市川憂人『呪詛遊戯』- 身体機能をシャッフルしたら、殺人事件はここまで面白くなる【読書日記】

目が見えない、耳が聞こえない、手足が動かない、言葉を発せない。
しかも、その欠損はひとりの身体へ固定されず、時間が来れば別の誰かへ移っていく。
市川憂人『呪詛遊戯』は、この恐ろしく厄介なルールを閉鎖空間へ持ち込み、そのまま連続殺人のロジックへ変換した特殊設定ミステリである。
舞台は、太陽神への信仰が社会秩序そのものを支配する照和百年の日本。神の怒りを買った者には《呪詛》が宿り、視覚や聴覚、発話、四肢の運動といった身体機能の一部が奪われると信じられている。
障害や疾患まで神罰の証として扱われるため、呪詛を持つ者は社会の周縁へ追いやられ、貧困と蔑視の中で生きるしかない。
オカルトめいた世界なのに、そこで起きる殺人を解くために必要なのは徹底した論理である。このギャップがまず面白い。
神の怒りが支配する社会を舞台にしながら、市川憂人がやっていることは、誰が何を見られ、何を聞けて、どこまで身体を動かせたのかを一つずつ検証する冷徹なまでの条件整理なのだ。
呪詛がシャッフルされるたび、推理の盤面まで変わる
主人公の壮耶は、貧民街で便利屋兼運び屋として暮らす青年だ。
周囲の多くが何らかの呪詛を抱える中、生まれながら身体機能を奪われていない珍しい存在で、幼少期には奇跡の御子様として崇められた過去さえ持つ。現在はその特別扱いから距離を置き、相棒のヒカルとともに日々の仕事をこなしている。
ある日、二人のもとへ高額報酬の運び仕事が舞い込み、人里離れた施設へ向かうことになる。そこには、太陽神の恩赦を待ちながら暮らす8人の滞在者が集められていた。
ところが翌朝、これまで呪詛と無縁だった壮耶が突然視力を失い、その閉ざされた場所で変死事件まで発生。そして、ここから『呪詛遊戯』の面白さが一気に跳ね上がる。
施設内では、視覚、聴覚、味覚、四肢の運動、発話などの欠損が一定の周期で別の人物へ移っていくので、さっきまで普通に歩けた人物が次の時間には身動きできず、今まで目が見えていた人物が突然何も見えなくなる。
つまり、犯人候補の条件そのものが、時間の経過とともに次々と書き換えられていくのだ。
普通の殺人事件なら、誰がどこにいたかを追うことで容疑者を絞れる場合が多い。しかし本作では、それだけでは足りない。
犯行時刻に現場へ行けたのか、凶器を握れたのか、相手の姿を確認できたのか、必要な物音を聞き取れたのかまで考えなければならず、その答えは呪詛の移動ひとつで簡単にひっくり返る。
ここが本当に楽しいポイントだ。ある人物が有力な犯人候補に見えた直後、当時は手足を動かせなかったと判明すれば一気に候補から外れ、別の人物が浮上する。次のシャッフルが起きれば、また条件が変わる。
人物が移動するのではなく、人物に付随する「できること/できないこと」が動くため、事件を追う感覚そのものが、盤面の状態を更新し続けるパズルゲームへ近づいていく感じなのだ。
犯行に必要な身体機能を割り出し、その時間帯に各人物が抱えていた呪詛と照合して、不可能な者を消していく。この消去法が決まり始めると本当に気持ちいい。
呪いと神罰に覆われた世界が、少しずつ数理パズルのような顔を見せ始める瞬間こそ、本作最大の快感だと思う。
見えない主人公だから、情報そのものまで信用できない
さらにややこしいのが、壮耶自身が序盤で視覚を奪われる点である。
一人称の主人公は通常、現場の状況をこちらへ届けるカメラの役割も担うが、本作ではそのカメラが早い段階で機能を失う。壮耶は物音を聞き、手で触れ、他人から説明を受けながら、自分の周囲で何が起きているのかを頭の中で組み立てていくしかないのだ。
当然ながら、誰かが語った内容と実際の光景が一致している保証はない。施設内の人物たちも別々の身体機能を奪われているため、証言内容を検討する前に、そもそもその人物が当時それを見たり聞いたりできたのかを確かめる必要がある。このひと手間が入るだけで、何気ない会話まで一気に信用しづらくなる。
目撃証言があっても、その人物の視覚は正常だったのか。物音を聞いたと話していても、その時間帯に聴覚が残っていたのか。誰かへ警告したと主張しても、発話能力を失っていた可能性がある。
普通なら捜査の材料になるはずの情報が、呪詛の状態次第で簡単に無効化されるため、証言一つを受け入れるにも細かな検算が必要になるのだ。
