ジャック・ケッチャムおすすめベスト7作品 – 最悪な気分になりたい?ならこの作家を読もう!

人間とは、ここまで残酷になれるものなのか。
ジャック・ケッチャムの小説を読むたびに、私は人間そのものが嫌いになりそうになる。
幽霊も悪魔も必要ない。怪物が襲ってくるまでもない。そこにいるのは、ごく普通の大人や子供、家族や隣人たちだ。
そんな身近な人間が平然と他人を傷つけ、周囲は見て見ぬふりをし、やがて取り返しのつかない惨劇へと発展していく。
しかも、ケッチャムは手加減を知らない。
暴力、虐待、拷問、食人、理不尽な死。人間が目を背けたくなるものを容赦なく描き、こちらの精神を徹底的に痛めつけてくる。読んでいて気分が悪くなることもしばしばだ。何度もう勘弁してくれと思ったことか。
それなのに、私はこの作家の小説が大好きなのである。
本名ダラス・ウィリアム・メイヤー、1946年生まれ。現代アメリカのホラー文学を語るうえで欠かせない作家のひとりであり、スティーヴン・キングからも熱烈な支持を受けた。
代表作『隣の家の少女』は、その凄まじさを知るうえで避けて通れない作品だ。私もこれまで数多くのホラー小説を読んできたが、あれほど胸糞悪い気分にさせられた作品はそう多くない。しかも、その不快感には、人間の残酷さをこれでもかと突きつけられた重みがある。
一方で、食人族の恐怖を描く『オフシーズン』、理不尽な暴力に立ち向かう男の姿を追う『老人と犬』、人間の狂気を掘り下げる『黒い夏』など、作品ごとに異なる顔を見せてくれる。血みどろの惨劇から心理的な恐怖、哀しみを伴う人間ドラマまで、ケッチャムの守備範囲は驚くほど広い。
そして何より困るのが、あれほど嫌な気分になったにもかかわらず、時間が経つとまた読みたくなってしまうことだ。もはや自分から地獄へ足を運んでいるようなものである。
さて、今回はそんなジャック・ケッチャムの邦訳作品から、私がぜひおすすめしたい7作品を厳選してみた。
救いのない暴力に打ちのめされたい人も、人間の悪意を徹底的に描いた小説を求めている人も、ぜひ参考にしてほしい。
ただし、精神的に疲れているときには、あまりおすすめできない作家でもある。
気持ちよく眠れる本を探しているなら、間違いなく別の作家を選んだほうがいい。
でも、もしあなたが最悪な気分になりたいと言うのなら、ぜひジャック・ケッチャムを読もう。
後悔しても、私は一切責任を取らないが。
1.『隣の家の少女』
──1958年の夏、隣家で少女への虐待が始まり、大人の狂気に巻き込まれた少年たちが集団暴力へ染まっていく戦慄のホラー。
──謎の箱や雪中の少女が招く怪異から、人間の暴力、愛する者との別れまで、多彩な恐怖と哀しみを描く全19篇の短編集。
3.『オフシーズン』
──メイン州の別荘で休暇を過ごす男女六人が、森に潜む食人一族の襲撃を受ける血みどろのサバイバルホラー。
4.『老人と犬』
──愛犬を理不尽に殺された老人が、謝罪を拒む裕福な親子を相手に、尊厳を懸けた闘いへ身を投じるサスペンス。
5.『黒い夏』
──二人の女子大生を銃撃した青年が、罪を逃れたまま再び暴力へ向かい、周囲の人々を破滅へ巻き込む犯罪サスペンス。
6.『閉店時間』
──深夜のバーを襲う強盗、凶悪犯による拉致、荒野の復讐劇など、暴力に直面した人間の選択を描く全4篇の中篇集。
7.『オンリー・チャイルド』
──幼い息子を虐待する夫から逃れた母親が、善良な父親を装う夫と親権を争う社会派心理サスペンス。
1.『隣の家の少女』
怪物がいるのは暗い森でも廃屋でもなく、いつもの隣の家である
『隣の家の少女』を読んでいてきついのは、地下室で起きる凄惨な虐待が、どこか遠い異常な世界の出来事として切り離されていないことだ。
川遊びをして、近所の子供たちとつるみ、少し年上の少女に胸をときめかせる。そんな1958年の夏休みの風景と、隣家で進んでいく惨劇が同じ時間の中に並んでいる。
12歳のデイヴィッドが惹かれる14歳のメグは、両親を交通事故で亡くし、妹スーザンとともに伯母ルースの家へ引き取られている。
ここで厄介なのが、ルースが最初から周囲に恐れられているような人物ではないことだ。近所の少年たちへタバコや酒まで許し、自宅を自由な溜まり場として開放するため、子供たちからすれば自分たちの味方に近い。
その一方で、メグに向ける感情だけが異様に歪んでいる。若く美しく、自分の意志を曲げない彼女への敵意は次第に激しくなり、ついには不衛生な地下室へ監禁して、ろくに食事も与えず暴力を加えるようになる。
しかもケッチャムが描く地獄はそこで完成しない。ルースの実の息子たちや近所の少年まで地下室へ出入りするようになり、メグを傷つける行為そのものが、いつしか集団の遊びへ変わっていく。
