櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』- 帰ってきた故郷には口にしてはいけない音があった【読書日記】

言ってはいけない言葉がある。
ただし、それは死や病気を連想させる不吉な単語でも、誰かを傷つける悪口でもなく、理由さえ分からないまま町の人間が避け続けてきた特定の「音」だ。
意味など関係なく、決められた音の並びを口から発しただけで何かが起こる。
櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』は、そんな理不尽極まりない禁忌を日常会話の中へ埋め込んだ因習ホラーである。
本作の舞台は、D県十櫃町。主人公の高嶋那月は夫の転勤をきっかけに、8歳の娘・沙希を連れて14年ぶりに故郷へ戻ってくるが、そこは彼女にとって懐かしい場所より、逃げ出した過去を閉じ込めた土地に近かった。
18年前に同級生の少女が不可解な死を遂げ、その後、中学校や町内で連続自殺が発生した記憶まで、土地の奥底に沈んでいる。
しかも現在の娘の名前は、高嶋沙希。
その音をつなげれば、十櫃町で最も口にしてはいけない忌み語「タカシマサキ」と完全に一致してしまう。
意味ではなく「音」が呪われている
本作でまず怖いのは、忌み語のルールが理解不能なところだ。
冠婚葬祭で「切れる」「別れる」を避けるような忌み言葉なら、なぜ口にしないのかという理由は想像できる。しかし十櫃町の禁忌にはそうした納得可能な因果がほとんど存在せず、「タガイチガイ」「アカンボ」「トリカエゴ」「くっつく」といった特定の響きだけが危険物として扱われてきた。
町の怪異は、人間の言葉の意味を理解して襲ってくる存在とも違うらしい。重要なのは発声されたときの音そのものであり、会話の流れや本人の意図とは無関係に、偶然その響きが成立しただけでも何かがこちらへ近づいてくる可能性がある。
この設定のおかげで、普段なら意識もしない会話や歌、読み上げられる文章まで、一つずつ危険なものへ変貌していくのが恐ろしい。
帰郷した沙希が食品パッケージの原材料名を、感情の抜け落ちた声で延々と読み上げ始める場面など、その発想がすごく嫌だ。みずあめ、さとう、ぶどうとう──日常のど真ん中にある無害な言葉の羅列なのに、次の音が何へつながるのか分からないため、単なる読み上げが呪文の詠唱に近いものへ変わってしまう。
そして那月の耳には、かつて同級生の葬儀で聞いた「ひーい」という奇妙な声まで蘇ってくる。
何の声なのか、誰が発しているのか、それすら掴めないまま、耳だけが先に危険を察知してしまう感覚が、本作のタイトルである『無音』にも不穏な厚みを与えている。
怪異より先に、人間関係が逃げ道を塞いでくる
櫛木理宇のホラーを読んでいると、幽霊や呪いより、人間の側が先に逃げ道を塞いでくることがある。
本作の那月もまさにそうだ。妊娠中という身体的な不安を抱えながら、夫は仕事で帰宅が遅く、実母との関係には幼いころから積み重なった傷があり、元夫の影まで現在へ食い込んでくる。なので、怪異から距離を取ろうにも生活そのものから逃げ出せない。
とりわけ生々しいのが、那月と娘・沙希の関係だ。那月は母から十分な愛情を受けられずに育ち、現在の夫・健介が血のつながらない沙希へ惜しみなく愛情を注ぐ姿を見ながら、自分が子どものころ欲しかったものを娘が当然のように手にしている現実と向き合わされる。
娘を大切にしたい気持ちの横から嫉妬や苛立ちが顔を出し、そんな感情を抱く自分自身への嫌悪まで重なり、母親という役割が那月の首を少しずつ締めていく。
そこへ沙希の不可解な言動が重なれば、母娘の間に生まれた距離が怪異によるものなのか、那月自身の心理が作り出したものなのかさえ判然としなくなるのも当然だ。
妊娠による重い悪阻、耳鳴り、身体の変調まで絡み、自分の感覚を信じたいのに、自分自身がいちばん信用できないという状態へ追い込まれていくのだ。
夫の健介が悪人として描かれていないところも厄介である。彼は沙希を大切にする良き父親で、迷信を信じない合理的な人物だからこそ、那月の訴えを真剣に受け取れず、結果として彼女を孤立させてしまう。
理解してくれない相手が露骨な加害者なら怒ることもできるが、善意の人から「考えすぎ」と扱われる苦しさは、超自然的な恐怖より生活に近い。
