餅屋蛾『ダクダデイラ』- ネットの底から、紙の本へ這い上がってくる怪文書ホラーの傑作【読書日記】

インターネットには、たまに本気で見てはいけないものが落ちている。
誰が書いたのか分からない。何のために書かれたのかも分からない。けれど、読んだ瞬間に、画面の向こう側から何かがこちらを見返してきたような気配がある。
掲示板の古いログ、SNSの不穏な投稿、妙に具体的すぎる体験談、意味不明な漢字の羅列。そういうものに触れたときの、あの嫌な感じ。
餅屋蛾『ダクダデイラ』は、その嫌な感じを一冊まるごと煮詰めたようなホラー小説である。
本作は、もともとカクヨム上で公開されていた怪文書形式の作品群を書籍化したものだ。怪談、都市伝説、SNSログ、掲示板、電子メール、奇妙な投稿、謎の儀式。そうした断片が積み重なり、やがて濁唾濔蓏という異様な言葉を中心に、ひとつの巨大な呪いの体系が浮かび上がってくる。
私はこういう本がどうしても好きだ。罠だと分かっていても覗き込んでしまうタイプの作品である。しかも『ダクダデイラ』の場合、その罠の作りが妙に現代的だ。
古びた屋敷や因習村だけではない。Instagram、掲示板、DM、商業施設、行政資料、ネット記事めいた断片。私たちが日常的に使っているメディアの隙間から、オカルトがぬるっと顔を出してくる。
スマホを閉じても、紙のページを閉じても、なんだか完全には逃げ切れない。そこが嫌であり、面白い。
紙の本になった瞬間、怪文書は別の怪物になる
本作についてまず語りたくなるのは、内容そのものだけではない。媒体としての気味悪さである。
カクヨム版は、横書きの画面をスクロールしながら読むテキストだった。ネット上の怪文書には、横書きの平坦さと相性のよさがある。
画面上に表示される文字列は、どこか匿名で、どこか無責任で、どこか本物のログっぽい。嘘くさいのに、妙に生々しい。インターネット怪談の怖さは、まさにその中途半端な手触りに宿る。
ところが書籍版になると、話が変わる。基本は縦書きの小説でありながら、途中に横書きの投稿画面や掲示板風のレイアウト、メールやSNSめいた断片が混ざってくる。つまり、紙の中にウェブの残骸が無理やり押し込まれているのだ。
この不自然さがいい。整った文芸のページに、ネットの汚れたログが挟まってくる感じ。まるで異物混入である。しかも、その異物が本の中心で堂々と脈打っている。
ここで『ダクダデイラ』は、ただの書籍化作品ではなくなる。ウェブで生まれた怪文書が紙に閉じ込められたことで、逆に怪異の標本のような質感が出ているのだ。
デジタルの亡霊を紙に貼り付けたら、ページの奥でまだ動いていた。そんな感じである。電子の海から引き上げられたものが、乾燥標本になるどころか、むしろ本の中で繁殖している。
この媒体のねじれが、本作の恐怖とよく噛み合っている。『ダクダデイラ』に出てくる怪異は、そもそも境界を越える存在だ。
現実と異界、ネットと肉体、記録と呪い、情報と感染。その境目がゆるみ、あちら側のものがこちらへ染み出してくる。
だからこそ、縦書きと横書き、紙と画面、文学とログの衝突そのものが、作品のテーマを体で表しているように見える。
ネット怪談の顔をした、現代の呪術体系
『ダクダデイラ』の怖さは、単に気味の悪い話が並んでいることではない。むしろ、最初はバラバラに見える断片が、少しずつ巨大な構造へつながっていくところにある。
たとえば、Instagram上に現れる噩圖噐というアカウント。故人のアカウントばかりをフォローし、川の写真や不気味な言葉を投稿し、カラスを殺す動画と被害者の発作が同期していく。
この設定だけでも、現代ネット怪談として十分に嫌である。フォロー数、投稿日時、動画、既存アカウント、死者の痕跡。SNSの仕様そのものが呪術の道具に変わっている。
ほかにも、地域に響く未確認不明音、商業施設での失踪、店内の鏡に映る少年、水没した売り場、ありえない階層へ迷い込む人々。これらは、昔ながらの怪談というより、現代社会のインフラに寄生した怪異だ。
役所の資料、商業施設、ネット掲示板、口コミ、動画サイト。私たちが安心して使っているはずの仕組みの中に、何か別のルールが紛れ込んでいる。
