『呪いの☒☒』- 令和の呪いは、井戸からではなくインフラと紙と職場からやってくる【読書日記】

呪いという言葉を聞くと、古びた藁人形、丑の刻参り、封印された村の祠、絶対に開けてはいけない箱、みたいなものを思い浮かべがちだと思う。
もちろん私はそういうタイプのホラーも大好物だ。できれば旧家の蔵から、何かよくない巻物の一本くらいは出てきてほしい。ミステリ好きとしては、そこに家系図と密室と不審な遺言状まで添えてくれたら、もうご機嫌である。
ただ、このアンソロジー『呪いの☒☒』が面白いのは、そういう昔ながらの呪いを大事にしつつ、もっと今の生活に近いところまで引っ張ってきている点だ。
三津田信三、澤村伊智、芦花公園、背筋、北沢陶、上條一輝。現代ホラーのめちゃくちゃ豪華なメンバーが集まり、それぞれの得意技で「呪い」というテーマを料理している。
しかもタイトルからして妙に不穏だ。『呪いの☒☒』。この☒が、なんともイヤな感じを出している。伏せ字のようでもあり、文字化けのようでもあり、意味がありそうで意味がつかめない。読めないのに、そこに何かがある気配だけは残っている。
この感覚がとても今っぽくていい。昔の呪いが「絶対に読んではいけない巻物」だとしたら、令和の呪いは「なぜか表示されない文字」なのかもしれない。壊れたファイル名、読めない記号、画面の端に出る謎のエラー。そういう小さな違和感が、いつの間にか怪異の入口になっている。
本書は、ただ怖い話を六つ並べたアンソロジーではない。電気、交換日記、古本、コピー、因習、職場。毎日の生活に普通にあるものが、少し見方を変えただけで、呪いの通り道になってしまう。
その変わり方が実にいやらしく、そして楽しい。ホラーで楽しいと言うのもどうかと思うが、好きな人には伝わるはずだ。
明るい場所にある呪いが、いちばん逃げ場がない
最初の上條一輝『呪いは明るく輝いて』は、アンソロジーの入口としてすごくいい。
呪いといえば暗闇だろう、と思わせておいて、ここでは電気が怖い。街灯、室内灯、都市インフラ。普通なら安心の象徴である明かりが、むしろ逃げられない呪いの網になっていく。
この発想が好きだ。暗いから怖いのではない。明るいから隠れられない。しかも、電気は現代生活から切り離せない。暗い部屋が怖いから電気をつける、といういつもの逃げ道が、この話では逃げ道にならない。ホラーとして意地が悪い。
さらに上條一輝らしく、怪異がただの雰囲気では終わらない。仕組みがある。ルールがある。だからミステリ的に「どういうことだ?」と考えながら読める。ただし、わかっても助からない。この理解できるのに救われない感じが、ロジカルなホラーの怖さだと思う。
北沢陶『呪いの交換日記』は、もっと小さくて身近な場所から始まる。中学生の少女たちが交換日記を始める。そこに、自分たちのものではない言葉が混じってくる。設定だけを見ると学校怪談の王道だが、北沢陶の手にかかると、ノートの紙面が妙に生々しい場所になってしまう。
交換日記というのは、友人同士だけの秘密の空間だ。そこに知らない声が入り込むのは、単に怖いというより気持ちが悪い。自分たちだけのはずだった場所に、別の誰かが座っているような感じがある。しかもそれが文字として残る。消せない。読み返せてしまう。紙の怖さはそこにある。
澤村伊智『ほらあな』は、無人古書店を舞台にした一篇だ。本に囲まれた場所で目覚める、という始まりだけなら本好きには少し夢のようでもある。だが澤村伊智なので、もちろん夢のまま終わるわけがない。古本の余白に残された書き込み、誰かから誰かへ向けられた呪いの言葉。それが、場所を通じて別の人間に渡っていく。
ここで怖いのは、呪いがとても小さな悪意から始まっていることだ。世界を滅ぼすような壮大な怨念ではない。もっと身近な、誰かに向けた恨みや嫉妬や攻撃性である。だが、それが紙に残り、他人の手に渡り、無関係な人間まで巻き込んでいく。
古本というアナログなものを使いながら、SNSの言葉の暴力にもかなり近い怖さがある。澤村伊智は、こういう日常にありそうなイヤさを怪異に変えるのが本当に凄いと思う。
コピーされる悪意と、昔話に隠された罠
背筋『劣化コピー』は、本書の中でもとくに嫌な後味を残す一篇だ。コピー、模倣、剽窃、オリジナリティの喪失。創作に関わる人なら、あまり近づきたくない単語が並ぶ。そこに背筋らしい情報の気味悪さが乗ってくるので後味が悪い。もちろん褒めている。
この作品では、呪いが怨念というより、創作にまとわりつく罪悪感や悪意の形をしている。何かを盗む。似せる。薄める。広げる。そういう行為が積み重なり、やがて人を壊していく。ホラーでありながら、創作論としても読めてしまうのが怖いところだ。
