『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』- 怪物映画を観ながら、人間の訳の分からなさを考える【読書日記】

『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』
精神科医・春日武彦が、怪奇映画に登場する怪物人間を手がかりに、人間の狂気や孤独、正常と異常の境界をユーモラスに掘り下げる異色の映画エッセイ。
この『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』は、精神科医の春日武彦が、古今の怪奇映画に登場する怪物人間たちを眺めながら、人間の狂気や孤独、不全感について語っていく映画評論兼エッセイである。
取り上げられるのは、ハエ男、透明人間、ガス人間、縮みゆく人間、キノコになってしまう人々、果ては人体を無理やり連結されたムカデ人間まで、とにかくろくな目に遭わない人間たちだ。
タイトルにある怪物人間とは、怪獣や宇宙からやって来た侵略者ではなく、もともとは人間だったのに、実験に失敗したり、科学者に改造されたり、奇妙な能力を獲得したりして、人間の輪郭から少しずつ外れてしまった者たちを指している。
春日武彦はそんな怪物たちを題材に、映画そのものを語る一方で、長年の精神科臨床で出会ってきた人々のこと、自分自身の鬱屈や不安、人間という生き物の奇妙さへ話を広げていく。
怪奇映画について読んでいたはずなのに、いつの間にか人間の心について考えている。その横滑りのような語りが、この本の面白いところだ。
私は最初、少し変わった怪奇映画ガイドのような本を想像していた。ところがページをめくっていくと、映画史の話より先に、人間という生き物の気持ち悪さや哀しさのほうが気になってくる。
しかも春日の視線は説教臭さから遠く、意地悪で、ユーモラスで、ときどき身も蓋もない。
その語り口のおかげで、人間の醜さや狂気を扱っているのに妙に楽しく読めてしまうのである。
ハエ男も透明人間も、結局は人間臭すぎる
本書に登場する怪物人間たちは、見た目だけなら相当に派手だ。
物質転送の事故でハエと融合する。身体が透明になる。ガス状になる。身体が少しずつ小さくなる。キノコを食べてキノコ人間になる。脳だけを機械へ移植される。X線のような視力を手に入れ、世界の内部まで見通せるようになる。
こうして並べると完全にB級怪奇映画祭なのだが、春日武彦の文章を通して彼らを見ていると、奇妙なことに異形そのものより、人間だった頃の部分のほうが気になってくる。
たとえば『ガス人間第一号』の男は、身体が気体になるという途方もない能力を持ちながら、心の中にはひとりの女性への執着を抱えている。肉体は人類の常識を超えてしまったのに、感情のほうは驚くほど俗っぽい。そこに漂う哀れさを春日は見逃さない。
『縮みゆく人間』も凄まじい。主人公の身体はどんどん小さくなり、昨日まで暮らしていた家が巨大な異世界へ変わっていく。飼い猫は怪獣となり、蜘蛛との戦いは命懸け。家具も日用品も、身体のサイズが変わった途端に恐ろしい障害物になる。
この設定だけでも怪奇SFとして抜群に面白いのだが、春日武彦の視線を通すと、そこへ別の怖さが見えてくる。
人間は、自分が世界の中でどれくらいの大きさを占めているのか、普段ほとんど意識しない。それが少しずつ奪われていく。家族との関係も、社会の中での立場も、自分の身体に対する感覚さえ変わってしまう。縮んでいるのは肉体なのに、見ているこちらには人間としての存在感そのものが削られていくように映るのだ。
そして『地球最後の男』では、もっと嫌な反転が起こる。世界中の人間が吸血鬼へ変わってしまえば、以前と同じ姿を保っている主人公のほうが少数派になる。彼自身は自分を正常だと思っている。それでも世界の基準が変わった瞬間、異常者として扱われる側へ回ってしまう。
ここまで来ると、怪物とは外見の問題なのか、人数の問題なのか、それとも社会が勝手に決めた呼び名なのか分からなくなる。春日武彦が面白がっているのも、たぶんこの辺なのだと思う。
怪物を人間の外側へ追い出して安心するより、人間の中にもともと潜んでいる奇妙さを拡大した存在として眺める。
その目線に慣れてしまうと、ハエ男も透明人間もガス人間も、急に身近な連中に見えてしまうのである。
精神科医が怪物を診断しない面白さ
ここで春日武彦という書き手の存在が効いてくる。
精神科医が怪奇映画について書くと聞けば、映画に登場する人物を精神医学的に分析する内容を想像するかもしれない。彼はこの病理を抱えている、この行動にはこのような心理が働いている、といった具合である。
