2026年9月に読んで特に面白かった本28冊 – ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ【新装版】』ほか

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悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書するミステリ好き人間。

本を読み、本に人生を食われながら、今日もどうにか人間の形を保っている。

もはや読書は趣味ではなく、生活習慣であり、呼吸であり、呪いである。

幸せだね。
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毎月恒例、2026年9月に読んだ本の中から、特にこれは面白い!と思った28冊の記録である。

2026年9月に読んでに特に面白かった本28冊

1.麻根重次『シュレディンガーの密室』

──猛毒ガスで開けられない密室を舞台に、救出の決断と連続殺人が交錯する極限状況の推理小説。

2.市川憂人『呪詛遊戯』

──時間ごとに五感や身体機能を奪う呪詛が入れ替わり、犯行可能な人物まで変化していく特殊設定ミステリ。

3.結城真一郎『少年ABCの完璧な選択』

──少年時代に犯した罪と秘密が、15年後の誘拐とSNS暴露によって再び三人の人生を揺さぶる青春犯罪ミステリ。

4.下村敦史『あいつも誰かに殺される』

──SNS上の殺害依頼が現実の死へつながり、正体不明のタナトスを警察が追う犯罪サスペンス。

5.伏尾美紀『誰何』

──東京と北海道で見つかった二つの身元不明死体を、一枚の古い名刺から追う重厚な警察小説。

6.衣刀信吾『紙上法廷』

──四つの法廷小説を読み解きながら、その背後に隠された現実の事件まで追う連作法廷ミステリ。

7.辻堂ゆめ『残火』

──十四年前の放火事件をめぐり、被害者遺族と加害者家族の痛みが再び交錯する社会派警察小説。

8.真門浩平『終着駅で待ち合わせ』

──日常の小さな違和感から明晰夢の殺人まで、五つの異なる謎を論理で解き明かす短編集。

9.伊吹亜門『名探偵(あるいは入舟家)の一族』

──平安から平成まで、五つの時代で入舟家の名探偵たちが難事件へ挑む歴史本格ミステリ。

10.大神晃『人魚屋敷の殺人』

──不死伝説が残る孤島で、首なし密室の謎と初恋の少女の救出が重なる因習系本格。

11.黒川博行『流砂』

──トクリュウの金を奪って逃げる殺人犯を、警察と裏社会が両側から追う長篇犯罪小説。

12.夢野久作『白髪小僧 夢野久作全童話 上』

──幻想と残酷さ、ブラックユーモアに満ちた、夢野久作の初期童話100篇以上を収めた作品集。

13.『高木彬光『帝国の死角 第一部・天皇の密使』

──天皇の秘密資金を託された海軍士官が、戦時下ヨーロッパでナチスを相手に極秘任務へ挑む国際謀略小説。

14.櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』

──口にしてはいけない忌み語と娘の名前が重なり、家族の日常へ怪異が忍び寄る因習ホラー。

15.まだ学校だよ『家族信仰』

──家族の愛情や信仰が支配へ変わり、逃げ場を奪っていく五つの家庭を描く心理ホラー短編集。

16.綿原芹『ぬひんさまの塔』

──都心のタワマンに残る土着信仰と住民の階級社会が、住人を怪異へ巻き込む現代因習ホラー。

17.アンソニー・ホロヴィッツ『命取りのエピソード』

──映画化された事件簿の撮影現場で俳優が殺され、本物のホーソーンの過去まで暴かれていくシリーズ第6作。

18.M・W・クレイヴン『ブラッディダイスの殺人』

──17人を射殺した謎のスナイパーと、多面体ダイスに隠された規則を追う長距離狙撃ミステリ。

19.ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ【新装版】』

──マンハッタン育ちの青年探偵が、英文学の知識と裏社会の技術を武器にロンドンで失踪少女を追う犯罪小説。

20.ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

──19世紀ヨーロッパを舞台に、偽造家が生み出す嘘と陰謀が歴史を動かしていく歴史サスペンス。

21.ウィリアム・トレヴァー『トレヴァー短編選集1』

──何気ない会話や日常の風景から、孤独や後悔、歴史に傷ついた人々の人生を描く八篇の短編集。

22.ジャック・ケッチャム『残り火 ジャック・ケッチャム短篇傑作選2 』