しかも構成が面白い。視点が移り、時間が動き、少しずつ事情が見えてくる。普通なら真相に近づくほどすっきりするはずなのに、この話は逆だ。わかればわかるほど、嫌なものが濃くなる。
つまりミステリ的な快感とホラーの不快感が、妙な形で合体しているのだ。普通、謎が解けるとすっきりするはずなのに、これは謎が解けるほど気分が悪くなる。最悪だ。もちろんこれも褒め言葉である。
三津田信三『壱本樹様』は、いかにも三津田信三らしい民俗ホラーだ。戦後間もない旧家、跡取り問題、裏山の巨木、丑の刻参り、不審死。こういう材料が並ぶと、ミステリ好きとしては姿勢を正して読みたくなる。古い家、揉める親族、怪しい儀式。最高に物騒で、最高にありがたい。
ただし、三津田信三の怖さは、雰囲気だけで押してこないところにある。怪異が本当にあるのか。それとも人間が呪いを利用しているのか。その境目をふらふら歩かせながら、ちゃんと論理の罠も仕込んでくる。昔話を聞いているような味わいがあるのに、気づくと足元にミステリの仕掛けがある。
この、怖い話として読んでいたらいつの間にか推理の場に立たされていた感じが楽しい。しかも、解決したからといって完全に安心できるわけではない。
理屈で説明できる部分と、説明したくない部分が残る。その後味こそ、三津田信三の民俗ホラーのうまみだと思う。
職場も本も、もう安全地帯ではない
最後の芦花公園『しばらくゆっくり休んでください』は、職場ホラーとしてとても現代的だ。以前の職場で疲れ切った「私」が、新しい研修の場へ向かう。そこは一見すると、優しくて、穏やかで、ちゃんと休ませてくれそうな場所である。だが、その優しさが少しずつ怖くなっていく。
この話の嫌なところは、暴力がわかりやすくない点だ。怒鳴られるわけではない。無茶な仕事を押しつけられるだけでもない。むしろ、周囲は親切そうに見える。「しばらくゆっくり休んでください」という言葉だって、普通ならありがたいはずだ。だが、その柔らかさの奥に、個人を削っていく仕組みがある。
これが相当いやらしい。露骨なブラック企業ではなく、やさしい顔をした管理。意味のわからない作業の反復。自分が何をしているのかわからないまま、組織の一部にされていく感じ。芦花公園は、カルトや信仰の怖さを、労働や研修の場に置き換えている。これが身近すぎて嫌だ。できれば退勤後には思い出したくないタイプのホラーである。
六篇を通して見ると、『呪いの☒☒』が描く呪いはかなり幅広い。電気、ノート、古本、コピー、巨木、職場。どれも生活から遠いものではない。むしろ近すぎる。だから怖い。昔の呪いは、特別な場所や特別な血筋に結びついていた。だが本書の呪いは、日常の中に普通の顔で混じっている。
さらに本書全体が、本そのものの怖さにもつながっているのが面白い。交換日記、古本、模倣本、日記、記録。収録作の多くで、書かれたものが重要な役割を持っている。そうなると、こちらが手にしている『呪いの☒☒』という文庫本も、作中の呪われた本と完全には切り離せなくなってしまう。
読んでいるつもりが、読まされている。怖がっているつもりが、いつの間にか☒という記号の中へ足を踏み入れている。このメタな感覚が、アンソロジー全体にいい不気味さを与えている。
本書は、現代ホラーの豪華な詰め合わせでありながら、単なる作家競演で終わっていない。三津田信三の民俗と論理、澤村伊智の日常に潜む悪意、芦花公園の組織への視線、背筋の情報怪談的な感覚、北沢陶の繊細な侵食感、上條一輝のルールある怪異。それぞれの怖さが違うからこそ、「呪い」というテーマが立体的に見えてくる。
そして読み終えるころには、呪いというものの印象が少し変わっている。呪いはもう、昔話の中だけにあるものではない。街灯の光にも、ノートの文字にも、古本の書き込みにも、コピーされた文章にも、職場の優しい言葉にも潜んでいる。
そう考えると、かなり迷惑な話である。せめて呪いくらい、もう少しわかりやすい場所にいてくれないものかと思う。だが、わかりやすくないからこそ現代ホラーなのだろう。
『呪いの☒☒』は、令和の呪いをいろいろな角度から味わえるアンソロジーである。読みやすいのに、読み終えたあとで妙な引っかかりが残る。しかもその引っかかりが、電気をつけた部屋や、机の上のノートや、職場から届く連絡の中でふいに顔を出す。
怖い本というのは、読み終わってからが本番だったりする。『呪いの☒☒』は、まさにそのタイプだ。
表紙の少女(?)と目が合った時点で、もう少しだけ日常の見え方が変わってしまう。
ホラー好きとしては、こういう被害ならこれからも喜んで受けていきたい。





