『出版禁止 女優 真里亜』- その女優を追うほど、こちらの足元まで怪しくなる【読書日記】

長江俊和の作品を読むとき、いつも少し身構えてしまう。正確に言うと、身構えたつもりで毎回まんまと引っかかる。
こちらは「今回は騙されないぞ」と、付箋と疑い深い目つきでページに向かうわけだが、長江作品はその疑い深ささえ計算に入れてくる。実に意地が悪い。もちろん褒めている。
『出版禁止 女優 真里亜』も、まさにそのタイプの一作だった。普通の小説として読んでいるつもりが、いつの間にかいわくつきの資料を覗き込んでいる気分になる。
物語を追っているはずなのに、途中から自分が調査に参加しているような錯覚に落ちていく。この感覚こそ、長江俊和の出版禁止シリーズの怖さであり、面白さでもある。
本作の中心にいるのは、失踪した女優・筧真里亜。彼女に関する三つのルポルタージュを通じて、その人物像が少しずつ浮かび上がってくる。だが、この「浮かび上がる」という言い方がすでに怪しい。見えてきたと思った瞬間、その輪郭が別の形に変わる。
聖女のようでもあり、悪女のようでもあり、被害者のようでもあり、加害の気配すらまとっている。つまり筧真里亜という女優は、ひとつの顔に収まらない。
そして、その収まらなさが本作全体の不穏さを支えている。
三つのルポが作る、あまりにも信用できない肖像
本作は、三つのルポルタージュを組み合わせる形で進んでいく。
まず、ライターの高柳みき子が書いた「夢の途中──筧真里亜という女優を追って──」。
ここで描かれる真里亜は、無名の場所から少しずつ表舞台へ出ていこうとする、ひたむきな女優である。呪われた映画『殺す理由』の主演をつかむまでの道のりには、いかにも芸能ものらしい高揚感もある。
だが、長江作品で「いい話だなあ」と素直に受け取るのはとても危ない。底なし沼の縁でスキップしているようなものだ。
高柳の視線は温かい。真里亜に寄り添い、彼女の苦悩を理解しようとしている。しかし、その温かさが本当に正しいものなのか、やがて疑わしくなってくる。見たいものを見て、信じたい形に相手を整えてしまっているのではないか。そんな疑念が、あとからぬるっと立ち上がってくる。
続く「証言」のパートでは、真里亜を知る複数の人物の声が並ぶ。これがまた厄介である。ある人は彼女を天使のように語る。別の人は、底の知れない危うさを持った女として語る。
どちらが正しいのか、という話ではない。むしろ、どちらも真里亜の一部なのかもしれないし、どちらも誰かの都合で歪んだ像なのかもしれない。
この作品の怖さは、真里亜が何者なのか分からないことだけではない。人間という存在そのものが、証言によっていくらでも別の形に変わってしまうことにある。ひとりの人物をめぐる言葉が増えれば増えるほど、真相に近づくどころか、むしろ遠ざかっていく。この感覚が嫌であり、面白い。
そして第三のルポでは、ジャーナリスト・江崎康一郎が、失踪後の真里亜を追っていく。ここから物語は、芸能界の虚飾や女優の心理劇を越えて、土地の伝承や呪いの領域へ足を踏み入れる。
現代の事件と古い村の記憶がつながり、現実的なルポの顔をしていた本が、気づけば民俗ホラーめいた暗がりを開いている。
この切り替わりが面白い。芸能界、事件、村、伝承。普通ならバラバラになりそうな題材を、長江俊和は「記録」という形式で束ねていく。
資料を読んでいるだけなのに、なぜか足元の床板が一枚ずつ抜かれていくような気分になるのだ。
演じることは、他人を自分の中に入れることなのか
本作でとりわけ面白いのは、演技という行為の扱いである。
真里亜が主演することになる映画『殺す理由』は、実在の凄惨な事件を思わせる連続殺人を題材にした作品であり、しかも過去に何度も映像化が試みられ、そのたびに不幸な出来事が起きたとされる。いわゆる「呪われたシナリオ」だ。
ここだけ聞くと、いかにもホラー映画的な設定である。だが長江俊和は、それを単なる怪奇趣味で終わらせない。重要なのは、真里亜が殺人犯を演じるために、その人物の心理へ近づこうとする点である。
演技とは、自分ではない誰かを、自分の身体と声で再現する行為だ。普通に考えても奇妙な営みである。役に入り込む、役が抜けない、という言い方は日常的に使われるが、よく考えるとそれは相当に怖い。自分の内側に他人を招き入れ、しかもその相手が、動機の見えない殺人者だったらどうなるのか。
