『その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない』- 昭和の異才たちが描いた、戦争×ミステリーという強烈すぎる狂気と罪【読書日記】

『その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない 戦争×ミステリーアンソロジー』
暗号、密室、怪奇、SFなど多彩なミステリーを通して、戦争が人間の身体や心、人生に刻む傷を描いたアンソロジー。
『その人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない 戦争×ミステリーアンソロジー』
こんな長くて、身も蓋もなくて、それでも妙に頭へ引っかかる題名を持つアンソロジーも珍しい。
宝島社文庫から2026年7月3日に刊行された本書は、『このミステリーがすごい!』編集部が、坂口安吾、夢野久作、大坪砂男、山川方夫、久生十蘭、小松左京、江戸川乱歩、仁木悦子の作品を集めた戦争×ミステリーの九編構成の一冊だ。フィクション八編に、最後に坂口安吾のエッセイ『もう軍備はいらない』が置かれている。
戦争を扱った小説というと、悲惨さや歴史的事実を正面から描く作品を思い浮かべやすいが、この本が見せてくる景色はもっと奇妙だ。
古書に挟まった数字の暗号、十数年ぶりに目にした葬列、現代の会社員へ突然届く赤紙、四肢も声も失った傷痍軍人。
いずれもミステリーや怪奇小説の入口として強烈なのに、その謎を追っていくと、いつの間にか戦争によって壊された人間の身体や記憶、愛情、罪悪感の奥まで連れていかれる。そこが、このアンソロジーの怖さであり、同時にものすごく面白いところだった。
太平洋戦争の終結から80年以上が過ぎ、実際に空襲や動員、疎開を体験した人の声へ直接触れる機会が減っている今、当時を生きた作家たちのフィクションをまとめて読む意味も大きい。
しかも彼らは戦争を教訓として説明するのではなく、傷病兵の肉体や疑心、記憶の歪み、消えた若者といった具体的な異常として物語の中へ埋め込んでいる。
暗号を解いても、壊れた時間は元に戻らない
最初の坂口安吾『アンゴウ』から、もうこの本の方向性が鮮やかに見える。
主人公の矢島が神田の古書店で見つけるのは、戦死した旧友・神尾の蔵書印が押された一冊の本。
その中に挟まっていた数字の羅列を解いていくと、密会を思わせる文章が浮かび上がり、矢島は出征中に妻タカ子と神尾が関係を持っていたのでは、と疑い始める。
暗号を解くという行為そのものは、いかにもミステリーらしい遊びだ。ところが、解読が進むほど主人公の猜疑心も膨らんでいき、その背後には空襲で子どもを失い、妻は視力を失い、友人は戦死したという、どうやっても帳尻の合わない現実が横たわっている。
謎が解ければ世界が整理されるはずなのに、ここではロジックが人間の傷口へ触れ、そのまま切なさへ変わっていく。
山川方夫『夏の葬列』も、記憶そのものを仕掛けに変えてくる。十数年ぶりに疎開先を訪れた男が、海岸沿いの町で小さな葬列を目にした瞬間、1945年夏の記憶が一気によみがえる。
機銃掃射の恐怖のなか、自分を助けようとしたヒロ子さんを突き飛ばしてしまった少年時代の罪。現在の風景と過去の記憶が重なっていく組み立ては短編ミステリーとして実に鋭く、最後まで読むと、記憶は保存されるものではなく、自分に都合よく加工されながら人を閉じ込めるものなのだと分かってくる。
仁木悦子『山のふところに』も、現在の事件を掘っていくうちに、戦時下の掠奪や不義理、長年抱え込まれた怒りへたどり着くホワイダニットだ。犯人が誰かという興味より、なぜそこまでしなければならなかったのかという動機の重さが前へ出る。
戦争が終わったあとも、奪われた側の時間だけは終戦を迎えていないという感覚が、三作を通して一本につながって見えた。
人間の身体が、戦争の証拠品に変わっていく
夢野久作『戦場』と江戸川乱歩『芋虫』は、読む側の身体感覚までざらつかせてくる。
『戦場』では、カイロのドイツ人外科医クラデル博士の手記という形式を使い、軍医として目撃した欧州の戦場が語られる。生温かい血、切断された四肢、負傷兵を軍事医学の対象として処理する視線。