この作品を思い出すとき、私は個々の残酷描写より、この変化のほうにぞっとする。昨日まで普通に遊んでいた子供たちが、同じ仲間に囲まれ、同じ大人から許可を与えられるだけで、目の前の苦痛に対する感覚を麻痺させていくからだ。
地下室へ降りるたびに少しずつ一線を越え、やがて誰もその一線がどこにあったのか分からなくなるのである。
一人の狂気が、みんなの常識へ変わっていく
ルースは子供たちへ暴力を強要するだけの支配者ではなく、もっと嫌なやり方で彼らを巻き込んでいく。
好きなことをさせ、大人の規則から解放し、自分たちを理解してくれる存在として懐へ入り込む。その居心地のよさと一緒に、メグへの蔑視や暴力まで共有させていく。
こうなると、子供たちにとって善悪の基準は自分の中から少しずつ外へ移ってしまう。ルースが許している。周囲も笑っている。自分だけ止めれば仲間から浮く。そんな小さな理由が重なるうちに、本来なら恐ろしくて目を背けるはずの行為まで、その場では普通のこととして扱われる。
集団心理の描き方が恐ろしいのは、誰もが同じ種類の悪意を持っているからではなく、それぞれ違う弱さや欲望から同じ方向へ流れていくところだ。
面白がる者もいれば、逆らうのが怖い者もいる。大人に認めてもらいたい者もいるし、仲間外れを恐れて付き合う者もいる。それらが一つの地下室へ集まった結果、誰か一人なら踏みとどまれたかもしれない暴力が、集団の中でどんどん加速する。
そしてデイヴィッドも、その構図から逃れられない。彼はメグに好意を抱き、起きていることがおかしいと分かっている。助けたい気持ちも持っている。
それでもルースへの恐怖、周囲の少年たちとの関係、自分まで標的になる不安が絡み合い、決定的な行動を起こせない時間が続く。だから彼の視点には、メグを案じる思いだけでなく、あのとき何もできなかった罪悪感まで重く沈んでいるのだ。
もしデイヴィッドが迷わず助けに飛び込む英雄だったら、この物語の嫌さはずいぶん違っていただろう。実際には、助けたいと思う気持ちと自分を守りたい気持ちが同じ少年の中にあり、その間で動けなくなる。その弱さが妙に生々しく、地下室で起きている暴力を他人事として眺める余地まで奪ってくる。
さらに物語は、大人になったデイヴィッドが1958年の夏を振り返る回想として語られる。だから川遊びも初恋もメグの姿も、すべて地下室の記憶と結びついている。楽しかったはずの少年時代の景色へ後から惨劇が入り込むのではなく、最初から同じ夏の中に両方が存在していたことが重い。
本作が実在のシルヴィア・リケンス殺害事件から着想を得ていることも、この現実感をさらに強くする。ただ、ケッチャムが突きつけてくる恐怖は事件の残酷さだけに集約されない。
一人の大人が作った歪んだ価値観へ周囲が慣れ、そのうち誰も異常を異常として扱わなくなる。そこまで進めば、普通の住宅街の一軒家でも十分に地獄は作れてしまう。
『隣の家の少女』は、一人の少女が虐待される物語であると同時に、それを取り囲む人間たちがどこまで壊れていけるのかを描いた物語でもある。
ルースの狂気が地下室へ子供たちを呼び込み、暴力が集団の遊びへ変わっていく。
その過程こそが、この作品を読んでいて最も逃げたくなるほど恐ろしいところだ。
『隣の家の少女』というタイトルも、読み終えるころには最悪な響きを持つ。
恐怖の場所は遠くにある必要がない。道を一本渡ったところ、昨日まで遊びに行っていた家、顔を知っている大人と子供たち。
その距離で起きるからこそ、この物語の地獄は逃げ場がない。
悠木四季ルース一人の悪意だけを恐怖の中心に置かず、その価値観が子供たちへ共有され、地下室の暴力が集団の常識へ変わっていく過程を描いているところが強烈すぎるのだ。
2.『冬の子 ジャック・ケッチャム短篇傑作選』
『冬の子 ジャック・ケッチャム短篇傑作選』
不条理ホラーから怪奇幻想、暴力的サスペンスまで十九篇を収め、ケッチャムの残酷さと繊細さを味わえる日本独自の短篇傑作選。
残酷さだけを知っていたつもりが、こんなにも切ない短篇を書く人だった
ジャック・ケッチャムと聞くと、『オフシーズン』や『隣の家の少女』のような、人間の肉体も精神も容赦なく追い詰める作品を真っ先に思い浮かべる人は多いと思う。
私もその印象が強かったのだが、『冬の子』を読むと、ケッチャムってこんなにいろいろな怖さを書いていたのか、と驚かされる。
十九篇も入っているのに、似たような残酷話を延々読まされる感じがほとんどない。突然暴力が爆発する話もあれば、最後まで正体の分からない怪異が日常へ入り込んでくる話もあり、愛する人を失った痛みをまっすぐ描く作品まである。