真里亜は、犯人の殺す理由を理解しようとする。だが、理解しようとすること自体が危険なのだ。分からないものを分かろうとするうちに、自分の倫理や感覚が少しずつほどけていく。いや、ほどけているのか、もともと中にあったものが顔を出しているのかさえ判然としない。
ここが本作のいやらしいところである。真里亜は殺人犯に憑かれているのか。それとも、演技という名目で、自分の奥にあった何かを解放してしまったのか。外から来た呪いなのか、内側にあった欲望なのか。その区別が曖昧になっていく。
この構造に長江俊和らしい現代性を感じる。女優とは、他者の視線の中で自分を作り変える存在である。だが、それは芸能界だけの話ではない。SNSでも、仕事でも、日常の人間関係でも、人は少なからず「見られる自分」を演じている。
明るい人、余裕のある人、傷ついていない人、怒っていない人。そういう役をこなしているうちに、どこまでが本来の自分だったのか分からなくなることがある。
真里亜の恐怖は、特別な女優の悲劇でありながら、現代の私たちにも妙に近い。だからこそ、彼女の失踪は単なるミステリ上の謎にとどまらない。
自分を演じ続けた人間が、最後にどこへ消えるのか。その行き先を追う物語でもあるのだ。
声に出してはいけない言葉と、検証する快楽
長江俊和作品の醍醐味は、文章をただ追うだけでは終わらないところにある。
読みながら、どうしても検証したくなる。語り手の温度差、証言の食い違い、資料の並び順、妙に引っかかる言葉。そうした小さな異物が、あとから意味を持ち始める。
『出版禁止 女優 真里亜』でも、その仕掛けは意地悪に配置されている。特に印象的なのが、「声に出してはいけない」という感覚をめぐるメタ的な恐怖である。
文字は、本来なら目で読むものだ。だが本作では、文字が音へ変わる瞬間に、別の意味を帯びる可能性が示される。黙って読んでいるあいだはただの言葉だったものが、発音した途端、呪いのスイッチを押したように感じられる。これは活字ホラーとして非常にいやな仕掛けである。
しかも、「声に出してはいけない」と言われると、人間はどうしても試したくなる。絶対に押すなと言われたボタンを前にした芸人のようなもので、押す未来しか見えない。長江俊和はその心理をよく分かっている。こちらの好奇心、疑い深さ、検証欲をまとめて罠に変えてくるのだ。
この自分の身体を通して物語が現実に出てくる感覚が、本作の怖さを一段引き上げている。作中の呪いは、単に登場人物たちを襲うだけではない。読む側の口や耳や記憶にまで触れようとしてくる。安全地帯にいるつもりだったのに、いつの間にかこちらも舞台に上げられている。いや、上げられたことに気づいた時点では、もう遅い。
また、本作は再読にも向いている。というより、長江作品において一度目は下見、二度目が本番みたいなところがある。結末まで辿り着いてから最初に戻ると、何気ない描写や人物の反応が、まるで別の顔をして見えてくるのだ。高柳の真里亜への見方、江崎の調査の方向、証言者たちの言葉。それぞれが、初回とは違う重さで迫ってくる。
この読み返したくなる不穏さこそ、出版禁止シリーズの大きな魅力だと思う。ミステリとしての謎解き、ホラーとしての呪い、モキュメンタリーとしての虚実の揺らぎ。それらが重なり合い、単純な答えに落ち着かない。真相らしきものを手にした瞬間、別の穴が見えるのだ。
『出版禁止 女優 真里亜』は、女優の失踪を追う物語であり、呪われた映画をめぐるホラーであり、事件を消費するメディアへの皮肉でもある。そして何より、「人は他人をどのように見て、どのように物語化してしまうのか」を突きつけてくる作品である。
筧真里亜とは何者だったのか。被害者か、加害者か、聖女か、悪女か、それとも誰かが作り上げた幻影か。答えを求めて読み進めるほど、こちらの見方そのものが試されていく。
本を閉じても、すっきりとは終わらない。むしろ、閉じたあとに本番が始まるタイプの怖さである。気になった箇所をもう一度確認したくなるし、あの言葉を声に出したらどう響くのかと、妙な誘惑まで残る。
もちろん私はおすすめしない。おすすめしないが、たぶん多くの人がやる。ミステリ好きとはそういう生き物である。
長江俊和は今回も、フィクションと現実の境目に細い刃を差し込んできた。
『出版禁止 女優 真里亜』は、その刃先が、女優の顔、事件の記録、土地の伝承、そして読む側の好奇心までをまとめて切り開いていく、危険で、でも楽しい一作だった。


