西式豊『処刑館殺人事件』- ミステリ作家たちが自分の書いた謎に処刑される館へ【読書日記】

ミステリ作家が山奥の館に集められる。
外界との連絡を絶たれる。
そこに処刑道具が並べられている。
そして、ひとりずつ殺されていく。
本格ミステリを愛する者にとって、この状況が好きではない人なんているだろうか。
危険だと分かっている。絶対にろくなことにならない。それでも「館」「クローズド・サークル」「見立て殺人」と聞いた瞬間、心の中の本格ミステリ専用スイッチがカチッと入ってしまう。この習性はたぶん一生治らないだろう。
西式豊『処刑館殺人事件』は、そんなミステリ好きの業を真正面から狙い撃ちにしてくる作品である。
舞台は、群馬県の山奥に建つ洋館、岨景館。そこに招かれるのは、かつて同じミステリ作家養成講座で学んだ六人の同期たち。
すでに売れっ子になった者、賞を獲ってデビューした者、商業的成功をつかみかけている者、そしてまだプロになれない者。それぞれが、ミステリという沼に人生を突っ込んだ人たちである。
彼らを待ち受けるのは、恩師との再会ではない。跳ね橋が上がり、外へ出られなくなり、スピーカーから〈黒衣の処刑人〉を名乗る声が響く。
「ミステリ作家は一人残らず罪人である」
この宣告が、あまりにもそそる。こちらの倫理観と娯楽欲がいきなり取っ組み合いを始める。
人が死ぬ話を楽しみにしている私は何なのか。いやでも、館だぞ。処刑道具だぞ。
作家たちが自作になぞらえて殺されるんだぞ……そんなの、最高に決まっているではないか!
館ものの定番を、ここまで悪趣味に磨くのか
本作の設定は、見た目だけなら本格ミステリの王道中の王道である。
山奥の洋館。通信不能。逃げ道なし。招かれた男女。正体不明の犯人。見取り図。怪しい部屋。連続殺人。
いわば、こちらが大好きな具材だけで作った闇鍋である。しかも鍋の底から処刑道具が出てくる。やめてくれ、でももっとやってくれ、という読書中の感情が忙しい。
また、本作がアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』の系譜を意識している点も見逃せない。隔絶された場所に集められた複数の人物、逃げ場のない状況、ひとりずつ減っていく人数、そして「なぜこの人々が選ばれたのか」という不穏な選別の感覚。
もちろん『処刑館殺人事件』はそれをそのままなぞるのではなく、対象をミステリ作家に置き換えることで、古典的な孤島型ミステリを現代のメタミステリへと変換している。
クリスティが作り上げた「閉ざされた場所で人が消えていく恐怖」を踏まえつつ、その構造をミステリを書く者、読む者の罪へ向けて反転させているのだ。
そして『処刑館殺人事件』が面白いのは、単にクラシックな館ものを現代風に派手にしたからではない。殺される側がミステリ作家であり、殺され方が彼ら自身の著作と結びついている点に、この作品のイヤな切れ味がある。
作家たちは、自分が小説の中で考えたトリックや殺人の趣向を、今度は自分の身体で受け止めることになる。紙の上では知的遊戯だったものが、現実の肉体に降りかかるのだ。
これはもう、メタミステリというより、メタ処刑である。ジャンルへの愛が深すぎて、ついにジャンルそのものが刃物を持って襲いかかってきた感じがある。
ここで突きつけられるのは、ミステリを書くこと、読むことの奇妙な罪深さだ。私たちは、殺人事件が起きる小説を楽しむ。密室が出てくれば喜ぶ。死体の位置がおかしければ身を乗り出す。首なし死体や見立て殺人なんて出てきた日には、ついページをめくる手が速くなる。冷静に考えると相当どうかしている。
もちろん、現実の暴力を望んでいるわけではない。だが、虚構の中では、死が謎になり、謎が快楽になる。その危うい交換を、本作は「おまえたち、分かっていて楽しんでいるよな?」とこちらへ突きつけてくる。
ミステリ好きとしては、少し目をそらしたくなる。だが、そらした先にも別の処刑道具が置いてある。もう逃げ場がないのだ。
六人の作家たちが背負う、ミステリ業界の縮図

画像 Amazonより引用
岨景館に集められた六人の作家たちは、それぞれ異なるジャンルや立場を背負っている。
ハードボイルド系企業ミステリを書く者、キャラクター・コメディ系でブレイクした者、館ものに執念を燃やす新本格信奉者、医療知識を武器にするメディカルミステリ作家、ライトノベル的なキャラクターミステリで売り出した新人、そして未デビューのまま取り残された男。
