呉勝浩『蒼羽さん事件』- 未解決事件を追うほど、書かれた言葉まで信用できなくなる【読書日記】

2012年12月14日、埼玉県日高市に住む高校2年生・遠野青葉が姿を消した。
放課後、「お姉ちゃんに会わなきゃいけないから」と友人へ告げ、川越市駅から池袋方面へ向かったのが最後の足取りだった。
一か月後、青葉は東京都足立区西新井のアパートで発見される。クローゼットに押し込まれた大型スーツケースの中から見つかったのは、腐敗の進んだ17歳の遺体。
部屋を借りていた会社員・高橋勇亮には未成年女性との交際歴があり、疑いが集中した。ところが失踪当日、高橋は韓国・ソウルへ出張中。出入国記録まで揃い、殺人を直接結びつける証拠も出てこない。
そのまま約十年が過ぎた頃、ノンフィクション作家・根元彰良のもとへ一件の情報が届く。青葉本人のものと思われるXアカウント「蒼羽」。
そこには「川越駅1630」「時の鐘13」といった待ち合わせのメモらしき投稿が散らばり、失踪前日の最後の書き込みには「チョウチョのところ19」とだけ記されていた。
呉勝浩『蒼羽さん事件』は、この未解決事件を追う疑似ルポ形式の長編だ。ただし、根元は調査の途中で食道癌により亡くなっている。手元にあるのは彼が遺した原稿、取材記録、証言、そして別の書き手による編集と加筆。
事件の真相を探しているはずがやがて、いま目の前にある文章をどこまで信じていいのかまで揺らぎ始める。
「チョウチョのところ19」から十年前が動き始める
事件には、考えたくなる材料がいくつもある。
青葉が最後に会う予定だった姉・四葉。遺体が見つかった部屋の契約者でありながら海外にいた高橋。ソウル滞在中に生まれた空白の四日間。所在不明の合鍵。そして事件後、両親、四葉、その交際相手まで相次いで生活拠点を変えている。
どれか一つを拾えば、それらしい筋道が作れてしまう。そこへ「蒼羽」アカウントが加わり、十年前には見過ごされた少女の言葉まで調査対象になった。根元は投稿の意味を洗い、川越や池袋を歩き、当時の人間関係を掘り返してゆく。
ここで不安を深めるのが、根元自身の危うさだ。彼は事件を丹念に追う一方、事実を劇的な筋書きへまとめたがる書き手でもある。情報が増えるほど仮説は精密になり、それゆえ一度つかんだ見立てから離れにくくなる。
対する地元紙記者・墨田は別方向から事件を眺め、警察にも当時の見立てがあった。三者の推理は同じ証言を材料にしながら、別々の青葉像を作り上げてしまう。
この食い違いには、ぞっとする怖さがある。新しい事実が出るたび、少し前まで納得していた筋道が崩れ、別の可能性が前へ出る。真相へ近づいている感覚と、自分まで誰かの解釈に乗せられている不安が同時に膨らむからだ。
青葉と四葉の姉妹関係も、その揺れを大きくする。姉は成績も運動も優秀で、周囲から注目される存在。妹の青葉は漫画やアニメを好み、自分の内側へ向かいやすい少女として語られる。
だが、それもまた取材者が集めた証言から組み上げられた人物像にすぎない。本人が死んでいる以上、本当の青葉が自分の言葉で訂正する機会は永遠に訪れないのだから。
犯人を疑う前に書き手の視線まで疑う
ルポを模した語りが怖さを増すのは、実在の土地や交通経路が細かく置かれているからだ。
日高、川越、池袋、西新井。青葉が移動した可能性を追うほど、架空の事件なのに実際の新聞記事を読んでいるような感触が生まれる。実在する少女漫画まで青葉の好みとして登場し、彼女の生活へ現実の手触りが加わっていく。
しかし、この生々しさを信用しすぎると足元をすくわれる。根元は公平な記録係からほど遠く、自分なりの結論へ向かう人間だ。しかも彼の死後、未完成の文章を別の書き手が引き継いでいる。
さらに、その背後には出版物として成立させたい編集者もいる。誰かの証言が根元の文章となり、その原稿が別人の手で整えられ、最終的に読み手の前へ差し出される。
事件の情報は、何枚ものフィルターを通過する。証言者には記憶違いや自己弁護があり、取材者には仮説、編集側には「読ませる本」へ整えたい欲望がある。事実へ直接触れた感覚さえ、誰かが選び、並べ、意味を与えた文章の上で生まれた錯覚なのだ。
「チョウチョのところ19」は、その危うさを凝縮した言葉でもある。青葉にとっては、ごく個人的なメモだった可能性もある。
本人がいなくなった途端、その短い文字列は犯罪の暗号として解読され、性格や交友関係を説明する材料に姿を変えた。SNSへ残した言葉は、本人の手を離れた瞬間から、他人の解釈にさらされる運命なのだ。
呉勝浩は、この危うさを犯人当ての材料だけに使わない。言葉は証拠にもなれば、人物像を勝手に作る刃にもなる。過去の投稿を並べれば、人間一人を説明できた気になってしまう。
『蒼羽さん事件』で最後まで警戒されるのは、この思い込みそのものだ。
真相を知りたい気持ちは誰のためにあるのか
さらに刺さるのが、事件を物語として読む行為そのものへの視線だ。
根元は真実を追う一方、書き手として多くの人へ届く文章へ整えようともする。調査の途中で強烈な事実に出会えば、それを本の中心へ据えたくなるのも自然だ。事件を追う情熱と、物語を劇的に仕立てたい欲望。その境目は驚くほど曖昧である。
殺人事件の記事を見れば犯人の正体を知りたくなり、未解決なら仮説を考え、不可解な証言には意味を探したくなる。これはミステリを楽しむときの感覚に近い。
けれど現実の事件には家族や友人がいて、死んだ本人にも他人へ見せなかった生活があった。真相への好奇心が誰かの傷を娯楽へ変える瞬間は、思うほど遠くない。
本書は、そこから安全な場所へ逃がしてくれない。根元の仮説に夢中になり、青葉の投稿を読み込み、「チョウチョのところ19」の意味を追ううち、こちらも事件を物語として消費する側へ回っている。しかも文章が巧みなほど次の事実を欲しがり、その欲求こそ後半で重く返される代償だ。
『爆弾』のような会話の応酬や派手な危機とは違い、本書の中心は地道な取材と検証だ。証言が増えるほど真実が一本に絞られるどころか、人間の見え方まで変わってしまう。
事件を解く物語と、事件を解ける形へ整えたくなる欲望が同じ紙面に並ぶ。その居心地の悪さこそ、最後まで消えない圧力だ。
青葉が最後に残した「チョウチョのところ19」は、十年後、数え切れない解釈をまとって他人の手へ渡った。
本人だけが知っていた意味はもう語られない。それでも誰かが空白を埋め、別の誰かが文章として世へ差し出す。
画面の暗がりに浮かぶあの短い文字列は、誰の筋書きにも素直に回収されないまま、こちら側の顔を映す小さな鏡だったのだ。