──食人族ホラーから孤独や執着を描く心理劇まで、人間の残酷さと哀しさを17篇に収めたケッチャムの短篇傑作選。

23.サム・ロイド『善人による完全犯罪』

──息子の事故を隠すため死体を埋めた父親が、第二の遺体をきっかけに犯罪の深みへ沈んでいく心理スリラー。

24.ケイト・モートン『時計職人の娘』

──150年以上の時を重ねた古い屋敷を舞台に、殺人や失踪、家族の秘密が結びついていく歴史ゴシック小説。

25.ヤン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』

──有名な都市伝説を集め、その由来や社会背景、人から人へ広がる理由を読み解く民俗学の名著。

26.チャールズ・H・フォート『呪われし者の書』

──科学で説明しきれない異常現象の記録を集め、常識や科学の前提を疑う超常現象研究の古典。

27.クエンティン・タランティーノ『おれの映画人生』

──タランティーノが少年時代の記憶と1970年代映画への偏愛を語り尽くす、自伝的な映画批評集。

28.ヒロシニコフ『ホラー映画超近現代史 恐怖が映す時代の不安と欲望』

──2001年から2025年までのホラー映画を、社会不安や映画産業、配信環境の変化とともに追う現代ホラー史。

目次

1.麻根重次『シュレディンガーの密室』

『シュレディンガーの密室』

著者:麻根重次

衝撃度  : (4.0)
技巧性  : (5.0)
面白さ  : (5.0)
読みやすさ: (4.5)
この作品を一言でいうと

扉を開ける行為を死の危険へ変え、密室の常識をひっくり返した極限状況の推理小説。

扉を開けるまで確定しない密室で、救出と殺人が同時に進み始める

フリーライターの朝倉匠は、研究者の妹・美羽から重要な話があると呼び出され、長野県安曇野の山奥に建つ蓮田医学生物研究所を訪れる。

そこで出会ったのは、研究所の大口出資者・大門公一と、彼のもとで保護されている少女・円香だった。円香には、大門への臓器移植を目的として育てられてきた疑いがある。

そんな不穏な空気の中、円香が突然高熱を発し、美羽とともに陰圧隔離室「実験室E」へ収容される。直後、豪雨による土砂崩れが研究所を襲い、外部への道は完全に断たれてしまった。

さらに配管が破損し、高濃度の硫化水素が漏出。実験室Eへ向かう通路は、一歩踏み込めば命を落としかねない危険地帯へ変わる。

開ければ殺す。待てば手遅れになるかもしれない

最大の問題は、実験室Eが陰圧室であることだ。

外から扉を開けば、通路を満たしている猛毒ガスが一気に室内へ流れ込む。美羽と円香がまだ生きていた場合、救出のために扉を開ける行為が二人の命を奪いかねない。

しかし、何もしなければ生命維持の限界が迫る。すでに二人が死亡していた場合には、大門への移植に使う臓器を守るため、一刻も早く遺体を回収する必要まで出てくる。

生きているなら開けられない。死んでいるなら、すぐ開けたい。

この極端な二択が、『シュレディンガーの猫』を思わせる状況を現実的な条件だけで作り上げている。箱の中の猫とは違い、密室にいるのは自分の妹と一人の少女。理屈だけなら考えられても、自分が決断する側へ回った瞬間、その重さはまるで変わる。

しかも外に残された人々の利害は一致しない。妹を救いたい匠、大門の命を優先する者、円香を守ろうとする者。それぞれの事情がぶつかり、扉を開けるか待つか、その選択が次第に人間同士の争いへ変わっていく。

これだけでも十分に切迫しているのに、研究所内ではさらに変死事件が発生する。土砂崩れによって外界から隔絶され、人数も限られている。互いの行動を確認できる状況なのに、第二、第三の死者が現れ、しかも犯行可能な人物が見当たらない。

平面図、配管の経路、陰圧室の性質、気圧の変化、人物それぞれの位置。最初は専門的に見えた情報が、少しずつ事件を考えるための材料へ変わっていく。誰がどこにいたのかを整理するほど、犯行は不可能に思えてくる。

中心にある密室も面白い。犯人がどう出入りしたのかを考える従来の密室とは違い、扉は目の前にある。開けようと思えば開けられる。それでも、人命がかかっているため開けられない。

鍵や壁ではなく、人間自身の判断が扉を閉ざしている。この一点だけで、密室の意味が大きく変わる。

終盤では、実験室Eの問題と外側で起きた連続殺人が次第につながり始める。誰が何を知っていたのか。誰がどの時点で何を選んだのか。その積み重ねが整理されたとき、それまで当然と思っていた出来事まで違った姿を見せ始めるのだ。

タイトルの『シュレディンガー』にも大きな意味がある。観測するまで生死が確定しない状態を、扉を開けるかどうかの選択へ落とし込み、さらに一度下した決断は元へ戻せない残酷さまで重ねている。

