ホラー映画好き必読の書『男と女とチェーンソー』- 悲鳴と血しぶきの奥で、ホラーの定番を理論へ変える【読書日記】

ホラー映画というジャンルは、どうにも誤解されやすい。
血が出る。人が叫ぶ。
マスクを被った殺人鬼が出る。
逃げる若者たちはなぜか地下室へ行く。どう考えても行かないほうがいいのに、律儀に行く。
観ているこちらは「そっちはダメだって!」と何度も思うのだが、もちろん彼らは行く。
ホラー映画とは、ある意味で「なぜそっちへ行く選手権」でもある。
だからこそ、長いあいだホラー映画は、低俗な娯楽、悪趣味な見世物、女性がひどい目に遭うだけの映画、と見なされがちだった。
特にスラッシャー映画はそうである。若い女性が襲われ、殺人鬼が暴れ、観客はそれを楽しむ。だったら、観ている側も残酷なものを見たいだけなのではないか。そんなふうに片づけられてきた。
しかし、キャロル・J・クローヴァー『男と女とチェーンソー──現代ホラー映画におけるジェンダー』は、そこで立ち止まる。いや、本当にそれだけなのか、と。
この本がすごいのは、ホラー映画を無理に上品な芸術へ持ち上げるのではなく、血しぶきも悲鳴もチェーンソーも、そのまま受け止めたうえで、「ここにはかなり複雑な心理の動きがあるぞ」と言ってくるところだ。
ホラー映画を見ている観客は、ただ殺人鬼に同一化しているわけではない。むしろ、逃げる側、怯える側、傷つく側にも入り込んでいる。つまり、ホラー映画の快楽は、加害の快楽だけではなく、恐怖を浴びる快楽でもある、というのである。
この発想が面白い。ミステリ好きの感覚で言えば、犯人目線で事件を追っていたはずなのに、途中から被害者の恐怖も、探偵の焦りも、容疑者の疑心暗鬼も、ぜんぶまとめて背負わされるような感じだ。
ホラー映画はそれをもっと強引にやる。カメラの視線、暗がり、足音、悲鳴、逃走、傷ついた身体。そういうものを使って、観客の立ち位置をぐいぐい変えていく。
クローヴァーが見抜いたのは、まさにその立ち位置の変化だった。
ファイナル・ガールは、ただ最後まで残った人ではない
本書で最も有名なのは、やはり「ファイナル・ガール」という概念である。
スラッシャー映画で最後まで生き残り、殺人鬼と対決する女性キャラクター。
『ハロウィン』のローリーや、『悪魔のいけにえ』のサリーのような存在だ。今ではホラー映画の話をするときに普通に使われる言葉だが、それを理論として整理したのがクローヴァーだった。
ファイナル・ガールは、単なるラッキーな生存者ではない。彼女は物語の後半で、観客が感情を預ける中心になる。序盤では、殺人鬼の視点で誰かを見ている場面が多い。暗闇から覗く。背後から近づく。獲物を追う。カメラはかなり不穏で、観客も一瞬、見る側、追う側に置かれる。
ところが物語が進むと、だんだん視線は変わる。殺人鬼の目ではなく、逃げる彼女の目で世界を見るようになる。彼女が息を潜めれば、こちらも息を潜める。彼女が物音に気づけば、こちらも心臓が変な動きをする。
彼女が武器を手にした瞬間、こちらも「いけ!」となる。さっきまで殺人鬼の視点も共有していたはずなのに、いつの間にか完全に彼女側にいる。この切り替えが、スラッシャー映画のかなりおいしいところである。
ファイナル・ガールには特徴がある。周囲の若者たちが浮かれている中で、彼女だけはどこか冷静で、警戒心がある。性的な奔放さから距離を取り、友人たちよりも異変に気づきやすい。名前もローリーやシドニーのように、少し中性的な響きを持つことがある。
いわば、ホラー映画の中で唯一「この状況って普通にヤバいのでは?」とまともに気づく人である。観客代表であり、危機管理担当であり、できれば最初から全員この人の言うことを聞いてほしい。
クローヴァーは、彼女が物語の終盤で「男性的な力」を手にするという。ナイフ、斧、チェーンソーといった武器を使い、逃げるだけの存在から反撃する存在へ変わる。難しい言い方をすれば、男性的な力の象徴を奪い取るわけだ。
ただ、ここを「結局女性が男性化して勝つ話」とだけ読むと、少し狭い気がする。私には、ファイナル・ガールはもっと面白い存在に見える。彼女は男性になるのではない。かといって、ただの被害者でもない。恐怖を味わった身体のまま、武器を握る。泣き、逃げ、傷つきながら、その経験を消さずに反撃へ移る。