それでも、平穏だと思っていたものがほんの少しのきっかけで崩れ、その後は元の場所へ戻れなくなる感覚は多くの作品に共通している。
表題作『冬の子』からして、いかにも嫌な話だ。母と妹を亡くし、父と二人で北国に暮らす少年の前へ、雪の中から言葉を話さない少女が現れる。
エリザベスと名付けられた彼女を保護したところから、幼犬の惨殺や説明のつかない現象が重なり始める。
少女の正体をすっきり説明して安心させる方向へ進まず、分からないものが家の中へ入り込んでしまった感覚を最後まで引っ張るため、読み終えても妙な寒気が抜けない。
怖さの種類を変えるたび、ケッチャムの別の顔が見えてくる
一方で、ブラム・ストーカー賞を受賞した『箱』は、もっと単純な発想からとんでもなく嫌なところまで連れていく。
電車の中で、七歳のダニーが見知らぬ男の持つ箱の中を覗く。ただそれだけ。ところがその日から、少年は食べることをやめてしまう。
病気らしい病気も見つからず、箱の中で何を見たのかも語らないまま痩せていき、その異変が妹や母親へまで広がっていく。
箱の中身を最後まで明かさないからこそ、何を見れば人間が生きることそのものへ興味を失うのかと想像してしまい、答えがないぶん怖さだけが膨らんでいく。
『冬の子』のおもしろさは、こうした怪異だけに偏らないところにある。
『二番エリア』では、ごく普通の場所に突然暴力が割り込んでくるし、『聞いてくれ』では会話だけで人間の過去がどんどん醜い方向へめくれていく。『三十人の集い』になると、自分の書く暴力表現を糾弾されるホラー作家を登場させ、ケッチャム自身が向けられてきた批判まで作品の中へ引きずり込んでくる。
その一方、『行方知れず』や『帰還』のような作品では、恐怖より喪失のほうが前へ出てくる。死んだ人を忘れられない。もう会えないと分かっていても、どこかでつながっていたい。その感情が怪異と結びつくことで、怖い話を読んでいたはずなのに、最後には寂しさのほうが大きくなっている。
長篇のケッチャムしか知らないと、この振れ幅はとても新鮮に映るはずだ。暴力を書くときには本当に容赦がないのに、人間が誰かを失ったときの感情には驚くほど細かく目を向ける。
だから短篇でも、派手なアイデアを一発見せて終える作品ばかりにはならず、怪異や暴力を通して、その人物が何を抱えて生きているのかまで見えてくるのだ。
そして短篇の形式が、ケッチャムの嫌な切れ味によく合っている。長篇のように少しずつ逃げ場を奪う作品も怖いが、数十ページの中で日常を作り、その足元だけを急に抜いて終わる話には別種の破壊力がある。
説明を全部済ませず、理由の分からない部分をそのまま置いていく作品も多いため、結末を読んだあとに頭の中で勝手に続きを考えてしまう。
『隣の家の少女』のような現実的な地獄からケッチャムへ入った人にも、『オフシーズン』の血まみれのサバイバルから入った人にも、この短篇集は面白いはずだ。
知っているケッチャムが何人もいる一方で、まだ見たことのないケッチャムも次々と出てくる。残酷さの奥にある喪失や愛情、孤独まで描く振れ幅の広さには驚かされるばかりだ。
十九篇を通して触れていくと、残酷なホラーを書く作家だけでは収まりきらない、ケッチャムの幅広い顔が見えてくる。
悠木四季『箱』のような説明不能の恐怖から『行方知れず』『帰還』のような喪失の物語まで並び、作品ごとに怖さの質が大きく変わるところが楽しい。
3.『オフシーズン』
都会から来た六人を待っていたのは、話し合いの通じない捕食者たちだった
『オフシーズン』は、これから何が起きるか分かっているのに怖い。
人里離れた別荘へ男女が集まり、夜になれば森の中から食人族がやってくる。
ホラーとしては驚くほど分かりやすい構図なのに、いざ襲撃が始まると、そんな単純な話だったはずのものが一気に逃げ場のない地獄へ変わるのだ。
舞台は観光客の姿が消え始めた9月のメイン州デッドリバー。編集者のカーラを中心に、恋人のジム、妹のマージーとその恋人ダン、さらにカーラの元恋人ニックと現在の恋人ローラまで集まり、六人は海辺の一軒家で休暇を過ごそうとしている。
恋人と元恋人が同じ場所にいる時点で空気は少し面倒なのだが、その人間関係をゆっくり眺めていられる時間は長くない。
周囲の森や洞窟には、何世代にもわたって外の社会から離れて暮らしてきた食人一族が潜んでいる。彼らにとって六人は、侵入者というより獲物に近い。憎しみをぶつけたいわけでも、金を奪いたいわけでもなく、狩り、殺し、食べる。その単純な目的が、逆に恐ろしい。
