四島祐之介『アナヅラさま』- 都市伝説は人を食わない。人が都市伝説を使い始めるとき、本当の地獄が始まる【読書日記】

ミステリとホラーの境界線というのは、もともとかなり曖昧なものだと思っている。
怪異のように見えたものが論理で説明されることもあるし、逆に理詰めで追い詰めたはずの先に、どうにも説明しきれない嫌な感触だけが残ることもある。
だからこの二つのジャンルは、昔からそこそこ仲がよかった。だが最近は、その距離がますます近くなってきた。というより、もうかなり深いところで混ざり合っている。
四島祐之介『アナヅラさま』は、その混ざり方が実にいやらしく、そしてかなりおいしい一作だった。
都市伝説、連続失踪、探偵、ヤクザ、どんでん返し、そして底の見えない大穴。並べてみると、いかにも盛りすぎである。少し間違えばB級の悪趣味に転がり落ちてもおかしくない。
だが本作は、その危うさをむしろ武器にして突っ走る。そして最後には、ちゃんとミステリとしての手応えまで残していく。
私はこういう作品がとても好きだ。きれいに整えられた本格ミステリももちろん好きだけれど、ときどきそれだけでは物足りなくなる。
もっと不穏で、もっと品が悪くて、でも最後には論理の骨組みが立っているような作品を読みたくなることがある。『アナヅラさま』は、まさにそういう欲望を正面から満たしてきた。
しかもこの作品、怖いのはバケモノではない。いや、バケモノも出てくるのだが、もっと怖いのは、そのバケモノじみた噂を人間がどう利用するか、という部分である。そこが実に現代的で、実に後味が悪い。
穴があったら何を捨てるか、という発想の嫌さ
本作の中心にあるのは、「アナヅラさま」という都市伝説だ。
顔に穴のあいたバケモノが現れて、若い女を攫って飲み込んでしまう。地下道だの山奥だの、いかにも境界っぽい場所で目撃される。こうして要素だけ並べると、かなり古典的というか、いかにもそれらしい地方怪談の顔をしている。ここだけなら、土着ホラー寄りのミステリとして受け取ることもできる。
だが本作が面白いのは、その都市伝説の背後に、ものすごく俗っぽくて現実的な仕組みを差し込んでくるところだ。
山奥には、何を投げ込んでも跡形もなく消えてしまう「大穴」がある。この設定がまず強い。しかもただ強いだけではなく、発想がかなり悪い。なぜなら、これを見つけた人間が真っ先に考えることは、「怪異だ!怖い!」ではなく、「これは使えるのではないか」だからである。
ここが本当に嫌で、本当にうまい。不用品回収の延長線上で、死体処理が発想される。いらないものを捨てる、痕跡を消す、見なかったことにする。そういう日常の延長に、ぞっとするほど自然に犯罪が接続されている。しかもその合理性が妙に説得力を持っているから困る。
怪異というのは本来、理屈の外にあるから怖い。だが『アナヅラさま』の大穴は、理屈の中に組み込まれた瞬間にもっと怖くなる。
死体が消える。証拠が残らない。車でも何でも放り込める。そんな便利なものを前にして、人間が何もしないわけがない。
この発想の滑り方が、本作のいちばん嫌なところであり、いちばん好きなところでもある。
都市伝説よりも、人が噂を信じる構造のほうが怖い


物語は、失踪事件を追う探偵パートと、「アナヅラさま」として人を消していく側のパートが交互に進んでいく。
この構成自体がかなり読みやすく、ぐいぐい引っ張る力があるのだが、本作の肝は、都市伝説そのものより「人がどうやってそれを現実に接続してしまうか」にあると思う。
若い女性が次々に消える。警察は決め手を掴めない。すると人は、「あれはアナヅラさまの仕業ではないか」と言い始める。この流れがじつに自然だ。
説明できないことが起きたとき、人は空白のままでは耐えられない。だから何かしらの物語を当てはめて、納得できる形にしようとする。噂はそのための便利な器だ。そしていったん器ができあがると、今度は現実のほうがその形に寄っていく。
つまり本作で描かれているのは、怪談というより「解釈の感染」なのだと思う。誰かが消えた。アナヅラさまらしい。また誰かが消えた。やっぱりそうだ。
こうして噂は補強され、現実を侵食していく。しかもその裏で、人間の犯罪がまんまと隠されていくのだからたまらない。
このあたりを読んでいて、都市伝説の怖さというのは、非現実的であることではなく、現実の側が勝手にそれを必要としてしまう点にあるのだと思った。
しかも本作は、その噂の器を途中からさらにひねってくる。「アナヅラさま」という言葉が、単なる怪物の名前ではなくなっていくのだ。役割であり、継承される何かであり、ある種の機能に近いものへとズレていく。このズレが、終盤のどんでん返しにもきれいにつながっている。
