ケイト・モートン『時計職人の娘』- 一軒の古い屋敷が150年分の記憶を抱えていた【読書日記】

古い家には、そこで暮らした人の時間が染み込む。
笑い声、喪失、秘密、誰にも語られなかった恋。住人が去って何十年、百年以上が過ぎても、床板や窓辺や屋根裏には、まだ何かが残っている。
ケイト・モートン『時計職人の娘』は、そんな感覚を684ページかけて小説にしたような作品だ。
物語の中心に立つのは、テムズ川上流の屈曲部に建つバーチウッド領主館。
1862年、若き画家エドワード・ラドクリフと仲間たちが夏を過ごすため集まったこの館で、ひとりの女性が射殺され、家宝のブルー・ダイヤモンドが消え、エドワードのミューズだったリリー・ミリントンも姿を消す。
世間はリリーを犯人とみなし、彼女は盗人と殺人者の汚名を背負ったまま歴史から消えてしまった。
それから150年以上を経た2017年。ロンドンで公文書を扱うエロディ・ウィンスロウは、職場の地下に眠っていた古い革鞄から、一枚の女性写真とスケッチブックを見つける。
そこに描かれていたのは、幼いころ亡き母から何度も聞かされた「おとぎ話の家」と同じ姿をした屋敷だった。
母はなぜこの場所を知っていたのか。写真の女性は誰なのか。エロディの調査は、忘れられていたバーチウッド領主館の時間を少しずつ起こしていく。
2018年に原書が刊行され、日本では務台夏子訳により2026年8月、東京創元社から上下巻で登場した。上巻350ページ、下巻334ページ。
モートンが得意としてきた古い屋敷、過去の秘密、現在からの調査を土台にしながら、本作では1862年だけでなく1899年、1928年、1940年、2017年まで時代が広がる。
ひとつの事件を追うだけの物語と思って入ると、その奥行きに驚かされる。
1862年の一発の銃声が、150年先まで響いていく
物語の原点は、1862年の夏。新進画家エドワード・ラドクリフは、仲間たちと芸術に没頭する理想の季節を過ごすためバーチウッド領主館へ向かう。
彼のそばには妹ルーシー、裕福な婚約者ファニー、そしてモデルのリリー・ミリントン。だが、眩しいはずだった夏は一発の銃声で終わる。ファニーが死亡し、ブルー・ダイヤモンドが消え、リリーまで行方をくらませた。
この事件だけでも長編一本が成立しそうなのに、モートンはそこで止まらない。1899年には館が女子寄宿学校となり、インドから送られてきた少女エイダが暮らす。
1928年には第一次世界大戦の傷を抱えた歴史家レオナルドが訪れ、エドワードの過去を調べ始める。1940年にはロンドン大空襲から逃れたジュリエットと子どもたちが身を寄せ、2017年にはエロディがその痕跡へ手を伸ばす。
時代が変わるたび、最初は別の物語へ移ったようにも感じる。けれど読み進めるほど、人物が残した小物、手記、絵、記憶、家族の話が別の年代へ渡されていたことが分かってくる。
一見すると無関係に見えた人生が、バーチウッド領主館を通して同じ場所へ集まり始める。その感覚がとてもいい。
とりわけ好きなのが、この館が単なる事件現場として置かれていない点だ。ある時代には芸術家の避暑地となり、別の時代には学校や疎開先へ姿を変える。そこへやって来るのは、母を失った者、兄を失った者、故郷から切り離された者、戦争に傷ついた者ばかり。
館は彼らの痛みを解決してはくれない。それでも、外の世界で居場所を失った人間を一度受け止める場所にはなっている。
この物語をずっと見ているのは、歴史から消された少女である
『時計職人の娘』を特別な作品にしているのが、バーディ・ベルの存在だ。
彼女こそ、エドワードからリリー・ミリントンの名を与えられた少女であり、歴史の記録には盗人として残された時計職人の娘である。そして物語の冒頭から館の内部を見つめ続けている声の主でもある。
1862年の夏に命を失ったあとも、バーディはバーチウッド領主館にとどまり、そこを訪れる人々を百年以上にわたって見守ってきた。