そして夜になると、一軒家が襲われる。
ここからのケッチャムは容赦がない。誰かが格好よく立ち向かえば流れが変わる、知恵のある人物が最後まで皆を導く、そんな安心できる役割分担を簡単に壊してくる。
ほんの少し前まで普通に会話していた人物が、次の瞬間には暴力の中へ放り込まれ、そのまま退場してもおかしくないのだ。
文明人と野蛮人という単純な構図が、途中から怪しくなってくる
この作品を単なる食人族ホラーとして読むと、前半と後半の落差にまず驚かされる。
ニューヨークから来た六人は、恋愛や仕事、人間関係に悩むごく現代的な若者たちだ。会話を交わし、気まずさを抱え、酒を飲みながら夜を過ごしている。
ところが、そのすぐ外には、言葉や社会的ルールがほとんど通じない一族が潜んでいた。両者がぶつかった瞬間、それまで六人を守っていた文明の感覚がほとんど役に立たなくなる。電話線は切られ、助けはすぐには来ず、家の壁も絶対的な防御にはならない。
相手へ理由を聞いても意味がなく、説得して見逃してもらう道も期待できない。逃げるか、隠れるか、それとも反撃するか。命を守るためには、そんな切迫した選択を迫られるのだ。
面白いのは、そこまで追い込まれた六人の側も少しずつ変わっていくところだ。最初は食人一族の暴力を野蛮だと感じていても、生き残るためには自分たちも同じように身体を使い、傷つけ、相手を殺す覚悟を持つしかなくなる。文明と野蛮をきれいに二つへ分けていたはずの境界が、血まみれの逃走の中でだんだん曖昧になっていく。
ケッチャムの残酷描写も、その変化を遠慮なく見せるために使われている。肉体が傷つく瞬間をぼかさず、食人行為まで真正面から描くことで、暴力は爽快なアクションへ回収されない。
誰かが殴られ、切られ、食われれば、その身体にはちゃんと結果が残る。だから生き残るための反撃にも爽快感だけでは済まない重さがついて回る。
一方で、食人一族そのものを超自然的な怪物として扱わないところも重要だ。彼らは人間であり、独自の環境の中で生き延びる方法を身につけてきた存在として描かれる。
そこに16世紀スコットランドのソニー・ビーン伝説から着想を得た不気味さが重なり、山や洞窟の奥に別の社会がそのまま残っていたような感触が生まれている。
『オフシーズン』が今なお怖いのは、食人の衝撃だけに頼らず、人間が安全な場所を奪われた瞬間の脆さまで徹底して描いているからだ。
玄関の外には暗闇があり、その中には自分たちを食料として見ている人間がいる。さっきまで笑っていた仲間が次にどうなるかも分からない。
その状況へ放り込まれてからの速度と荒々しさは、長篇デビュー作とは思えないほど強烈だ。
そして、この血まみれの夜が『襲撃者の夜』『ザ・ウーマン』へ続く食人族シリーズの出発点になる。
文明の明かりが届かない森の奥では、六人の休暇など最初から誰にも守られていなかったのだ。
悠木四季食人族の暴力そのものと同時に、安全な文明社会から切り離された人間が、生き残るため少しずつ野蛮な側へ近づいていく過程が怖い。
4.『老人と犬』
欲しかったのは金でも復讐でもなく、たった一度の謝罪だった
たった一言、ごめんなさいと言えば終わったかもしれない。
『老人と犬』を読んでいると、ずっとそのことを考えてしまう。
67歳のエイヴリー・ラドロウが求めているものは大金でも、少年の人生を破壊するほどの報復でもない。
自分がしたことを認め、レッドを殺したことについて謝ってほしい。それだけなのに、相手がその最低限の責任から逃げ続けるため、話はどんどん取り返しのつかない場所へ向かっていく。
レッドは14歳になる老犬で、エイヴリーにとって長い年月を一緒に過ごしてきた家族だ。
ある日、二人で川釣りをしているところへ三人の少年が現れ、金を要求する。たいした額を持っていないと分かると、最年長のダニーは腹いせのようにショットガンを構え、レッドを撃ち殺してしまう。
この場面の嫌さは、少年側に切迫した事情があるわけでも、レッドが何かしたわけでもないところにある。ほんの気まぐれと悪意だけで、エイヴリーにとってかけがえのない存在が一瞬で奪われる。
普通なら、ここから老人の復讐劇へ突っ走りそうなものだ。ところがエイヴリーはすぐに銃を取らない。少年の身元を調べ、父親のマイケル・マコーマックを訪ね、まず正面から話をしようとする。
息子に罪を認めさせ、謝罪させてくれればいい。その態度が一貫しているからこそ、マコーマック親子の横暴さがどんどん腹立たしく見えてくる。
一匹の犬をめぐる話が、人間の尊厳をめぐる意地の張り合いへ変わっていく
