『法月綸太郎の不覚』- 令和の名探偵は、まだ論理で世界に抗えるのか【読書日記】

名探偵という存在は、もしかすると現代社会でいちばん肩身の狭い職業なのかもしれない。
いや、もちろん現実に「名探偵」という職業欄があるわけではない。
だが本格ミステリの世界では、事件が起これば名探偵が現れ、警察が拾いきれなかった違和感を拾い、関係者の証言をひっくり返し、最後には「なるほど、そういうことだったのか」と言わせてくれる。これが古典的な快楽である。
ところが令和である。社会のルールは細かくなり、倫理への目線は鋭くなり、事件に関わる人々の距離感も昔とはまるで違う。うかつに踏み込めば、真相に近づく前に探偵のふるまいのほうが先に問題視されかねない。
つまり現代において、名探偵はめちゃくちゃ生きづらい。推理する前に、まず関係各所への配慮を求められそうな時代である。
法月綸太郎『法月綸太郎の不覚』は、そんな現代において、それでも本格ミステリは成立するのか、名探偵はまだ論理で事件に立ち向かえるのか、という相当にシビアな地点から組み上げられた短編集である。
前作『法月綸太郎の消息』から約7年ぶりのシリーズ短編集というだけで、法月ファンとしてもうめちゃくちゃ嬉しい。
しかも内容は、単なる復帰作ではない。令和の社会と本格ミステリが本気でぶつかる、なかなか胃にくる一冊なのだ。
名探偵が「不覚」を取る時代
本作に収録されているのは、『心理的瑕疵あり』『被疑者死亡により』『次はあんたの番だよ』、そして書き下ろし中編『平行線は交わらない』の全4編である。
タイトルにある「不覚」という言葉が、まずいい。探偵の失敗、見落とし、油断。そういう意味にも取れるが、それだけではない。
本作における「不覚」は、むしろ名探偵という存在そのものが現代社会の中で抱え込む構造的な弱点を指しているように見える。
法月綸太郎という探偵は、もともと万能型のスーパーヒーローではない。むしろ、考えすぎる。悩む。疑う。自分の推理の正しさそのものを疑ってしまう。そこが魅力であり、同時に痛々しさでもある。
エラリー・クイーン的な論理の問題、つまり探偵の推理は本当に正しいのか、犯人が意図的に作った偽の筋道に乗せられているだけではないのかという不安を、シリーズはずっと抱えてきた。
本作では、その不安がさらに令和仕様になっている。相手は犯人だけではない。社会制度であり、法的な親子関係であり、倫理の境界線であり、世間の空気であり、事件の周囲に積み重なった人間関係そのものだ。もう敵が多い。ミステリの犯人より、現代社会のほうが手ごわいのではないかとすら思えてくる。
『心理的瑕疵あり』では、曰く付き物件に見える部屋をめぐって、過去の自殺、偽装、消えた私物、そしてなぜか持ち去られたエアコンのフィルターが絡んでくる。このフィルターという小道具が実に法月作品らしい。
一見どうでもよさそうな物体が、生活実態そのものを照らす証拠へ変わっていく。派手な見立てより、こういう日用品のいやらしい説得力にニヤリとしてしまう。エアコンのフィルターという地味な物体を、ここまで論理の起点にしてしまうあたりが、いかにも法月綸太郎である。
『被疑者死亡により』では、交換殺人めいた構図と保険金、養子関係、死亡した被疑者という厄介な要素が絡み合う。法的には片づいたように見える事件を、論理の側からもう一度こじ開ける作品だ。
ここで面白いのは、真相が単に犯人当てへ収束しないところである。人間関係の制度的な隙間、つまり法律や家族という形が作った空洞に、犯罪が入り込んでいる。そこに法月作品らしい冷たさがある。
令和ミステリの敵は、犯人だけではない
本作を読んでいて思うのは、現代を舞台に本格ミステリを書くことの面倒くささである。
昔ながらの本格ミステリは、閉じた場所、限定された容疑者、整理された証言、そして論理の盤面によって美しく成立してきた。けれど現代社会は、そこまで単純に事件を閉じ込めてくれない。
人は多くの制度に囲まれ、手続きに縛られ、倫理の網の目の中で動いている。探偵がひとつの証言を聞き出すだけでも、昔のように「ちょっと失礼」と踏み込めるわけではない。
