『もし血が流れれば』- 怖いキングはニュース画面の向こうからやってきて、こちらの視線まで怪物に変えてしまう【読書日記】

スティーヴン・キングには、いくつもの顔がある。
少年たちの友情を書かせれば胸を撃ち抜いてくるし、家族の崩壊を書かせれば胃の奥をつかんでくる。怪物を書いているはずなのに、気づけば人間のどうしようもなさを読まされている。
ホラー作家という肩書きで語られることが多いが、実際に読んでいると、キングが本当に怖がっているのは幽霊でも悪魔でもなく、人間が日常の中で平然とやってしまう小さな残酷さなのではないか、と思うことがある。
『もし血が流れれば イフ・イット・ブリーズ』は、そんなキングの「怖い方」の顔が前面に出た中編集だ。
原著『If It Bleeds』は2020年に発表され、日本では文藝春秋から分冊される形で刊行された。本書には、ホリー・ギブニーを主人公にした表題作『もし血が流れれば』と、創作の狂気を描いた『ラット』の二編が収録されている。
ページ数は432ページ。中編集と呼ばれているが、体感としてはほぼ長編二本勝負である。
サービス精神が大きすぎる。ありがたいが、心拍数もそれなりに持っていかれることを覚悟しなければならない。
怖いキングは、ニュース画面の向こうからやってくる
表題作『もし血が流れれば』は、『ミスター・メルセデス』から続くビル・ホッジス三部作、さらに『アウトサイダー』でも印象を残したホリーが中心となるパラノーマル・スリラーだ。
物語は、学校に届けられた荷物が爆発し、多くの子供や教師が巻き込まれる惨劇から始まる。そのニュースをテレビで見ていたホリーは、現場から中継するレポーターの様子に引っかかる。
悲劇を伝える人間にしては、どこか落ち着きすぎている。悲惨な現場に立っているのに、そこに「いる」こと自体を楽しんでいるような気配がある。
ここで背筋がざわつく。怪物は森の奥や地下室だけにいるわけではない。テレビ画面の中にもいる。しかも、きちんとスーツを着て、マイクを持ち、社会的に認められた顔で現れる。ここがたまらなく嫌なところだ。
タイトルの『If It Bleeds』は、アメリカの報道業界で使われる「If it bleeds, it leads」という言葉を踏まえている。血が流れればトップニュースになる。つまり、人の死や苦しみは、それだけ注目を集める商品になるということだ。
キングはこの言葉を、見事に怪物の設定へ変換してみせた。人々の恐怖、悲嘆、ショックを糧にする存在。これは単なる超自然的な敵ではない。悲劇を消費する社会そのものが、怪物の形をして立ち上がってくるのである。
ホラーとして怖いのは当然だが、それ以上に刺さるのは、こちら側も完全には無関係でいられない点だ。私たちはニュースを見る。事故や事件の続報を追う。ときには、見なくてもいい映像まで見てしまう。もちろん情報を知ること自体が悪いわけではない。
けれど、その視線の奥に、他人の痛みをコンテンツとして眺めてしまう欲望が混ざっていないと言い切れるか。
キングはそのあたりを、ニヤリともせずに突きつけてくる。怖い。しかも痛いところを突く。
ホリー・ギブニーという、キング後期の名探偵
この物語の中心にホリーがいることも大きい。
ホリー・ギブニーは、いわゆる伝統的な名探偵のタイプとは少し違う。派手な決め台詞で場を支配するわけでも、部屋中の人間を集めて堂々と推理を披露するわけでもない。彼女の武器は、違和感を見逃さない観察力と、自分の不安を抱えたまま前に進む粘りである。
この「不安を抱えたまま」というのが、ホリーの魅力だと思う。彼女は完全無欠のヒーローではない。母親との関係、家族の問題、過去の傷、精神的な揺れ。その全部を背負っている。だからこそ、彼女が怪物に立ち向かう姿には、単なる怪異退治を超えた切実さがある。
しかも今回の敵は、ホリーの直感を周囲が簡単には信じてくれないタイプの存在だ。怪物の話をすれば、妄想だと思われる。トラウマのせいだと処理される。だがホリーは、自分の中に生まれた引っかかりを手放さない。
この構図がミステリとしても抜群に楽しい。証拠が少ない。相手は正体を変える。社会の中に紛れ込んでいる。誰が味方で、どこまで信じていいのか。その不安定な足場の上で、ホリーは一歩ずつ相手に迫っていく。
