木魚庵『金田一耕助語辞典』- 名探偵・金田一耕助は、なぜここまで日本人に愛されたのか【エッセイ】

金田一耕助ほど、姿を思い浮かべた瞬間に細部まで出てくる探偵も珍しい。
よれよれの着物、袴、もじゃもじゃの頭。考え始めると髪を掻き回し、フケを撒き散らし、ときには言葉までどもる。
シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロのような隙のない名探偵像とはずいぶん違うのに、いざ事件が始まれば恐ろしいほど鋭く、人間の感情が絡み合った惨劇を一本ずつ解きほぐしていく。
木魚庵『金田一耕助語辞典』は、そんな金田一耕助と横溝正史の世界を、五十音順の言葉から楽しむ一冊である。
2020年に誠文堂新光社から刊行され、文を担当したのは長年にわたり金田一耕助研究を続けてきた木魚庵、イラストはYOUCHAN。原作小説の人物や事件、小道具はもちろん、昭和の生活用品、映画やテレビドラマ、俳優、パロディ、海外翻訳版まで拾い上げている。
つまりこれは、金田一耕助の用語集を読むというより、金田一耕助を中心に広がった巨大な文化圏を覗く本に近い。
ページをめくっていると、横溝正史の小説を読んでいたはずが、いつの間にか角川映画や昭和の服飾、志村けんのコントへ飛んでいる。この節操のなさが最高に楽しいのだ。
「よれよれのセル」ひとつから、金田一耕助が見えてくる
この本で特に面白いのは、事件や犯人当てから離れた細部を本気で拾っているところだ。
たとえば金田一が身につける「セル」。現在では馴染みの薄い言葉だが、梳毛糸を使った薄手の毛織物で、本来は春や秋に着る衣服だったらしい。
それを金田一は季節に構わず着ている。単に「よれよれの着物姿」と書くだけなら一行で済むところを、服そのものの歴史まで辿ることで、身なりに頓着しない金田一の性格が急に具体的になる。
「二重かくし」や「夏ヘルメット」といった当時の服装も同じである。文章だけでは姿を掴みにくい物品をYOUCHANのイラストで見せてもらうと、横溝作品の舞台が一気に立体的になるのだ。
貯金封鎖、新円切替、復員兵、カストリ雑誌など、終戦前後を知るうえで欠かせない言葉も丁寧に解説されるので、事件の背後にあった昭和の空気まで見え始める。
横溝正史の作品をいま読むと、殺人の仕掛けより先に、これは何だろう?と引っかかる言葉が意外と多い。意味を知らなくても物語は追えるが、背景が分かると人物の貧富、職業、生活感、戦後社会の混乱がぐっと近くなる。本書はそこを埋める副読本としても素晴らしい。
しかも本書は、金田一本人の生年や経歴、交友関係、住居にまで視線を広げている。「金田一耕助住居図解」では生活拠点を視覚化し、等々力警部や磯川警部らとのつながりもひと目で把握できる仕立てだ。
事件を解く名探偵として眺めるだけで終わらず、普段はどこで暮らし、誰と付き合い、どんな日常を送っていたのかまで追いかける。
その細部への執着から伝わってくるのは、木魚庵が長年積み重ねてきた研究と、金田一耕助への深い愛情そのものである。
犬神家から志村けんまで、全部が金田一文化圏

