ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』- 死ぬ前に食べたい一杯が人生を脱線させる【読書日記】

死ぬつもりだった37歳の男が、最後に一杯のミーアヤムを食べようと思う。
ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』は、そんな小さな食欲から始まる。
主人公アレはジャカルタのIT企業で働く会社員。189センチの大柄な身体と多汗による体臭を気にし続け、子どもの頃から職場まで、周囲のからかいや拒絶にさらされてきた。
家族からは結婚を迫られ、かつての恋人との関係にも傷を抱え、職場にも親しい人はいない。重度のうつ病を抱えた末、37歳の誕生日に自ら命を絶つ計画を立てる。
ところが、薬を飲む前に食事を取る必要があると知った瞬間、頭に浮かんだのが行きつけの屋台のミーアヤムだった。
鶏肉をのせた庶民的な麺料理。死ぬ前くらい、自分が好きなものを食べたい。その程度の願いである。ところが、その一杯になかなか辿り着けない。
2025年にインドネシアで刊行された本書は大きな支持を集め、日本では2026年1月に春秋社のアジア文芸ライブラリーから西野恵子訳で紹介された。
うつ病や自死の衝動を扱いながら、語り口は意外なほど軽い。重苦しさを必要以上に引きずらず、人生を終える準備まで整えた男が、次々と予定外の出来事へ巻き込まれる。
その脱線の連続が、アレの一日をまったく別の場所へ運んでいく。
最後の一杯すらなかなか食べられない
アレが最後の食事に選んだミーアヤム屋台へ向かうと、店主パク・ジョはその日に急死していた。
食べるどころか、息子から頼まれて遺体の搬送と埋葬まで手伝う羽目になる。自分も数時間後には死ぬ予定なのに、先に亡くなった他人の墓穴を掘っている。悲しいのか可笑しいのか分からない。
空腹のまま立ち寄った店では、さらに災難が待つ。違法薬物のおとり捜査へ偶然巻き込まれ、何の関係もないアレが警察に拘束されてしまう。
留置所では麻薬組織のボス、ムラッドと出会い、釈放後も大柄な体格を買われて犯罪者たちの暮らす一角へ連れていかれる。几帳面に用意した自死計画は、本人の意思など無視するように崩れてしまうのだ。
そもそもアレに冒険へ出る意思はない。死ぬ準備を済ませたところから、人生のほうに振り回される。しかも巻き込まれる先は、葬儀、留置所、麻薬組織、線路沿いの貧民街。穏やかな再出発など用意されていない。
それでも、死ぬ予定だった男に予定外の用事が次々と入るたび、数時間先だったはずの最期が遠ざかる。墓を掘る、殴られる、誤解される、知らない人に連れていかれる。本人が望んだ出来事は一つもない。
それなのに、その面倒くささ自体がアレを世界へつなぎ止めてしまう。この可笑しさが、本書の暗さを少しずつほぐしている。
清潔なオフィスを離れた先で人間扱いされる
アレがそれまで暮らしていたのは、清潔なオフィスと息苦しい家庭の往復だった。
身なり、仕事、結婚、外見。周囲から何度も評価され、そのたび自分は他人を不快にさせる存在だと思い込んでしまう。まともに見える場所ほど、彼にとっては居場所がない。
ところが、転がり込んだ先は都市の中心から外れた人々が暮らす場所である。麻薬組織のムラッド、歓楽街を取り仕切るマミ・ルイーズ、そこで働くジュレハ、孤独を抱えたブ・ムルニ、凧を売るパク・ウジュ、盲目のパク・ジプレン。模範的な人物像からは遠く、それぞれ傷や事情を抱えている。
そして彼らは、アレを洗練された会社員として評価しない。結婚しているか、容姿が整っているか、仕事で成功しているかにも興味を示さない。
巨大な身体なら荷物を運べる、腹が減っているなら何か食べろ、疲れているなら休め。そんな即物的な関わりのほうが、アレにはかえって温かい。
この配置がいいのだ。制度の内側にある職場や家庭で孤立した男が、危うく雑然とした場所へ落ちた途端、一人の人間として受け入れられ始める。
表向きは正しい場所と、実際に安心できる場所が一致しない。その対照が、ジャカルタの格差や都市の分断まで浮かび上がらせる。
もちろん、貧民街や犯罪組織を美化している話でもない。暴力も違法行為もあり、安全とはほど遠い。それでも、そこで会う人々はアレへ人生訓を押しつける前に、まず目の前の一人として接する。
立派な励ましなど要らなかった。傷ついたままでも、その場にいていいと思える時間こそ、アレには必要だったのだ。
生きる理由は大げさでなくていい
題名に置かれたミーアヤムは、インドネシアで広く親しまれる庶民的な麺料理である。
高級料理でも特別な記念日の食事でもない。街角の屋台で湯気を立て、学生も労働者も会社員も同じように麺をすする。アレが最後に欲しがったのも、そんな一杯だった。
ミーアヤムが街角の食べ物である点も大きい。移動式屋台や大衆食堂では、学生も日雇い労働者も会社員も、同じような椅子に腰掛けて一杯をすする。
肩書きや収入とは無関係に腹を満たせる場所であり、アレが会社の外へ踏み出した先で出会う人々ともよく重なる。清潔なオフィスでは孤独だった男が、雑踏と湯気の中で他人と同じ食卓へ近づいていく。題名にこの料理が置かれた理由も、そこから少しずつ見えてくる。
人生を続ける理由として、成功や夢や愛を無理に掲げないところに本書の温かさがある。明日には好きな麺を食べたい、もう少し誰かと話したい、今日は疲れたから休みたい。それくらい小さな欲求でも、その日を越える理由にはなるのだ。
アレは最初、自分の人生全体を採点している。愛されていない、必要とされていない、期待に応えられていない。全部をまとめて失敗と判断し、自分の存在まで消そうとする。
しかし、ミーアヤムを求めて外へ出た瞬間から、人生はそんな総合点だけでは測れなくなる。腹は減るし、人には頼まれるし、知らない誰かの事情へ巻き込まれる。身体と他人が、頭の中だけで完成していた絶望へ次々と割り込んでくる。
本書の救いは劇的な成功とはほど遠い。人生が急に素晴らしくなるわけでも、傷が消えるわけでもない。
つらい日はつらいまま認め、疲れたら足を止める。それでも食べたいものが一つあるなら、今日はそこまで行ってみる。その程度の歩幅で十分だと物語は語る。
死ぬ前の一杯だったはずのミーアヤムは、いつの間にかアレを街の人々へ結びつける目印へ変わっている。
人生の意味を探し続けて疲れた男を引き留めたのは、大義でも立派な教訓でもなく、屋台から立ちのぼる湯気と、甘辛い鶏肉をのせた麺だった。
明日まで生きる理由なんて、案外それくらいでいいのである。
「自分自身を褒めることを忘れないでください。あなたの人生は、すでに難しい。その足を、無理に歩かせ続けないでください。一度くらい休憩してみてください。たまには外に出るのです。人生でやり遂げたことを大切にしてください。それがたとえ、小さな成果だとしても。なぜなら、あなたはそうして当然だからです。疲れているのなら、怒ってもいいし、それを爆発させてもいい。我慢し続けないでください。」
ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』より引用