開けるのか。待つのか。その選択を迫られているあいだにも、密室の外では人が死んでいく。

扉の向こうを確かめたい。

その当たり前の欲求さえ、ここでは命を奪う可能性を持ってしまうのだ。

悠木四季

密室なのに鍵をどう開けるかではなく、開けていいのかで悩ませてくるのがすごい。しかもあの結末は……。

2.市川憂人『呪詛遊戯』

『呪詛遊戯』

著者:市川憂人

衝撃度  : (4.0)
技巧性  : (4.5)
面白さ  : (4.5)
読みやすさ: (4.0)
この作品を一言でいうと

五感と身体機能を奪う呪いを時間ごとに入れ替え、犯行可能性を変化させる特殊設定ミステリ。

呪いが入れ替わるたび、犯人候補まで変わっていく

舞台は、太陽神への信仰と法が国を支配する照和百年の日本。

この世界には、神の怒りを受けた者から視覚、聴覚、味覚、四肢の自由などを奪う〈呪詛〉が存在する。呪われた者は神に背いた人間として扱われ、社会の底辺へ追いやられていた。

スラム街で便利屋を営む壮耶は、生まれてから一度も呪詛を受けた経験がない《呪詛なし》。相棒のヒカルと高額報酬の運搬依頼を引き受け、山奥にある療養施設を訪れるが、翌朝、壮耶の視界から突然すべての光が消える。初めて呪詛を受けたのである。

さらに施設では、もっと異常な現象が始まる。住人たちが抱えていた呪詛が一定時間ごとに別人へ移り、ときには複数が重なる。さっきまで歩けた人物が動けなくなり、目の見えなかった人物が次の時間帯には視力を取り戻す。

そんな混乱の最中、施設内で殺人事件が起きる。

犯行時刻に「何ができたか」を追わなければ、犯人には届かない

『呪詛遊戯』の面白さは、容疑者の能力が時間によって変化し続けるところにある。

普通なら人物ごとのアリバイや移動経路を確認すればいい。ところが本作では、犯行時刻にその人物が目を使えたのか、音を聞けたのか、凶器を握れたのか、歩けたのかまで確認する必要がある。

しかも呪詛は重なる。視覚と両脚を同時に失っていた者もいれば、別の時間帯にはほぼ自由に行動できた者もいる。誰がどの時間に何を失っていたのかを整理するたび、犯行可能な人物が入れ替わっていく。この条件整理がめちゃくちゃ楽しい。

さらに第二、第三の事件が起きることで、可能性はどんどん絞られるはずなのに、逆に矛盾まで増えていく。ある事件では行動できた人物が、別の事件では身体機能を失っている。全員の状態を並べ、ひとつずつ不可能な選択肢を消していく過程には、特殊なルールを使った推理ゲームならではの快感がある。

同時に、壮耶自身も《呪詛なし》の立場を失い、差別される側へ落とされる。それまで外側から見ていた世界を、自分の身体を通して味わうことになるわけだ。彼を支えるヒカルとの関係にも不安や疑念が入り込み、事件の推理だけでは済まない緊張が生まれてくる。

そして終盤では、呪詛の規則、連続殺人、療養施設の秘密が同じ場所へ集まる。超常現象が存在する世界でありながら、事件の核心は最後まで身体条件と時間の整理から追えるのだ。怪異に見える現象を論理へ落とし込み、そのルールを犯人特定にまで使い切る徹底ぶりが気持ちいい。

誰が、どの時刻に、何を見られたのか。音を聞けたのか。歩けたのか。凶器を握れたのか。

その身体条件を一人ずつ照合した先で、ばらばらだった事件がひとつの答えへまとまる。

呪詛による身体機能の変化を犯行可能性の判定へ組み込み、最後まで論理で犯人を絞り込む見事な特殊設定本格だった。

悠木四季

誰が何を知っていたかだけでなく、その瞬間に何ができたかまで整理しなければ犯人へ届かない条件戦なんて面白すぎるだろ。

3.結城真一郎『少年ABCの完璧な選択』

『少年ABCの完璧な選択』

著者:結城真一郎

衝撃度  : (3.0)
技巧性  : (4.5)
面白さ  : (5.0)
読みやすさ: (5.0)
この作品を一言でいうと

法律の死角を利用した少年時代の秘密が、15年後の誘拐とSNS暴露によって崩れ始める青春犯罪ミステリ。

友を守るための完璧な選択が、15年後の人生を追いつめる

2010年、中学2年の夏。桐原翔吾、黒石鉄平、猿渡大樹の三人には、何としても守りたい幼馴染・鮫島乃愛がいた。

乃愛は実の母親とその交際相手から虐待を受け続けていて、周囲の大人も彼女を救ってくれない。追いつめられた少年たちは自分たちで動き、やがて母親と男を死亡させる取り返しのつかない事態を招いてしまう。