だから多くの作品は、舞台を過去にする。山奥に閉じ込める。特殊な館へ放り込む。社会の雑音が届かない場所を用意する。もちろん、それはそれで楽しい。というか、むしろ大好物である。館、孤島、雪山、なんてどんどん来てほしい。私の胃袋はそのへんにはだいぶ強欲だ。
だが法月綸太郎は、本作でそこから逃げない。令和のややこしい現実を抱え込んだまま、論理を成立させようとする。
そのぶん説明は濃い。人間関係の前提、法的な立場、社会的な制約、事件の背景にある制度の絡まりが、推理の土台になる。ここで「もっとスッキリしてほしい」と感じる人もいるかもしれない。だが私はむしろ、その重さに本作の誠実さがあると思う。
現代の本格ミステリで軽やかな論理をやろうとすると、現実の面倒な部分をある程度カットしなければならない。しかし本作は、その面倒くささごと背負う。結果として、論理は軽やかに飛ばない。泥の中を歩くように進む。だが、その足取りにこそ今の法月綸太郎がいる。
『次はあんたの番だよ』は、実話怪談めいた導入が楽しい。深夜の公園に現れる女の幽霊。しかもその姿は、最近殺された女性に似ている。ここだけ見るとオカルトの入口だが、法月親子はそこから律儀に、かつ妙にユーモラスに可能性を検討していく。
この親子ディスカッションがいい。怖い話を前にしても、まず条件を整理し、矛盾を拾い、社会的にマズそうな言い回しまで気にして、怪談相手にも配慮する。令和の探偵は気苦労がすごいのだ。
そして『平行線は交わらない』は、本書の読みどころとして外せない。老舗和菓子屋の店主殺害を発端に、兄弟の因縁、経営、愛憎、アリバイが幾何学的に絡んでいく。タイトル通り、交わらないはずの線が、ある一点で接続される。
その証明へ向かう過程は、派手な一発芸ではなく、手順の積み重ねで読ませるタイプの本格だ。個人的にも、こういう解決までの足場をきちんと作ってくれる作品は好きだ。真相だけをポンと置かれるより、そこへ至る道筋を一段ずつ見せられるほうが、やっぱり脳が喜ぶのである。
論理は古びたのか、それともまだ戦えるのか
本作で印象に残るのは、法月綸太郎という探偵の疲労感である。
名探偵なのに、どこかくたびれている。時代に対して愚痴る。社会の仕組みに阻まれる。倫理や手続きに気を取られる。昔のように、颯爽と現れて事件を切り裂く存在ではない。
だが、それがいいのだ。現代における名探偵を、無傷の天才として描くのは難しい。社会は複雑になり、事件は個人の悪意だけでは説明しきれなくなっている。
家族、制度、金、世間体、過去の因縁。さまざまな線が絡まり合う中で、探偵の頭脳だけがすべてを支配する時代ではない。だからこそ、法月綸太郎のように悩み、引っかかり、間違いかけ、それでも考える探偵像がしっくりくる。
著者自身もあとがきで、令和の時世に作風がなじまなくなったことや、構成力の衰えを自嘲的に語っている。そこには痛みがある。だが私は、本作を単なる衰えの記録とは感じなかった。むしろ、時代との相性が悪くなったからこそ見えてくる、本格ミステリの粘り腰の記録だと思えたのだ。
かつての法月作品には、一撃で世界を反転させる切れ味があった。本作は、それとは少し違う。ひとつの真相へ向かって、論理を積み、疑い直し、また積み直す。
鮮やかな跳躍というより、崩れそうな足場を補強しながら進む知的な工事現場である。ヘルメットをかぶった本格ミステリ。そんな言い方をすると怒られそうだが、私はけっこう本気でそう感じた。
そして、その工事現場には妙な感動がある。時代は名探偵から自由を奪っていく。だが、それでも人間は嘘をつく。関係性を偽る。制度の隙間を利用する。感情を隠す。そこにまだ、論理が入り込む余地がある。
『法月綸太郎の不覚』は、名探偵が時代に勝利する物語ではない。むしろ、時代に押され、傷つき、愚痴りながら、それでも考えることをやめない物語である。私はそこに、本格ミステリのしぶとさを見た。
論理は古びたのではない。ただ、昔よりずっと戦場がややこしくなっただけだ。
その面倒な戦場で、法月綸太郎はまだ線を引いている。平行線に見えるものを見つめ、交わらないはずの点を探し、最後には不覚の向こう側へ手を伸ばす。
令和の名探偵は、もう神話ではいられない。
だが、時代がどれだけややこしくなっても、まだ推理には居場所がある。
そう思わせてくれるだけで、私はもう十分にうれしいのだ。