マイケルは裕福な実業家で、地域にも強い影響力を持っている。息子のしたことを受け止めるより先に、エイヴリーを厄介者として扱い、金目当てだと決めつけ、持っている力を使って事件そのものを押し潰そうとする。
この父親の態度によって、物語の焦点が少しずつ変わっていくのだ。これが異様に怖い。
もともとは、レッドを殺した罪とどう向き合うかが中心だった。ところが気づけば、力を持つ者ならどこまで無理を押し通せるのか、その争いへ姿を変えている。そこにあるのは、暴力とは別の種類の怖さだ。
エイヴリーも引くに引けなくなる。ここで黙れば、レッドの死だけでなく、自分が正しいと思ってきたものまで踏みにじられるからだ。
しかもエイヴリーは、何も失うもののない頑固老人として描かれていない。妻を亡くし、過去には家族をめぐる凄惨な出来事まで経験している。その人生の中でレッドがどれほど大きな存在だったのかが少しずつ見えてくると、彼が一匹の犬のためにそこまでやる理由も腑に落ちてくる。
ケッチャムといえばと血まみれの暴力を思い浮かべやすいが、本作で強いのは、暴力へ至るまでの感情の積み重ねだ。エイヴリーは何度も穏当な解決を選ぼうとする。
そのたびに相手が嘘をつき、笑い、権力で押さえ込み、もう一歩先へ彼を追いやる。最初に一言謝っていれば、こんな争いには発展しなかったはずだ。その思いが、後半へ進むほどやるせなさを深めていく。
一度埋葬したレッドの亡骸を掘り起こし、少年たちの前へ突きつける場面も強烈だ。言葉だけではなかったことにされるなら、目を背けている現実そのものを見せる。その行動には危うさもあるが、エイヴリーがどれほど追い詰められていたのかも伝わってくる。
そして『老人と犬』の素朴な題名も、物語が進むほど重さを増していく。
老人が犬を愛していた。ただそれだけの話から始まったはずなのに、いつしか責任、謝罪、家族、権力へと話は広がり、自分が正しいと信じたものをどこまで守れるのかまで突きつけてくる。
それでも最後まで中心にいるのは、川辺で老人のそばに座っていた一匹の老犬だ。
エイヴリーが求めたのは、失われた命を取り戻すことではなく、その命を軽く扱ったまま済ませることへの拒絶だったのだと思う。
川辺で老人のそばに座っていた一匹の老犬。
その小さな命への愛情が、ここまで大きな争いへ彼を向かわせたのだ。
悠木四季最初にごめんなさいと言えていれば、ここまで誰も傷つかなかった。その単純な事実が最後までずっと重い。
5.『黒い夏』
四年前に人を殺した男が、何事もなかったように町で暮らしている
『黒い夏』でいちばんぞっとするのは、レイが最初から人を殺していることをこちらが知っている点だ。
1965年、ニュージャージー州の小さな町スパルタ。森でキャンプを楽しんでいた二人の女子大生を見つけたレイは、ふと、人間を撃ったらどうなるのか試したくなる。そして、その身勝手な好奇心のままにショットガンを向けてしまう。
一人はその場で死亡し、もう一人も重傷を負う。警察はレイを疑うものの、決定的な証拠をつかめず、彼はそのまま町へ戻っていく。
普通のサスペンスなら、ここから犯人探しが始まるところだ。しかし本作では、レイが犯人であることを最初から明かしている。
では、殺人を犯した男が捕まることなく四年間を過ごしたら、どうなるのか。レイ自身はもちろん、彼を取り巻く人々の生活や人間関係がどう変わっていくのか。物語は、その不穏な四年間をじっくりと追いかけていく。
1969年になっても、レイはまるで成長していない。ドラッグを売り、仲間を脅し、自分より弱い相手を支配し、背の低さへのコンプレックスを派手な服装や態度で覆い隠している。
彼の周りにいる若者たちも、レイの危険さを分かっていながら完全には離れられない。怖いのに惹かれ、嫌っているのに逆らえず、その曖昧な距離感がグループ全体を歪ませている。
一方、四年前の事件を追っていた元刑事エド・シリングは、今もレイへの疑いを捨てきれずにいた。
再び殺人を犯しかねないレイと、過去の事件の真相を追い続けるエド。次の犠牲者が出る前にレイを捕まえられるのか。その緊迫した駆け引きが、物語を引っ張っていく。
いつ爆発するか分からない男と、同じ夏を過ごし続ける怖さ
ケッチャムはレイを、過去の傷によって壊れた可哀想な青年として整理してくれない。
退屈だったから、腹が立ったから、誰かに自分の力を見せつけたかったから。そんな身勝手な理由で平然と他人を傷つける。そこに同情の余地を探すことさえ難しいほど、レイの行動は理不尽で残酷なのだ。
そのため、レイが出てくる場面にはずっと嫌な緊張がつきまとう。今は笑っている。今は女の子を口説いている。今は仲間と遊んでいる。それでも四年前に何のためらいもなく人を撃った男だと知っているから、何気ない会話の最中でさえ、このまま終わる気がしない。