そこで法律知識に長けた翔吾が考え出したのが、三人とも事前に共謀せず、それぞれ単独で致死行為に及んだと供述し続ける方法だった。つまり誰の行為が直接死につながったのかを立証できない状況を作り、司法の手から逃れようとしたのだ。

そして15年後。大人になった三人は、それぞれ別の人生を歩んでいた。ところが乃愛が何者かに誘拐され、犯人はSNSへ声明を投稿する。

15年前の真犯人が名乗り出なければ乃愛を殺す。さらに3時間ごとに三人の個人情報を公開するという、悪意に満ちたカウントダウンまで始まる。

15年前に守った友情が、今度は三人の現在を壊し始める

少年時代なら、乃愛を守るためにすべてを捨てる覚悟を持てた。しかし15年も経てば事情は変わる。

仕事があり、家族があり、守りたい日常もある。過去の約束を貫けば現在を失うかもしれず、現在を選べば乃愛を見捨てることになる。

ここへSNSが容赦なく入り込んでくる。住所や経歴が晒されれば、秘密は当事者だけのものでは済まない。事情を知らない大勢の人間が断片的な情報を拾い、憶測を重ね、三人を裁き始める。15年前には司法から逃げ切れた少年たちが、今度は法廷すら必要としないネット上の私刑に追いつめられていく。

さらに警察も、誘拐事件だけを追っているわけではない。かつて決着をつけられなかった15年前の事件が再び浮上し、三人が守ってきた秘密にも手が伸びる。誘拐犯からの脅迫、警察の捜査、SNS上の暴露が同時に迫り、残された時間だけが減っていく。

過去編と現在編を重ねることで、少年時代には正しく思えた選択が、大人になった彼らへ別の意味で返ってくるのも苦い。あの日は乃愛を救うために手を組んだ三人だった。それでも、15年間に築いた家庭や仕事まで差し出せるかとなれば、友情だけで簡単に答えは出せない。

そして物語が進むほど、タイトルにある『完璧な選択』の意味まで怪しくなってくる。法律上の弱点を利用し、三人とも罪を免れた。それは確かに当時の彼らを救った。

しかし、本当に完璧だったのなら、15年後までこんな形で追いかけてくるはずがない。

少年たちが守ろうとしたもの。大人になった彼らが失いたくないもの。そして乃愛が15年間抱えてきたもの。

三つの人生が再び交わったとき、あの夏に出した答えがもう一度突きつけられる。

悠木四季

14歳のときなら三人で全部背負えた。でも15年後には家族も仕事もある。その状態でも昔と同じ選択ができるのか、ここがめちゃくちゃ重いのだ。

4.下村敦史『あいつも誰かに殺される』

『あいつも誰かに殺される』

著者:下村敦史

衝撃度  : (4.5)
技巧性  : (4.0)
論理性  : (4.0)
読みやすさ: (5.0)
この作品を一言でいうと

SNS上の憎悪と殺害依頼が現実の死へつながり、正体不明のタナトスを巡って社会全体が暴走していく犯罪サスペンス。

名前を晒せば、死神が殺しに来る

人気SNSアプリ「リアリズム」に、ある日ひとつの投稿が流れる。

アカウント名はハナ。そこには詐欺師・鈴木健三への激しい憎悪と顔写真が掲載され、その投稿へ〈タナトス〉を名乗る謎のアカウントが殺害予告を返す。

悪趣味な冗談で終わるかと思われたが、指定された日時に鈴木健三は高層ビルから転落して死亡。現場にはタナトスの投稿画面を印刷した紙まで残されていた。この一件を境に、リアリズムの空気は一変する。

詐欺師、パワハラ上司、不倫相手、自分を傷つけた人間。利用者たちは憎い相手の実名を次々と晒し、タナトスへ殺害を求め始める。

その願いに応えるかのように第二、第三の死者が現れ、ネット上では死神を正義の執行者として持ち上げる声まで膨れ上がっていく。

場所も殺し方も違う。それでも死の前には必ずタナトスがいる

警視庁捜査一課の虹ヶ谷礼太郎と音羽沙織は、姿の見えないタナトスを追う。

しかし犯行には共通した手口がない。刺殺、毒殺、絞殺、事故死に見せかけたケースまであり、発生場所も都県をまたいで広がっていく。

同一人物が短期間にこれほど異なる場所と方法で犯行を重ねているのか。複数人による犯行なのか。あるいはタナトスの名を借りた模倣犯まで混じっているのか。事件が増えるほど犯人像は絞られるどころか、かえって輪郭を失っていく。

