近藤史恵『ねむりねずみ【新装版】』- 梨園という見えない壁に囲まれた、最も美しく最も閉ざされたミステリ

華やかな世界を描いた小説のはずなのに、読んでいるうちに妙に息が詰まってくることがある。
しかもその息苦しさが、露骨な陰惨さではなく、美しさとほとんど見分けがつかないかたちで迫ってくるタイプのやつだ。
近藤史恵『ねむりねずみ【新装版】』は、まさにそういう一作である。
舞台は歌舞伎の世界、いわゆる梨園。もうこの時点でかなり魅力的だ。格式があって、血筋がものを言って、名前が人を縛って、表からは見えない序列と感情が何重にも折り重なっている。
ミステリの舞台として、こんなにおいしい場所もなかなかない。館や孤島みたいに物理的に閉じているわけではないのに、ものすごく閉じている。伝統としきたりと空気そのものが壁になっているのである。
本作は、その梨園を舞台に、若手女方の中村銀弥が言葉を失っていく異変と、舞台上演中に起きた不可解な殺人事件を重ねながら進んでいく。設定だけ見るとかなり濃い。
だが実際に読んでみると、意外なくらい落ち着いた筆運びで物語が進む。このバランスがとてもいい。大げさに騒がず、派手に煽らず、それでも不穏さがきっちり積み上がっていく。歌舞伎の豪華さに寄りかかるのではなく、その裏にある人間の執着や痛みを、近藤史恵はかなり丁寧にすくい取っていくのだ。
しかも本作は、歌舞伎という特殊な世界を珍しい舞台装置として消費していない。そこに生きる人間の身体感覚や価値観まで含めて、きっちり物語の中核に入れているのがいい。歌舞伎に詳しくなくても問題なく入っていけるのだが、知らないからこそ逆に、この世界の独特さが妙にこわい。
美しいし華やかだし、外から見るとどうしても憧れを誘う。でも中に入ってみると、その美しさそのものが人を追い込む装置にもなっている。本作はそこをちゃんと描いている。
梨園という、見えない壁だらけの世界
ミステリ視点でまず面白いと思うのは、梨園という舞台設定が背景ではなく、謎の質そのものに関わっている点である。
劇場で起こる殺人、役者の失語、血筋と芸名が支配する共同体。どれもこの世界だからこそ、普通の事件とは違う響き方をする。
たとえば、役者が言葉を失うこと。これはもちろん一般的に見ても大変なことなのだが、歌舞伎の世界ではもっと深刻である。しかも銀弥は、役を自分に降ろすように演じる、いわば憑依型の役者として知られている。
そんな彼が、舞台ではなく日常の言葉をうまく扱えなくなっていく。この設定がまずいい。単なる不調ではなく、役に近づきすぎた人間が、自分自身の輪郭まで薄くしてしまうような怖さがあるからだ。
ここで本作が面白いのは、芸の世界をただ神々しく描かないところである。芸に人生を捧げることを、ひたすら尊いものとして持ち上げるような話ではない。
むしろ芸は、人を高みへ連れていく一方で、人の生活や感情や自我を平気で削っていくものでもあるのではないか、とかなり冷静に見ている。この視線がいい。私はこういう作品が好きだ。美しいものの残酷さまで見ている小説は、やはりいい。
しかも梨園は、ただ厳しい世界なだけではない。厳しさにきらびやかな美がくっついているのがやっかいなのだ。所作、衣裳、舞台、家、名跡。そのどれもが洗練されている。だから外から見ると、その中にある歪みまで一緒に美しく見えてしまう。
本作は、その危うさをかなり早い段階からきっちり掴んでいたのだと思う。伝統は人を支えるが、同時に人を逃がさない。この二面性が、舞台の上だけではなく、人間関係のすみずみにまでしみ込んでいるのである。
小菊という語り手がとにかくいい
この作品を読んでいて改めて思うのは、瀬川小菊という語り手の巧さである。彼は名門の血筋を持つ役者ではなく、大部屋役者として梨園の中にいる人物だ。つまり内部の人間ではあるが、中心にいるわけではない。この距離感がとてもいい。
小菊は内部の人間だからこそ、梨園のルールや空気を肌で理解している。けれど、その世界のど真ん中に守られて立っているわけではないから、少し引いた目も持てる。全面的に染まりきってはいないが、外から気楽に眺めているわけでもない。
