フィリップ・ボクソ『死体は語りだす』- 解剖台のミステリ、あるいは死者の証言【読書日記】

死体が語る、という言い方は、いかにもミステリ向きだと思う。
というか、このタイトルを見た時点で、私の中のミステリ魂はかなり前のめりになった。
死体が語る。法医学医が読み解く死者からのメッセージ。
もうこの時点で、事件現場、密室、偽装自殺、毒物、腐敗、弾道、索痕、昆虫あたりの単語が、頭の中で勝手に整列し始める。メニュー表を見ただけで、探偵役が白手袋をはめ始めるタイプの本である。
フィリップ・ボクソ『死体は語りだす』は、ベルギーの法医学者によるノンフィクションだ。著者はリエージュ大学の法医学教授であり、法医学研究所の所長でもある。
三十年以上にわたって、膨大な数の検案と司法解剖に携わり、裁判所での証言も重ねてきた人物である。つまり、現場を知っているどころではない。現場の泥も、血も、臭いも、沈黙も、嘘も、全部くぐり抜けてきた人なのだ。
ただ、この本は単なる法医学の症例集ではない。たしかに中身は専門的である。腐敗、死蝋化、銃創、首に残る痕、死後経過時間、昆虫法医学など、なかなか生々しい話も出てくる。食後すぐに読むには、あまり向いていない場面もある。
けれど、この本の本当の魅力は、グロテスクな刺激ではない。むしろ逆である。ボクソは、死体を怖がらせるための道具として扱わない。死体を、証拠のかたまりとして、そして誰かの人生が最後に残した記録として見ている。
そこにこの本の品のよさがある。凄惨な話をしているのに、変な悪趣味さにはならない。法医学の冷たさと、人への敬意が、かなり不思議なバランスで並んでいるのだ。
死体は嘘をつかない、というミステリ的快感
ミステリ好きとしてこの本を読むと、まず楽しいのは、死体そのものが証言者になるところである。
生きている人間は嘘をつく。隠す。ごまかす。言い訳をする。保身のために話を盛る。罪悪感を薄めるために、記憶のほうをこっそり書き換えたりもする。
まあ人間というのは、なかなか面倒くさい生き物である。ミステリ小説でも、証言者が全員正直だったら、たぶん三十ページくらいで終わってしまう。
ところが死体は違う。もちろん言葉は発しない。だが、血の乾き方、傷の形、骨の折れ方、臓器の状態、腐敗の進み方、衣服の乱れ、皮膚に残った痕跡が、本人のかわりに語り始める。
死体は口を閉ざしているようでいて、実はものすごく情報量が多い。しかもその情報は、感情ではなく物理法則に従って残る。ここがたまらない。
たとえば、自殺に見せかけられた死がある。生きている人間の説明だけを聞けば、それらしく見えるかもしれない。
だが首に残った縄の跡、力のかかり方、ロープの太さとの不一致、身体の位置関係を見ていくと、話が少しずつほころびる。人間の嘘は器用でも、人体に刻まれた痕跡までは完璧に演出できない。そこに法医学のロジックが入り込む。
この感じは、ほとんど本格ミステリの手がかり解読である。凶器、時間、場所、体勢、抵抗の有無。小説なら名探偵が暖炉の前で語るところを、ボクソは解剖台の前で語る。
しかも相手は架空の死体ではなく、現実の人間だった身体である。そこに、読み物としての興奮と、背筋が少し伸びるような重みが同時にやってくる。
本書のエピソードは比較的短く、ひとつひとつがコンパクトにまとまっている。これも読みやすい。長大な論文のように専門知識を積み上げるのではなく、事件、観察、推理、結論という流れで読ませる。まるで短編ミステリを連続で読んでいるようなリズムがある。
ただし、最後に明らかになるのは犯人の名前だけではない。人がどう死ぬのか。なぜ死が見逃されるのか。真実がどうやって身体に残るのか。そこまで含めて、ひとつの解決編になっている。
ユーモアは不謹慎ではなく、防護服みたいなものだ
ボクソの語りでかなり印象に残るのがユーモアである。
死体、殺人、腐敗、司法解剖。題材だけ並べると、どう考えても重い。真正面から受け止め続けたら、心のほうが先にまいってしまいそうだ。だがボクソは、そこに皮肉や軽口を差し込む。いわゆる絞首台のユーモアである。
これが最初は少し意外に感じられる。そんなに笑っていいのか、と思う場面もある。だが読み進めるうちに、このユーモアは死者を軽んじるためのものではないとわかってくる。
むしろ、自分の心を守るための防護服に近い。悪臭、損傷、遺族の悲しみ、事件の残酷さ、司法の責任。その全部を素手で受け止めていたら、法医学者は長く仕事を続けられない。
