加門七海『裂神』- 神とは救いか、それとも祓われた厄の成れの果てか【読書日記】

人というのは、都合の悪いものを外へ追いやるのがうまい生き物だ。
穢れ、厄、災い、祟り。
名前をつけ、祓い、流し、境界の外へ出す。そうすれば、こちら側は清められた気になれる。
めでたしめでたし。……で済めばいいのだが、加門七海のホラーは、そこで絶対に終わらせてくれない。
この『裂神』は、鹿角南シリーズの第三作である。『祝山』『目嚢』に続く作品であり、シリーズを追ってきた身としては、ついにここまで来たか、という感触がある。
いや、来てしまった、というべきかもしれない。禁足地、古文書、古い家の因縁といった、いかにも加門七海作品らしいモチーフを踏まえつつ、本作が正面から扱うのは、もっと根源的で、もっと人間に都合の悪い存在だ。
それが、神である。
ただし、ありがたい神様ではない。願いを聞いてくれる神でも、怒りや恨みを抱えた幽霊でもない。人間の言葉も倫理も届かない、ただそこにあるだけで世界の均衡を破ってしまうもの。
『裂神』の恐怖は、悪意ある怪物に襲われる怖さではなく、こちらの都合など最初から勘定に入れていない存在に触れてしまう怖さなのである。
これはもう、ホラーというより、民俗学経由の宇宙的恐怖である。厄介すぎるし、最高に嫌だ。
古い面が開けてしまう、境界の裂け目
物語の発端は、夏休みの大学構内で起きる怪死事件だ。学生が古い木の面を被って踊り、そのまま命を落とす。
面は派手な造形ではない。鬼でも天狗でも般若でもない。目の位置に沿って、縦に裂け目が走っているだけの、妙に簡素な木面である。
ここがまず怖い。ホラーに出てくる面というと、普通は顔がある。怒り、悲しみ、嫉妬、怨念。表情があれば、そこに何らかの意味を読み取れる。人間の側が、あれは鬼だ、あれは神だ、あれは祟りだ、と分類できる余地がある。
しかし『裂神』の面には、顔らしい顔がない。ただ裂けている。つまり、人間が理解できる表情ではなく、境界そのものが露出しているのだ。
現世と異界、人と神、日常と祭祀。そのあいだにある膜が、すっと切れている。こんなものを被るのは、仮装でも儀式でもなく、自分の顔を裂け目に差し出す行為に近い。
鹿角南は、友人の和歌子の祖父が遺した神楽面コレクションの中に、事件の面と同じ形のものがあることに気づく。そこから調査は、熱海の山中にあった古い集落と、そこで行われていた祭祀へ向かっていく。
大学サークル、ネットに出回る画像、スマートフォン越しの不穏さ。そういう現代的な入口から、いきなり古層の信仰へ引きずり込まれる流れがとても加門七海らしい。
便利な現代の道具を持っていても、たどり着く先は地図の外みたいな場所なのだ。スマホがあっても無理。検索しても無理。電波より古いものが、こちらを待っている。
祓われた厄は、どこへ行くのか
本作でとくに面白いのは、厄を祓うという行為そのものを疑っている点だ。
普通、お祓いと聞くと、悪いものを消してくれるようなイメージがある。だが加門七海の世界では、そう単純ではない。
厄は消滅するのではなく、どこかへ移される。共同体の外、境界の向こう、見えない場所へ押し出される。では、その押し出された厄はどうなるのか。
『裂神』は、そこを見に行ってしまう作品である。祓われた厄が滞留し、やがて祀られ、神と呼ばれるものになっていく。
そう考えると、神とは本当に尊いものなのか、それとも人間が処理しきれなかった災厄のかたまりなのか、境目が怪しくなってくる。ここが最高だ。民俗ホラー好きとしては、膝を叩きつつ後ずさりしたくなるポイントである。褒めたいのに、近づきたくない。
『祝山』では、禁足地へ踏み込むという明確なタブー侵犯があった。『目嚢』では、古文書を読むことによって因縁に巻き込まれていく好奇心の怖さがあった。
では『裂神』はどうか。ここでは、因果がさらに理不尽になる。誰かが悪意を持って呪ったから起きるのではない。何かを侮辱したから罰が下る、というわかりやすい構図でもない。
そこに面がある。触れてしまう。被ってしまう。見てしまう。それだけで、もうこちら側には戻れない。
この理不尽さが、本作の核である。悪いことをした者が罰を受けるなら、まだ人間の倫理で理解できる。しかし、神が人間を倫理の対象として見ていない場合、善悪など最初から役に立たない。
こちらがどれだけ正しく振る舞っても、山崩れや津波の前で礼儀正しくしても意味がないのと同じだ。神とは救済者である以前に、巨大な現象でもある。その冷たさが、本作にはある。
鹿角南シリーズがたどり着いた、言葉の通じない恐怖
鹿角南という人物は、怪異をただ怖がるだけではない。歴史や民俗、土地の因縁、物に宿る来歴を読み解こうとする。
つまり、怪異に対して知で近づく人である。だからこそ、このシリーズは面白い。感情だけで逃げ回るホラーではなく、調べ、考え、構造を見つけようとするホラーなのだ。
しかし『裂神』では、その知がどこまで届くのかが試される。
奈良崎はお祓いという一般的な手段に向かい、村上はより直接的に神事の核心へ踏み込もうとする。どちらも間違っているわけではない。むしろ、怪異に対して人間が取りうる行動としては自然である。
怖いものに遭遇したら、まず祓ってもらいたい。原因があるなら突き止めたい。どうにかして筋道を作りたい。
だが、相手が筋道を持たない存在だったらどうするのか。
ここで本作は、怪談の顔をしながら、人間中心主義の足場をばきっと折ってくる。怖いのは、幽霊が出ることではない。人間の理屈が、まるごと通用しないことである。
こちらが名前をつけ、分類し、祀り、祓い、管理してきたつもりのものが、実は最初から管理などされていなかった。その事実が、木面の裂け目から覗いている。
しかも本作は、ただ嫌なだけの話では終わらない。裂け目から見える夜空のイメージには、恐怖と同時に妙な美しさがある。人間の秩序から切り離されることは、破滅である。けれど、その先に人間の尺度では測れない広がりがあるようにも見える。
この二重の感触が、加門七海作品の奥行きだと思う。怖い。だが、見てしまう。危ない場所だとわかっているのに、もう一歩だけ近づきたくなる。
『裂神』は、鹿角南シリーズの流れを受け継ぎながら、怪異を因縁や呪いの枠からさらに押し広げた作品である。厄を祓う。祀る。神と呼ぶ。その一連の営みの裏側にある、人間の身勝手さと限界を、一本の裂け目が暴いていく。
読み終える頃には、古い面を見る目が少し変わってしまう。土産物屋の壁にかかった素朴な木面でさえ、ただの飾りに見えなくなる。
あの裂け目の奥に何かがあるかもしれない。いや、何かがあると思った時点で、もうこちらが覗いているのではなく、向こうから覗かれているのかもしれない。
そういう嫌な想像を残していくあたり、加門作品はやっぱり好きだ。
民俗ホラーの怖さは派手な絶叫ではなく、日常のすぐ横にある境界線を、ふいに細く切り開いてしまうところにある。
『裂神』は、その裂け目を真正面から覗き込んだ、ぞっとするほど美しいホラーである。