この配置が抜群に面白い。単なる容疑者リストではなく、現代ミステリのジャンル地図そのものになっているからだ。
売れるミステリとは何か。純粋な本格とは何か。キャラクター性は武器なのか、それとも邪道なのか。賞を獲ること、売れること、書き続けること、認められないこと。そうした創作者の欲望や嫉妬やプライドが、六人の会話や立ち位置からにじみ出てくる。
特に、同期という関係がしんどい。同じ場所から出発したはずなのに、気づけば誰かは売れっ子になり、誰かは評価され、誰かはまだ入口で足踏みしている。
作家同士の友情は、祝福だけではできていない。そこには羨望もある。劣等感もある。相手の成功を拍手しながら、内心では「なぜ自分ではないのか」と思ってしまう瞬間もある。
このあたりの人間関係の苦さが、本作を単なる惨劇ショーにしていない。殺人の仕掛けは派手だが、その下に流れているのは、書く人間たちのどうにも生々しい感情だ。ミステリ作家という存在を、名探偵を生み出す神のような位置ではなく、売上や評判や才能の差に揺さぶられる一人の人間として描いている。
だからこそ、彼らが自作にまつわる形で追い詰められていく展開には、悪趣味な面白さと同時に、妙な痛みがある。自分が書いたものから逃げられない。自分のジャンル観、自分の作風、自分のプライドが、凶器になって戻ってくる。これは創作者にとって、ほとんど悪夢である。
そして、こちらはその悪夢を読んで楽しんでいる。うん、ますます逃げ場がない。
これは館ミステリへの処刑か、それとも愛の告白か
『処刑館殺人事件』は、館ミステリの定番をこれでもかと使いながら、その定番に対して容赦なくメスを入れていく作品である。
クローズド・サークルは楽しい。だが、なぜ楽しいのか。見立て殺人は美しい。だが、人の死を美しい配置として眺めるとはどういうことか。作家は殺人を考え、受け手はその殺人を味わう。その関係は、本当に無邪気な娯楽と呼べるのか。
本作は、このあたりを説教臭く語るのではなく、きっちり本格ミステリの形でぶつけてくるのがいい。倫理の話をしたいだけなら、別に館に閉じ込める必要はない。だが西式豊は、ちゃんと謎を置き、死体を配置し、伏線を仕込み、どんでん返しを用意する。ジャンル批評をやりながら、娯楽としてのサービス精神も忘れない。そこが素晴らしい。
特に、作中に仕込まれる手記や間章、見取り図、最初のページに潜む手がかりなど、読書行為そのものの死角を突く仕掛けは、本格ミステリ好きの脳をいやらしく撫でてくる。
こちらが「これはこういう型だな」と思った瞬間、その型ごと足元を外してくる。ミステリを読み慣れている人ほど、ジャンルの約束に頼ってしまう。その習性を逆に利用されるのだ。
腹立たしい!しかしめちゃくちゃ楽しい!
しかも、最後に残る感触は、ミステリへの嫌悪ではない。むしろ逆である。これほどまでにミステリの罪深さを暴きながら、それでもなお、本作はミステリという形式を愛している。
館、密室、見立て、手記、伏線、反転、論理。そうした道具立てを、古くさいものとして捨てるのではなく、現代の悪夢として再起動させているのだ。
そこにぐっときた。ミステリは、人の死を娯楽に変えるジャンルである。だからこそ、どこか後ろめたい。けれど同時に、死をめぐる混沌に形を与え、不可解なものに筋道を通し、世界を一度だけでも理解可能なものとして組み直すジャンルでもある。その快楽はやはり手放しがたい。
『処刑館殺人事件』は、その矛盾を丸ごと抱え込んだ作品である。ミステリ作家を断罪し、ミステリ好きの業をえぐり、それでも最後には「やっぱりこういうものを愛してしまうのだ」と言わせにくる。
いやはや、本当に困ってしまう。こちらの逃げ道を全部ふさいだうえで、最後に本格ミステリのごちそうを出してくるのはずるい。
処刑の館で行われていたのは、ミステリへの裁判だったのかもしれない。
だが判決を聞き終えたあと、私の中に残ったのは有罪の重みだけではなかった。
むしろ、罪を抱えたままでもなお、このジャンルの暗い輝きに惹かれてしまう自分自身の姿である。
館の扉は閉ざされる。跳ね橋は上がる。
作家たちは追い詰められる。こちらはページをめくる。
そのどうしようもない共犯関係こそが、『処刑館殺人事件』というタイトルの奥で、ひそかに笑っているものなのだと思う。


