小鷹信光『探偵物語』- もうひとりの工藤俊作は、下北沢の片隅で煙草をくゆらせる【読書日記】

探偵という職業には、なぜか妙な魔力がある。
警察ではない。名探偵みたいに華麗な推理を披露するわけでもない。基本的には面倒ごとを嫌がり、金にはうるさく、できれば厄介な事件には関わりたくない顔をしている。
なのに、いざ放っておけないものに出くわすと、結局最後まで付き合ってしまう。
要するに、とても損な商売である。
そして、その損な商売をやたら格好よく見せてしまった代表格が、テレビドラマ『探偵物語』の工藤俊作だろう。
松田優作が演じたあの工藤俊作。白いベスパ、ソフト帽、サスペンダー、軽やかな身のこなし。ふざけているのか、決めているのか、本人にもよくわかっていなさそうな絶妙な佇まい。あれはもう、探偵というより、探偵という概念が人間の形をして歩いているような存在である。
ただ、小鷹信光の小説版『探偵物語』を読むと、そこにはもうひとりの工藤俊作がいる。ドラマ版のように派手に跳ねる工藤ではなく、もっと乾いていて、もっと文章の中に沈み込んでいる工藤俊作だ。
小鷹信光は、ハメットやチャンドラー、ロス・マクドナルドといったアメリカのハードボイルドを日本に紹介してきた人物である。
つまり、小説版『探偵物語』は、ドラマの人気に乗った単なるノベライズではない。日本で私立探偵をどう成立させるか、という小鷹信光の長年のこだわりが形になった作品なのだ。
ドラマ版が松田優作の身体から生まれた工藤俊作だとすれば、小説版は小鷹信光の文体から生まれた工藤俊作である。ここがとても面白い。
ハードボイルドを日本でやるという無茶と執念
ハードボイルドというジャンルは、思っている以上に土地の匂いが濃い。
アメリカの乾いた街。酒場。車。銃。裏社会。孤独な男。そういう空気込みで成立している。
なので、それをそのまま日本に持ってくると、下手をすれば妙に気取った感じになってしまう。東京の喫茶店で急にチャンドラー風の比喩を言い出したら、格好いいのか、ただの面倒な人なのか判断に迷う。
小鷹信光がすごいのは、そこをちゃんと考えたところだと思う。アメリカのハードボイルドを、ただ真似するのではない。日本語で、日本の街で、日本人の探偵として、どう成立させるのか。そこに真面目に取り組んでいる。
しかも、真面目なのに、どこか照れがある。ここがいい。完全にキメすぎない。キメすぎると危ないことを、小鷹信光はたぶんわかっていた。
小説版の工藤俊作は、まさにその試行錯誤の中から生まれた人物である。
彼は正義の味方ではない。依頼を受ける以上、報酬にはうるさい。自分の時間と技術を売って生きている以上、それは当然なのだ。安請け合いで人生を削るほど、工藤俊作は善人ではない。けれど、完全なビジネスマンにもなりきれない。
ここが工藤俊作の厄介なところであり、たまらなく魅力的なところでもある。金で動くふりをしているのに、最後には金だけでは済まない場所へ踏み込んでしまう。合理的に考えれば引き返したほうがいい場面でも、自分の中の何かがそれを許さない。
この「損をするとわかっていても、筋だけは曲げない」という感覚。これこそ、小鷹信光が日本に根づかせようとしたハードボイルドの芯なのだと思う。
小説版の文体も、その工藤像に合っている。感情をべたべた説明しない。行動や風景の断片で人物を見せる。どこか翻訳小説のような硬さもあるのだが、その硬さがむしろ味になっている。こなれすぎていないぶん、「日本語でハードボイルドをやってみせるぞ」という力みが見える。
この力みが、私はけっこう好きである。完璧に自然な文章ではないかもしれない。だが、ジャンルを日本語の中に持ち込もうとする熱がある。少し背伸びしている感じもある。けれど、その背伸びが格好いい。
ハードボイルドなんて、そもそも多少の背伸びとやせ我慢でできているようなものじゃないか。
下北沢の工藤俊作は、都市の隙間に立っている
小説版『探偵物語』で印象に残るのが、工藤俊作の事務所が下北沢にあることだ。
ドラマ版の工藤には、もっと記号的な都会の匂いがある。画面の中で完成された、いわば工藤俊作ワールドとしての空間だ。
一方、小説版の下北沢には、もう少し生活感がある。雑居ビル、若者、夢を追う人間、うまくいかない日々。格好いいだけではない、少しごちゃついた空気がある。これがいい。
一九七〇年代後半の下北沢は、今のように整えられたカルチャーの街というより、もっと雑多で、夢と貧乏と若さが同じ階段ですれ違うような場所だったのだろう。ファッションモデルの卵や女優志望の若者が近くにいるという設定も、この街の感じに合っている。
