『鬼門の村』- 理解することは、救いではない。櫛木理宇が仕掛ける逃げられない地獄絵図【読書日記】

山奥の村、古い因習、一家惨殺事件のあった家、そして絶対に口にしてはいけない土地の水と食べ物。
もう、この材料だけでかなり怖い。というか、ホラー好きならこの時点で読みたいスイッチが入る。
もちろん、現実なら絶対に行かない。行かないのだが、小説の中なら話は別である。危ない村ほど、なぜか見に行きたくなる。これはもうホラー好きの宿命だ。
櫛木理宇『鬼門の村』は、そんな危険な好奇心をかなり的確に突いてくる土着ホラーである。しかも、ただ雰囲気で怖がらせるタイプではない。実話怪談、民俗学、村の因習、過去の事件、そしてミステリ的な伏線回収。
それらを重ねながら、ぬるりとこちらの足元を取ってくる。気づいたときには、もう村の入口をかなり奥まで進んでいる。
物語の主人公は、大学生の友部清玄。彼は社会民俗学を専門とする嘉形教授から、奇妙なアルバイトを頼まれる。R県の山奥にある村に滞在し、教授のラジオ番組に寄せられた実話怪談のなかから、その地域に関係する話を整理するという仕事だ。
これだけ聞くと、少し変わった調査バイトのようにも思える。だが、問題は滞在先である。清玄が泊まるのは、昭和三十年代に一家惨殺事件が起きた旧家。さらに教授は、村の水や食べ物を絶対に口にするなと命じる。
いや、もう帰ろう。私ならその場で帰りの電車を調べる。だが清玄は村へ向かう。そして当然のように、そんな約束がただの注意事項で済むわけがないのである。
実話怪談が、少しずつ村の形を作っていく
本作の面白さは、主人公が最初から怪異の中心に飛び込むのではなく、実話怪談を整理する側にいるところにある。清玄は、ラジオ番組に投稿された怪談を読み、分類し、村とのつながりを探していく。
この構造がとてもいい。投稿された怪談は、それぞれ短い怖い話として読める。羽音が聞こえる話、戻ってくる石の話、白い着物の子供、妙な目つきをした人物。ひとつひとつは断片的で、最初はただ不気味な話の寄せ集めに見える。
けれど、読み進めるうちに、その断片が少しずつ村の歴史や地形、古い因習とつながっていく。別々の怪談だったはずのものが、だんだん同じ方向を向き始める。この感じがかなり怖い。最初は遠くで聞こえていた音が、いつの間にか自分の背後に回っているような怖さである。
ここで効いているのが、櫛木理宇のミステリ作家としての腕だと思う。怪談はただの挿入話ではない。情報であり、伏線であり、警告でもある。怖い話を読んでいるつもりが、実は村の秘密を少しずつ掘り起こしている。しかも、掘れば掘るほど「これは掘ってはいけないやつでは」と思えてくる。
ミステリなら、謎が解けると視界が開ける。だがホラーでは、謎が解けるほど逃げ道が減っていく。『鬼門の村』は、その反転がとても鮮やかだ。
謎が解けることが救いではなく、より深い絶望への入口になる。これがたまらない。いや、たまらないと言っていいのか微妙だが、ミステリ好きとしてはかなりうれしい悲鳴である。
パズルが組み上がる快感はある。あるのだが、完成した絵がひどい。うれしいのか嫌なのか、感情が迷子になる。こういう、論理で読ませて最後に感情を冷やしてくるホラーは凄く好きだ。
食べてはいけない、飲んではいけないという怖さ
本作で特に好きなのが、村の水や食べ物を口にしてはいけないという禁忌である。
これが本当に嫌だ。とても嫌だ。なぜなら、食べることも飲むことも、本来は安心につながる行為だからである。喉が渇けば水を飲む。お腹が空けば何か食べる。人間の生活のいちばん基本にある行動だ。
それを封じられるだけで、急に世界が不安定になる。しかも、ただの衛生問題ではない。村のものを口にしたら、その土地に取り込まれるのではないか。そんな民俗的な感覚が背後にある。黄泉戸喫を連想させる仕掛けでもあり、食べ物が境界線になるところがとてもうまいと思う。
清玄がペットボトルの水を持ち込み、村の食べ物を避けようとする姿は、彼が必死に村との距離を保っているように見える。だが、その距離は本当に保てているのか。村に入った時点で、もう何かが始まっていたのではないか。そう考え始めると、何をしても安心できなくなる。
