『フレドリック・ブラウンSF短編全集2 星ねずみ』- 小さなねずみが宇宙へ飛び、活字機械が世界を書き換える【読書日記】

フレドリック・ブラウンの短編を読むと、毎回脳内に小さな爆竹を投げ込まれたような気分になる。
しかも、その爆竹がやたら精密に作られている。導火線は短い。火花は一瞬。
だが、鳴ったあとに残る煙の形が妙に忘れがたい。本来、短編SFってこういう危ない玩具だったよなあ、とニヤニヤしてしまうのである。
『フレドリック・ブラウンSF短編全集2 星ねずみ』は、創元SF文庫から刊行された全集文庫版の第2巻であり、1941年から1944年に発表された初期短編9編を収めている。
もともと東京創元社から単行本全4巻として刊行されたSF短編全集が、文庫版では全5巻に再編された。その第2巻が本書である。単行本版から収録作の移動があり、文庫版『星ねずみ』は初期の傑作9編に絞られた形になっている。
この再編がありがたい。ブラウンの短編は量で浴びるのも楽しいが、ひとつひとつの仕掛けを味わうなら、これくらいのまとまりがちょうどいい。
特に本書は、悪魔、植字機、宇宙ねずみ、古い神、ミミズ、手品帽子、恐竜、侵略SFまで出てくる。並べてみると、なんだかおもちゃ箱がひっくり返ったみたいな騒ぎである。
だが、その中身は雑然としていない。どの作品も、アイデアの芯がきれいに研がれているのだ。
活字機械が怪物になる瞬間
本書の中で、私がまずグッとくるのは『エタオイン・シュルドゥル』と『天使ミミズ』である。
どちらもライノタイプ、つまり自動鋳造植字機が重要な役割を持つ。現代の感覚では、印刷所の機械と聞くと少し古めかしく感じるかもしれない。だがブラウンにかかると、この機械がほとんど世界改変装置みたいな顔をしはじめる。
『エタオイン・シュルドゥル』では、植字機が自意識を持ったかのようにふるまい、勝手にメッセージを打ち出す。これだけでもう楽しい。機械がしゃべる。しかも、未来的なコンピューターではなく、鉛の活字を扱う重たい機械がである。
このアナログ感が好きなのだ。情報がまだ物質の重みを持っていた時代に、ブラウンはすでに言葉が自律する恐怖を書いている。
『天使ミミズ』では、その発想がさらにひっくり返る。羽の生えたミミズが空へ昇っていくという、どう考えても変な光景が出てくるのだが、ブラウンはそれを単なる珍現象で終わらせない。
世界とは、どこかで何者かに記述されているものなのではないか。そこに一文字のミスが入ったら、私たちの現実もあっさりバグるのではないか。そんなゾッとする発想を、軽い語り口で差し出してくる。
ここがブラウンの怖さであり、同時にお茶目なところでもある。大げさに哲学を振りかざさない。深刻そうな顔をしない。けれど、やっていることは相当に過激だ。
文字と世界、記号と物理法則、機械と神の領域を、短編の中でさらっと接続してしまう。こっちはその一手でしばらく現実を見る目がおかしくなるのだ。
宇宙ねずみと悪魔と帽子、発想の跳躍がすごい

絵:悠木四季
表題作『星ねずみ』も、もちろん外せない。
小さなロケットに乗せられて宇宙へ飛ばされたねずみが、異星の知性と出会い、人間以上の知能を得て帰ってくる。
設定だけ聞くと、陽気な動物SFに見える。実際、ユーモアはたっぷりあるけれど、この作品には妙なさびしさもある。
知性を得ることは、幸福そのものではない。ねずみは賢くなることで、もとのねずみ社会からも、人間社会からも少し外れてしまう。宇宙に行ったねずみというだけで十分変なのに、そこへ理解できてしまう孤独が乗ってくる。
このバランスがいいのだ。笑えるのに、ふと足元がスカッと抜ける。ブラウンは小さなねずみに、宇宙的な孤独まで背負わせてしまう。なんてことをするんだ、と思うが、でも好きだ。
『最後の決戦(ハルマゲドン)』も見事である。悪魔のショー、世界の破滅、少年の無邪気な行動。素材だけなら壮大な善悪の最終戦争になりそうなのに、ブラウンはそこへとぼけた軽さを入れる。世界の命運が、ものすごく小さな偶然に左右される。
