サイモン・ベケット『出口のない農場』- 逃げ込んだ先はもっと危険な場所だった【エッセイ】

血のついた車で南フランスを逃げる英国人青年ショーン。
携帯電話のSIMカードを壊し、ナンバープレートを外し、身元につながるものを次々と捨てている。
荷物の中には人に見られたくない白い粉末。なぜ警察から逃げているのか、車の血痕は誰のものなのか。何も分からないまま逃亡だけが続く。
そして山中へ入ったショーンの足首を、古い鉄製のマントラップが噛んだ。鋼鉄の歯が肉へ食い込み、身動きも取れないまま意識を失う。次に目を覚ましたとき、彼は人里離れた農場の納屋に寝かされていた。
助けてくれたのはマティルドという女性だ。だが農場主の父アルノーはショーンを露骨に嫌い、妹グレートヒェンの態度も読めない。
敷地には荒れたブドウ畑、泥まみれの豚、澱んだ池、そして無数の石像が立っている。足の傷で歩けないショーンにとって、ここは警察から身を隠せる場所である一方、自力では出ていけない監獄でもあった。
『出口のない農場』の面白さは、この時点ですでにはっきりしている。主人公は外の世界から逃げてきたのに、逃げ込んだ先のほうが怖い。
しかもショーン自身も何かを隠しており、農場の一家にも触れてはいけない過去がある。逃亡者と閉ざされた家族、両方に秘密があり、どちらの側にも完全には肩入れできない。
サイモン・ベケットはその危うい関係を、南仏の灼ける暑さの中へ閉じ込めた。
逃亡者がたどり着いたのは、もう一つの檻だった
ショーンは傷のため、当面は農場を離れられない。だから最初は、マティルドの親切がありがたい。
食事を運び、傷を洗い、寝床を用意してくれる。警察へ見つかりたくない彼にとって、人里離れた農場は隠れ家として都合がよかった。
ところが、日が経つほど居心地の悪さも増してくる。アルノーは酒を飲み、銃を持ち、敷地へ入った人間を敵のように扱う。グレートヒェンはショーンへ近づいたかと思えば、突然態度を変える。マティルドの優しさにも、相手を自分のそばへ置いておきたい気配が混じり始める。
この作品が怖いのは、誰か一人を悪人にして安心させてくれないところだ。アルノーは危険に見えるが、なぜ外部をあそこまで憎むのかは分からない。マティルドはショーンを救った恩人だが、その献身には過去の傷が絡んでいる。グレートヒェンもただの奔放な妹では済まない。
そしてショーン自身にも、こちらがまだ知らない事情がある。逃亡の理由を伏せたまま物語が進むため、彼を完全な被害者として見ていいのかも判断できない。
農場の一家を疑う目と同時に、ショーン本人へ向ける疑いまで消えない。この二重の不信感が、農場生活の何気ない会話にも緊張を与えている。
何も起きていない食卓さえ落ち着かない。誰かの返事が少し遅れただけで、その裏を考えたくなる。池のそばを通れば何か沈んでいそうに思え、豚が餌を噛む音を聞けば嫌な想像まで働く。石像の群れに至っては、なぜこんな場所に立っているのか分からないまま、ずっと視界の端に居座り続ける。
ベケットは派手な事件を連発せず、農場の日常自体を危険な場所へ変えていく。ショーンの足が治るほど自由が増えるはずなのに、知ってしまうことも増える。
そのため身体が回復していく過程さえ、安心にはつながらない。逃げられる身体へ戻るほど、この家族の内側へ深く入り込んでしまうのだ。
農場の秘密と、ショーン自身の秘密を同時に追う
本作は農場で過ごす現在だけを描かない。合間にはロンドン時代のショーンの生活が挟まり、なぜ彼が血のついた車でフランスまで逃げてきたのかが少しずつ明かされる。
そこで重要になるのが元恋人クロエだ。ショーンは彼女との出会いをきっかけに居場所を得るが、同時に薬物や犯罪の影がある生活へ近づいてしまう。
クロエとの関係が深まるほど、彼の判断も危うくなる。そして物語の冒頭にあった車の血痕や白い粉末へ、過去の出来事が徐々につながっていく。
この二本立てがとても面白い。現在では「この農場で何があったのか」を追い、過去では「ショーンは何をして逃げているのか」を追う。片方が進むたび、もう片方の見え方まで変わってくるため、謎が一つ解けても安心できない。
ショーンの人生には似た形が何度も現れる。クロエとの生活でも、農場でも、最初は救われたように感じる。孤独だった彼に誰かが手を差し伸べ、居場所を与える。ところが、その場所へ長くいるほど自由を失い、相手の問題まで背負わされてしまう。
だから『出口のない農場』は、ただ農場から脱出できるかを描いたサスペンスとは少し趣が異なる。ショーンはもともと逃げる途中にいた人物だ。
英国からフランスへ渡っても過去は消えず、人里離れた山中へ入っても別の問題が待っている。場所を変えるだけでは、自分が抱えているものから離れられない。その感覚が二つの時間を結びつけている。
終盤へ近づくほど、農場の過去とショーンの過去が同時に迫ってくる。どちらにも血があり、秘密があり、誰かを守ろうとした選択がある。
現在と過去を交互に見せてきた理由が次第にはっきりし、序盤では何気なく見えたものまで意味を持ち始めるのだ。
法医学を捨てたベケットが、人間だけで怖がらせる
サイモン・ベケットといえば、法人類学者デイヴィッド・ハンターシリーズで知られる作家だ。死体の腐敗、骨、虫、DNAなどを手掛かりに、科学から事件を読み解く世界を描いてきた。
ところが本作には、頼れる専門家がいない。ショーンは特別な技能を持たず、負傷しており、精神的にも揺れている。誰かが嘘をついていても見抜けるとは限らず、危険を察しても対抗できるとは限らない。
この無力さがサスペンスと相性抜群なのだ。ハンターシリーズなら死体が情報を与えてくれるが、『出口のない農場』で手掛かりになるのは、人間の視線、沈黙、怒り、言いよどみだ。分析すれば答えが出る世界から離れたぶん、相手を信じるかどうかが生死へ直結する。
邦題の『出口のない農場』も、この作品の読み味をよく捉えている。門を出れば終わり、とは簡単にいかない。ショーンには警察があり、農場にはアルノーがいて、その内側には一家の過去まで眠っている。物理的な出口と、人生から抜け出す出口が別々に存在しているからだ。
鉄の罠から始まった物語なのに、やがて怖くなるのは鋼鉄の歯ではなく、人間が自分の過去を抱えたまま作ってしまう檻のほうだ。
荒れた畑の向こうでは石像が黙って立ち、豚は土を掘り返し、納屋の屋根裏にはまだ歩けないショーンが横たわっている。
外へ出る道は見えている。
それでも、その先へ踏み出せるかどうかだけは、最後まで別の話なのだ。