この半歩引いた位置が、語り手として本当にちょうどいいのだ。事情通でありながら盲信者ではなく、感情移入の窓口にもなりつつ、観察者としての冷たさも持っている。シリーズが長く愛される理由のひとつは、たぶんこの小菊の存在にある。
さらに小菊は女方であり、この設定がまた作品を面白くしている。女方というのは、単に男性が女性役を演じる、というだけでは済まない。身体の使い方も、所作も、気配も、少しずつ芸に寄っていく生き方である。
舞台の上でだけ女になるのではなく、その感覚が日常にまでにじみ出てくる。小菊という人物には、その曖昧さがとても自然に書き込まれているのだ。
この、役と自我、舞台と生活、男と女の境目が少しずつゆらぐ感じが、本作全体の空気ともよく合っている。銀弥が言葉を失っていくことも、小菊が女方として生きていることも、どちらも結局は芸が人をどう変えてしまうのか、という話につながっていくからだ。
そしてそこに今泉文吾が入ってくるのがまたうまい。歌舞伎界の情念や慣習に飲み込まれず、論理の側から事件を見る人物がいることで、物語はきちんと本格ミステリとして立ち上がる。
小菊が内部の感覚を持つ語り手なら、今泉は外部の理性である。この組み合わせがとても気持ちいい。特殊な共同体の話としても面白いし、謎解き小説としてもきっちり読ませる。その両立を支えているのが、このコンビなのだと思う。
美しい話ではなく、美しさがこわい話である


絵:悠木四季
本作がうまいと思うのは、失語症と劇場の殺人という二つの異変を、別々のネタとして置いていないところである。最初は違う方向の不穏さに見えるものが、終盤で一本の線につながっていく。
そのまとめ方がきれいで、しかも、きれいに収まったままで終わらないのがいい。真相が見えるにつれて、事件の異様さそのもの以上に、そこにたどり着く人間の感情や芸の論理のほうがずしんと残るのである。
これは不可能犯罪ものの顔をした芸道小説であり、同時に芸道小説の顔をした本格ミステリでもあるのだと思った。どちらか一方に寄り切らない。
舞台上の死、暗転、観客の死角、視線の誘導といった劇場ならではの仕掛けは、ちゃんと謎として機能する。だがそこに、人はなぜそこまで追い詰められるのか、という感情の流れが重なってくると、話は単なるトリックの上手い下手では済まなくなる。
ここで効いてくるのが、『ねむりねずみ』というタイトルだろう。ルイス・キャロルの眠りねずみを思わせるこの題は、少し可愛らしくもあるのだが、実はかなりいやな感じを含んでいる。なんというか、小さくて、無力で、どこか滑稽で、それでいて狭い容器の中に閉じ込められているイメージだ。
梨園という世界も、まさにそういう容器なのだと思う。守られているようで、実のところ簡単には出られない。眠っているのか、眠らされているのかもわからない。この曖昧さが、作品全体に流れる不穏さとよく重なっている。
2026年の新装版であらためてこの作品が読めることもすごく嬉しい。1994年という時代の空気は確かにある。けれど、そこで描かれているものは全然古びない。
特殊な共同体の論理、名声への執着、才能と継承の残酷さ、美が人を救うと同時に壊しもするという感覚。どれもいま読んでも十分に生々しい。むしろ、自分を見せることや演じることが日常になった時代だからこそ、この小説の危うさは前より見えやすくなっている気もする。
『ねむりねずみ【新装版】』は、歌舞伎を題材にした珍しいミステリ、という紹介だけでは足りない。これは、伝統という硬い器の中で、人がどう削られ、磨かれ、壊れていくのかを見つめた小説である。
そして同時に、その壊れ方まで含めて論理のかたちに収めようとする、本格ミステリの意地が通った作品でもある。
華やかな舞台の話を読んでいたはずなのに、最後に残るのは拍手喝采ではなく、息をひそめるような感覚のほうだ。
歌舞伎の幕が上がる話でありながら、見えてくるのは人間の奥にある暗がりである。
なんともいやで、なんとも美しい。そういう小説なのだ。



















