井上雅彦『竹馬男の犯罪 新装版』- 竹馬に乗った怪奇と論理が、サーカスの暗闇で握手する【読書日記】

竹馬に乗った男。
高い位置からこちらを見下ろす影。
人間の身体なのに、人間の高さから少しずれている存在。足音も、視線も、移動の仕方も、どこか普通の世界の寸法から外れている。
この時点で勝ちである。ミステリのタイトルとして、あまりにも強い。
しかも今回読んだのは、2026年6月に星海社FICTIONSから刊行された『竹馬男の犯罪 新装版』だ。1993年に講談社ノベルスから登場し、文庫化、復刊セレクションを経て、また新しい装いで戻ってきた。
これがまず嬉しい。伝説的な作品として名前だけを聞く本ではなく、いまの本棚にすっと差し込める一冊として戻ってきたのだ。こういう怪しくて濃い本が、現在進行形の新刊として読める。その事実だけで、もうお祭り騒ぎである。
井上雅彦といえば、怪奇幻想、モダンホラー、そして『異形コレクション』の監修者として知られる作家だ。その人が本格長編推理に踏み込んだ作品が『竹馬男の犯罪』なのだから、空気が普通で済むはずがない。
現場は常に少し暗く、人物はどこか歪み、事件の形も妙に美しい。だが、その暗がりの奥にちゃんと推理の骨が通っているのが素晴らしい。
錆びたサーカス列車が呼んでいる
舞台となるのは天幕荘。この名前だけで、すでに現実の建物というより、夢の中の見世物小屋である。
天幕荘は、引退したサーカス芸人たちが暮らす養老院のような場所だ。敷地には三つの巨大なテント型建築があり、かつて使われていたサーカス列車まで残されている。
もう興行は行われていない。スポットライトも拍手も遠ざかり、空中を舞っていた肉体も、猛獣を従えていた腕も、少しずつ過去のものになっている。
この設定がまず抜群にいい。サーカスとは本来、移動する芸能である。町から町へ渡り、テントを張り、数日の夢を見せて、また去っていく。ところが天幕荘では、その移動するはずのものが一箇所に留められている。列車は走らず、天幕は旅をしない。華やかだった芸の記憶だけが寂しく残っている。
風が吹けば天幕がばさりと鳴り、古い列車からは錆びた鉄の匂いがしてきそうだ。もう舞台の時点でだいぶ怪しい。江戸川乱歩の見世物小屋めいた妖しさもあるし、小栗虫太郎『黒死舘殺人事件』みたいな、やたら濃くて飾り立てられた知の悪夢っぽさも漂っている。つまり天幕荘は、事件が起きる前からすでに不穏なのだ。
そんな場所で連続殺人が起きるのだからはいもう最高ですよね。
特に館ものには、建物そのものが事件の共犯者のように見える楽しさがある。古城、洋館、孤島、雪の山荘。そうした閉じた舞台は、謎を閉じ込める容器になる。
だが天幕荘は、ただ閉じているだけの場所では足りない。ここには「かつて見世物だったものたち」が住んでいる。つまり、住人も空間も、最初から演出の気配をまとっているのだ。
壁、扉、窓、廊下。普通の館ものなら、それらは物理的条件として読める。だがサーカスの記憶が染みついた天幕荘では、すべてが舞台装置に見えてくる。
列車はただの列車なのか。テントはただの建物なのか。老いた芸人たちは、引退した普通の住人なのか。疑い出すと、何もかもが怪しい。そう、最高なのである。
密室が密室として頼りにならない場所
『竹馬男の犯罪』の面白いところは、サーカス芸人たちの存在が、ミステリの基本ルールをぐにゃりと曲げてくる点だ。
密室殺人というものは、普通なら「誰も出入りできない場所で、なぜ殺人が起きたのか」という不可能性を中心に組み立てられる。扉が閉まっていた。窓も塞がれていた。鍵も内側にあった。ならば犯人はどうやって出入りしたのか。これが密室の快楽である。
ところが天幕荘にいるのは、普通の身体感覚で測れない人々だ。
空中ぶらんこ乗りがいる。奇術師がいる。双子の道化師がいる。猛獣使い、火噴き男、刺青男、空気女までいる。名前を並べるだけで、推理小説というより妖しい興行のチラシを読んでいる気分になる。
ここで厄介なのが、彼らの身体能力や技術が、密室の前提を揺らしてしまうことだ。常人には無理な移動も、彼らなら可能かもしれない。目の錯覚を作ることも、身体を異様な角度で使うことも、舞台上で不可能を可能に見せることも、彼らには職能として備わっている。
つまり、密室が「完全な密室」に見えても、その完全性をどこまで信用していいのか分からないのだ。
ここが『竹馬男の犯罪』めちゃくちゃ楽しいポイントである。普通の館ものなら、鍵や窓や足跡を見て、こちらはルールを確かめる。
だが本作では、ルールを読む前に、人物の身体そのものを読まなければならない。誰がどんな動きをできるのか。どの芸が、どんな不可能を可能に見せるのか。どこまでが本当に物理で、どこからが演出なのか。
