潮谷験『山上のフェイク』- 山頂のコテージ、刺殺体、消えた五人、そして一冊の手記【読書日記】

暴風雨の皐月山。
山頂近くに建てられたコテージ。
そこへ山岳救助隊がたどり着いてみると、主催者の沼田俊和が刺されて死んでいる。
ほかの参加者たちは全員消えていて、現場に残されていたのは、文芸研究会の元メンバーである射場由美子が書いた手記だけ。
しかも、その手記の中にある一文が、どう考えても目の前の状況と噛み合わない。
潮谷験『山上のフェイク』は、ここから手記を読み解く本格ミステリと、行方不明者を追う山岳救助が同時に走り出す。
個人的にも、こういう昔ながらのミステリの型を使いながら、中にまったく別のものを突っ込んでくる作品が好きなのだが、今回は嵐の山荘へやって来るのが名探偵ではなく救助隊というのがいい。
潮谷験といえば、『スイッチ 悪意の実験』でデビューしてから、『時空犯』『伯爵と三つの棺』『名探偵再び』など、ちょっと変わった設定を持ち込みつつ、その中でちゃんと犯人当てを成立させてきた作家である。
舞台やルールは変わっていても、最後にはロジックで犯人へ迫っていく。その芯がぶれない。
『山上のフェイク』もまさにそうで、山岳救助という題材が飾りとして置かれているのではなく、事件の解き方や物語の速度そのものに食い込んでいる。
嵐の山荘にやって来るのが救助隊というだけで、こんなに変わるのか
舞台となる皐月山は、沼田俊和が祖父から相続した山だ。
俊和はここで山地開発を進めようとベンチャー企業を立ち上げ、その第一歩として一般客向けの宿泊コテージを建設する。そこでプレオープンを兼ねて招待されたのが、大学時代の文芸研究会仲間たちだった。
ただ、この集まりには最初から少し嫌な空気がある。文芸研究会そのものはもう廃部になっているし、俊和の妹で同じサークルに所属していた沼田椎月は、卒業直後から行方が分からないまま。メンバー同士もそれ以来ほとんど顔を合わせていない。
そんな六人が、設備は整っているから軽装で大丈夫と言われて皐月山へ集まり、そこで猛烈な暴風雨に襲われる。下山ルートは使えなくなり、コテージは外界から切り離される。もう完全に嵐の山荘である。
ここまでは、本格ミステリ好きなら何度も見てきた形だと思う。
ところが本作では、外から山岳救助隊が入ってくる。
予定日を過ぎても参加者たちが帰宅しないため、家族から通報を受けた救助隊が皐月山へ向かう。彼らの仕事は、犯人を当てることでも、証拠を集めることでもない。とにかく生きている人間を探して、山から連れ帰ることだ。
これだけで、いつもの嵐の山荘の風景がガラリと変わる。暴風雨のなかでは低体温症の危険があり、ルートも崩れ、救助隊自身が遭難する可能性だってある。誰かが山の中で倒れているかもしれないと思えば、のんびり手記を読んでいる暇もない。
つまり本作では、推理がそのまま救助につながっていくのだ。
この手記は本当なのか。誰がどこへ向かったのか。いつコテージを出たのか。今ならどこにいる可能性が高いのか。
普通の本格ミステリなら、こうした情報は犯人を絞り込むために使われる。ところが『山上のフェイク』では、それが生存者の場所を特定するためにも必要になる。考えることと助けることが同じ方向へ進んでいくのである。
ここがすごく好きだ。山岳救助パートと犯人当てパートを別々に置くのではなく、ひとつの推理がそのまま次の救助行動を決めていく。そのせいで、ロジックを追っているのに妙に息苦しい。
古典的な嵐の山荘を外から壊してしまうのではなく、救助隊という存在を入れることで別の緊張感へ変えてしまう。まさに潮谷験らしいひねり方だと思う。
手記の一文を信用した瞬間、こちらの足元まで崩れていく
物語は、大きく三つの視点で進んでいく。
ひとつは射場由美子の手記。コテージに集まった元サークル仲間たちの関係や、沼田椎月の失踪、山上で起きた出来事が彼女の言葉で記録される。
もうひとつは、現在進行形で皐月山を捜索する山岳救助隊。そしてその合間に、正体の分からない罪人の独白が挟まる。この三つが交互に出てくるので、読んでいる側はずっと時間と場所を気にすることになる。
由美子の手記では何が起きたのか。救助隊が今見ている場所と、手記に書かれている場所はどうつながるのか。罪人の独白はいつの出来事なのか。
しかも現場には俊和の死体があり、ほかの参加者はいない。つまり救助隊は、起きてしまった事件を追うと同時に、まだ終わっていない何かも追っている。