私がこの作品で好きなのは、ホリーの成長が弱さを克服して別人になる方向ではないところだ。彼女は不安を消し去るのではない。不安を持ったまま、恐怖を理解したまま、それでも行動する。
そこにキング後期のヒーロー像がある。勇敢な人間とは、怖くない人間ではない。怖さを知って、それでも逃げない人間なのだ。
そう考えると、『もし血が流れれば』はホラーであり、超自然スリラーであり、同時にホリー・ギブニーという人物の精神的な独立を描く物語でもある。
怪物を追う話でありながら、彼女自身が誰かの影にいる存在から自分の判断で戦う存在へ変わっていく。その過程がとても熱い。
キング作品で探偵ものの快感を味わえるのだから、私としても大変ありがたい。ホラーと探偵小説、両方の棚から手が伸びてくる感じである。
『ラット』が差し出す、創作という毒入りチーズ

絵:悠木四季
もう一編の『ラット』は、まったく別方向から怖い。
主人公ドリューは、短編では評価されているが、長編を書こうとするたびに心身を崩してしまう大学教師だ。
そんな彼の頭に、ある日、完璧な小説のアイデアが降ってくる。今度こそ書ける。今度こそ完成できる。そう信じたドリューは、家族を残し、山中の山荘にこもる。
この時点でキング小説に慣れている人は思うだろう。ああ、山荘に一人で行ってはいけない、と。天気が崩れそうならなおさらいけない。
だが、行く。なぜなら作家だから。書けるかもしれないという希望の前では、人はだいたい判断力を少し失う。
作家志望者にとって「今なら長編が書ける気がする」は、ホラー映画における「ちょっと地下室を見てくる」と同じくらい危険な台詞である。
嵐。孤立。発熱。崩れていく意識。そして、言葉を話す一匹のラット。ネズミはドリューに取引を持ちかける。望みどおり小説を完成させてやる。その代わり、身近な誰かを差し出せ、と。
設定だけを見れば、古典的な悪魔の契約ものだ。だがキングが恐ろしいのは、この取引を創作の欲望と結びつけるところである。
ドリューはただ成功したいだけではない。自分が書ける人間だと証明したい。長編を書けない自分を終わらせたい。しかも彼が書こうとしているのは、本人がどこかで見下していたはずのジャンル小説である。ここに、表現者の自尊心と劣等感がぐちゃっと絡まっている。
『ラット』は、創作する人にとって笑えない話だ。もちろん、現実にしゃべるネズミが現れて契約を迫ってくることはない。たぶん。
しかし、何かを作るために誰かを犠牲にしてもいいのではないか、という誘惑は形を変えて存在する。家族との時間を削る。友人への誠実さを後回しにする。自分の野心を「作品のため」という言葉で美化する。キングはそこを容赦なくえぐってきた。
この二編を並べて読むと、本書全体の輪郭が見えてくる。
『もし血が流れれば』は、他人の悲劇を食べる怪物の話だ。
『ラット』は、自分の創作のために他者を差し出そうとする人間の話だ。
外にいる怪物と、内側にいる怪物。その二つが並んでいる。
ここが本書の怖さの核心だと思う。キングは、怪異を単なる外敵として描かない。ニュースを消費する視線。成功したいという欲望。誰かの痛みを、自分の利益や満足のために使ってしまう心の動き。そういうものを、怪物やしゃべるネズミの姿に変えて見せてくる。
なので『もし血が流れれば イフ・イット・ブリーズ』は、ただ怖がって終わる本ではない。読んでいる間は一級のエンタメとしてページをめくらされる。
ホリーの調査にはミステリ的な推進力があり、『ラット』には悪夢のような閉塞感がある。けれど最後に残るのは、「本当に怖いのは怪物そのものではなく、それを生み出す人間の欲望ではないか」という感触だ。
しかも、ただ怖いだけではない。人間の弱さも、愚かさも、それでも踏みとどまろうとする姿も、全部まとめて物語にしてしまう。
ホラーとして読んでも満足できる。ミステリ好きとしてホリーの調査に乗っても楽しいし、作家小説として『ラット』に震えてもいい。
スティーヴン・キングという作家は、やはりこちらの心の中にある暗い棚を勝手に開けてくる。
その棚には、見たくないものがきちんと入っている。
だから怖い。だから読んでしまう。
恐ろしい作家である。
もちろん、最高にありがたい意味で。
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