6月8日、ネットの大型掲示板“ちゃんねるQ”に、犯行予告が書き込まれた。
「今、渋谷。これから人を殺します」
予告通り、数分後に渋谷のスクランブル交差点で事件が起こる。
一台のトラックが人々の群れに突っ込み、次々にはね飛ばしたのだ。
トラックは逃げ惑う人々を追いかけて轢き、そこかしこに人が倒れ、辺りは騒然。
やがてトラックから一人の男が降りてきて、まだ息のある人を探してはナイフで刺し殺していった。
死者、合計11名。
後に「渋谷無差別殺傷事件」と呼ばれ、世の中を震撼させる惨劇だった。
だが事件はこれだけでは終わらなかった。
ひとしきり殺害した後、犯人は7名の人質を取って喫茶店に立てこもった。
極度の興奮状態にある犯人に、警視庁捜査本部の渡瀬は人質を解放するよう交渉する。
渡瀬は果たして犯人の凶行を止めることができるのか、人質を無事に逃がすことができるのか。
全ては交渉にかかっていた―。
実際の事件をモチーフとした小説
『誰でもよかった』は、人質を取って籠城する無差別殺人犯と、捜査本部の刑事・渡瀬との交渉を描いた物語です。
舞台は渋谷ですが、実はこの物語、2008年に実際に起こった「秋葉原無差別殺傷事件」がモチーフとなっています。
秋葉原の交差点にトラックが突入し、17名が死傷したという痛ましい事件で、犯人の「誰でもいいから殺したかった」という心理が世間の注目を集めました。
本書『誰でもよかった』でも、タイトルからもわかる通り、犯人・高橋は同じ主張をしています。
といっても事実をそのままに描いてあるわけではなく、場所や人名などは変えてありますし、高橋が無差別殺傷後に喫茶店に立てこもったりと、事件の内容や流れも異なっています。
そして物語の焦点となるのは、あくまで渡瀬の「交渉」です。
7人もの人質をいかに安全に解放させるか、そのためにはどうやって荒ぶる高橋の心を鎮めるか。
この二点が鍵となっているので、物語の大半は交渉シーンであり、ここが本書の見どころです。
「逃げるために車を用意しろ!」と要求する高橋に対して、「人質全員の解放が先だ!」と突き返す渡瀬。
この攻防がアツく、読みながらハラハラドキドキが止まりません。
高橋を下手に刺激すると人質の命が途端に危うくなりますから、とにかく緊迫感がすごい!
まるで現場の中継をリアルタイムで見ているかのような臨場感があります。
地道な交渉を覆すパプニング
一番の見どころは、渡瀬の粘り強い交渉によって、高橋の心が少しずつほぐれていくところでしょうか。
交渉は最初のうちこそ険悪で、高橋はとにかく逃げることを希望しているので、意地でも人質を放さず、車を要求するばかりです。
でも渡瀬は、高橋がどこまでなら条件を飲んでくれるのかギリギリのラインを突きつつ、高橋の心に寄り添う努力も続けます。
これにより高橋は徐々に渡瀬に心を開いていき、なぜ自分がこのような事件を起こしたのか、どのような思いを抱えていたのか、少しずつポツリポツリと語ってくれるようになるのです。
その過程は、緊迫感の中にも感動や感傷があって、読者はますます物語に引き込まれます。
しかも途中でハプニングがたびたび起こるのが、またニクいのです。
たとえば、捜査一課の横川が高橋の家族に説得を任せようとしたところ、高橋の逆鱗に触れて場が騒然とするシーンがあります。
交渉が上手くいったかと思いきや、こういうハプニングが起こるので、全く気が抜けません。
それでも渡瀬は負けじと交渉を続け、ちょっとずつ、本当にちょっとずつですが、高橋の信頼を得ていきます。
その結果、人質は、ひとり、またひとりと解放されていきます。
このまま事件解決の流れに進むかな、と読者が安堵した時、やはりと言いましょうか、またもハプニングが起こります。
しかも、読者を含め現場の全員がギョッとするほどの、血生臭い出来事が……。
そしてその直後、読者は思い知ることになります。
本書のタイトル『誰でもよかった』が持っていた、真の意味を。
これこそが本書最大のテーマですので、どうかこの決定的なシーン、ぜひご自身で見てみてください!
今の時代だからこそ読んでほしい一冊
『誰でもよかった』の作者・五十嵐貴久さんは、「交渉人シリーズ」で知られる作家さんです。
「交渉人シリーズ」といえば、犯人との交渉で事件を解決に導く大人気シリーズで、ドラマ化もされています。
本書『誰でもよかった』はシリーズ外の無印作品ではあるものの、やはり交渉がメインとなっており、似た面白味を味わえるようになっているのが特徴ですね。
もちろん登場人物は異なっているので、違った関係性や展開を楽しめます。
「交渉人シリーズ」がお好きな方には、特におすすめできる作品です。
また『誰でもよかった』は、実は発行が2011年と、決して新しくはない作品です。
「秋葉原無差別殺傷事件」が2008年に起こった事件であり、当時は世間でこの話題がもちきりだったため、それを意識して刊行されたのだと思います。
現在は事件から15年くらい経過していますが、それでも個人的には、今の時代だからこそ多くの方にこの作品を読んでほしいと思います。
というのも、「秋葉原無差別殺傷事件」も本書の「渋谷無差別殺傷事件」も、社会にうまく馴染めず孤立した人によって起こされた事件だからです。
おそらく今現在は、不景気やコロナ禍により、孤立に苦しむ人は一層増えているのではないでしょうか。
だからこそ『誰でもよかった』は、現代人の心により強く響き、沁み入る物語だと思うのです。
そして読むことが、事件の風化と再発を防ぐことに繋がるかもしれません。
読む意義のある本です。よろしければ、ぜひご一読を。