内田百閒『ツィゴイネルワイゼン:百閒怪異作品集』- 日常の裂け目から、百閒の怪異が覗いている【読書日記】

サラサーテ本人の演奏を収めた古いSP盤。その途中に、演奏とは別の人の声が混じっている。
雑音なのか、肉声なのか、そもそも誰の声なのか。針が盤面をなぞるたび、生きている者と死んだ者の境目が少しずつ曖昧になっていく。
内田百閒『ツィゴイネルワイゼン: 百閒怪異作品集』は、そんな『サラサーテの盤』を入り口に、百閒文学の奥へずぶずぶ沈んでいく全23篇のアンソロジーである。
編者は、幻想文学と怪談の案内役として信頼の厚い東雅夫。平凡社ライブラリーの「文豪怪異小品集」第15弾として、2026年7月に刊行された。360ページ、定価2,090円。
岡山の造り酒屋に生まれ、東京帝国大学で独文学を学び、夏目漱石の門下へ。ドイツ語教師を務めながら、『冥途』『旅順入城式』『百鬼園随筆』『阿房列車』『ノラや』『東京焼盡』まで、妙な可笑しみと底知れない不安の間を歩き続けた人である。
ただ、数字や経歴を並べても、この本の妙な手触りは伝わりにくい。百閒の怖さは、幽霊が姿を見せて追いかけてくる類の恐怖とは少し違う。
いつもの部屋、夜道、土手、食卓、列車の窓。
見慣れた風景のはずなのに、どこか一箇所だけ世界の寸法が狂っているような感覚。
私はこの感じがたまらなく好きだ!
レコードの雑音から死者の気配が立ち上がる
第一部「映画『ツィゴイネルワイゼン』に捧ぐ」には、「サラサーテの盤」を中心に、「花火」「昇天」「笑顔」「山高帽子」「亀鳴くや」「葉蘭」「枇杷の葉」「菅田庵の狐」「松江阿房列車」などが並ぶ。
鈴木清順監督の映画『ツィゴイネルワイゼン』を知っている人なら、あの妖しい色彩や、筋道より感覚が先に迫ってくる演出の源が、百閒の文章にあったことを実感できるはずだ。
「サラサーテの盤」で怖いのは、何かがはっきり現れる場面より、何も確定しないまま気配だけが濃くなっていくところにある。友人・中砂、その没後に現れる後妻のおふさ、夜ごと遺品を求めて訪ねてくる足音。そこへ、サラサーテ本人の声が偶然入り込んだというレコードが重なる。
声は確かに録音されているのに、その意味がつかめない。分からないからこそ、耳が勝手に答えを探し始める。
百閒の文章では、音が異様な力を持つ。玄関の戸が開く気配、遠くの犬、植物の揺れる音、蓄音機の雑音。視界に何も映っていなくても、耳のほうが先に異界へ連れていかれる。
こんにゃくを千切る音や、冷やしうどんを啜る音、焼き海苔の匂いまで出てくるのだから面白い。生活の匂いが濃いほど、そのすぐ裏にある死の気配も生々しさを増す。
「花火」や「昇天」「山高帽子」も、見慣れた感覚がふっと別の方向へ滑っていく短篇だ。身体が上へ引かれるような感触、持ち主から離れて妙な存在感を帯びる帽子、暗闇の中で響く音。何が起こったのか説明しようとすると逃げていくのに、場面そのものは妙に鮮明。この矛盾が怖い。
さらに「松江阿房列車」が入っているのもいい。あてもなく汽車に乗る、百閒らしい可笑しな旅の随筆として読める一方、車窓の向こうや停車駅の隙間から、この世の外側がちらつく。
百閒にとって旅は観光よりも境界の移動だったのだろう。線路をたどるうち、現実のほうが異界へ寄っていく。
『冥途』の文章は、夢を見ている最中の手触りを逃さない
第二部「『冥途』再訪」には、「件」「短夜」「蜥蜴」「石畳」「白子」「波止場」「烏」「道連」が収められている。1922年刊行の第一創作集『冥途』から選ばれた、百閒幻想文学の核とも言える短篇群だ。
ここでまず挙げたいのは「件」である。牛の胴体に人の顔を持つ怪物として生まれた「私」。件は未来を予言し、その直後に死ぬと伝えられている。周囲には予言を待つ人間が集まり、柵の外からこちらを凝視する。ところが肝心の「私」には、何を言えばよいのか分からない。