さらに厄介なのが、リアリズムにあふれる大量の投稿だ。事件と関係のない噂、面白半分の殺害依頼、インプレッション目当ての煽りまで混ざり、事実を拾い上げるだけでも容易ではない。誰かの死を願う投稿が大量に流れるほど、一人ひとりが殺人へ加担している感覚まで薄れていく。

名前を書き込み、その願いを拡散し、殺人が実行されれば正義だと持ち上げる。そんな空気が広がった先では、タナトス一人を捕まえればすべて終わるのかさえ怪しくなる。匿名の群衆が殺意を娯楽として消費する光景には、現実のSNSと地続きの嫌らしさがある。

その熱狂とは対照的に、虹ヶ谷と音羽は現場を歩き、証拠を拾い、被害者の周辺を一人ずつ調べていく。SNSでは数秒で犯人候補や憶測が生まれる一方、警察の捜査は地味で時間もかかる。それでも、ばらばらに見える死を結ぶには、その積み重ねしかない。

そして捜査が進むほど、一連の殺人を単純な連続殺人として見ること自体が怪しくなっていく。場所も違い、殺害方法も違い、被害者同士に分かりやすい接点もない。それなのに、死の前には必ずタナトスの予告が置かれている。

死神は本当に一人なのか。

それとも、人々が画面の向こうに作り上げた名前だけの存在なのか。

『あいつも誰かに殺される』という題名は、犠牲者が増えるほど嫌な響きを帯びていく。

今日、誰かの死を願っていた人間が、明日には自分の名前を晒される側へ回るかもしれないからだ。

悠木四季

憎い相手の名前を書くだけで、本当に誰かが殺してくれる。そんな場所が生まれたら人はどこまで残酷になれるのか、その先まで見せてくるのが怖い。

5.伏尾美紀『誰何』

『誰何』

著者:伏尾美紀

面白さ  : (5.0)
人間ドラマ: (5.0)
ストーリー: (5.0)
読みやすさ: (4.0)
この作品を一言でいうと

東京と北海道で見つかった二つの身元不明死体を、一枚の古い名刺から追いかける重厚な警察小説。

二度死んだ女と、あり得ない場所に捨てられた男

東京都杉並区の古びたアパートで、松川美和と名乗る初老女性が孤独死する。

病死と判断され、事件はそのまま終わるはずだった。ところが親族へ連絡すると、美和は二年前にすでに亡くなり、火葬まで済んでいると判明する。

では、東京で死んだ女性はいったい誰なのか。

さらに遺品から見つかったのは、元北海道警刑事・新内由紀の古い名刺だった。

ほぼ同じ頃、北海道石狩市でも奇妙な死体が発見される。男性には車にはねられた痕跡があるのに、遺体が横たわっていた遊歩道へ車は入れない。別の場所で死亡したあと、何者かがわざわざ運び込んだ可能性が浮上する。

そして、この男性の自宅からも新内の名刺が見つかる。

遠く離れた東京と北海道。接点などなさそうな二人の死者が、一人の元刑事を中心に結ばれ始める。

一枚の古い名刺が、東京と北海道の死者をつないでいく

新内はすでに警察を辞め、札幌市内の児童相談所で児童虐待対応支援員として働いている。

ある事件で深い傷を負い、刑事としての人生から離れたばかりだった。そんな彼の前へ突然現れるのが、警視庁の刑事・宝生尊である。

この宝生がとにかく気味が悪い。会って話したはずなのに、あとから顔を思い出せない。表情も目鼻立ちも記憶へ引っかからず、それでいて新内の過去については妙に詳しい。何を知っているのかも、どこまで信用していいのかも分からないまま、新内は再び事件へ引き戻されていく。

一方、北海道では若手刑事・砂本修二が男性の身元を追う。かつて新内から刑事の基礎を叩き込まれた砂本にとって、師の名刺が死者の部屋から出てきた事実は無視できない。

現役刑事として地道に証拠を拾う砂本と、警察の権限を失った新内。別々の場所から始まった二人の調査が、少しずつ同じ過去へ近づいていく。

事件の背景へ踏み込むにつれ、児童虐待、貧困、家族制度の隙間に置き去りにされた人々の姿も浮かび上がる。名前を変え、土地を離れ、過去から消えてしまった人間。その人生が何十年も経ってから、二つの死体を通して再び表へ出てくる。

題名の『誰何』も重い。そこにいる人間が誰なのか確かめる。その行為は、本作では死者の身元確認だけに向けられていない。

新内はなぜ刑事を辞めたのか。宝生はいったい何者なのか。二人の死者はどんな人生を歩んできたのか。ひとつずつ名前と過去を取り戻していくほど、ばらばらだった事件が一本へ集まっていく。