幽霊が語り手なのに、恐怖を煽る方向へは進まない。バーディは壁や階段や屋根裏を漂い、季節の移り変わりを眺め、新しい住人が来ればその生活を見守る。自分の名前も人生も誤って記録されたままなのに、彼女の視線には怒り一色では割り切れない温かさがある。
ここがすごく好きだ。歴史の本には数行しか残らなかった人物にも、本当は長い人生があり、愛した人がいて、誰にも知られなかった選択があった。
記録だけを見れば逃亡したモデルで終わる女性へ声を返し、その本人に150年分の人間たちを見届けさせる。過去を調べる物語と幽霊譚が、ここでひとつにつながる。
エロディがアーキヴィストなのも重要だ。彼女の仕事は、放置された記録を拾い、分類し、正しい場所へ戻すこと。母の過去を辿る行為も、その仕事の延長にある。
誰かが残した写真やスケッチや手紙を読み直すことで、誤って伝えられた人生を少しずつ本来の姿へ戻していく。事件の真相を追う楽しさと、忘れられた人の存在を救い上げる物語が重なっているのだ。
すべての時間が、最後に同じ時を刻み始める
本作には、とにかく多くの人物と時代が登場する。序盤では名前を覚えるだけでも少し忙しいし、1862年の事件を早く知りたいのに、突然1899年や1928年へ連れていかれて戸惑う瞬間もある。
それでも、この遠回りがあってこその『時計職人の娘』だと思う。
各時代で積み重ねられた人生は、事件を解くためだけの部品ではない。エイダの孤独、レオナルドの戦争体験、ジュリエットが守ろうとした子どもたち、エロディが抱える母への思い。
それぞれが独立した重さを持ち、そのうえで同じ館の記憶へ接続していく。だから後半で過去の断片が重なり始めたとき、謎が解ける快感に加え、人々の時間そのものが戻ってきたような喜びまで生まれる。
タイトルにある時計も、この物語にぴったりだ。時計の中では、小さな歯車が離れた場所にありながら互いの動きを伝え、最後にはひとつの時を刻む。
本作の年代も同じで、1862年だけを見ていても全体像には届かない。1899年も1928年も1940年も2017年も必要であり、そのすべてが動いた先に、長く伏せられていたバーディの人生が浮かび上がる。
さらに素晴らしいのが、バーチウッド領主館そのものに時間が積み重なっていく感触だ。人は生まれ、誰かを愛し、傷つき、やがて去る。それでも館は残り、次の人間を迎える。
昔の住人が触れた手すりを別の時代の子どもが握り、誰かが見上げた窓からまた別の誰かが川を見る。その反復が、150年をひと続きの時間へ変えていく。
1862年の夏に世間から罪人とされた時計職人の娘。2017年、古い鞄を開いたひとりの女性。
二人のあいだには百五十年以上の距離がある。それでも写真一枚、スケッチ一冊、母から聞いた昔話、そして一軒の古い屋敷が、その隔たりを越えて人の記憶を運んでいく。
バーチウッド領主館に刻まれた無数の時間が最後に同じ時を告げる瞬間こそ、『時計職人の娘』で味わえる大きな喜びである。
ケイト・モートンおすすめ2選
『湖畔荘』
1933年、イギリス・コーンウォールの湖畔に建つ屋敷で、名家エダヴェイン家の幼い息子が突然姿を消す。
事件は解決しないまま一家は屋敷を離れ、それから70年後。休職中の刑事セイディが廃墟となった屋敷を偶然見つけ、かつて起きた失踪事件を調べ始める。
古い屋敷、消えた子ども、家族の秘密といった要素がたっぷり詰まり、終盤まで何度も事件の見え方が変わっていく。
過去と現在を行き来しながら、家族それぞれが抱えてきた秘密や後悔が少しずつ明らかになっていく長編ミステリ。
『秘密』
1961年、16歳の少女ローレルは、自宅の庭で母ドロシーが見知らぬ男を刺し殺す場面を目撃する。
事件は正当防衛として処理されたものの、男と母が顔見知りだったらしい事実だけが、長くローレルの心に残り続けた。
50年後、老いた母の死を前に、彼女はあの日の真相を調べ始める。物語は現在と第二次世界大戦中のロンドンを行き来しながら、母が隠してきた過去へ少しずつ近づいていく。
家族の秘密、戦時下の恋愛、人生をやり直したいと願う人々の選択が重なり、最後まで母ドロシーの姿が何度も違って見える心理ミステリ。