そして『黒い夏』は、レイ一人だけを追い続ける話にもしていない。彼に惹かれる女性、恐れながら付き従う友人、過去の事件から抜け出せないエド。
複数の人物の視点から描かれることで、レイの存在が周囲の人々の生活をどれほど蝕んでいるのかが見えてくる。彼が直接暴力を振るわなくても、誰かが顔色をうかがい、誰かが嘘を重ね、逃げ出したくても逃げ出せない人間までいる。レイの支配は、そんな日常の隅々にまで及んでいた。
1969年の時代背景も、この息苦しい物語によく似合う。ドラッグや若者文化、性の解放といった華やかなイメージの裏には、行き場のない焦燥や苛立ちがのぞき、自由を謳歌する若者たちの未来もどこか頼りない。
その不安定な時代の空気にレイの危うさが重なることで、明るい夏の日差しさえ、いつ暴力が噴き出すか分からない不穏なものへ変わっていく。『オフシーズン』のように怪物が外から襲ってくる怖さとは、ずいぶん違うのだ。
『黒い夏』では、怪物は最初から町の中にいる。みんな顔を知っているし、一緒に酒を飲み、車に乗り、恋愛までしている。それでも誰かが本気で止めるところまで踏み込めず、レイ自身も自分を制御する理由を持たない。
四年前の銃声は、事件が終わった音ではなかった。
あの森で始まったものが1969年の夏までずっと続き、レイの中に溜め込まれていた暴力と一緒に、もう一度町へ噴き出そうとしている。
その時間の長さこそが、『黒い夏』を単純な殺人鬼ものよりずっと嫌な物語にしている。
悠木四季犯人を最初から明かしたうえで、いつ再び暴力が爆発するのかを周囲の人間たちと一緒に待たされる構成がレイの危険さを強烈に際立たせている。
6.『閉店時間』
バーの強盗から西部劇まで、四篇すべて違う顔を見せるケッチャム中篇集
ジャック・ケッチャムの作品を何冊か読んでいると、この人は人間を逃げ場のない場所へ放り込むのが本当に好きなのだなと思う。
『閉店時間』に収められた四篇もまさにそうなのだが、面白いのは、その追い込み方が全部違うことだ。
表題作『閉店時間』では、9.11の傷を抱えたニューヨークのバーへ突然暴力が入り込む。『ヒッチハイク』では、ならず者たちに拉致された弁護士が知恵と機転だけを頼りに生き延びようとする。
『雑草』は実在事件から着想を得た、人間の欲望そのものが嫌になるような心理ホラー。そして『川を渡って』まで行くと、舞台は19世紀の荒野へ飛び、少女たちを救うため男たちが淫売宿へ乗り込む血まみれのウェスタンになる。
一冊の中でここまで景色が変わると、それだけでも楽しい。現代ニューヨークにいたと思ったら犯罪者の車へ押し込まれ、そこから人間の暗部を覗き込み、最後には銃と刃物が飛び交う西部劇へ放り出される。
それでも四篇がばらばらに感じにくいのは、どの作品でもケッチャムが人間の選択を最後まで見ているからだ。
追い詰められた瞬間、その人が何を選ぶのか
表題作『閉店時間』で印象的なのは、強盗事件そのものより、その背景にあるニューヨークの空気だ。
9.11以降、街も人間も大きな喪失を抱えたまま日常へ戻ろうとしている。そんな時期の深夜のバーに暴力が飛び込んでくることで、登場人物たちが抱えていた疲れや悲しみまで一緒に剥き出しになっていく。
ケッチャムは、事件が起きるまでの生活を無駄にしない。誰がどんな傷を抱え、何を諦め、どんな人間関係の中で生きているのかを短い尺の中でつかませたうえで、突然そこへ危機をぶつける。だから暴力が始まった瞬間、単なる被害者Aや被害者Bとして見えなくなる。
『ヒッチハイク』では、その技術がもっとサスペンス寄りに働く。拉致された弁護士には、相手を圧倒できる武力も特殊能力もない。使えるのは頭と会話と、相手の性格を読む力くらいだ。
下手に刺激すれば命が危ない。誰の機嫌を取り、誰の弱みを突き、いつ行動を起こすべきか。そんな一瞬の判断が、生死を分けることになる。
一方、『雑草』へ入ると空気は一気に重くなる。ケッチャム自身が自作のなかでも特に不快な作品として挙げたとされるだけあって、人間の性や虐待、支配欲といった部分へ容赦なく踏み込む。
血の量で押すタイプの恐怖より、人間の頭の中にこんな欲望が存在すること自体が嫌になる方向のホラーで、この短篇集の中でも異様な位置を占めている。
そして最後の『川を渡って』がまた面白い。ここまで来ると完全に西部劇で、悪辣な三姉妹が支配する淫売宿へ男たちが乗り込み、囚われた少女たちを救い出そうとする。銃撃戦に刃物を使った争い、荒野を舞台にした復讐劇と、ケッチャムらしい容赦のない暴力描写が満載だ。
