クリストフェル・カールソン『暗殺の冬』- 冷えた森の奥で、過去はまだ終わっていない【読書日記】

北欧ミステリという言葉を聞くと、私はどうしても寒そうな風景を思い浮かべてしまう。
雪、森、湖、薄い光、どこか遠くで鳴る電話。
まあ、実際にはそれだけで北欧ミステリを語るのは乱暴なのだが、それでも『暗殺の冬』を読んでいるあいだ、頭の中にはずっと冷えた空気が流れていた。
クリストフェル・カールソン『暗殺の冬』は、スウェーデンの犯罪学者でもある作家が書いた警察小説である。原題は『Brinn mig en sol』。直訳すれば「私のために太陽を燃やしておくれ」といったニュアンスになるらしい。
このタイトルの時点で、すでに犯罪小説というより詩である。殺人、捜査、未解決事件、連続暴行犯。扱っている題材は重い。
けれど、この小説が本当に見つめているのは、犯人が誰かという一点だけではない。事件によって人生を曲げられてしまった人たちが、その後どのように生きてしまうのか。そこにこそ、この作品の熱がある。
物語の出発点は1986年2月28日。スウェーデン首相オロフ・パルメがストックホルムの路上で暗殺された夜である。国家全体が混乱に包まれるその同じ夜、ハッランド地方の田舎町で、若い女性が襲われる。
犯人は自ら警察に電話をかけ、犯行を告げる。しかも、またやる、と予告までする。悪意が電話線を通ってぬるりと入り込んでくるような導入で、ここからすでに嫌な温度がある。
ただし『暗殺の冬』は、スリルだけで突っ走るタイプの小説ではない。むしろ、事件の後に残された人々の時間を、丁寧に掘っていく。
刑事スヴェン・ヨルゲンソン、その息子ヴィダル、かつての同僚エヴィ、そして現代の語り手である作家の「私」。
彼らはみな、事件と直接・間接に結びつきながら、それぞれの場所で過去に引っ張られている。
未解決事件とは、単に警察の棚に残されたファイルではない。誰かの人生に食い込んだまま抜けない棘なのだ。
首相暗殺の夜に、もうひとつの事件が始まる
この小説でまず惹かれるのは、国家を揺るがす大事件と、地方で起きた凶悪事件が同じ夜に重ねられているところだ。
オロフ・パルメ暗殺は、スウェーデンという国にとって大きな傷だった。その衝撃の陰で、ハッランドの事件は十分に追いかけられないまま、闇の中へ入り込んでいく。ここが苦い。ものすごく苦い。
国全体が大混乱に陥ったとき、地方の被害者はどう扱われるのか。大きなニュースの裏で、個人の痛みはどこへ行くのか。
ミステリとしては連続犯罪の始まりなのだが、同時に社会のほころびを見せる場面にもなっている。こういう構造には反応せずにはいられない。事件の配置だけで、すでに作品全体の温度が決まっている。
犯人は、のちに「ティアルプの怪物」と呼ばれる。警察に電話をかける。挑発する。姿を見せない。まるで自分が物語の中心にいることを楽しんでいるような振る舞いだ。
こういう犯人はもちろん怖い。だが、カールソンは犯人の異常性だけを大きく見せる書き方をしない。むしろ、犯人が通り過ぎたあとに残るものを描く。
壊れた生活。傷ついた家族。失敗を抱えた刑事。言えなかったこと。見なかったことにした記憶。
スヴェン・ヨルゲンソンは、第一の被害者を救えなかった刑事である。彼は犯人を追い続ける。正義感もある。責任感もある。けれど、それだけでは済まない。彼の中には、悔いがある。自分があのとき何かできたのではないか、違う選択があったのではないか。そういう思いが、仕事と私生活の境目を削っていく。
警察小説には、事件に取り憑かれる刑事がよく出てくる。けれど、スヴェンの場合は、かっこいい執念というより、もっと泥くさい。過去の失敗を抱えた人が、その失敗から逃げられずに同じ場所を歩き続けている感じだ。
華やかな名探偵とはまったく違う。むしろ、くたびれたコートの裾に雪がこびりついているような刑事である。
こういう人物は、私は好きだ。好きと言うには気の毒なのだが、目が離せなくなってしまうのだ。
謎解きよりも痛い人生の歪み
『暗殺の冬』は警察小説なので、当然ながら謎がある。
犯人は誰なのか。なぜ電話をかけてくるのか。なぜ捕まらなかったのか。そこはちゃんとミステリとして引っぱってくれる。読みながら、こちらも手がかりを拾いたくなるし、怪しい人物に目を光らせたくなる。
だが、この小説はそこで終わらない。むしろ本当に胸に残るのは、事件が人間関係をどう変えてしまったか、という部分だ。