夢野久作らしい猟奇性が全開なのだが、その異様さが怪奇趣味の装飾で終わらず、人間が物理と化学の力で肉塊へ変えられていく戦争そのものに直結しているため、逃げ場がない。
そのあとに乱歩の『芋虫』を読むと、その生々しさはさらに別の方向へ深まっていく。両手両足を失い、聴覚も声も奪われた須永中尉と、彼を介護する妻・時子。
外の世界から切り離された離れ座敷では、奉仕と支配、愛情と嫌悪、欲望と虐待がぐちゃぐちゃに絡まり、二人の関係そのものが密室化していく。金鵄勲章や新聞が称える軍功と、目の前にある夫の身体とのあまりに残酷な落差を、乱歩は容赦なく見せる。

久生十蘭『母子像』では、身体の傷よりも、戦争によって母と子の関係へ刻まれた歪みが尋問の形でほどかれていく。厚木の米軍基地近くで放火事件を起こした十六歳の太郎。
その行動の理由を追ううち、サイパン島の洞窟で母と心中しかけた過去へ行き着くのだが、大人たちが作った説明が少しずつ崩れ、少年の内側にあったものが見えてくる過程は、取調室ミステリーとして相当に強い。国際短編小説コンクール一等賞という経歴を知らずに読んでも、構成の密度には納得させられるはずだ。
大坪砂男『涅槃雪』は、この並びの中で少し違った手触りを持つ。旧暦二月十五日、釈迦入滅のころに降る名残の雪を意味する題名の通り、雪景色の中へ怪異と論理を組み込み、不可解な状況がほどけていく過程に戦後の荒廃や人間の屈折を染み込ませている。
江戸川乱歩が評した論理による抒情という言葉がよく似合い、謎を解く快感と、その先にある虚しさが同じ場所にあるのだ。
赤紙が現代へ届くとき、犯人の顔が消える
このアンソロジーで特に好きなのは、小松左京『召集令状』だ。
平穏な会社へ勤める若者のもとに突然、赤紙が届く。悪戯だと思っていたら本人が消え、次の社員にも届き、そのうち戦死公報まで送られてくる。政府が戦争を始めた形跡はなく、敵も戦場も見えないのに、若者だけが次々に社会から抜き取られていく。
ここでは誰か一人を捕まえて事件を終わらせることができない。命令を出している顔が見えず、なぜ従わされているのかも分からないまま、仕組みだけが作動し続けるからだ。
ミステリーなら犯人を探したくなるし、SFならこの異常現象のルールを知りたくなる。その好奇心を利用して、小松左京は戦争という巨大な装置の不気味さへこちらを引きずり込む。1968年に書かれた作品なのに、会社の机へ赤紙が届く光景には妙な現在性がある。
そして最後に置かれるのが、坂口安吾のエッセイ『もう軍備はいらない』である。1952年、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本の再軍備をめぐる議論が熱を帯びていた時期に書かれた文章で、安吾は軍事力を腕力として捉え、人を殺して相手を屈服させても文明そのものを征服したことにはならないと切り込んでいく。
そこで出てくるのが、本書の題名となった、戦争の人殺しは全然ムダで損だらけの手間にすぎない、という身も蓋もない結論だ。
ここまで八編を読んできたあとでは、この言葉が抽象的な平和論として聞こえない。
暗号を解く夫、葬列を見つめる男、洞窟で母に首を絞められた少年、離れ座敷の傷痍軍人、理由も分からず赤紙に連れていかれる会社員。八つのフィクションが見せてきたものを、安吾が最後に一行の論理へ押しつぶしてしまう。
人殺しを国家的な大義や勇ましい言葉で包んでも、最後に残るのは失われた身体と、戻らない時間と、背負わされた罪だけ。だからこの長い題名は、読み終えたあとになると少しも大げさに見えなくなる。
古書に挟まれた暗号から始まった旅の最後で、赤紙も勲章も戦死公報も全部ひっくるめて、安吾の言う損だらけの手間という言葉だけが、妙に具体的な重さを持って机の上に置かれていた。
読み始めたときには奇妙に見えたこの長い題名も、九編を抜けたあとでは印象が変わる。
戦争が人間から奪ったものを数えていけば、結局そこへ行き着いてしまうのだ。
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