派手な事件が次々と起こるタイプではなく、聞き込みや記録、古い人間関係を丹念に追う捜査が中心だ。それでも、東京の女性と北海道の男性がどこでつながるのか気になり、ページをめくる手が止まりにくい。

二年前に死んだはずの女性が、東京でもう一度死んでいた。車の入れない遊歩道には、ひき逃げされた男性の遺体が残されていた。その二人の間に置かれていたのが、新内由紀の古い名刺である。

身元不明の死者に名前を取り戻す捜査が、やがて家族と社会の中で消されてきた人生を暴き出す。

そこまで含めて、『誰何』の題名が最後に重くのしかかるのだ。

悠木四季

警察を辞めた新内と現役刑事・砂本が別々の場所から調査を進め、二つの死が同じ過去へ結びついていく流れが見事な一本である。

6.衣刀信吾『紙上法廷』

『紙上法廷』

著者:衣刀信吾

衝撃度  : (4.5)
技巧性  : (5.0)
論理性  : (4.0)
読みやすさ: (5.0)
この作品を一言でいうと

四つの法的パズルと、その作品群に隠された意図を二重に追いかける連作法廷推理劇。

四つの法廷小説を読み比べるうち、現実の事件まで動き始める

弁護士、裁判官、検察官ら司法の実務家が集まる「法曹ミステリー愛好サークル」。

創立十周年を記念して同人誌を作ることになり、リーガル小説を募集した結果、最終候補として四篇が残る。選考委員たちは最優秀作を決めるため、それぞれの作品を法律と推理の両面から検討していく。

候補作の題材はどれも癖がある。内縁関係を解消したい男女が、なぜ別れる直前にわざわざ婚姻届を出したのか。目の前で心臓発作を起こした父親を放置した息子は、殺人罪に問われるのか。

死因によって相続人が変わる遺言書、瀕死の被害者が残した絨毯に関する言葉まで、法律を知らなければ見落としそうな穴が事件の中心に置かれている。

四つの小説を裁いていたはずが、現実の疑惑まで裁くことになる

面白いのは、法律知識が単なる解説役に回らない点だ。民法や刑法、証拠に関する考え方が、そのまま人物の行動や事件の可能性を左右する。

婚姻届一枚の意味が変わり、同じ死でも法的な評価が変わる。条文を知っているかどうかで、見えている事件の形まで変化していくのだ。

四篇それぞれの味も違う。『別れのための婚姻届』は奇妙な行動の理由を探り、『夕暮れの接見室』では救護しなかった行為がどこまで犯罪になるのかを追う。

『雪灯りに消えた遺言書』では死因と相続が絡み合い、『雨に笑う検察事務官』では死者の言葉と証拠の扱いが焦点になる。法律を使った謎解きを、四方向から味わえるわけだ。

しかも本書は、候補作を四本読んで終わらない。選考委員たちが作品について話し合うほど、文章の細部に妙な引っかかりが生まれ、なぜこの四篇が応募されたのかまで気になり始める。紙の上に書かれた架空の事件を審査していたはずが、その内容がサークルの現実や過去の出来事へ近づいていくのだ。

ここから、同人誌の選考会だった場が別の顔を見せ始める。候補作の完成度を論じていた会話が、いつの間にか作者の意図や過去の疑惑を探る材料へ変わり、四篇を読み終えたあとにも大きな謎が残る。

作中作を読む楽しさと、その外側で進む事件が最後につながるため、二重に考えさせられるのもいい。法律を使った知的ゲームを楽しんでいたはずが、終章では選考会を読み直したくなる。

四つの小説を裁くために集まった法曹たち。

だが最後に裁かれるのは、紙の上の事件だけとは限らない。

悠木四季

法律で小説を読むはずが、最後には小説の側から現実を裁かれている感じが独特だ。

7.辻堂ゆめ『残火』

『残火』

著者:辻堂ゆめ

衝撃度  : (4.0)
面白さ  : (5.0)
ストーリー: (5.0)
読みやすさ: (4.5)
この作品を一言でいうと

十四年前の放火事件を起点に、被害者遺族と加害者家族の痛みが再び衝突する社会派警察小説。

被害者遺族と加害者家族、苦しみを比べることはできるのか

十四年前、大森産婦人科医院が炎に包まれ、産婦や新生児、助産師ら四人が死亡した。火を放ったのは院長・大森千彦。無期懲役となった彼は長い服役生活の末、獄中で病死する。

事件の記憶が薄れ始めた頃、妻や子を失った被害者遺族の男性三人が相次いで姿を消す。高尾署の森垣里穂子と警視庁捜査一課の羽山圭司が行方を追うと、三人へ仕事を紹介していた湊川潤が浮上する。

