トマス・リゴッティ『悪夢工場』- 世界そのものが悪夢として立ち上がる、文学的ホラーの黒い到達点

ホラー小説には、読んだあと電気を消すのが嫌になるタイプの作品がある。
背後が気になる。カーテンの隙間が気になる。廊下の暗がりが、やけに意味ありげに見えてくる。
まあ、それはそれで困るのだが、まだ生活に戻れる恐怖ではある。
だがトマス・リゴッティ『悪夢工場』の怖さは、そういう分かりやすい方向にはあまり向かわない。
幽霊が出る、怪物が襲う、殺人鬼が迫る、という恐怖ではなく、そもそもこの世界そのものが、最初からかなりまずい設計なのではないか、という場所へ連れていかれるのだ。
いや、連れていかれるというより、気づいたら床が抜けているという感じだろうか。しかも下にあるのは地下室ではなく、存在そのものの黒い穴である。
リゴッティは、現代怪奇文学の中でもかなり特殊な作家だ。ポーやラヴクラフトの系譜に連なる作家として語られることが多いが、単に古典的怪奇を現代化した人ではない。
彼の場合、恐怖の中心にあるのは怪物ではなく、意識である。人間が自分の存在を認識してしまうこと。死を知ってしまうこと。意味などないかもしれない世界に、意味を捏造しながら生きていること。その全部が、リゴッティの手にかかると悪夢の材料になる。
『悪夢工場』というタイトルは、とても正確だと思う。ここには悪夢が並んでいるだけではない。悪夢が作られる仕組みそのものがある。しかもその工場は、労働者も責任者もいないまま稼働している。
無人なのに止まらない。何のために動いているのか分からないのに、妙に精密で、妙に律儀に、気持ちの悪いものを作り続けている。
ああ、これはもうリゴッティ文学そのものではないか。
意識というバグを抱えたまま、私たちは生きている
リゴッティを読むうえで避けて通れないのが、彼の徹底した悲観主義である。
彼のノンフィクション『人類に対する陰謀』では、人間の意識そのものが災厄として語られる。人間は考えすぎる動物であり、自分が死ぬことも、自分の人生に絶対的な意味がないかもしれないことも、うっかり知ってしまった。これがもう最悪の初期設定なのである。
普通の物語なら、そこから希望を探す。愛、友情、芸術、信仰、使命。そういうものを積み上げて、人間はまだやれる、世界も捨てたものではない、という方向へ進む。
だがリゴッティは、その積み上げた足場を一枚ずつ抜いていく。いや、そもそも足場だと思っていたものが、薄く塗装された紙だったのではないか、という感じで剥がしてくる。容赦がない。怪奇文学界の施工不良検査員である。
この悲観主義は、単なる暗い思想ではない。リゴッティの作品では、哲学が物語の背景にあるのではなく、物語そのものの血肉になっている。
ショーペンハウアー的な生の苦痛、ザプフェ的な意識の過剰、シオラン的な生まれてしまったことへの皮肉。それらが、説明ではなく、町や人形や祭りや本や工場の形をとって現れる。
だからリゴッティ作品の登場人物は、何かに襲われるというより、世界の正体を見てしまう。しかも、その正体がものすごく嫌なのだ。見ないふりをしていたほうがまだ生活できる。だが、いったん覗いてしまうと戻れない。
ミステリでいえば、真相を知った瞬間に事件だけでなく日常そのものが崩壊するタイプである。犯人を当ててスッキリ、とはならない。むしろ真相のほうが犯人より怖い。これはとても厄介で、でも魅力的だ。
収録作が全部、違う角度から現実の皮を剥いでくる
日本版『悪夢工場』に収録された作品群は、リゴッティの作風をかなり見渡しやすい構成になっている。どの作品も同じように暗い、で片づけるにはもったいない。それぞれが別の入口から、同じ黒い中枢へ向かっている。
『戯れ』は、比較的クラシックなホラーの顔をしている。精神科医が謎の囚人について語る、という導入はかなり入りやすい。だが、その囚人の語る世界が妙にこちら側へ漏れてくる。
家庭という安全な場所が、知らないうちに別の理屈に侵されていく。この侵食感がたまらない。リゴッティは初手から普通のホラーのふりをして、足元に穴を掘っている。
『アリスの最後の冒険』は、老いと創作と記憶の恐怖を扱う作品だ。ここで怖いのは、幽霊そのものというより、自分が築いてきた人生の物語が信頼できなくなる感覚である。人生を一本の筋道として信じていたのに、実はつぎはぎの舞台装置だったのではないか。老いの不安をここまで悪夢化するのか、と少し笑ってしまうくらい嫌な方向へ研ぎ澄まされている。
