『江戸川乱歩語辞典』- 明智小五郎から人間椅子まで、500語で読む江戸川乱歩【エッセイ】

江戸川乱歩を一冊で紹介しようとするのは難しい。
『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』に代表される論理の人であり、『人間椅子』『陰獣』『盲獣』では人間の欲望や倒錯へ踏み込み、『怪人二十面相』では少年たちを夢中にさせた冒険世界まで作り上げた。
作家本人へ目を向ければ、人嫌いなのに社交家、几帳面なのに突然仕事を投げ出し、常識人として暮らしながら頭の中では異形の幻想を育て続けた男でもある。
そんな巨大な乱歩を、年代順の評伝でも作品別ガイドでもなく、500を超える言葉へいったんばらしてしまった本がこの『江戸川乱歩語辞典』だ。
奈落一騎が著し、荒俣宏が監修、永井秀樹がイラストを担当。2020年に誠文堂新光社の「〇〇語辞典」シリーズから刊行された200ページの一冊で、作品名、登場人物、セリフ、トリック、小道具、乱歩本人の生活、同時代の作家、映画や漫画、音楽へ広がった後世の影響まで、すべて五十音順に並べている。
頭から順番に乱歩の人生を学ぶ本ではなく、気になった言葉を拾っているうちに、気づけば別の作品、別の人物、別の時代へ飛ばされている。
辞典を開いているはずなのに、やっていることはほとんど乱歩の迷路探索なのだ。
五十音順にした瞬間、乱歩の世界が一つにつながる
普通の作家ガイドなら、デビューから晩年までを年代順に追うか、代表作をジャンルごとに整理するだろう。だが『江戸川乱歩語辞典』は、その順路を最初から捨てている。
明智小五郎の近くに乱歩自身の奇癖が現れ、パノラマ島の周囲へ映画や音楽の話が入り込み、怪人二十面相と現代の表現者が同じ五十音の流れへ並ぶ。時代も媒体も関係なく混ざるので、乱歩の作品世界と本人の人生、その後に生まれたカルチャーが、ひとつの巨大な地下道でつながっているように見えてくる。
特に楽しいのが、作品タイトルや人物名だけを項目にしていないところだ。『地獄の道化師』に登場する犯罪者の言葉や、「少し親譲りの財産があるのでね」といった一節、さらには「蟲、蟲、蟲、蟲……」と執拗に反復される文章まで、ひとつの見出し語として拾われている。
セリフだけ切り取ってみると、作品を通して読んだ際とは別の顔が現れて面白い。人物の孤独や社会への反発、乱歩独特の言葉のリズム、何かへ取り憑かれた人間の息遣いまで、一行の中からむき出しになるのだ。
未読の作品なら「いったいどんな場面でこんな言葉が出るんだ」と興味を引かれるし、知っている作品なら、昔は通り過ぎた一節に改めて引っかかるだろう。
しかも核心部分のネタバレを避けているので、この本を入口に原作へ向かいやすい。500以上の項目を全部覚える必要などなく、気になったページを数個読むだけでいい。
その数ページから作品へ戻り、また辞典を開き、今度は別の項目へ寄り道する。この往復そのものが楽しいのである。
作家・江戸川乱歩本人が作品と同じくらい面白い

『江戸川乱歩語辞典』画像 Amazonより引用
そして何より、江戸川乱歩本人の話がやたら面白いのだ。
人嫌いと社交性、投げやりと几帳面さ、恐縮しながら図々しい態度、常識的な生活と反社会的な幻想。相反する性質が平井太郎という一人の人間の中で平然と同居している。
作品に登場する二重人格的な人物や、表の顔と裏の欲望を抱える人たちを思えば、この振れ幅そのものが乱歩文学の源泉に見えてくる。
引っ越しを40回以上繰り返した放浪癖もあれば、池袋の自宅では土蔵へ大量の蔵書を集め、自分だけの「幻影の城」を築いた。原稿に苦しめば休筆を宣言し、古書を買うため自分の文章を売ると自嘲する。
怪奇幻想の巨匠として神格化された姿から少し離れると、締切から逃げたい、好きな本を集めたい、面倒な仕事は放り出したいと悶える生身の人間が見えてくる。
私がこの本で面白いと感じるのも、その距離の近さである。乱歩を偉大な文学者として額縁へ入れて眺めるより、奇癖や弱さ、欲望、執筆への苦しみまでまとめて見せてくれるのだ。
その人間臭さを知ったあとで『人間椅子』や『パノラマ島奇談』を振り返ると、作品内の異常な欲望まで少し違った角度から見えてくる。
永井秀樹のイラストも、この本の雰囲気を大きく支える存在だ。むしろこの絵がいちばんの魅力かもしれない。大正から昭和初期のモダンな装飾、エロ・グロ・ナンセンスの匂い、アール・デコを思わせる図像がページへ入り込み、文章だけの事典とはまるで違う手触りを作っている。
少し眺めるつもりで開いたページから、次の項目、その次の人物へ視線を奪われる設計も、乱歩が好んだ見世物小屋やパノラマ館に近い。
明智小五郎から筋肉少女帯まで、乱歩はまだ増殖している

『江戸川乱歩語辞典』画像 Amazonより引用
『江戸川乱歩語辞典』がさらに楽しいのは、乱歩が書いた作品だけで話を終えないところだ。
三島由紀夫による『黒蜥蜴』の戯曲化、美輪明宏の舞台、天知茂の明智小五郎、増村保造の『盲獣』。
そこから丸尾末広、大友克洋、宮崎駿、ヤン・シュヴァンクマイエル、さらに人間椅子や筋肉少女帯へまで話が伸びていく。探偵小説を書いた一人の作家から、映画、演劇、漫画、アニメ、ロックへ枝が伸び続けていることに改めて驚かされる。
ここまで広がると、乱歩作品を何冊読んだかだけで乱歩を語ること自体が窮屈に感じられてくる。怪人二十面相の仮面、明智小五郎の変装、パノラマ島の人工楽園、人間椅子の触覚的な気味悪さ。そうしたモチーフは原作を離れ、別の表現者の手で形を変えながら何度も再生されてきた。
巻末の綴じ込み付録『私が愛する乱歩作品ベスト3』も、その広がりを実感させてくれる。綾辻行人、有栖川有栖、小林泰三、西村京太郎ら小説家に加え、神田伯山、松本幸四郎、塚本晋也、和嶋慎治、荒俣宏など、まったく異なる領域の表現者が自分の三作を選んでいる。さらに「小学5年女子」の回答まで同じ場所へ並ぶ。
この並びがとても乱歩らしい。論理を愛する人も、怪奇趣味へ惹かれる人も、舞台のケレン味が好きな人も、少年探偵団に胸を躍らせる子どもも、それぞれ違う場所から乱歩の世界へ踏み込める。
『江戸川乱歩語辞典』を開いていると、乱歩は過去の文豪という距離感からどんどん離れていく。500を超える言葉の向こう側で、明智小五郎も怪人二十面相も、土蔵へ籠もる平井太郎も、天知茂も丸尾末広も人間椅子も同じ迷路を歩いているように見えてくる。
乱歩を何冊も読んできた人ほど、こんな面白い部分を見落としていたのかと驚かされるだろう。
昔好きだった一篇を読み返すもよし、名前だけ知っていた作品へ進むもよし。
『江戸川乱歩語辞典』は、その再出発を何度でも作ってくれる。
やはり乱歩は、一生かけても読み尽くせそうにない。
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