ここがいいのだ。ミステリでたとえるなら、被害者になりかけた人物が、そのまま探偵の役目まで背負うようなものだ。しかも推理ノートのかわりに刃物を持っている。かなり物騒だが、構造としては熱い。
生き残るとは、単に逃げ延びることではない。自分を追いつめてきた力の仕組みを、最後にひっくり返すことなのだ。
観客は、殺人鬼にも、逃げる側にもなる

絵:悠木四季
クローヴァーの議論でいちばん刺激的なのは、男性観客が女性キャラクターに自分を重ねる、という考え方である。
それまでの映画批評では、男性観客は見る側、女性は見られる側、という構図がよく語られてきた。もちろん、その見方には重要な意味がある。実際、映画の中で女性の身体が都合よく消費されてきた歴史はある。そこをなかったことにはできない。
ただ、クローヴァーは、ホラー映画では話がもう少しややこしいと言う。男性観客は、殺人鬼の視線だけで映画を見ているわけではない。むしろ、逃げる女性の恐怖にもかなり深く入り込んでいる。女性キャラクターの身体を通して、恐怖や痛みを体験しているのだ。
これは言われてみると、確かに納得できる。ホラー映画を観ているとき、こちらはべつに殺人鬼を応援しているわけではない。むしろ中盤以降は、どうにかして逃げてくれ、隠れてくれ、後ろを見てくれ、いや見なくていい、でも見てくれ、とかなり忙しい感情になる。
観客の身体感覚は、追う側よりも追われる側に近づいていく。足音が近づく怖さ、ドアノブが回る怖さ、見つかった瞬間の絶望。それらは、逃げる人物の感覚としてこちらに届く。
では、なぜ男性観客は女性キャラクターを通じて恐怖を味わいやすいのか。クローヴァーは、社会的なコードに注目する。泣く、叫ぶ、逃げる、怯える。こうした反応は、長らく「女性的」な振る舞いとして扱われてきた。
男性が堂々と怖がることは、なぜか許されにくい。現実で「怖いよお」と全力で逃げる成人男性を見たら、たぶん心配より先に少しびっくりする。
でも映画の中なら、女性キャラクターの身体を通して恐怖を感じることができる。男性観客は、自分の面目を保ったまま、怖がる感覚、弱さ、受け身の状態へ入り込める。これはなかなか屈折しているが、人間の心理としては妙にリアルでもある。ホラー映画は、社会の中では出しづらい感情を、かなり乱暴な形で引っ張り出す装置なのだ。
オカルト映画の分析も面白い。『エクソシスト』のような憑依映画では、表面的には少女の身体に異常が起こる。だがクローヴァーは、そこで本当に揺さぶられているのは、神父や医師や父親といった男性側の理性や権威だと読む。
つまり、悪魔に取り憑かれた少女は、男性たちの「自分は理解できる、自分は管理できる」という自信を壊す存在でもある。
医学では説明できない。科学では抑えられない。理屈でねじ伏せようとしても、相手は悪魔である。そりゃ会話が通じない。最終的に男性たちは、自分の理性の限界を認め、非合理なものへ心を開くしかなくなる。
ここでも女性の身体は、男性が自分の硬さを崩されるための舞台になっている。そこにはもちろん問題もある。女性が苦しむことで男性が成長する、という構図は、今の感覚ではかなり引っかかる。
ただ、クローヴァーの面白さは、その不快さも含めてジャンルの構造として見ていくところにある。ホラー映画はきれいごとではできていない。だからこそ、社会のゆがみがそのまま画面に出るのだ。
法や警察が役に立たない世界で、被害者本人が力を奪い返す。現実の正義としては危険すぎる。しかし映画という悪夢の中では、押し込められた怒りの形として、かなり切実に見えてくる。
ここでも観客は、苦痛から反撃へ向かう感情の流れを体験する。ホラーや復讐映画は、決して上品ではない。だが、上品な物語ではすくい取れない感情を拾うことがある。
いま読むと危うい。でも、だからこそまだ面白い

絵:悠木四季
もちろん、『男と女とチェーンソー』は完璧な本ではない。原著が刊行されたのは1992年ということもあり、今読むとかなり引っかかるところもある。
