桃野雑派『水没レストランの一夜』- 豪雨の夜、高級レストランは巨大な密室になった【読書日記】

豪雨の夜、完全会員制の高級レストランで客が一人死ぬ。
死因には違法薬物の影があり、遺品からは名前も顔写真も異なる二枚の運転免許証が見つかった。
しかも店は、旧銀行の地下金庫を改装した特殊な空間である。外では雨水が増え続け、唯一の出口まで水圧によって閉ざされてしまう。
桃野雑派『水没レストランの一夜』は、そんな逃げ場のない状況から始まる長編だ。舞台となるのは完全会員制レストラン『北斗之軒』。半年先まで予約が埋まる名店で、客たちは特別なコース料理を楽しむため集まっていた。
しかし、その夜だけは事情が違う。ホールスタッフとして働く柴田正和は元麻薬取締官であり、現在も捜査協力者として店へ潜入中だった。狙いは、この場所で行われていると疑われる薬物取引である。
殺人、薬物取引、水没、潜入捜査。材料だけ見れば重苦しい話になりそうだが、本作は会話のテンポが軽快で、人物同士の衝突にもユーモアが混ざる。料理が運ばれるたび空気が変わり、誰かが口を開けば別の秘密がのぞく。
閉じ込められた12人のうち、誰が何を隠しているのか。
その疑いが一皿ごとに濃くなっていく夜の開幕である。
地下金庫だから成立した、現代版の嵐の山荘
北斗之軒は旧銀行の地下金庫を改装した店で、分厚い壁と巨大な扉に囲まれている。
普段なら外部から隔てられた特別感を演出する空間だ。ところが豪雨が始まった瞬間、その豪華さが危険へ変わった。
大量の雨水が地下へ流れ込み、外側から扉へ水圧がかかる。通信設備にも障害が出て、携帯電話は役に立たない。誰かが意図的に施錠した状況とも、都合よく通信だけ消えた設定とも違う。都市型水害と地下金庫の性質を重ねた結果、現代の東京に孤島や雪山と同じ隔絶が成立したのである。
しかも水は待ってくれない。店内の人々は、死んだ男の正体と薬物の出所を追いながら、浸水への対応まで迫られる。考える時間を無限に与えられた密室とは違い、環境自体が決断を急かす場所だ。推理と脱出が同じ夜の中で競り合うため、場面には常に焦りがつきまとう。
柴田の立場も面倒である。元マトリとはいえ、この場では警察官でも正式な捜査員でもない。潜入の目的を明かせば薬物捜査が崩れ、黙っていれば殺人現場を統率する権限も持たない。
さらに客の中には、過去に検挙した俳優や元妻までいた。事件だけに集中できる条件から遠く、自分の経歴や私生活まで同時に揺さぶられる。探偵役を安全な観察者へ置かない点も、この夜の息苦しさの一因だ。
殺人犯を探しても、それだけでは嘘の理由が足りない
店内にいる12人は、それぞれ別の事情を抱えている。薬物と関係のある者、過去を隠したい者、社会的な体面を守りたい者、柴田へ個人的な感情を向ける者。誰かの不審な行動を見つけても、殺人へ直結する保証はない。
死んだ男には、二つの身分を思わせる免許証があった。さらに店内には薬物密売人が潜んでいる可能性まである。一方で、客たちは全員が潔白とも言い切れない。殺人の犯人探しと薬物取引の相手探しが並行し、同じ証言や行動にも複数の意味が重なっていく。
しかも柴田自身も正体を伏せた身だ。人の嘘を暴こうとする側もまた、自分の事情を隠している。そこへ元妻との再会が入り、仕事の顔だけでは押し切れない感情まで露出してしまう。極限状況で秘密が剥がれる物語は数多いが、本作では薬物捜査、殺人、過去の人間関係が同じテーブルへ載せられた。
会話の多さも、この舞台によく合う。閉鎖された店内では大きく動けないため、情報の中心は人と人の応酬だ。挑発、弁解、疑い、見栄、保身。短いやり取りの中で人物同士の距離が変わり、そのたび事件の見え方にも別の角度が加わる。
ゲームシナリオを手がけてきた桃野雑派らしく、多人数を一室へ集めても、それぞれの声が埋もれていないのがすごい。
美食と薬物、二つの快楽が同じ夜に並ぶ
北斗之軒が高級レストランであることも重要だ。舞台を地下へ閉じ込めるための器だけにせず、料理自体が物語の中心へ入り込むのだ。
厨房では、シェフが素材を選び、火入れを見極め、味や香りを整える。人間の感覚を喜ばせるため、時間と技術を注ぎ込む仕事だ。
そのすぐそばにあるのが、脳へ直接作用し、短い快楽と引き換えに身体や生活を壊す違法薬物である。料理と薬物は遠い存在に見えて、どちらも人間の欲望や感覚へ触れる点では隣り合う。
そのため、薬物犯罪の話も捜査情報だけに偏らない。依存した人間が背負う社会的な烙印、一度つまずいたあとに生活を立て直す難しさ、過去を知られた瞬間に向けられる視線。柴田がかつて検挙した人物との再会を通じて、罪を犯した人間を社会がいつまで過去へ縛りつけるのかまで視野が広がった。
その混乱の中で、ひときわ異質なのがシェフである。客が死に、店は水に囲まれ、互いへの疑いまで膨らんでいるのに、彼は厨房で料理人としての仕事を手放さない。非常事態の只中にありながら、火加減を見て、皿を整え、食べる相手へ料理を差し出す姿には、捜査とも脱出とも別の緊張がある。
豪華なコース料理も、ここでは富裕層の贅沢を飾る記号から離れ、誰かのために手を動かす行為として別の意味を持つ。殺人と薬物に支配されかけた北斗之軒で、最後まで人間らしい営みを守っているのが厨房なのだ。
『水没レストランの一夜』は、地下金庫、高級料理、違法薬物、潜入捜査、水害を一晩へ詰め込みながら、最後まで12人の人間関係を中心に据えている。
水位が上がるほど逃げ場は減り、同時に隠していた過去も表へ近づく。閉ざされた扉の向こうで問題になるのは、誰が殺したのか、それだけでは足りない。誰が何を隠し、何を守ろうとしていたのか。
コース料理が最後の皿へ近づくにつれ、北斗之軒は豪華なレストランから、人間の秘密を煮詰める巨大な密閉容器へ姿を変えるのである。
あわせて読みたい桃野雑派のおすすめ2選
1.『老虎残夢』
舞台は南宋時代の中国。湖上に建つ楼閣で、伝説的な武術家・梁泰隆が殺され、弟子の蒼紫苑が師の死の謎を追い始める。
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内功や軽功など、武侠小説ならではの超人的な技を明確なルールとして設定し、その条件下で密室を論理的に解いていく発想が楽しい。毒を消せる達人をどう殺したのか、雪上や湖をどう突破したのかと、特殊な世界だからこそ成立する謎が次々と現れる。
さらに紫苑と梁恋華の秘めた思い、師弟や武侠たちの因縁も絡み、武侠伝奇の熱気と本格推理の頭脳戦が同じ舞台でぶつかり合う。
第67回江戸川乱歩賞を受賞した、桃野雑派のデビュー長編。
2.『星くずの殺人』
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到着早々、機長が無重力の倉庫で首を吊った状態で発見され、乗客たちは地球から隔絶された空間に取り残される。
重力のない場所で、どうすれば首吊り死体を作れるのか。そんな大胆な謎を、質量や慣性、張力など身近な物理法則から解いていく着想がユニークだ。
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