このスケールの落差が気持ちいい。宇宙規模の危機を、子どものちょっとした動きで転がしてしまう。普通ならふざけすぎだが、ブラウンの場合はそれが構造としてきれいに決まる。
『帽子の手品』は、また別方向に怖い。何気ない集まりで帽子から不思議なものが出てくる。ただそれだけの始まりなのに、空気はどんどん悪夢へ傾いていく。
ここで面白いのは、恐怖の中心が「何が出てくるか」だけではないことだ。人間は信じたくないものを、どこまで見なかったことにできるのか。その心理の逃げ道が、だんだん塞がっていく。手品の帽子という小道具から、認識そのものの危うさへ踏み込んでいくあたり、ブラウンはやっぱりすごい。
『白昼の悪夢』では、SFとミステリとサスペンスが混ざり合う。他惑星での事件、集団を侵す狂気、原因を探る捜査の流れ。ブラウンがミステリ作家でもあったことが、ここではっきり出ている。
状況の置き方、情報の出し方、混乱の広げ方がうまく制御されている。SF的な奇想をただ並べるのではなく、事件の形にして追わせる。この読み心地がとてもいい。うっかりページをめくる手が速くなるタイプのやつである。
ブラウンの短編は、古典なのにまだ噛みついてくる
本書を読んでいると、ブラウンが「ワンアイデアの作家」と呼ばれる理由がよくわかる。
ただし、それは一発ネタの人という意味ではない。むしろ逆だ。ひとつのアイデアを、どう配置すれば最大の衝撃になるかを知り抜いている作家なのだ。
『パラドックスと恐竜』では、タイムトラベルと恐竜絶滅をコンパクトな論理パズルとして結びつける。『イヤリングの神』では、地球侵略SFのスケールを奇妙な方向にずらし、人類の思い上がりを宇宙の側から笑ってみせる。
『新入り』では、古い神話的存在が現代の日常へ混ざり込む。そのどれもが短い。短いのに、読んだあとで頭の中に妙な余白が残る。
ブラウンの短編には、説明しすぎない潔さがある。感情をべったり塗らない。結末の直前まで余計な飾りを置かず、最後の一押しで世界の見え方を変える。ミステリでいうなら、手がかりの配置と真相開示のタイミングが抜群に鋭い、みたいな感じだ。
SFでありながら、ミステリ好きの脳にも気持ちよく刺さるのはそこだと思う。アイデアがトリックとして動き、オチが解決編のように炸裂する。
しかも本書の作品群は、1940年代前半に書かれたものだ。それなのに、言葉が現実を変える話、機械が意思を持つ話、知性を得た存在の孤独、集団を覆う異常心理、理解不能な侵略など、現代の私たちが読んでも妙に近い。
シミュレーションや情報環境の暴走を知っている現在から見ると、ブラウンの古びた機械仕掛けはむしろ新しく見えてくる。鉛の活字でできたサイバーパンクみたいな味わいすらあるのだ。
安原和見による新訳も、この読みやすさに大きく貢献している。古典SFにありがちな距離感が薄く、テンポがよい。パルプ雑誌の埃っぽさを残しつつ、言葉の運びは軽い。だからこそ、ブラウンのアイロニーがすっと届く。構えず読めるのに、油断したところをパチンと弾かれる。この軽さと切れ味の両立が、本書の大きな楽しさだ。
『星ねずみ』は、SF史の資料として読むだけではもったいない傑作だ。もちろん、全短編111編を新訳でたどるプロジェクトの一冊としても重要だし、単行本版から文庫版への再編という書誌的な面白みもある。だが、それ以上にこれは、短編小説の快楽をぎゅっと詰めた一冊なのだ。
ねずみは宇宙へ飛び、植字機はしゃべり、ミミズには羽が生え、帽子の中から悪夢が出てくる。何を言っているんだという気もするが、ブラウンの世界ではそれが全部、きちんと論理の上で転がっていく。だから怖いし、笑えるし、読後に妙な顔になる。
短編SFの楽しさは、ページ数の短さではなく、発想がこちらの常識をどれだけ素早く裏返すかにある。
その意味で『星ねずみ』は、今読んでも抜群に危ない。
小さな本の中に、宇宙と悪魔と活字とねずみが詰まっている。
持ち歩けるサイズの爆弾として、鞄に入れておくには妙に物騒で、だからこそ楽しいのだ。