まず大きいのは、人種の問題である。クローヴァーのファイナル・ガール論は、どうしても白人女性を中心に組み立てられている。黒人女性や有色人種のキャラクターがホラー映画の中でどう扱われてきたかについては、十分に掘り下げられていない。
黒人ホラー研究では、黒人女性が白人女性と同じような無垢な被害者として描かれにくいことが指摘されている。最初からたくましさや魔術性、異質さを背負わされることが多いのだ。
つまり、誰がファイナル・ガールになれるのか、どんな身体が守られるべき存在と見なされるのかは、性別だけでは語れない。ここは本書の限界であり、現代の批評が更新してきた重要な部分である。
また、ファイナル・ガールを女装した男性のように表現する点にも批判がある。そう言ってしまうと、結局、力や主体性は男性のものだという前提に戻ってしまう。女性が生き残り、戦い、勝つことを、男性の代理として説明してしまう危うさがあるわけだ。
たしかにそこは気になる。ファイナル・ガールは、男性観客の投影先である前に、ひとりのキャラクターであり、ひとつの生存の形である。彼女が武器を持つことは、男性のまねをしているだけではない。恐怖をくぐり抜けた身体が、自分のために力を使う瞬間でもある。
一方で、クィア理論の側から見ると、クローヴァーの議論はまた別の広がりを持つ。ファイナル・ガールの中性的なあり方は、男か女かという区分をぐらつかせる。
彼女は「男性化した女性」ではなく、男女の枠組みをすり抜けるサバイバーとして読むこともできる。そう考えると、ファイナル・ガールはただのホラー映画の定番キャラではなく、ジェンダーの分類そのものを不安定にする存在になるわけだ。
このあたりが、本書の古びなさだと思う。クローヴァーの理論には限界がある。だが、その限界ごと、次の議論を呼び込む力がある。
実際、現代ホラー映画はクローヴァーの影響をかなり受けている。
『スクリーム』は、ホラー映画のルールを登場人物自身に語らせた。
『キャビン』は、ジャンルのお約束そのものを巨大な儀式として描いた。
『ハッピー・デス・デイ』は、タイムループを使ってファイナル・ガールの成長をコメディに変えた。
2018年版『ハロウィン』では、かつて逃げたローリーが、トラウマを抱えながらも完全武装したサバイバーとして戻ってくる。
もはやファイナル・ガールは、たまたま最後まで残る少女ではない。ジャンルの歴史を背負った存在である。作り手も観客も、ファイナル・ガールを知っている。そのうえで、どう裏切るか、どう変えるか、どう新しく見せるかが、現代ホラーの遊びになっている。
理論書が、いつの間にか映画のルールブックになっている。これはかなり面白い。しかもそのルールブックの表紙にチェーンソーがついている。学術書としては物騒すぎるが、ホラー映画にはよく似合う。
『男と女とチェーンソー』の魅力は、ホラー映画を高尚なものに見せかけることではない。むしろ、安っぽくて、血なまぐさくて、悲鳴だらけの映画の中に、人間の恐怖や欲望やジェンダーの揺れを見つけ出すところにある。
怖がることは、弱さに見える。逃げることは、負けに見える。だがホラー映画では、逃げる身体が最後に反撃する身体へ変わることがある。悲鳴は敗北の音ではなく、生き残るための合図かもしれない。そこにクローヴァーは目を向けた。
ホラー映画の暗闇では、観客も少しだけ別の存在になる。殺人鬼の目で見て、被害者の身体で怯え、最後にはサバイバーの手で武器を握る。その移動の中で、性別も視線も力のありかも、ぐにゃりと動く。
血しぶきの向こうに理論がある、などと言うと少し大げさに聞こえるかもしれない。
だがクローヴァーの本を読むと、ホラー映画の悲鳴や逃走や反撃が、どれも人の心のかなり深いところとつながっていることがわかる。
怖いから目をそらすのではなく、怖いからこそ見えてくるものがある。
『男と女とチェーンソー』は、その厄介で魅力的な暗闇へ、私たちをもう一歩だけ踏み込ませてくれる本である。
チェーンソーの唸りも、逃げ惑う足音も、もうただの騒音ではない。
血まみれの画面の奥で、私たちは思った以上に複雑なものを見ているのだ。