『有音』で町を知り、『無音』で家族の内側へ閉じ込められる
本作は大きく二つに分かれ、第一部『有音』では十櫃町に刻まれてきた怪異や事件が複数の角度から積み上げられていく。
中学校で起きた連続自殺、顔の半分だけを覗かせる教育実習生、町に点在する不穏な場所、オカルト雑誌の記事などが断片的に示され、ひとつの原因へ整理できないまま町全体の気味悪さだけが濃くなっていく。
この作りが因習ホラーとして強い。過去に何があったのかを調べれば、すべての怪異を説明できる一個の悲劇へ辿り着くという安心できる約束を、櫛木理宇は最初から用意してくれない。
古い鉄道工事の犠牲、耳塚や鼻塚、土地に積もった悪意らしきものが断片として見えても、それらを一本の線へまとめる決定的な答えが見つからないため、町そのものが巨大な原因不明の病巣のように感じられてくる。
そこから第二部『無音』へ入ると、視界はぐっと狭まり、那月一家の日常へ閉じ込められる。すでに町の過去をある程度知ってしまった状態で、沙希の言葉や家の中の物音を受け止めることになるので、何気ない場面ほど神経を削られるのだ。前半で撒かれた怪談の断片が現実へ染み出してくる感触も強烈である。
櫛木作品らしい生活描写も、この恐怖を支えている。料理を作り、子どもの世話をし、夫の帰宅を待ち、体調の悪さに耐えるという普通の暮らしが細かく描かれるからこそ、そこへ「ひーい」という声や奇妙な音読が入り込んだ瞬間、日常と怪異の境目が一気に薄くなるのだ。
口を閉ざしてきた町で、自分の声を取り戻せるのか
忌み語という設定を追っていくと、本作がずっと「言葉を封じること」を扱っているのが見えてくる。
十櫃町の人々は理由を知らないまま言葉を避け、昔からそうだからというだけで禁忌を次の世代へ渡してきた一方、那月自身もまた、母親、元夫、周囲の価値観によって、自分の感覚や怒りを口にすることを長く抑え込まれてきた女性だ。
だから町の掟と那月の人生が重なる。言ってはいけない、逆らってはいけない、自分の感じ方を信用してはいけないという圧力が、土地の因習と家庭内の抑圧を同じ方向へ押し流し、忌み語は単なるホラー設定を越えて、那月が背負ってきた沈黙そのものに見えてくる。
怪異へ対抗する人物として蟻田という霊能者的存在も登場するが、彼女が何でも解決してくれる万能の切り札にならないところも櫛木理宇らしい。
土地に染みついたものは簡単に祓えず、人間ができるのは限られた手段で身を守りながら、自分で選択することだけという厳しさが最後まで貫かれる。
『無音 忌み語を紡ぐ町』は、音を怖がらせるホラーでありながら、最後には声を持つことの物語へ踏み込んでいく作品だ。
十櫃町には、口にしてはいけない言葉がある。そして物語が進むほど、その禁忌は町だけのものではなく、那月が長いあいだ飲み込んできた言葉とも重なっていく。
『無音』が描くのは、恐怖によって閉ざされた声と、それを取り戻そうとする人たちのぎりぎりの抵抗の記録だ。
誰かが口にしたひとつの音が、別の誰かの記憶や恐怖を呼び起こし、やがて町全体を覆っていく。
『無音』という題名とは裏腹に、この物語には最後まで、消えてくれない声の気配がまとわりついている。
櫛木理宇のおすすめホラー3選
1.『鬼門の村』
閉鎖的な村を舞台に、土地に根づいた因習や不穏な言い伝えと、人間同士の疑念や悪意が絡み合っていく村落ホラー。
怪談や民俗ホラーを思わせる空気をまといながら、次第に村そのものの異様さが浮かび上がっていく、櫛木理宇らしい陰惨な一篇。
今のところ、櫛木理宇ホラーで一番好きな作品。
2.『死刑にいたる病』
獄中の超スマートな連続殺人鬼に脳内を支配されるサイコサスペンス。
「殺人は犯したが、最後の1件だけは冤罪だから調べてくれ」と頼まれた大学生が、アクリル板越しに殺人鬼の歪んだ魅力とマインドコントロールに絡め取られていく話。心理戦のヒリヒリ感が際立つ。
3.『殺人依存症』
人を操って凶行に走らせる最恐の洗脳女を追う、泥臭く重厚な警察小説。
幼い息子を理不尽に殺された傷を抱える刑事が、少年少女の連続殺人事件を追う。
背後に潜む、男たちを傀儡のように操って犯罪を重ねさせる謎の女の不気味さと、リアルな人間の闇が突き刺さる。