何者かになりたい人たちがいる。でも、まだ何者にもなれていない。その半端さが、工藤俊作という探偵にぴたりとはまる。
工藤俊作もまた、どこにもきちんと属していない人物である。警察ではない。会社員でもない。家庭人でもない。かといって、完全なアウトローというわけでもない。社会の外側にいるのではなく、社会の隙間にいる。この隙間にいる感じが、小説版の工藤にはよく似合うのだ。
物語は、十七歳の少女の失踪から始まる。四日間という期限つきの依頼。高額な成功報酬。やがて誘拐を匂わせる脅迫電話。導入としては、いかにもハードボイルドらしい。電話が鳴り、探偵の日常が壊され、事件がやってくる。はい、探偵稼業開店である。
この手の始まり方は、何度見てもいい。事件が玄関から入ってくる感じがある。探偵本人は嫌そうな顔をするが、こちらとしてはワクワクしてしまう。まことに勝手な話だが、探偵には少し不幸になってもらわないと困るのである。
ただし、小鷹信光はそれを単純な少女捜しにはしない。工藤俊作が街を歩き、人間関係をたぐっていくうちに、事件はもっと苦いものへ変わっていく。親子の過去、都市の裏側、簡単には割り切れない事情。そこには、ロス・マクドナルド的な家族の歪みも見える。
このあたりが、小説版『探偵物語』の読みどころだと思う。事件を解けば終わり、ではない。真相に近づくほど、むしろ嫌なものが見えてくる。解決したところで、すべてがきれいになるわけではない。探偵は真実を見つけるが、その真実が人を救うとは限らない。
でも、それでも工藤は歩く。
この感じが、ハードボイルドである。報われない。あまり得もしない。むしろ傷が増える。それでも、放っておけないものがある。
探偵という商売は、つくづく割に合わない。だが、その割に合わなさを格好よく見せるから困るのだ。
映像の工藤俊作、文章の工藤俊作、そして受け継がれたやせ我慢

絵:悠木四季
ドラマ版を知っていると、小説版の工藤俊作は少し違って見えるかもしれない。
松田優作の工藤俊作は、もっと身体で跳ねる人物である。アドリブのような動き、ふざけた表情、急に見せる鋭さ。あの工藤は、画面の中でしか成立しない。松田優作という俳優の存在感が、脚本や設定を越えてしまっている。
一方、小説版の工藤は、もっと思考する人物だ。観察し、皮肉を言い、報酬を計算し、自分の立ち位置を測る。軽さはあるが、それは身体の軽さではなく、文章の中で作られた軽さである。
ここに、小説版ならではの良さがあると思うのだ。ドラマの工藤俊作は、見ているだけで成立する。歩き方、表情、声、間。それだけで魅力になる。小説の工藤は、文章を通して少しずつ見えてくる。何を見て、何を避け、どこで引き返さなくなるのか。その過程が読める。
つまり、小説版『探偵物語』は、工藤俊作の内側に近づく作品でもあるのだ。
そして、この小説版とドラマ版が合わさったことで、工藤俊作という存在は日本のサブカルチャーに深く残ったのだと思う。飄々としている。ふざけている。だが、決めるところでは決める。情けない顔もするし、冗談も言う。それでも最後には筋を通す。
この型は、その後のいろいろな作品に受け継がれている。『カウボーイビバップ』のスパイク・スピーゲルや、『シティーハンター』の冴羽獠などを思い浮かべるとわかりやすい。普段はゆるく、どこかいい加減。でも過去を背負っていて、いざという場面では逃げない。こういうキャラクターの奥には、工藤俊作の影がちらつく。
もちろん、すべてを『探偵物語』だけに結びつけるのは乱暴だ。だが、小鷹信光が海外ハードボイルドの美学を日本の都市に移し替え、工藤俊作という形で差し出したことの意味は大きい。日本の探偵像は、ここでかなり大きく変わったのだと思う。
小説版『探偵物語』は、ドラマの影に隠れた作品ではない。むしろ、ドラマとは別の角度から工藤俊作を照らす作品である。映像では見えにくい思考、街の空気、ハードボイルドへの小鷹信光のこだわりが、文章の中に残っている。
真実を見つけても、世界はたいして良くならない。事件を解決しても、胸の奥には苦いものが残る。それでも、探偵は電話を取り、街へ出る。報酬のためだと言いながら、最後には別の何かのために動いてしまう。
工藤俊作という男の面倒くささは、そこにある。
そして、その面倒くささこそが格好いい。
小鷹信光の『探偵物語』には、日本でハードボイルドをやることの難しさと、その難しさを引き受けた人間の楽しさが詰まっている。
派手なドラマ版の隣で、少し渋く、少し不器用に、しかし確かに立っているもうひとりの工藤俊作。
その姿を追っていると、探偵という商売がますます割に合わなく見えてくる。
そして、割に合わないからこそ、やっぱり格好いいのである。


