台がなくても十分に動くのだと、さりげなく見せてくるところが面白い。

東京の街は新しくなっていく。けれど、人が人を見間違え、人を疑い、人を裏切る仕組みは、案外ちっとも新しくならない。

『金田一耕助の冒険2』は、そのことを軽やかに、でもきっちり突いてくる短編集である。

悠木四季

昼メロみたいな痴情のもつれや保険金騒ぎが、最後にはきっちり論理のパズルとして決着するところがいいのだ。

『七つの仮面』

おすすめ度:(3.5)

Amazonで見てみる
この作品を一言でいうと

聖女と呼ばれた女の内面が崩れ、仮面のように増殖する自己の恐ろしさを描いた心理ミステリ。

聖女の顔が剥がれるたび、人間の底がのぞいてくる

横溝正史というと、因習の村や旧家の血筋、あるいは見立て殺人の派手な絵をまず思い浮かべがちである。

だが『七つの仮面』は、その連想を別の方向へ押してくる。ここで前面に出るのは、閉ざされた共同体の呪いより、ひとりの女の内面に積み重なっていく歪みだ。

しかも形式は一人称独白体。つまりこちらは、外から事件を見るのではなく、美沙という女の心の中へそのまま引きずり込まれることになる。この読み味がまず異様にいい。

かつて女学校で「聖女」と呼ばれるほど清らかで美しかった美沙は、上級生・山内りん子との忌まわしい関係をきっかけに、少しずつ別の顔を持ち始める。卒業後、銀座の喫茶店で働きながら、自分の美貌を武器に男たちを操り、富や享楽に手を伸ばしていくのだが、その歩みの裏には脅迫と嫌悪、そして殺意がぴったり貼りついている。

ここで描かれるのは、堕落というより、もっとねじれた変質である。もともとあった純粋さが壊れたのか、それとも壊れたことで本性が出たのか、その境目がひどくあいまいなのだ。

怪奇よりも人間心理のほうがよほど怖い

『七つの仮面』の見どころは、なんといっても美沙の語りである。横溝正史はときどき、女の一人称を書いたときに妙に生々しい。

しかも本作では、無垢な少女の自己像と、残酷さを帯びた現在の自分が、同じ語りの中でぬるりとつながっている。そのため、話が進むほど「この人はどこで変わったのか」と考えたくなるのだが、実際にはきれいな転換点などない。ただ少しずつ、仮面が増えていく。

『七つの仮面』というタイトルもいい。聖女、悪女、被害者、加害者。美沙は場面ごとに違う顔を見せているようで、どれも演技であり、どれも本心でもある。

この二重性がたまらない。人はひとつの本性だけでできているわけではない、という当たり前の事実を、ここまで不穏に見せられるとグッと刺さる。

金田一耕助は終盤まで前に出すぎない。だがそれがいい。美沙の独白にたっぷり付き合わされたあとで現れるからこそ、彼の役割がいつも以上にはっきりする。

彼は謎解き役というより、仮面の枚数を数え、最後にその名前を言い当てる人なのだ。真相の提示も鮮やかだが、それ以上に、金田一が美沙の内面をどこまで見抜いていたのかにぞくっとする。

この作品には、岡山もののような土俗的情緒はあまりない。その代わり、都会の冷えた欲望と、誰にもきれいには裁けない感情のもつれが濃く漂っている。

だからこそ『七つの仮面』は、怪談めいた恐怖よりも、人間の心そのものの危うさで迫ってくる。横溝作品の中でも異色で、いやな手触りの一作である。

悠木四季

一人称独白によって、美沙の告白そのものが仮面にも証言にもなっているところが抜群におそろしい。

おわりに

絵:悠木四季

金田一耕助シリーズを並べて見ていくと、あらためて横溝正史という作家のすごみが見えてくる。

血まみれの事件、奇怪な見立て、閉ざされた村、旧家の因縁。そうした派手な道具立てに目を奪われがちだが、その奥にあるのは、人間が抱え込んでしまった哀しさや、時代に押しつぶされた者たちの声である。

横溝作品の事件は怖い。超怖い。けれど、読み終えたときに残るのは恐怖だけではない。むしろ、どうしようもなく人間くさい寂しさや痛みのほうが、こちらの胸に深く沈んでくる。

そして、その惨劇の中心にふらりと現れるのが金田一耕助だ。颯爽とした名探偵ではない。身なりも頼りなく、どこか飄々としている。

だが、彼は事件を派手に裁くのではなく、人々が隠してきた真実を、少しずつ掘り起こしていく。その姿には、犯人を追い詰める冷たさだけでなく、罪を犯すところまで追い込まれた人間へのまなざしがある。

だからこそ、金田一耕助シリーズは古びないのだと思う。本格ミステリとしての面白さ、因習ホラーめいた怖さ、昭和の空気、そして人間ドラマ。そのすべてが絡み合って、横溝正史にしか書けない濃密な世界を形作っている。