そして身元を調べた瞬間、事件の意味が一変する。湊川は、十四年前に病院を焼いた大森千彦の実の息子だった。

被害者遺族を、加害者の息子が拉致した。表面だけ見れば、父親への恨みを向けられ続けた男による復讐に見える。

ところが湊川は取調室で、父親の罪によって自分の人生まで崩された過去を淡々と語り始めた。

加害者家族と被害者遺族、どちらの人生が重いのか

湊川自身は人を殺していない。それでも殺人犯の息子というだけで、学校でも仕事でも居場所を失い、世間から長く罰を受け続けてきた。

一方、拉致された三人もまた、十四年前の火災で最愛の妻や子を奪われ、その喪失を抱えながら生きてきた人々である。

そこで湊川は刑事たちへ問いかける。加害者家族と被害者遺族、そのどちらか一方にならなければならないなら、どちらを選ぶのか。簡単に答えられるはずのない問いなのに、監禁された三人には刻一刻と危険が迫っている。

羽山と里穂子は湊川から監禁場所を聞き出そうとするが、彼は肝心な部分だけを巧妙にはぐらかす。その最中、新たな被害者遺族の自宅が爆発し、炎上する事件まで発生。

取調室の中では言葉による駆け引きが続き、外では次の惨事を止めるため警察が走り回る。この二つが並行して進むため、物語全体に時間切れの緊張が途切れない。

しかも話を追うほど、十四年前の放火事件まで単純には見えなくなってくる。誰が被害者で、誰が加害者なのか。善意のつもりで取った行動が、別の人間にとっては暴力になる場合もあるのだ。

羽山は被疑者の言葉や行動から意図を読み、里穂子は被害者側の感情へ寄り添いながら事実を拾い直す。同じ事件を見ていても視線の向きが違うため、二人の捜査が重なった瞬間、それまで見えていた関係まで別の形へ変わる。

『残火』という題名も重い。十四年前の火は消えたはずなのに、その熱だけが人の中へ残り続け、年月を経て再び燃え上がる。恨みも、罪悪感も、喪失も、時間だけでは消えてくれない。

本作が描くのは、被害者遺族と加害者家族、それぞれの痛みが、善意や正義によってさらに傷つけられる過程だ。

十四年前の真相が明らかになったとき、題名の『残火』が事件のあとも人の中へ消えずに残った恨みと罪悪感を指していたと分かる。

悠木四季

加害者家族と被害者遺族、どちらになりたいか。そんな選択に答えなんて出せないのに、湊川はその答えを迫ってくるのだ。いやすぎる。

8.真門浩平『終着駅で待ち合わせ』

『終着駅で待ち合わせ』

著者:真門浩平

衝撃度  : (4.0)
技巧性  : (4.5)
論理性  : (5.0)
読みやすさ: (5.0)
この作品を一言でいうと

日常の小さな違和感から明晰夢の殺人事件まで、五種類の論理を楽しめる短編集。

日常の小さな違和感から始まり、五つの物語がまったく違う答えへ連れていく

女子大生二人が電車で見かけたのは、急行に乗っていたのに途中から各駅停車へ移った少年だった。

到着時間はほとんど変わらない。それなのに、なぜわざわざ十三駅も各停に揺られて帰る必要があったのか。『各停十三駅分の帰り道』は、そんな小さな行動から仮説を積み上げていく短編だ。

『非運の死』では、長男の事故死を受け入れられず陰謀論へ傾く母親と、新興宗教へ救いを求める妹に対し、理系大学生の語り手が事実を整理して向き合う。

『天森町は今日も雨』の舞台では雨が何年も止まず、その町で兄がついた小さな嘘の理由を追う。

五編とも入口は身近なのに、扱う題材も読み味も大きく変わる。

夢の中で犯人の名前を見た。それを現実の推理へどうつなげるのか

中でも『夢落ち』は設定からして面白い。激務と過食に悩む大野由佳は、眠りながら自分の夢を操作する明晰夢を学び、夢の中で欲望を満たすことで生活を立て直していく。

やがて実践者たちが集まる山荘へ参加するが、そこで殺人事件が発生してしまう。その夜、由佳は明晰夢の中で一冊の本を開き、そこに真犯人の名前が記されているのを見る。

夢で見た情報をそのまま証拠にはできないし、自分の脳が勝手に作った内容かもしれない。それでも、なぜその名前が夢へ現れたのかを現実の出来事から逆にたどることで、超常現象に見えた出来事が論理の領域へ引き戻されていく。

この「あり得ない情報をどうやって現実側から説明するか」という考え方が本書全体にも通じている。電車の乗り換えも、雨の町でつかれた嘘も、遊園地から急に帰ろうとした少女の行動も、最初は意味が分からない。けれど事情を一つずつ拾うと、その人がそうするしかなかった理由が浮かび上がる。