しかも、事件の発端からして魅力的だ。密室の中で起きる殺人。そして、壁の中へ消えたかのような足跡。素晴らしい!こういう不可能犯罪は見た瞬間にワクワクしてしまう。これは解ける謎なのか、それとも怪奇に呑まれる話なのか。そう身構えながら読んでいると、天幕荘の空気がどんどん濃くなっていく。
主人公としてこの場に入っていくのが、雑誌ライターの真野博史。そして謎に向き合うのが、自称・詩人探偵の磨理邑雅人である。
この詩人探偵という響きもよい。冷徹な名探偵というより、事件に漂うイメージや美学を受け止めたうえで、その奥にある仕掛けを見抜いていくタイプだ。
怪奇を怪奇として味わいながら、最後には論理の刃を入れる。ここに本作の気持ちよさがある。
怪奇の霧を論理が切り裂く

絵:悠木四季
井上雅彦が書く本格ミステリというと、雰囲気で押し切るタイプを想像する人もいるかもしれない。サーカス、異形、怪奇、退廃。これだけ濃い材料が揃うと、読ませる力だけで勝負できてしまうからだ。
だが『竹馬男の犯罪』は、ちゃんと推理の快感を用意している。
特に面白いのは、作品全体が「異形の身体」を前面に出しながら、謎の核心へ向かうにつれて、人間の認知や思い込みのほうへ視線をずらしていくところである。
サーカス芸人ならこんなことができるのでは。奇術師なら目をごまかせるのでは。空中ぶらんこ乗りなら想像を超えた移動ができるのでは。そういう派手な可能性が次々と浮かぶ。
だが、そこにばかり目を奪われると、もっと単純で鋭い死角を見落とす。これがミステリの魔法である。派手な装飾をたっぷり見せておいて、最後に「あなたが見ていなかったのはここですよ」と突いてくるのだ。
しかも、その突き方が作品の美術ときれいに結びついている。サーカスは観客の視線を操る芸であり、推理小説もまた、こちらの視線を誘導する芸だ。両者が重なった瞬間、『竹馬男の犯罪』はただの怪奇趣味の本格を超えて、見世物としての探偵小説になる。
さらに本作には、評判が分かれそうな大仕掛けもある。いわゆる四次元的トリックと呼びたくなるような、物理でどんと殴ってくるタイプのやつだ。繊細な錯誤のトリックを味わっているところへ、急に巨大な舞台装置がごろりと転がり込んでくる感じがあり、ここで好みが分かれるのも分かる。
けれど、この過剰さ込みで『竹馬男の犯罪』の魅力だろう。サーカスを舞台にしておいて、すべてが小さく上品にまとまっていたら少し物足りないではないか。
テントの中では、常識より大きなものが飛び、跳ね、燃え、転がる。その無茶な派手さがあるからこそ、本作は超絶マジカル・ミステリという看板に負けない一冊になっているのだ。
もちろん、1993年の作品らしい熱量もある。人物の感情は濃い。場面によっては、現代の感覚から見ると少し過剰に感じる部分もあるだろう。だが、その濃さが天幕荘という舞台によく合っていると思っている。
サーカスとは、そもそも感情も肉体も大きく見せる芸である。舞台裏の哀しみも、嫉妬も、誇りも、普通の声量では似合わない。少し大げさなくらいでちょうどいいのだ。
そして終盤に近づくほど、巨大なスペクタクルと、個人の小さな哀切さがぶつかってくる。連続する惨劇、異様な空間、奇怪な現場。見た目はとんでもなく大がかりなのに、その根にあるものは、案外人間くさい。
ここも好きなところである。怪物のように見えたものの奥に、ひどく個人的な痛みがある。サーカスの巨大な天幕の裏側に、誰にも見られたくなかった小さな傷が隠れているのだ。
『竹馬男の犯罪 新装版』は、復刊という形で現代に戻ってきた奇書である。だが、古い作品をありがたく眺めるだけの読書体験にはならない。今読んでも、発想の押し出しが強い。舞台も人物もトリックも、すべてがサーカスというひとつのイメージへ向かって組み上がっている。この統一感がすごい。
錆びついたサーカス列車。風に鳴る天幕。壁に消える足跡。老いた芸人たちの矜持。そこへ詩人探偵が現れ、怪奇の霧の中から論理の骨格を取り出していく。
やっぱり、こういう少し無茶をしている本格ミステリは好きだ。
きれいに整った謎もいい。端正なロジックもいい。けれど、ときにはテントの幕をばさりと開けて、異形の舞台へ連れ込んでくれる作品が読みたくなる。
『竹馬男の犯罪』は、その欲望に真正面から応えてくれるミステリだ。
怪奇と論理、悪趣味と美学、過剰な見世物性とスマートな解決。その全部を竹馬の上に乗せて、こちらを見下ろしてくる。
こういう本格があるから、怪しいテントの入口を見つけるたびに、またふらふら入ってしまうのである。



