真門浩平『ぼくらは回収しない』- 伏線回収という言葉の向こう側にある、回収されない感情【読書日記】

伏線回収という言葉は、いつの間にか物語を褒めるための便利な合言葉になった。
あれも回収された、これも意味があった、すべてが最後につながった。もちろん、それはミステリを読む大きな楽しみのひとつである。
だが『ぼくらは回収しない』は、その快感のすぐ横にある別のものを見つめている。
真門浩平『ぼくらは回収しない』は、そんな私たちの読み方を真正面から見つめ返してくる短編集だ。
タイトルからして挑発的である。回収しない。つまり、伏線をきれいに拾い集めて、すべてを整えて、はい解決です、と差し出す気はないという宣言に聞こえる。
もちろん、雑な短編集という意味ではまったくない。むしろ逆だ。
論理は精密。謎の組み立ては端正。日常の違和感から密室まで、ミステリとしての仕掛けはきっちり作られている。なのに、読み終えたこちらの手元には、きれいに畳まれた真相だけが置かれているわけではない。
むしろ、畳まれなかった感情、置き去りになった関係、説明できても納得しきれない人の動きが残る。そこがいい。というより、そこが怖い。
伏線回収ブームへの冷えた視線
物語を、特にミステリー小説をよく小説を読む私たちは、伏線回収という言葉に慣れすぎてしまったのではないだろうか。
すべての描写には意味がある。すべての不自然さは最後に説明される。すべての点は線になり、線は図形になり、図形は感動へ変換される。そんな読み方が、エンタメの楽しみ方として広く共有されている。
しかし、現実はそんなに親切ではない。誰かの言葉がすべて真意を表すわけではないし、何気ない行動に必ず理由があるとも限らない。たまたまそうしただけ。気分で動いた。自分でもよくわかっていない。そういう曖昧なものが、人生の中には山ほどある。
この短編集が面白いのは、ミステリとしての解決をちゃんと用意しながら、その外側にある割り切れなさを消さないところだ。
論理は事件を説明する。犯人や仕組みや動機に近づいていく。けれど、人間関係までは修復できない。真相が明らかになったからといって、傷ついた人が救われるわけでもない。
ここに、真門浩平という作家の冷たさと誠実さがある。ミステリの快感を知り尽くしているからこそ、その快感だけでは処理できない部分を見逃さない。
解けた。だが、それで終わりにはできない。その一拍遅れてくる苦味が、本書全体を貫いているのだ。
日常の謎から密室まで、ロジックの切れ味が鋭い
収録されている五編はとても幅が広い。
中学生の観察眼から始まる『街頭インタビュー』、お笑い界を舞台にした『カエル殺し』、祖父の遺品整理から過去へ触れていく『追想の家』、高校サッカー部の盗難事件を扱う『速水士郎を追いかけて』、そして第19回ミステリーズ!新人賞受賞作『ルナティック・レトリーバー』。
SNS炎上、お笑い、遺品整理、部活動、学生寮の密室。舞台も謎の種類もばらけているのに、読後の手触りは一本につながっている。共通しているのは、論理で人を見るという姿勢だ。
たとえば『街頭インタビュー』は、短い映像とSNS炎上をめぐる日常の謎。切り取られた発言が、本人の意図と違う形で拡散されてしまう。現代的な題材だが、処理の仕方はまぎれもなく本格ミステリである。発言の順序、映像の見え方、場面に残された小さな情報。それらを組み合わせて、見えていた構図が反転していく。
ネット上の考察文化をミステリへ落とし込む発想が面白い。些細な言い回しや画面の端に映るものから推理を組み立てる感覚は、いまの時代ならではのものだ。しかも、単なる時事ネタで終わらない。短い情報からどこまで真相へ届けるのか。その純粋な推理の面白さがある。
『カエル殺し』はお笑い界を舞台にした一編。蛙化現象という現代的な言葉が、恋愛だけでなく人間関係全般の変化として扱われる。好意が嫌悪へ変わる。その瞬間をミステリの動機に組み込む発想が鋭い。しかも、そこで描かれる感情はきれいではない。理屈としては追える。けれど、理解したくない。そんな感覚がある。