ここで効いてくるのが、タイトルにもつながる手記のフェイクだ。
手記が出てくるミステリでは、書き手が何を隠しているのか、どこを誤魔化しているのか、と疑いながら読むことが多い。でも本作では、文章の意味だけ見ていても足りない。
位置関係、時間の流れ、誰が何を見たのか、誰が何を知っていたのか。そういう土台の部分まで少しずつ怪しくなっていく。そして、手記のある一文が現場と矛盾した瞬間、こちらが頭の中で組み立てていた皐月山の様子まで一気に怪しくなる。
ここからさらに楽しい。手記に仕込まれた嘘だけでなく、元サークル仲間たちの人間関係にも偽りがあり、数年前に失踪した椎月をめぐる感情にも、表向きとは別のものが見え始めるのだ。さらに、手記、救助隊、罪人の独白を交互に読んできたことで、時間の流れについても自然に思い込みを作られている。
第三章の死者の罠から第四章の二つの解答へ進んでいくあたりは、潮谷験のロジック好きが一気に前へ出てくるところで、ここから読むスピードが完全に上がった。
それまで山岳サスペンスとして追っていた出来事が、別の角度から次々につなぎ直されていく。あの場面はそういう意味だったのか、この人物の位置はそうなるのか、と頭の中で皐月山の地図を何度も描き替えさせられる。
潮谷験はアガサ・クリスティやジョン・ディクスン・カー、綾辻行人らの影響を公言している作家だが、その古典本格好きがこういうところに出ていると思う。派手な設定だけで驚かせず、最後はきっちり材料を拾ってロジックへ戻してくる。
しかも260ページほどなので、話がもたつかない。人物関係を見せ、救助隊を動かし、手記を読ませ、そこから新しい謎を出す。その繰り返しが速く、山の天候と同じように物語もどんどん荒れていく。
誰が嘘をついたかより、誰を山から連れ帰るか
皐月山で起きていることを追っていると、登場人物たちはずっと何かを間違えている。
昔の判断だったり、誰かへの感情だったり、隠し事だったり、その場での選択だったりする。その小さな失敗が別の失敗を呼び、やがて取り返しのつかないところまで転がっていく。
普通の犯人当てなら、その失敗を遡っていって、誰が嘘をついたのか、誰に責任があるのかを突き止めるものだ。
ところが本作には山岳救助隊がいる。作中に、山岳救助隊員は他者の失敗に寄り添う職務だ、という考えが出てくるわけだ。この言葉が、この小説全体をすごくよく表していると思った。
山で遭難する人の中には、準備不足だった人もいるし、判断を誤った人もいる。天候を甘く見た人だっているだろう。それでも救助隊は、なぜそんなことをしたんだと責めるために山へ向かうわけではない。
まず、生かす。その人がどんな失敗をしたのかより先に、今どこにいるのか、まだ助けられるのかを考える。この姿勢が、皐月山で起きた事件ときれいにつながってくるのだ。
元サークル仲間たちにはそれぞれ事情があり、友情も愛情も罪悪感も復讐心も混ざっている。沼田椎月の失踪をめぐる過去も簡単には整理できず、誰かの嘘を暴けば全部すっきりするような話でもない。
それでも救助隊にとって、目の前にいるのはまず遭難者である。誰が悪かったのかを決める前に、山から連れ帰る。
この順番があることで、『山上のフェイク』は犯人当ての快感だけで終わらない。潮谷験はこれまでも、特殊な状況へ人間を放り込み、そのとき何を選ぶのかを描いてきたけれど、今回はそのテーマが山岳救助という仕事にぴたりと重なっている。
タイトルにある『フェイク』も、読み終わるころには意味が広がっている。
手記の嘘、人間関係の嘘、時間の見せ方の嘘。皐月山にはいろいろな偽りが積み重なっているし、その一つひとつを剥がしていくロジックは本格ミステリとしてしっかり楽しい。
でも、その全部の先で救助隊が探しているのは、正しい答えだけではない。まだ生きているかもしれない人間だ。
手記のたった一文が状況をひっくり返し、時間と位置の思い込みがほどけていく。
その先で、救助隊が暴風雨の皐月山を登り続ける理由まで一本につながったとき、この作品のタイトルがすごくしっくりきた。
山上にはフェイクがいくつもある。それでも、その嘘の向こうに誰かがいるなら、救助隊はそこまで登っていく。
手記の嘘を暴くことと、その向こうにいる誰かを救うこと。
その二つが皐月山の上でひとつにつながった瞬間、この物語の仕掛けがようやく完成するのだ。