四篇を並べてみると、ケッチャムが本当に興味を持っていたものがよく分かる。怪物や殺人鬼などの題材そのものより、人間が追い詰められたときに何をするのか。逃げるのか、戦うのか、見捨てるのか、誰かを助けるのか。その瞬間の判断に、人間の弱さも強さもまとめて出てくるのだ。
『閉店時間』は、ケッチャムの中篇を四つ集めた本でありながら、作品ごとにジャンルまで大胆に変わる。そのたびに舞台も人物も入れ替わるのに、人間が極限で見せる顔を追い続ける視線だけは一貫している。
凄惨な暴力描写に目を奪われがちだが、その奥には人間の弱さや身勝手さ、そして極限状態で生まれる勇気まで描かれている。
ジャック・ケッチャムを単なる残酷描写の名手として語るには、あまりにも惜しい。
四篇を通して、その作家としての幅広さを改めて実感できるのだ。
悠木四季四篇すべて雰囲気も舞台も大きく異なり、それでも追い詰められた人間の行動を見つめるケッチャムらしさが一本通っているのがいい。読み終えるころには、残酷ホラーだけでは語りきれないケッチャムの幅が見えてくる。
7.『オンリー・チャイルド』
夫から逃げれば助かると思ったら、その先にはもっと厄介な壁があった
この作品で腹が立つのは、アーサーが家の外では怪物に見えないことだ。
『オンリー・チャイルド』は、夫アーサーの暴力に耐えてきたリディアが、その矛先が幼い息子ロバートにまで向けられていると知り、我が子を連れて逃げようとする物語だ。
ところが離婚と親権を求めて裁判へ進むと、アーサーは家の中で見せていた顔をきれいに隠し、今度は善良な父親として母子の前に立ちはだかる。
家庭内虐待の恐怖と、助けを求めた先でも簡単には守ってもらえない苦しさを重ねた、読んでいてひたすら腹の立つ心理サスペンスである。
何しろアーサーが本当に厄介だ。妻のリディアを暴力と性的な支配で追い詰め、幼い息子ロバートにまで手を伸ばしているのに、家の外へ一歩出れば、きちんとした社会人で愛情深い父親の顔ができてしまう。
リディアがどれほど必死に訴えても、周囲が知っているアーサー像とのあいだには大きなズレがあり、その外面の良さが彼女をさらに追い詰めていく。
リディアも、最初から夫と互角に渡り合える強い女性として登場するわけではない。長いあいだアーサーの機嫌を読み、自分が耐えれば家庭を保てると考えてきた。
そんな彼女の中で決定的なものが変わるのは、ロバートに自傷的な行動や不自然な変化が現れ、その原因をたどった先で、夫の虐待が自分だけに向けられていたものではなかったと知ってからだ。
自分が傷つくことには耐えてしまった。それでも息子まで同じ場所へ引きずり込まれるとなれば、もう黙ってはいられない。
リディアは離婚と親権を求めて動き始めるのだが、ここで家から出れば一安心、とはいかないところがこの作品のしんどさだ。
家庭から逃げ出しても、父親の支配からは逃れられない
アーサーは暴力で相手を押さえつけるだけの男ではなく、自分をどう見せれば周囲から信用されるかをよく分かっている。
法廷では落ち着いた父親として振る舞い、リディアの訴えを感情的なものに見せ、親権や手続きの仕組みまで利用して、自分の側へ状況を引き寄せようとする。
せっかく家庭の外へ助けを求めたのに、そこでもすぐには救ってもらえない。この展開が本当に腹立たしい。家の中ではアーサーの恐怖に縛られ、外へ出れば彼の社会的信用に邪魔をされる。
リディアが必死に訴えかける姿を見るほど、やるせない気持ちになってくる。傷つけられたのは彼女なのに、なぜ自分の言葉が真実であることを、何度も証明しなければならないのか。その理不尽さに、腹立たしささえ覚えてしまう。
しかもアーサー自身も、幼い頃に母親から苛烈な虐待を受けて育っている。ケッチャムはその過去を免罪符として扱わず、受けた暴力を次へ渡してしまった人間として描く。
自分が苦しんだからこそ連鎖を止める道もあったはずなのに、彼は支配する側へ回り、その方法をさらに狡猾なものへ磨いてしまった。
そう考えると、リディアがロバートを守ろうとすることにも別の重さが出てくる。このまま何も止められなければ、アーサーが受けた傷と同じように、ロバートにも取り返しのつかないものが刻まれるかもしれない。
だから彼女は、怖さを抱えたまま証言し、信じてもらえなくても食い下がり、以前の自分なら選べなかった行動へ踏み出していく。
このリディアの変化があるから、物語も虐待の惨状をひたすら眺めるだけの重苦しさには傾かない。急に無敵の母親へ生まれ変わるような派手さはなく、怖いものは怖いまま、それでも息子のためなら前へ出る。
