ローラン・ビネ『言語の七番目の機能』- 知の巨人たちが血を流す、史上最も不敬な思想ミステリ【読書日記】

思想家がたくさん出てくる小説と聞くと少し身構えてしまうし、正直あまり自分から進んで読むタイプの本ではない。
しかもロラン・バルトの死が発端で、記号論と大統領選と陰謀が全部つながるとなれば、なおさらである。
ところがローラン・ビネは、その厄介そうな材料をきっちり極上のミステリに変えてしまった。殺人事件がある。捜査がある。陰謀がある。追跡劇がある。ここまではいい。
だが本作『言語の七番目の機能』がさらに持ち込んでくるのは、ロラン・バルト、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ウンベルト・エーコといった二十世紀思想の大物たちであり、記号論や言語学やポスト構造主義である。
普通なら、どう考えても小説の中で渋滞を起こしそうな材料ばかりだ。にもかかわらず、ビネはそれを渋滞どころか暴走列車の燃料に変えてしまう。知的で、悪ふざけが効いていて、しかもちゃんと面白い。こういう小説に出会うと嬉しくなってしまう。
出発点は1980年2月、ロラン・バルトの死である。史実としては交通事故死だが、本作はそこに巨大な陰謀の入口をこじ開ける。ヤコブソンの六つの言語機能を超える、未知の七番目の機能。その秘密を握る文書をめぐって、国家も知識人も裏社会も入り乱れて動き出す。
要するに、言葉が世界を動かすどころか、世界そのものを書き換えてしまうかもしれない、という話だ。設定だけ聞くと荒唐無稽である。だが、その荒唐無稽さを本作は、思想史と政治史の細部でぐいぐい補強してくる。
このバランスが実にうまい。いや、「うまい」というより、かなり性格が悪い。
知の歴史にきちんと足をつけながら、その知を丸ごとエンタメの舞台装置にしてしまうのだから。
思想家たちが容疑者になる小説
本作のまず面白いところは、二十世紀思想のスターたちが、ありがたい肖像ではなく、やたら人間くさい姿で登場するところだ。フーコーもデリダもクリステヴァもソレルスも、教科書の中で後光を背負って立っているわけではない。
欲も見栄も癖もある、生臭い人間として出てくる。その描き方がかなり容赦ない。思想史に詳しい人ほど笑ってしまうし、詳しくなくても、なんだこの濃い連中は、で十分に楽しめる。
ビネはこの人たちを単なる実名ゲストとして出しているのではない。彼らの理論や立場や癖そのものを、キャラクター造形の材料にしているのである。
このあたり、本作は一種の思想家版オールスター本格ミステリでもある。普通の本格なら、登場人物の職業や過去や口癖が伏線になったりするが、この小説では理論そのものが伏線やギャグとして機能する。
デリダならデリダらしく、フーコーならフーコーらしく振る舞う。その「らしさ」が、知的な冗談であると同時に、物語上の推進力にもなっている。ここが気持ちいい。思想を小道具にして終わらせず、人物の身体感覚にまで落とし込んでいるのだ。
しかもビネは、こうした知識人たちを持ち上げるだけでは終わらない。むしろ神話を解体している。ロラン・バルトが『神話作用』で大衆文化を記号として分析したように、本作はその視線を知識人自身へ向け返す。思想家もまた時代の記号であり、権威の演技を背負った存在なのだと暴いていく。
このひっくり返しが実にいい。知の巨人たちが、実はかなり俗っぽい世界の住人でもある、という事実が、皮肉でもあり愛情でもあるような調子で描かれていく。
バイヤールとシモン、名コンビとしての説得力
もうひとつ本作を読みやすくしているのが、探偵役の組み合わせである。叩き上げの警視バイヤールと、若き記号学者シモン・エルゾグ。この二人が実にいい。
片方は証拠と現場を信じる人間で、もう片方は記号と解釈で世界を読む人間である。要するに、物と意味のコンビだ。ミステリ好きとしては、こういう組み合わせを見るとすぐニヤついてしまう。だいたい名コンビは、同じ方向を向いていないからこそ面白い。
バイヤールは、理屈っぽい知識人たちにうんざりしている。シモンはそんな知の迷宮をすいすい泳ぐ。この温度差があるから、難解になりがちな話が、ちゃんと小説として前に進む。
読んでいる側も、バイヤールほど露骨ではないにせよ、何を言っているのかさっぱりわからん、と思う瞬間がある。そこへシモンが通訳のように入る。