ここが本作のたまらない部分である。怪異がただ出てくるだけではない。ちゃんと生態がある。勢力図がある。兆候がある。しかも、それがはっきり説明されすぎない。分かりそうで分からない。つながっていそうで、全部は見えない。この塩梅が実にいやらしい。
ホラーにおいて、分かりすぎることは時に怖さを削いでしまうものだ。だが本作は、理解の手前でこちらを止める。見えている断片は多いのに、全体像をつかもうとすると、指の間からぬるりと逃げていく。
特に面白いのは、羽根を持つものと、多くの脚を持つものという二大勢力の気配である。蛾、鳥、翼、天使めいたもの。あるいは蜘蛛、百足、赤い虫、脚の多い異形。これらが単なるビジュアルの趣味ではなく、作中世界の背後にある神話的な対立として読めてくる。現代のSNS怪談の奥に、いつのまにか古代神話めいたスケールが口を開けているのだ。
個人的にもこの手の構造が好きだ。ネットの投稿を追っていたはずなのに、気づけば常世だの黄泉だの神の怨念だのに足を取られている。
しかも、その沼がちゃんとネット回線につながっている。オカルトとインターネットの接続として、これは相当に禍々しい。
身体がバグる恐怖と、神話の腐敗
本作を語るうえで避けられないのが、身体変容ホラーとしての凄惨さである。
『ダクダデイラ』の怪異は、精神だけを壊すわけではない。肉体に侵入し、分泌液を汚染し、体内から虫を湧かせ、身体そのものを別のものへ作り替えていく。
これが本当に嫌なのだ。しかも、単にグロテスクな描写を並べているだけではなく、生命維持や生殖に関わる部分が侵されるため、嫌悪感の方向がいやに根深い。
口の中で蛾を溺死させる儀式、唾液、母乳、血液、吐瀉物、精液、月経、赤い虫。こうしたイメージが連鎖し、身体の内側がもう自分のものではなくなっていく感覚を生む。
人間の体は本来、生きるためにさまざまな液体を分泌する。ところが本作では、その生命の仕組みがそのまま怪異の通路に変えられてしまう。生きていること自体が、あちら側に利用される。この発想がとてもえぐい。
さらに、この身体の腐敗は神話的なイメージとも結びついている。蛾を身にまとって現れる少彦名命、常世、溺死、口噛み酒、黄泉、イザナミ、死と出産。そうした古代的なモチーフが、現代の怪文書ホラーの奥でうごめいている。
つまり本作の怪異は、ただのネット発都市伝説ではない。デジタル社会の裂け目から、古い神話の腐敗した部分が再起動しているように見えるのだ。
この構図が見えてくると、『ダクダデイラ』という作品の印象は一気に変わる。最初は、ネットの変な話を集めた危ない本に見える。だが読み進めるうちに、それがひとつの呪術体系であり、メディア論であり、身体論であり、神話の暗黒再解釈でもあることが分かってくる。
情報は呪いになり、記録は感染源になり、紙の本は封印であると同時に拡散装置にもなる。いや、こんなものを本にして大丈夫なのかと、ページをめくる手がちょっとだけ不安になる。
もちろん、過激な描写や変則的な構成には好みが分かれるはずだ。すっきりした物語を求めると、相当な胃もたれを起こすタイプの作品である。
だが、怪文書、モキュメンタリー、ネット怪談、身体変容ホラー、神話的オカルトの交差点に興味があるなら、この本は避けて通れない。
『ダクダデイラ』は、怖い話を読むというより、危険なログを閲覧してしまう体験に近い。しかも、そのログは画面の中だけで終わらない。
紙に印刷され、手元に届き、部屋の本棚に置かれる。ふとした瞬間に背表紙が目に入る。ああ、まだそこにあるのか、と思う。その感覚まで含めて、本作のホラーなのだと思う。
インターネットの暗がりから這い出した怪文書は、紙の本という形を得て、かえって逃げ場を失わせる。閉じたはずのページの奥で、まだ何かが蠢いている。
『ダクダデイラ』は、そんな気配を最後まで残していく、現代ホラーのかなり危険な標本である。
私としては、こういう本が商業出版として出てくること自体にちょっと興奮してしまう。
ホラー小説はまだこんな変な方向へ進めるのか。
いいぞ、もっとやれ、という気持ちになってしまうのである。
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