しかも中盤以降、呪詛は単純な一対一の交換だけでは済まなくなっていく。複数の欠損が同じ人物へ重なる場合や、変則的な効果を持つ呪詛、特殊なアイテムまで絡み始め、盤面はさらに複雑さを増す。設定を完全に把握しながら読むには相応の集中力を求められるが、この過密さまで含めて《遊戯》の名がよく似合っている。
さて、ここで西澤保彦の傑作『人格転移の殺人』を連想する人もいるだろう。あちらが誰の意識がどの身体へ入ったのかを追う精神のパズルなら、『呪詛遊戯』で動くのは身体能力の欠損である。
本人の人格も肉体も変わらないのに、その瞬間に使える機能だけが変化するため、同じ人物が時間帯ごとにまったく違う容疑者像を見せる。この発想を犯行可能性の判定へ直結させたところが、市川憂人らしいと思う。
『ジェリーフィッシュは凍らない』以来、現実には存在しない技術や現象へ明確なルールを与え、その条件を使って古典的な謎解きを成立させてきた作家だが、本作ではついに人間の身体そのものが推理の変数になった。
SF的なガジェットを外側へ置く代わりに、見る、聞く、歩く、掴む、話すといった最も基本的な能力をパズルの駒へしてしまったのである。
神罰を信じる社会で、論理だけが足場になる
『呪詛遊戯』には、特殊設定の面白さと並んでもう一つ強烈なものがある。照和百年という社会そのものの気味悪さだ。
この世界では、身体に欠損があるだけで神の怒りを受けた人間と判断される。本人が何をしたか、どう生きてきたかは二の次となり、目が見えない、耳が聞こえない、身体が自由に動かない、その事実だけで罪深い側へ分類されてしまう。信仰が人を救うためのものから、差別を正当化する制度へ変質しているのである。
ここには現実社会の自己責任論や優生思想と重なる嫌な感触がある。困窮しているのは本人に問題があるから、病気になるのは生き方が悪かったから、社会から外れた者にはそうなるだけの理由があるはずだ。
そんな発想を太陽神信仰の国家へ極端な形で押し広げることで、人間が他者の苦境へ理由を与えたがる残酷さが露出してくる。
だからこそ、壮耶が《呪詛なし》として育った事実にも大きな意味が生まれるのだ。彼は差別される側の人々と同じ場所で暮らしながら、自分自身は身体機能を奪われていなかった。
その立場が施設で突然崩れ、視力を失った瞬間、これまで周囲で見ていた社会の理不尽さを、自分の身体で経験する側へ回る。こうした世界観が事件の背景だけに置かれず、謎解きそのものと噛み合っているのがいい。
呪詛は社会的な差別を生み出す印であり、同時に犯人を絞り込むための条件でもある。設定とテーマと推理が別々に走らず、「身体機能を奪われる」という一点からすべてが枝分かれしている。
この272ページの中には、閉鎖施設での連続殺人、壮耶とヒカルの関係、神権社会の成り立ち、複数の呪詛、時間ごとに変化する行動可能性まで詰め込まれている。
情報量は多く、軽く流して読めるタイプではないが、ルールを理解するほど推理できる範囲が広がっていく感覚には、市川憂人作品ならではの興奮がある。
題名の『呪詛遊戯』も、読み進めるほどしっくりくる。
呪詛は人間を苦しめる神罰でありながら、事件の中では犯行可能性を左右する駒となり、その配置が変わるたびに推理まで組み直される。
誰の目が見え、誰の手が動き、誰の声が出たのか。
照和百年の閉鎖施設で最後まで頼りになるのは、その冷たい事実の積み重ねなのである。
市川憂人の他のおすすめ作品
『ジェリーフィッシュは凍らない』
雪山に墜落した小型飛行船から、乗員6人全員の他殺死体が発見されるところから始まる不可能犯罪もの。
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『そして誰もいなくなった』を思わせる閉鎖空間の連続殺人と、SF的な飛行船技術を生かした論理的な謎解きが魅力のマリア&漣〉シリーズ一作目。
悠木四季この『ジェリーフィッシュは凍らない』から始まる〈マリア&漣〉シリーズは超おすすめだ。
『神とさざなみの密室』
対立する立場に身を置く若い男女が、顔を焼かれた死体とともに別々の密室へ監禁されるところから始まるサスペンス。
互いに反発しながらも、生き延びるために手がかりを共有し、正体不明の人物「ちりめん」とともに事件の真相を探っていく。
物理的な密室だけでなく、現代社会の分断や思い込みまで事件の仕掛けへ組み込んだ一作。