逆に、シモンが理論の側へ寄りすぎると、バイヤールが現実の重みを持ち込んでくる。この往復運動があるおかげで、本作は知的ギャグの連打だけで終わらない。
この二人を見ていると、なんだか古典的な探偵小説の変奏を感じてしまう。名探偵が超越的な知性で事件を解くのではなく、現実主義と解釈主義がぶつかり合いながら真相へ近づいていくのである。これはかなり現代的だ。
世界はもはや、ひとつの論理だけで解けるほど素直ではない。事実だけでも足りないし、理論だけでも足りない。そのズレを抱えたまま進むしかない。本作の捜査は、その不自由さをきちんと面白さに変えている。
そして、タイトルにもなっている『七番目の機能』がまた秀逸だ。言葉が現実を変えるという発想自体は、言語行為論やレトリックの話として昔からある。だが本作はそこをさらに一段押し広げ、説得の究極形として物語化する。
政治家が欲しがり、思想家が執着し、秘密結社まで動く。そりゃ欲しいだろう、としか言いようがない。選挙でも恋愛でも商売でも議論でも、世の中のかなりの場面は「どう言うか」で決まってしまうのだから。
そう考えると、この設定はファンタジーでありながら、妙に現実的でもある。
言葉は武器か、それとも魔法か
本作の白眉は、言葉の力を単なる比喩で終わらせないところにある。秘密結社〈ロゴス・クラブ〉の設定など、その最たるものだろう。
議論に負けると身体を傷つけられるという、この露悪的でばかばかしくて恐ろしい仕組みは、言論の暴力性をそのまま肉体化したものだ。
普通なら象徴的に描くところを、本作はやけに文字通りにやってしまう。知のファイト・クラブという感じで、かなりひどい。だが、このひどさがいいのである。議論や修辞がしばしば生身の人間を傷つけ、排除し、支配してきたことを、これ以上ないくらい乱暴に可視化しているからだ。
この小説を読んでいると、言葉とは何か、などと立派な顔で考えるより先に、言葉は怖いと思わされる。誰かを説得することは、しばしばその人の世界の見え方を書き換えることでもある。広告も政治演説も恋の口説き文句も、少し大げさに言えば、みんな七番目の機能のミニチュアである。
だから本作は、思想小説でありながら、妙に現代的なスリラーにもなっている。SNS以後の時代に読むと、なおさらそう感じる。拡散される言葉、信じ込ませる技術、印象が事実を押し流していく速度。その光景は、1980年のフランスを舞台にしつつ、かなり今っぽい。
さらに面白いのは、ビネがメタフィクションの仕掛けまで持ち込んでいる点である。史実と虚構の境目をわざと曖昧にし、作者の気配を出したり引っ込めたりしながら、物語が自分自身の作られ方をちらちら見せてくる。
前作『HHhH』では、歴史に嘘を混ぜることへの葛藤がかなり前面に出ていたが、本作ではその葛藤すら遊びに変わっている。ずいぶん楽しそうである。いや、楽しそうというより、吹っ切れている。
歴史も理論も文学も、全部まとめて巨大な悪ノリに投入し、その上で一本の小説として成立させてしまう。この豪腕ぶりには脱帽するしかない。
『言語の七番目の機能』は、思想を知っているほど笑えて、知らなくても勢いで連れていかれる、かなり珍しいタイプのミステリである。
そして私が何より好きなのは、この小説が「知」を高い棚に上げたまま眺めるのではなく、走らせ、転ばせ、血を流させ、欲望まみれのものとして扱っている点だ。
思想史の偉人たちも、選挙も、学問も、陰謀も、結局は言葉をめぐる争奪戦の中にある。その光景をここまでふざけながら、ここまで本気で描けるのは本当にすごい。
難しそうだからと身構える必要はない。これは思想入門書の顔をした本ではなく、知的変人たちが全力で暴れる、かなりスリリングな小説である。
ページを追ううちに、記号論だのポスト構造主義だのという単語の圧より先に、言葉に取り憑かれた人々の異様な熱気が見えてくるはずだ。
ミステリ好きとしては、こういう事件の背後に世界観そのものがぶら下がっている作品にはやはり抗いがたい。
言葉で世界はどこまで動くのか。
そんな危うい夢想を、これだけ愉快で、不穏で、知的な見世物として差し出されてしまったら、降参するしかないではないか。





