『ヴァステイリアン』は、禁断の書物と歪んだ都市をめぐる作品で、ラヴクラフト的な魅力が濃い。ただし、リゴッティの場合、異世界は冒険の場所ではない。現実よりも純度の高い非現実として現れる。
つまり、逃避先ではなく、逃げ場のなさの完成形なのだ。この逆転がすごい。普通なら幻想世界はロマンになる。リゴッティにかかると、ロマンはそのまま毒になる。
『道化師の最後の祭り』は、リゴッティの代表作として語られるのも納得の一編だ。祭り、道化、共同体、民俗学的な調査。材料だけ見ると、怪奇小説好きとしては大好物セットである。
だが、道化の笑顔が象徴するものが、人間の滑稽さや空洞性にまで広がっていくところがリゴッティらしい。ピエロが怖い、という単純な話ではない。笑顔の下に顔がないかもしれない。顔がないのに笑っているかもしれない。そこが怖い。
『ネセスキュリアル』や『魔力』では、恐怖はさらに抽象度を上げる。邪神、偶像、手記、奇怪な町、映画館、幻想。いかにも怪奇小説らしい道具立てが出てくるのに、最終的に見えてくるのは、世界全体にうっすら塗り込められた悪意である。
ここがリゴッティのいやらしいところだ。怪異が一カ所にいるのではない。世界の地肌そのものが怪しい。剥がせば下から黒いものが出てくる。
そして『赤塔』。これはもうタイトルからして勝ちである。荒れた平原に立つ無人の工場が、意味不明な品物を作り続ける。設定だけで白米が食べられるタイプの怪作だが、読んでいくと、その工場が生命や宇宙の比喩に見えてくる。
何の目的もなく、ただ生産し、ただ異物を吐き出し、ただ稼働し続ける。ここまで来ると、ホラーというより哲学的な工場見学である。しかも見学後にお土産として虚無を渡される。いらない。でも忘れられない。
リゴッティの怖さは、事件ではなくムードが支配するところにある
リゴッティの小説を読んでいて強く感じるのは、出来事そのものよりも、空気の密度が異様に高いということだ。
何が起きたかを説明しようとすると、意外と簡単にまとめられる作品もある。だが、読書体験はまったく簡単ではない。むしろ、筋だけ追っても肝心の恐怖には届かない。
彼の文体は、装飾的でありながら冷たい。美しいのに体温がない。優雅な文章で、とんでもなく救いのないことが語られる。この落差が妙な酩酊感を生んでいるのだ。毒入りの飴を、銀の皿に載せて出されている感じだ。見た目は綺麗なので、つい口に入れてしまう。そして後から効いてくる。まあ、効いてくると言うより、口に入れた時点でもう手遅れなのだが。
また、リゴッティの世界には、具体的な時代や場所がぼかされていることが多い。町はある。部屋もある。祭りも工場もある。だが、それらは現実の地図に置けそうで置けない。どこかにありそうなのに、どこにもない。この曖昧さが、夢の中の地理に近い。
人形やマネキンへの執着も重要だ。リゴッティにとって人間は、自分で動いているつもりの人形に近い。自由意志があると思い込んでいるだけで、実際には見えない糸に操られている。
これはなかなか嫌な思想だけれど、怪奇小説としてはめちゃくちゃ強力である。人形が怖いのは、人間に似ているからではない。人間のほうが人形に似ている可能性を突きつけてくるから怖いのだ。
『悪夢工場』は、万人向けのホラーではない。分かりやすいスリルや派手な展開を求めると、手強い相手になると思う。
だが、怪奇文学の奥の部屋を覗きたい人には、これ以上ないくらい危険で魅力的な作品集だ。ポーの心理的暗黒、ラヴクラフトの宇宙的恐怖を受け継ぎながら、リゴッティはさらに一歩進んで、存在そのものをホラー化してしまった。
読み終えるころには、世界が少し違って見える。いや、違って見えるというより、もともと見えていなかったひび割れが見えてしまう。日常という壁紙の裏に、黒い染みが広がっていることに気づいてしまう。
それでも私はこういう本に惹かれてしまう。恐怖を通じてしか見えないものがあるからだ。リゴッティの悪夢は親切ではない。励ましてもくれない。出口も用意してくれない。だが、その暗さは妙に誠実である。
世界を甘く見積もらず、人間を特別扱いせず、希望を安売りしない。その徹底ぶりに、私はむしろ奇妙な清々しさすら感じる。
『悪夢工場』は、悪夢を閉じ込めた短編集ではない。悪夢がどのように作られ、どのように私たちの現実へ染み出してくるのかを見せる、黒い設計図のような本である。
無人の赤い塔が、今日もどこかで、何の役にも立たない不気味なものを作り続けている。
そう考えると最悪なのに、怪奇文学好きとしては少しだけ胸が高鳴ってしまうのだ。