この構図は、怖いのに妙に可笑しい。群衆は勝手に期待を膨らませ、何か重大なことを言うはずだと決めつける。その視線の中央で、語り手は死の刻限だけを意識しながら焦り続ける。生まれた瞬間から役割を押しつけられ、果たした途端に命が終わる。
寓話として読めば、社会や他者の欲望まで見えてくる。しかし、百閒は分かりやすい教訓へ着地させない。牛の身体を持つ「私」の困惑が、そのまま荒野に置き去りにされる。そこが強烈だ。
そして「冥途」。高い土手の下にある暗い一膳飯屋で、「私」は理由の分からない人恋しさを抱えている。隣の客たちの会話は耳に入るものの、意味はつかめない。声をかけようとしても言葉が届かず、人々は闇の中へ溶けるように去っていく。
筋を追えば、起きている出来事は少ない。けれど、こちらの胸には説明しにくい切なさが押し寄せる。あの飯屋は冥界なのか。隣の客たちは、どこか死者のようにも見える。「私」自身も、すでに生者の側を離れているのかもしれない。
百閒は答えを置かないまま、土手の下の薄暗さと、人に触れられない孤独だけを確かなものとして差し出す。
百閒の初期短篇がすごいのは、夢をあとから説明した文章ではなく、夢の中にいる最中の実感を保っている点だと思う。
夢は目覚めた途端、筋道を失う。しかし見ている最中は、どんな飛躍も疑わない。百閒の文章には、その疑う前の現実感が封じ込められている。
硬く端正な文体で書かれているから、異常な出来事まで事実のように見える。主観の尺度は狂っているのに、細部だけは異様に正確。そのずれが目眩を起こす。
カフカやボルヘス、カルヴィーノと並べて語りたくなる現代性もここにある。三島由紀夫らが驚いたのも当然だろう。
大正時代に書かれた文章なのに、古びるどころか、今の不条理文学より先鋭的に感じる瞬間さえある。
土手と夜道の向こうで、身体の輪郭まで崩れていく
第三部「土手のとおぼえ」には、「夜の杉」「葉が落ちる」「夜道」「土手」「片腕」「とおぼえ」が収録されている。ここまで来ると、怪異は外から訪れる存在というより、自分の感覚や身体の中から染み出してくる。
百閒にとって、土手や夜道は境界そのものだ。こちら側と向こう側を分けながら、いつ踏み越えたのか自分でも分からない場所。街灯の届かない道を歩いているうち、知っているはずの風景が別の形へ変わる。
自分の顔を自分で見られない不安。腕や身体の一部が、突然よそよそしく感じられる感覚。外界が崩れる前に、自分の輪郭が先に怪しくなるのだ。
百閒の怪談には、怨霊の由来や因果応報がほとんど用意されない。恨みがあるから現れた、約束を破ったから祟られた、といった理由が見つからないぶん、逃げ道も消える。世界には最初から説明できない裂け目があり、たまたまそこを覗いてしまった。そんな怖さである。
しかも語り手は大騒ぎをしない。妙なものを見ても、聞いたことのない音を耳にしても、その場の状況を淡々と受け入れてしまう。だからこちらも、異常だと叫ぶ機会を失う。気づけば百閒の論理に乗せられ、牛の顔で群衆を見返し、暗い飯屋で届かない声を出し、夜の土手を歩いている。
東雅夫の編み方も素晴らしい。映画へつながる「サラサーテの盤」から入り、『冥途』の深部を通り、最後は土手や夜道へ送り出される。年代順の名作選では味わえない、一冊全体の流れがある。
巻末の初出一覧と編者解説も充実していて、百閒を初めて読む入口としても、すでに知っている人が怪異作家としての顔を見直す機会としても頼もしい。
映画『ツィゴイネルワイゼン』から原作へ戻りたい人にも、百閒の怪談をまとめて浴びたい人にも、これ以上なく入りやすい選集だと思う。
本を閉じたあと、部屋は元の部屋に見える。窓も机も変わっていない。
それでも、どこかで古いレコードの針が盤面を擦り、聞き取れない声を拾っている気がする。
外へ出れば土手があり、その下には暗い一膳飯屋が口を開けている。
百閒の怪異は、派手にこちらを驚かせない。
気づかないふりをして通り過ぎようとした瞬間、遠くで犬が一声だけ鳴く。
その声がどちら側から聞こえたのか、もう確かめる術はない。