『速水士郎を追いかけて』は高校のサッカー部で起きた盗難事件をめぐる青春ミステリだ。探偵役となる少年は、周囲の変化や他者の感情に敏感で、クラスに馴染めない。
その性質が単なる人物設定ではなく、推理の資質として機能しているのが面白い。名探偵の観察眼を、現代的な性格特性へ接続しているわけだ。なるほどこういう形で名探偵を作れるのか、と膝を打ちたくなる一編だった。
最後の『ルナティック・レトリーバー』は、著者のデビュー作となった密室ミステリである。部分日食の日、名門大学の学生寮で女子学生が死ぬ。
現場は密室。警察は自殺と判断するが、周囲の寮生たちは疑念を抱く。小説、将棋、学生生活、将来への焦燥。いかにも本格らしい道具立ての中で、若者たちの自意識がぶつかり合う。
密室の謎としても読み応えがあるが、それ以上に刺さるのは、真相へ向かうほど人間の未熟さが見えてしまう点だ。才能への嫉妬、自分は何者なのかという不安、他人に認められたい願望。
青春という言葉で包めば美しく聞こえるが、その中身は案外みっともない。だが、そこを隠さないからこそ、この一編には力がある。
真相は出る。でも感情は片づかない
作者の真門浩平は、1999年生まれ(お若い!)、東京大学大学院情報理工学系研究科修士課程修了という経歴を持つ書き手だという。なるほど、と思う。図式化、配置、条件整理、消去法。そうした論理の運びに、理系的な明晰さがあるのだ。情報を並べ、矛盾を削り、可能性を絞っていく。その手つきがとてもスムーズだ。
ただし、本書を単に理系ミステリと呼んでしまうのも少し違う。なぜなら、この短編集で本当に解体されているのは、物理トリックだけではないからだ。むしろ、人の感情のほうに論理のメスを入れられている。
感情はぐちゃぐちゃしている。好意と嫉妬、憧れと劣等感、優しさと自己満足、理解したい気持ちと理解できない現実。そういうものは、本来なら方程式のようには扱えない。
なのに真門作品では、それらが行動の痕跡として残され、推理の対象になる。誰が、なぜ、そんなことをしたのか。その答えを探る過程で、人間の弱さや歪みが少しずつ露出していく。
ここが読んでいてぞくっとするところだ。事件は解決する。謎も解ける。ミステリとしての納得はある。けれど、登場人物たちが抱えていた感情は、きれいな形にはならない。むしろ真相によって、もう戻れない場所まで来てしまうこともある。
探偵が正しいことを言う。論理も合っている。なのに、その正しさが人を救うとは限らない。この構図が私はとても好きだ。
ミステリにおける推理は、しばしば光のように扱われる。暗闇を照らし、隠された事実を明るみに出す。だが、光を当てられたものが、必ず美しいとは限らない。見ないままでいたほうが楽だったものまで、くっきり浮かんでしまう。
『ぼくらは回収しない』はそういう短編集だ。伏線は回収される。謎も解ける。けれど、人の感情は回収されない。壊れた関係、言えなかった言葉、理解しきれなかった他者の内面。それらは、事件のあともそこにある。
だからこの本は、本格ミステリとして楽しい。ロジックの精度にうっとりできるし、短編ごとの発想にも驚かされる。けれど同時に、青春小説としても苦い。若者たちの未熟さや自意識を、ただ美化するのではなく、ちゃんと傷として描いている。
伏線回収という言葉に慣れた人ほど、このタイトルがだんだん効いてくるはずだ。回収されないものがある。むしろ、回収されないものにこそ、その人の人生が宿っている。
そう考えると、この短編集の苦味はただの後味ではない。ミステリというジャンルへの、かなり本気の応答なのだと思う。
ロジックは精密で、題材の選び方は現代的。しかも、青春の痛みを甘く包まない。日常の謎も密室も、人間関係の破綻も、自分のフィールドに引き込んでしまう。
ミステリとして楽しく、青春小説として苦い。伏線は追いたい。真相も知りたい。だが、その先にある感情の不均衡までは、そう簡単に片づかない。
『ぼくらは回収しない』は、そんな当たり前のようで残酷な事実を、精密な謎解きの形で差し出している。