だから笑う。死をバカにするためではなく、死に飲み込まれないために笑う。ここがボクソの語りの面白いところである。重さから逃げているのではなく、重さの中で息をするためにユーモアを使っている。
ミステリで言えば、名探偵の奇妙な癖や軽妙な会話が、事件の暗さを少しだけ中和するのに似ている。ポアロの口ひげや、ブラウン神父ののんびりした身振りが、殺人事件の陰惨さをそのまま受け止めるための余白になっている感じだ。そういう余白がないと、人は案外、真実の近くに長く立っていられないのかもしれない。
しかもボクソのユーモアには、専門家の冷静さだけでなく、人間くささがある。彼は死体を魅力的な謎として見る一方で、その向こうにあった人生を忘れない。かつて聖職者の道を考えていたという背景も、本書を読むうえでかなり効いている。
彼は魂を救う司祭にはならなかった。けれど、死者が残した痕跡を読み、その死の真相を明らかにすることで、別の形で死者の側に立っている。
これはかなり独特な職業倫理だと思う。生きている患者を治す医者ではなく、もう助けられない人間のために働く医者。だが、その仕事によって遺族は真実を知り、裁判は証拠を得て、社会は見逃された死に気づく。
死後の名医という言い方があるが、本書のボクソにはまさにその感触がある。治療するのは身体ではなく、嘘に覆われかけた事実なのだ。
法医学は、死者だけでなく社会も解剖する

絵:悠木四季
本書が面白いのは、事件そのものの解読だけで終わらないところだ。
ボクソは、法医学の現実についてもかなり率直に語る。ドラマのように最新機器が何でもすぐに解決してくれるわけではない。
一本の毛髪で事件が一気に動くことも、現実にはそう何度も起きない。DNA鑑定や毒物検査には時間がかかる。指紋も万能ではない。
現場の法医学者はスタイリッシュなスーツ姿ではなく、使い捨ての防護服に身を包み、ひどい臭いの中で地道に作業する。絵面としては華麗な名探偵というより、だいぶミシュランマン寄りである。
だが、その地味さこそが大切なのだと思う。法医学は派手なひらめきではなく、観察と検証の積み重ねで真実へ近づく仕事である。傷の角度を見て、血の位置を見て、虫の発生を見て、腐敗の進み方を見て、証言との食い違いを拾う。あまりにも地道だが、その地道さが死者の尊厳を支える。
そして本書には、ベルギーの法医学が抱える制度的な問題も出てくる。司法解剖の少なさ、人員不足、予算不足。これは単に専門職の苦労話ではない。解剖されない死の中に、事故として処理された事件や、病死として見逃された他殺が紛れ込む可能性があるからだ。つまり、法医学の不足は、そのまま社会の見落としにつながる。
ここで本書は、ぐっと現実の側へ踏み込む。死体は語る。だが、語るためには、それを聞く人間と制度が必要なのだ。どれほど証拠が身体に残っていても、解剖されなければ、鑑定されなければ、その声は届かない。ここに本書の社会的な切実さがある。
日本の本でいうと、上野正彦『死体は語る』を思い出す人も多いはずだ。上野正彦の語りには、日本的な情と、死者の無念を晴らすような熱がある。一方、ボクソの語りには、ヨーロッパ的な皮肉と、科学的解読の快感が前に出る。
タイプは違う。だが、根っこはかなり近い。死体を単なる物体にしない。そこに残された痕跡を、最後の証言として受け取る。その態度が共通している。
『死体は語りだす』は、怖い本であり、知的な本であり、かなり変な意味で愉快な本でもある。死蝋化だの腐敗だの弾道だのを読みながら愉快と言うのもどうかしているが、ミステリ好きの脳はたまにそういう困った反応をする。
なぜなら、そこにはロジックがあるからだ。嘘を暴くための観察があり、偽装を崩すための推理があり、沈黙の奥から真相を引き出す技術がある。
ただし、本書が最後に残すものは、謎解きの快感だけではない。人は死ぬ。時にあっけなく、時に理不尽に、時に誰かの悪意によって死ぬ。
だが、その死が完全に消されてしまうとは限らない。身体は記録する。骨も皮膚も血も、最後の瞬間をどこかに残す。そして、それを読み取ろうとする人間がいる。
この本を読むと、法医学という仕事が、死者のためだけにあるのではないとわかる。
生きている私たちの社会が、どこまで真実を見ようとするのか。
その覚悟まで映し出してしまうのだ。