はじめて読むなら、まずは『本陣殺人事件』『獄門島』『犬神家の一族』『八つ墓村』あたりから入るのがやはりおすすめだ。そこから気に入った方向へ進んでいけば、金田一耕助シリーズの奥行きはどんどん広がっていく。

おどろおどろしいのに、どこか美しい。怖いのに、妙に切ない。論理で謎を解いているはずなのに、最後には人間の業そのものを見つめている。

金田一耕助シリーズとは、そんな不思議な味わいを持つ、日本ミステリ屈指の巨大な迷宮である。

昭和の闇の奥で、今日も金田一耕助は、頭をかきながら真実の前に立っている。

あわせて読みたい
【横溝正史】まず読むべき《金田一耕助シリーズ》おすすめ7選 推理小説が好きなら、一度は耳にしたことがあるはずだ。 金田一耕助(きんだいち こうすけ)。 ボサボサ頭にヨレヨレの羽織袴、挙動不審っぽいときもあるのに、事件の核...

他のおすすめシリーズはこちら

綾辻行人『館シリーズ』

あわせて読みたい
【綾辻行人】館シリーズの読む順番とおすすめ【十角館】 〈館シリーズ〉の読む順番(刊行順一覧) 『十角館の殺人』(1987年) ──孤島の十角形の館で起きる連続殺人。ミステリ史に残る〈あの一行〉の衝撃。 『水車館の殺人』...

島田荘司『御手洗潔シリーズ』

あわせて読みたい
『御手洗潔シリーズ』のおすすめ作品と読む順番について【島田荘司】 島田荘司の『御手洗潔シリーズ』はどれもめちゃくちゃ面白い。 傑作も名作もそろっているし、どこから読んでもある程度は楽しめる。 ……でも、結論から言ってしまうと、...

三津田信三『刀城言耶シリーズ』

あわせて読みたい
三津田信三『刀城言耶シリーズ』解説|読む順番や魅力などを語りたい 三津田信三(みつだ しんぞう)の刀城言耶(とうじょうげんや)シリーズは、本格ミステリが好きな人ほど、一度は特別扱いしたくなるシリーズである。 因習に縛られた村...

有栖川有栖『火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)』

あわせて読みたい
有栖川有栖『火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)』全作品の評価と読む順番とおすすめの話 本格ミステリが好きなら、一度は通ることになるシリーズがある。 有栖川有栖の「火村英生シリーズ(作家アリスシリーズ)」だ。 英都大学の臨床犯罪学者・火村英生と、...

二階堂黎人『二階堂蘭子シリーズ』

あわせて読みたい
【二階堂黎人】二階堂蘭子シリーズ入門ガイド- フェアプレイの快感、論理の暴力、ここに極まれり【読む... これでもか、と言わんばかりに詰め込まれた不可能犯罪。 山奥の村、古城、病院、雪に閉ざされた孤島……そんなクラシックな舞台で連発される、殺人、連続殺人、そして時に...

麻耶雄嵩『メルカトル鮎シリーズ』

あわせて読みたい
麻耶雄嵩『メルカトル鮎シリーズ』徹底解説|おすすめ、読む順番、見どころの話 麻耶雄嵩(まや ゆたか)という作家は、日本ミステリ界でも群を抜いてとんでもない存在だ。 毎回、読者の予想を鮮やかに裏切り、常識という常識を根っこから引き抜いて...

有栖川有栖『国名シリーズ』

あわせて読みたい
有栖川有栖『国名シリーズ』徹底解説|読む順番やおすすめ、見どころの話 有栖川有栖(ありすがわ ありす)という作家は、現代本格ミステリ界ではもう鉄板の存在だ。 ガチガチの論理派でありながら、読み手をぐいぐい引き込むストーリーテリン...

エラリー・クイーン『国名シリーズ』

あわせて読みたい
エラリー・クイーン『国名シリーズ』徹底解説|おすすめや読む順番の話 ミステリの歴史を語るうえで、エラリー・クイーンは絶対に外せない存在だ。 もはや殿堂入り。クラシック中のクラシックである。 作中の探偵と作者の名前が同じ、という...
Amazonの聴く読書『Audible(オーディブル)』で聴ける神ミステリ10選

① 綾辻行人 『Another
② 有栖川有栖『月光ゲーム
③ 森博嗣『すべてがFになる
④ 麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件
⑤ 今村昌弘『屍人荘の殺人
⑥ 殊能将之 『ハサミ男
⑦ 青崎有吾 『体育館の殺人
⑧ 知念実希人 『硝子の塔の殺人
⑨ 夕木春央『方舟
⑩ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった

悠木四季

あの傑作ミステリを「聴ける」という奇跡!

私も利用しているけれど、「読む」とはまた違った良さがある。

何より、寝ながら聴いたり、散歩中に聴いたりと便利すぎるのだ。

この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次