ところが春日武彦の文章は、そんな方向へ整然とは進まない。長年精神科医療に携わってきた人物なので、当然ながら臨床の話は頻繁に出てくる。妄想、偏執、奇妙な確信、周囲との関係を壊してしまう振る舞い。
映画の怪物について話していたと思ったら、いつの間にか診療の現場で出会った人間の話になり、そこからさらに春日自身の妙な性格や気分の話へ移っている。
この行ったり来たりが好きだった。春日武彦は医者という安全地帯から人間を観察している人ではなく、自分自身も同じ奇妙な生き物の群れに入れてしまう。人間はこんなふうにおかしくなる、と説明した直後、自分だって相当に面倒臭い人間だという方向へ話が滑っていくので、精神医学の権威を振りかざす感じがほとんど生まれない。
そもそも春日武彦は、人間の心をきれいに分類して安心させてくれるタイプの書き手ではない。
人間にはどう説明しても説明しきれない部分がある。理由をつけたところで気持ち悪さは残るし、自分自身のことすら完全には理解できない。そんな曖昧な領域を、無理やり整頓せずに眺め続ける。怪奇映画との相性がいいのも当然だと思う。
『マタンゴ』について考える場面など、その姿勢と相性がいい。
キノコを食べた人間たちが次々と異形へ変貌していく映画だが、彼らはひたすら苦しそうかというと、そう単純でもない。人間をやめてキノコになってしまった連中には、どこか楽しそうな気配すら漂っている。
人間性を失う恐怖、と説明すれば簡単だ。しかし、人間であり続けること自体がしんどい人にとっては、そこから降りてしまうことが誘惑になる可能性もある。恐怖と解放が同じ場所に同居しているから、『マタンゴ』はあれほど嫌な映画になるのだろう。
春日武彦はそこをきれいに整理しない。
正気と狂気、正常と異常、人間と怪物。
その境界に線を引くより、線の周辺をうろうろしながら、こっちも変だし、あっちも変だなと眺め続ける。その頼りなさが、この本では妙に心地よかった。
役に立たない怪物映画が、妙にありがたい
そして本書には、私がとても好きな姿勢がひとつある。
役に立とうとしないのである。
怪物映画を観たからといって仕事がうまくいく可能性は低いし、透明人間について考えた翌日に人生が好転するとも思えない。『ムカデ人間』を観て自己成長する方法など、できれば存在してほしくない。
春日武彦はそこを堂々と引き受ける。社会生活では何かにつけて意味や成果を要求される。時間を使うなら有意義に、失敗したなら学びに変え、落ち込んだなら前向きになり、経験したことは成長へ結びつける。そんな発想に囲まれていると、映画すら人生を豊かにする教材のように扱いたくなってしまう。
ところが怪物人間たちは、そういう期待を平然と踏み潰していく。
ハエになった男は元へ戻れない。身体が小さくなり続ける男には解決策が用意されない。異能力を得た人間は幸福になるどころか、その能力によって破滅していく。彼らの物語には、努力すれば報われるという保証がほとんどない。
『ジョジョの奇妙な冒険』の作者・荒木飛呂彦が本書に寄せた推薦文で、バッドエンディングがときに癒やしになり得るという趣旨を語っているのも、この本を読んでいるとよく分かる。
何も解決しない話に救われる夜は確かにある。
頑張った人間が成功する話を見ることすら疲れるとき、怪物になって破滅する男を眺めながら、この世にはどうにもならないこともあるよなあ、と納得する。
そこから何かを学ぶ必要もなく、教訓を持ち帰る義務もない。ただ映画が終わり、暗い画面を眺め、変な話だったなと思う。
その時間を春日武彦は大切にしているように見える。
だから『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』は怪奇映画ガイドとして読んでも楽しいし、人間観察のエッセイとして読んでも面白い。
私も本書を読んでいる途中、紹介された映画を何本も観たくなったのだが、それと同じくらい、春日武彦が次はどんな人間の嫌な部分を見つけてくるのか楽しみになっていた。
ハエ、ガス、キノコ、透明人間、機械の身体。
映画のスクリーンでは人間が次々と奇妙な姿へ変わっていくけれど、300ページあまり付き合ったあとで振り返ると、いちばん不可解なのは最後まで普通の姿をしている人間のほうかもしれない。
そんなことを考えながら部屋の明かりを消せば、次に観るべき怪物映画を一本くらい再生したくなる。
人生の役に立つかどうかは、そのあとで考えればいいのだ。