『金田一耕助語辞典』画像 Amazonより引用
さらに本書では、原作に加えて映像作品の金田一耕助にも目を向けている。
市川崑監督と石坂浩二による映画シリーズ、古谷一行主演のテレビドラマはもちろん、池松壮亮、稲垣吾郎、加藤シゲアキ、上川隆也、長瀬智也、長谷川博己、山下智久、吉岡秀隆ら、さまざまな俳優が演じてきた金田一耕助まで扱われる。
同じ人物のはずなのに、演者や時代が変わるたび、飄々とした青年にも、陰を抱えた探偵にも、親しみやすい変人にも見えてくる。その変化を眺めるだけでも面白い。
映画ポスターや試写状、劇場ノベルティまで載っているのも嬉しい。『獄門島』公開時の「犯人を当てたら100万円」企画など、作品そのものから少し離れた宣伝の話まで拾うことで、1970年代の横溝ブームがどれほど大きな社会現象だったのかまで伝わってくる。
さらに面白い方向へ飛ぶと、志村けんまで出てくる。『8時だョ!全員集合』で金田一風の人物に扮した志村けんへ、客席から「志村〜、うしろ〜!」の声が飛ぶ。
『ガキの使い』の「絶対に笑ってはいけない名探偵24時」や、『金田一少年の事件簿』などの派生まで同じ視野へ入るので、金田一耕助が小説の中だけに存在するキャラクターから、日本人なら一度は見たことのある文化的アイコンへ変わっていった過程がよく分かる。
海外版の紹介も楽しい。欧米、中国、台湾、韓国、タイなどで出版された横溝作品は、国が変われば表紙の解釈も大きく変化する。
日本では白い着物ともじゃもじゃ頭が定番でも、海外の装丁では怪奇色や犯罪小説らしさが前面へ出る場合もあり、「金田一耕助は海外からどう見えるのか」をビジュアルで比較できる。
原作、映画、ドラマ、パロディ、海外版。一見ばらばらの素材を並べながら、最終的には全部がひとりの探偵へ戻ってくる。この広がりこそ、本書を単なるキャラクター事典で終わらせない部分だと思う。
ネタバレを避けながらここまで遊べるのがすごい

『金田一耕助語辞典』画像 Amazonより引用
金田一耕助シリーズのガイドを作るうえで頭を悩ませるのが、作品の魅力を語ろうとすると犯人や仕掛けへ触れやすいことである。
『金田一耕助語辞典』は、そこを徹底して避けている。事件の背景や人物、小道具、時代風俗は細かく紹介する一方、犯人や核心部分はしっかり伏せているのだ。そのため、まだ読んでいない作品の項目でも比較的安心して開ける。
この姿勢が最もよく表れているのが「戦慄!! 殺害カタログ」だ。
生首、見立て殺人、水車、屏風、俳句、手毬唄。横溝正史といえば思い浮かぶ猟奇的な死体や演出をずらりと分類しながら、誰が実行したのかには踏み込まない。殺人事件を解答として眺めるのではなく、「横溝正史は死体をどう演出したのか」という美術展のような見せ方になっている。
しかも文章は研究書のように堅苦しくない。犬神佐兵衛の遺言状を「『この遺言がヒドイ』オールタイム第一位」と評するような軽さがあり、陰惨な横溝世界へほどよくツッコミを入れてくれる。YOUCHANのイラストにもユーモアがあるため、血なまぐさい題材を扱っていてもページ全体は軽快だ。
巻末の「パタパタ着せかえ 金田一さん」まで含め、この本には研究対象を神棚へ上げない楽しさがある。金田一耕助の服装を着せ替えて遊びながら、一方では初出や映像化、昭和史まで細かく調べる。この真面目さと遊び心の同居が、本書の魅力だろう。
私自身、横溝正史を何冊も読んでいると、つい事件の仕掛けや犯人の意外性ばかり思い返してしまう。けれどこの『金田一耕助語辞典』を眺めると、よれよれのセル、もじゃもじゃ頭、古い屋敷、映画ポスター、テレビで定着した仕草まで含めて、金田一耕助シリーズが好きだったことに気づかされる。
気になる項目をひとつ開けば、昔読んだ『獄門島』や『犬神家の一族』を確認したくなり、知らない短編の題名を見つければ今度はそちらへ手が伸びる。
この本は、208ページを読み切って終えるための辞典というより、横溝正史の本棚を何度も開き直すための、もじゃもじゃ頭の案内役なのだ。
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