その姿を追っていると、法廷で押し返されるたびに悔しくなるし、アーサーが善良な父親を演じるたび、早くその仮面を剥がしてくれと思わされる。
ケッチャムの作品では、凄惨な暴力描写が注目されがちだ。しかし『オンリー・チャイルド』で胸に迫るのは、勇気を振り絞って助けを求めたあとも、なお恐怖から逃れられない現実である。
証拠が足りない、親権がある、父親にも権利がある。どれも制度としては理由のある言葉なのに、その隙間へアーサーのような人間が入り込むと、母子を守るための仕組みが逆方向へ働いてしまう。
家庭の中で始まった恐怖は、家を出ても終わらなかった。夫の暴力から逃れたリディアを待っていたのは、今度は善良な父親を装うアーサーとの争いである。
『オンリー・チャイルド』は、息子ロバートの親権をめぐる争いを通して、家庭内暴力が被害者をどこまでも追い詰めていく現実を描いている。
だから最後まで気になるのは夫婦の勝ち負けより、この子を本当にアーサーの手から救い出せるのか、その一点なのだ。
悠木四季リディアが必死に訴えるほど感情的に見られ、落ち着いて振る舞うアーサーが信用される。その構図があまりにも苦い。
おわりに

絵:悠木四季
さて、ジャック・ケッチャムのおすすめ7作品を紹介してきたが、改めて思う。
この作家は、本当に人間が嫌いなのだろうか。それとも、誰よりも人間を信じたいのだろうか。
『オフシーズン』では人間が人間を食い、『黒い夏』では青年の歪んだ欲望が惨劇を引き起こす。『オンリー・チャイルド』では家庭が地獄と化し、『隣の家の少女』では一人の悪意が周囲へ広がり、ごく普通の人間たちまで残虐行為に加担していく。
どの作品も容赦がない。読んでいて腹が立つし、気分も悪くなる。こんな救いのない話をよく書けるものだと、作者の精神状態まで心配したくなるほどだ。
だが、ケッチャムが描くのは、人間の醜さばかりでもない。
『老人と犬』のように理不尽な暴力へ抵抗し、大切なものを守ろうとする人間もいる。絶望的な状況でも良心を失わず、自分なりの正義を貫こうとする人間がいる。残酷な場面ばかりが話題になりがちな作家だが、こうした人間へのまなざしにも、私は惹かれてしまう。
おそらくケッチャムは、人間がどれほど残酷になれるかを知っているからこそ、それでも善良であろうとする人間の姿を書かずにはいられなかったのだろう。
もっとも、そんな立派なことを考えながら読んでいる私自身、血みどろの惨劇や救いようのない展開をどこかで期待しているのだから、あまり偉そうなことは言えない。
ひどい話を読んでは落ち込み、もう二度と読むものかと思いながら、しばらくすると別の作品を探している。
いったい何が楽しいのか。自分でもよくわからない。だが、これほど感情をかき乱してくる作家には、そう簡単に出会えないのも事実だ。
もちろん、誰にでも気軽におすすめできる作家ではあるまい。虐待や殺人、食人、動物への暴力など、作品によっては精神的に相当な負担を覚悟する必要がある。特に『隣の家の少女』は、読む時期やその日の気分を慎重に選んだほうがいい。
それでも、人間の悪意や狂気を徹底的に描いた小説が好きなら、ぜひ一度はケッチャムの世界を覗いてみてほしい。
幽霊より怖いものも、悪魔より残酷なものも、案外すぐ隣にいるのかもしれない。
それにしても、わざわざお金を払って、何百ページもかけて最悪な気分になり、挙げ句の果てには素晴らしかったと感動しているのだから、ケッチャム好きの感性も大概おかしい。
まあ、私もその一人なのだが。
1.『隣の家の少女』
──1958年の夏、隣家で少女への虐待が始まり、大人の狂気に巻き込まれた少年たちが集団暴力へ染まっていく戦慄のホラー。
──謎の箱や雪中の少女が招く怪異から、人間の暴力、愛する者との別れまで、多彩な恐怖と哀しみを描く全19篇の短編集。
3.『オフシーズン』
──メイン州の別荘で休暇を過ごす男女六人が、森に潜む食人一族の襲撃を受ける血みどろのサバイバルホラー。
4.『老人と犬』
──愛犬を理不尽に殺された老人が、謝罪を拒む裕福な親子を相手に、尊厳を懸けた闘いへ身を投じるサスペンス。
5.『黒い夏』
──二人の女子大生を銃撃した青年が、罪を逃れたまま再び暴力へ向かい、周囲の人々を破滅へ巻き込む犯罪サスペンス。
6.『閉店時間』
──深夜のバーを襲う強盗、凶悪犯による拉致、荒野の復讐劇など、暴力に直面した人間の選択を描く全4篇の中篇集。
7.『オンリー・チャイルド』
──幼い息子を虐待する夫から逃れた母親が、善良な父親を装う夫と親権を争う社会派心理サスペンス。
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