土着ホラーの怖さは、まさにこの「境界が曖昧になる感じ」にある。外から来た人間が、最初は見物人や調査者の顔をしている。ところが、いつの間にかその土地のルールに巻き込まれていく。外側に立っていたつもりが、気づけば内側にいる。
清玄という主人公も、その意味でとてもいい。彼は華やかな大学生活の中心にいるタイプではない。どこか居場所のなさを抱えていて、自分を少し外側の人間として見ている。だからこそ、村を見る目には説得力がある。
けれど、その孤立感は同時に危うさでもある。外側にいる人間ほど、実は別の場所に引っ張られやすい。村は閉じているようでいて、迷い込んだ人間を受け入れる。いや、受け入れるというより、逃がさない。そのぬるい親切さが怖い。
本作の村は、単なる昔ながらの怖い田舎ではない。過剰な親切、見られている感覚、誰もはっきり言わないルール、共同体の内側だけで通じる空気。そういうものが積み重なっている。山奥の村という舞台ではあるが、どこか現代のコミュニティにも通じるところがある。
SNSでも職場でも趣味の集まりでも、見えない村みたいなものはある。みんなが空気を読み、暗黙のルールに従い、外れた者を妙な目で見る。そう考えると、『鬼門の村』の怖さは遠い土地の話ではない。私たちの足元にも、かなり薄く広がっている。
羽音、石、寄り目……。忘れにくい嫌なものたち
櫛木理宇のホラーでうまいと思うのは、怖さを理屈だけでなく感覚として残すところだ。本作にも、頭ではなく体のほうが先に嫌がるような描写がいくつも出てくる。
たとえば、羽音。
羽音というのは、それだけで不快である。姿は見えないのに、何かが近くにいる。小さなものが群れている気配がある。しかも、それが何なのかすぐにはわからない。このわからなさが神経に触る。
戻ってくる石も怖い。捨てても、離しても、いつの間にか戻ってくる。大きな事件ではない。だが、こういう小さな異常ほど生活の感覚を壊してくる。派手な怪物より、机の上にあるはずのない石のほうが、日常に食い込んでくるぶん嫌なのだ。
そして、寄り目の描写。これがまた残る。黒目が中心に寄っているという、ほんの少しの異様さ。だが、その少しがとても大きい。人間の顔をしているのに、人間として受け取れない。見てはいけないものを見てしまった感覚がある。
こういう描写は、小説だからこそ怖い。映像なら画面に映るものがすべてだが、文章だと自分の頭が勝手に補ってしまう。しかも、だいたい最悪の形に補う。脳内上映会が勝手に始まるのだ。チケットを買った覚えはないのに、最前列に座らされている。かなり迷惑である。
終盤になると、こうした怪異の断片が一気につながっていく。実話怪談、村の過去、嘉形教授の思惑、清玄の立場。それぞれ別々に見えていたものが、ひとつの大きな形を持ち始める。
ここで本作は、ホラーでありながらかなりミステリ的な快感を与えてくれる。伏線が回収され、構造が見えてくるのだ。だが、その気持ちよさは明るいものではない。完成した絵を見て、「なるほど」と思った直後に、「いや、なるほどじゃない」となる。理解した瞬間に、むしろ怖さが増すのだ。
櫛木理宇の作品には、人間の暗さを見つめる冷たさがある。『死刑にいたる病』では、その暗さが個人の内面に向かっていた。だが『鬼門の村』では、それが土地や共同体へ広がっている。
ひとりの異常者ではなく、村そのものが異常を抱えている。いや、村にとっては異常ではなく、ずっと続いてきた普通なのかもしれない。そこがまた怖い。
『鬼門の村』は、古い土着ホラーの魅力をしっかり持ちながら、実話怪談の形式とミステリの構成を組み合わせた作品である。怖い村の話であり、怖い土地の話であり、怖い人間の話でもある。
そして何より、読み終えたあとに羽音の幻聴を置いていくタイプの小説だ。部屋の隅で何かが鳴った気がしたら、たぶん気のせいである。たぶん。そう思えるうちは、まだこちら側にいるのだと思いたい。
でも、鏡を見るときだけは少しだけ気をつけたい。
黒目が、昨日よりほんの少し中心に寄っているような気がしたら、そのときはもう、村のほうがこちらを見つけているのかもしれない。





