こういう、名前の意味が途中から変わっていくタイプの仕掛けはすごく好きだ。わかった瞬間に、見ていた景色が一段階ずれて見えるからである。
小鳥遊穂香という、強さと危うさが同居した探偵
本作の主人公である小鳥遊穂香も、かなりいい。
身長180センチ超えの肉体派で、ボクシング仕込みのフィジカルを持ち、言動も豪快で、いかにも普通の探偵像からははみ出している。まず見た目からしてかなり強いし、実際かなり強い。最近は個性的な探偵も珍しくないが、それでもこの人はだいぶ規格外である。
ただ、穂香の魅力は「強い女探偵」だけでは終わらないところにある。
彼女は明るくて、勢いがあって、事務所の面々とのやりとりも軽妙だ。重い話が続く中で、このテンポのよさはかなりありがたい。こういう緩急があるからこそ、物語が読みやすくなるし、闇の濃さも際立つ。
だがその一方で、彼女の中にはかなり危ういものがある。怒りのスイッチがどこにあるのか少しわかりにくく、感情の揺れ方にも不穏なものがある。無敵のヒロインという感じではまったくなく、むしろいつ壊れてもおかしくない危うさを抱えている。
ここがすごくいい。探偵というのは本来、混沌を整理する側の存在である。だが穂香は、その混沌にかなり近いところに立っている。
事件を追いながら、彼女自身もまた境界線の上を歩いている。こちら側とあちら側、理性と衝動、追う者と堕ちる者。そのあいだをふらつきながら進んでいくから、読んでいて落ち着けない。
しかもラストに向かうにつれ、その危うさがキャラの味で済まなくなってくる。この感じが、たまらなくノワールっぽい。探偵がきれいに真相を暴き、世界を元に戻して終わる話ではない。むしろ真相に近づくほど、自分のほうも削られていく。そういう話である。
私はもともと、探偵が少し壊れている作品が好きなのだが、『アナヅラさま』の穂香はかなり好みのラインを突いてきた。派手で強くて、同時にかなり危ない。こういう主人公が中心にいるだけで、作品全体の温度が一段上がる。
悪趣味とどんでん返しを抱えたまま、ちゃんとミステリになる
『アナヅラさま』を読んでいていちばん良かったのは、これだけ悪趣味で、これだけホラー寄りの手触りを持ちながら、最後にはちゃんとミステリとして着地しているところである。
もちろん好みは分かれると思う。暴力描写はきついし、性暴力や虐待を含む場面もかなり容赦がない。人によっては、ここが無理だと思うかもしれない。私も楽しい気分で読めるタイプの描写ではまったくなかった。
ただ、それでも単なる刺激のためだけに置かれている感じはしない。
本作が描こうとしているのは、人が怪物に襲われる恐怖ではなく、人が怪物の論理を受け入れてしまう過程だからである。社会の外にある怪異ではなく、社会の内側にある暴力や搾取や見捨ての構造が、あの「穴」によってむき出しになっていく。
だから読後感が悪い。だが、その悪さにちゃんと意味がある。
そして終盤の仕掛けもいい。視点の切り替え、時間のずれ、主体の継承。読んでいるあいだ、こちらはそれなりに構えているつもりなのに、きちんと死角を突いてくる。しかも、真相が見えたからといって恐怖が消えない。むしろ「そういうことだったのか」と理解したあとに、別の嫌さが残る。
この感じはかなり好きだ。ホラーを論理で解体して終わるのではなく、論理で解体した結果、もっと嫌な現実が露出する。その構造がしっかりしているから、本作はただのゲテモノで終わらない。
『アナヅラさま』は人を選ぶし、読むタイミングも少し選ぶと思う。けれど、ミステリとホラーの境界が曖昧になったいまの流れを追っているなら、かなり面白く読める一作ではないかと思う。
都市伝説を題材にした話はいくらでもある。だがこの作品は、その都市伝説の中身よりも、それを運用しはじめる人間のほうに照準を合わせている。そこが強い。
怪異そのものより、怪異を使う発想のほうが怖い。その冷たさと嫌さをここまで正面から書いてくるのは、なかなか厄介である。
四島祐之介はやはり、気持ちよく騙してくれるだけの作家ではないのだと思う。読んでいるこちらの倫理観や、見たくないものまでまとめて揺さぶってくる。
だから読み終えたあと、印象に残るのは「穴が怖い」という感覚だけではない。あれを見つけたとき、人は何を捨てたくなるのか。その発想のほうが、ずっと長く尾を引く。
つまり『アナヅラさま』は、怪異を描いた話というより、人が怪異の仕組みにどれほど簡単に手を伸ばしてしまうかを描いた話だ。
だから怖いのは穴そのものではない。そこに何かを捨てたくなる心のほうである。
読み終えたあとに残るのは、都市伝説の不気味さではなく、人間の合理性がふと怪物の顔をするあの瞬間の嫌な感触だ。
このあと味は、しばらく消えてくれそうにない。





