スヴェンの息子ヴィダルが、またいい人物なのだ。彼は父の背中を追うように警察官になる。けれど、それは単純な憧れではない。父を理解したい。父が何を抱えていたのか知りたい。家族の中にあった沈黙の正体を確かめたい。そういう気持ちが、ヴィダルを事件へ向かわせる。
つまり、ヴィダルが追っているのは犯人だけではない。父親もまた、彼にとってはひとつの謎なのだ。
この重なり方がいい。事件の捜査と、親子の関係がぴったり重なる。警察の記録を読み解くことは、父の人生を読み解くことでもある。犯人に近づくことは、家族の中で語られなかったものに近づくことでもある。ミステリの外側に家族ドラマが乗っているのではなく、ミステリの中心に家族の傷があるのだ。この作りが渋い感じも好みだった。
さらに、現代のパートでは作家の「私」が登場する。彼は過去の関係者に話を聞き、資料を集め、事件を小説として組み立てていく。これによって、物語には少しだけ不安定な感じが加わる。過去に何があったのか。それを語っている人の記憶は正しいのか。作家の「私」は、どこまで見えているのか。
こういう枠組みが入ると、事件の真相だけでなく、「そもそも過去を語るとは何なのか」というところまで見えてくる。人は自分の都合よく記憶する。つらいことは曖昧にする。自分を守るために黙る。誰かを守るためにも黙る。だが、その沈黙が別の誰かを傷つけることもある。
このあたりの描き方が、やっぱりカールソンはうまいと思う。犯罪学者としての視点があるからか、犯罪を「悪い人間が悪いことをした話」として片づけない。
善良な人でも間違える。正義を信じる人でも隠す。誰かを守ろうとして、別の誰かを傷つける。そのどうしようもなさが、物語の奥にずっと流れているのだ。
北欧ノワールとしての厚み、そして祈り
『暗殺の冬』には、北欧ノワールらしい暗さがある。けれど、ただ陰惨なだけではない。森、湖、田舎町、冷えた空気。そういう風景が、事件の背景として置かれているだけでなく、人間の記憶を抱え込んでいるように見える。
ハッランド地方の描写がいい。派手な場所ではない。むしろ、何も起きなさそうな場所だ。だが、何も起きなさそうな場所で起きた事件ほど、あとを引く。
日常のすぐそばに悪意があったことを、人々は忘れられない。いつもの道、見慣れた農場、湖のほとり。そういう場所が、一度事件と結びつくと、もう元には戻らない。
最初にも述べたけれど、原題『Brinn mig en sol』は、「私のために太陽を燃やしておくれ」という詩的な響きを持っている。邦題の『暗殺の冬』も渋いが、原題のほうには、闇の中で光を求める切実さがある。
真実を知りたい。暗がりに隠されたものを照らしたい。そう願うのは自然だ。けれど、この小説では、真実がいつも人を救ってくれるわけではない。
光を当てれば、見たくなかったものまで見えてしまう。守ってきた関係が崩れることもある。自分が信じていた人間の別の顔を知ることもある。だからこそ、真実に近づく場面には、爽快感よりも痛みがある。
この小説を読んでいていちばん刺さったのは、罪そのものよりも、その後に続く時間だった。犯したこと。隠したこと。言わなかったこと。忘れたふりをしたこと。そういうものは、なくならない。
表面上は普通に生活できる。仕事もできるし、家族とも話せる。けれど、心のどこかに小さなひびが入ったままになる。
『暗殺の冬』は、そのひびを見つめる小説だ。
犯人を追う話でありながら、善良であろうとした人たちの話でもある。スヴェンも、ヴィダルも、エヴィも、作家の「私」も、完璧な人間ではない。みんな何かを抱えている。間違える。黙る。逃げる。それでも、どこかで向き合おうとする。だから重いのに、読んでいて見放したくならない。
派手なトリックで驚かせる小説ではない。テンポよく謎が解けていく快感とも少し違う。けれど、事件が人間の人生に残す跡をここまで深く描かれると、こちらも簡単にはページを閉じられない。
『暗殺の冬』は、ミステリであり、警察小説であり、父と息子の物語でもある。そして、過去とどう向き合うのかを描いた人間ドラマでもある。
真実を知れば、すべてが楽になる。そんな単純な話ではない。けれど、知らないままでは前に進めないこともある。この小説は、そのあいだで揺れる人たちを描いている。
まるで、冷たい森の奥で、小さな火を消さないように守っているような物語だ。
その火は、明るい太陽には届かないかもしれない。
それでも、真っ暗な場所で人が立っているためには、きっと必要な光なのだ。