最終編『写真には写らない』では、前作『ぼくらは回収しない』(この作品もおすすめ!)にも登場した速水士郎が再び現れる。遊園地デートの最中、突然帰宅しようとした女子高生の心を追う話で、事件らしい事件が起こらなくても、人の行動だけで十分に謎が成立することを見せてくれる。

論理だけで相手を追い詰める話ばかりでもない。『非運の死』では、正しい説明を示せば人の心まで簡単に救えるわけではなく、事実と感情の距離が描かれる。謎を解く行為が、相手の抱えているものへ近づくために使われているのも、この短編集の好きなところだ。

五編に共通するのは、ほんの少し引っかかる行動から始まることだ。

各停へ乗り換える。傘を忘れたと話す。夢の中で名前を見る。遊園地から帰りたがる。

そんな違和感を見逃さず考え続けると、日常の裏側に隠れていた事情まで届くのである。

悠木四季

中でも収録作の一編『夢落ち』は傑作だった!

9.伊吹亜門『名探偵(あるいは入舟家)の一族』

『名探偵(あるいは入舟家)の一族』

著者:伊吹亜門

衝撃度  : (4.5)
技巧性  : (5.0)
独創性  : (5.0)
読みやすさ: (4.0)
この作品を一言でいうと

平安から平成まで、五つの時代を入舟家の名探偵たちが駆け抜ける歴史本格推理。

時代が変わっても、入舟家には必ず謎が待っている

平安時代から平成まで、およそ千年。歴史の節目には、不可解な死を論理で解き明かしてきた入舟家の人々がいた。

本書は五つの時代を舞台に、一族の末裔たちがそれぞれ異なる事件へ挑む連作集である。

最初の舞台は承和四年、唐へ向かう遣唐使船。暴風雨に襲われた木造船の内部で殺人が起こり、入舟清行が船上の密室へ挑む。続く天正十八年には小田原征伐の陣中へ移り、入舟清成が千利休や古田織部らのいる茶の世界で、名器「朧」をめぐる死の真相を追う。

幕末では知多半島へ流れ着いた異国人の死体、昭和二十年には終戦直後の特攻艇《震洋》基地で起きた青年将校の死、そして平成では房総半島の旧家に遺された不可解な言葉へと時代が進む。

主人公も場所も毎回変わるのに、入舟家の血だけが一本の線となって全編を貫いていく。

歴史が事件を解くための手掛かりになる

各編では、その時代にしか成立しない条件が事件の中心へ入り込む。

遣唐使船なら航海と船内環境、戦国なら茶道と武将たちの作法、幕末なら海防と異国船、昭和なら軍隊と特攻兵器。歴史知識が背景説明で終わらず、なぜ事件が起きたのか、どうやって犯行が可能だったのかを考える材料へ変わる。

特に『大洋を震わす』は重い。玉音放送によって戦争が終わった直後、それでも一人の青年将校は戦死している。なぜ戦争が終わったあとに死ななければならなかったのかを追う過程で、軍人としての立場、命令、戦争末期の空気がひとつの論理へ集まっていく。

『黒樂茶碗 朧』も、茶室を単なる密室として扱わない。茶器、作法、武将たちの証言を重ねながら、戦国期の文化や価値観まで事件の中へ取り込む。現代の常識だけでは見落としてしまう部分があるため、その時代を知ること自体が推理につながっていく。

五編を通して読むと、入舟家の人々が名探偵として華々しく歴史へ名を刻むわけではなく、時代の片隅で目の前の死を解き続けてきた姿も印象に残る。政治も戦争も社会制度も大きく変わるが、理由の分からない死を前にして考える姿勢だけは受け継がれてきた。

平安の荒海、戦国の陣中、幕末の岬、終戦直後の基地、そして平成の旧家。

五つの時代をたどるうちに、それぞれ別々だった事件の背後から、入舟家が歩んできた長い歳月が浮かび上がる。

時代ごとに姿を変える謎へ挑み続けたその積み重ねこそ、この家系に受け継がれてきた探偵の歴史なのだ。

悠木四季

毎回まったく違う時代なのに、入舟家が出てくるだけで一本の大河を読んでいる感覚になる。

10.大神晃『人魚屋敷の殺人』

『人魚屋敷の殺人』

著者:大神晃

衝撃度  : (3.0)
技巧性  : (4.0)
論理性  : (4.0)
読みやすさ: (4.5)
この作品を一言でいうと

不死伝説に支配された孤島で、首なし密室と初恋の少女の救出が重なる因習系本格ミステリ。

初恋の少女を救うため、少年は人魚島へ潜り込む

瀬戸内海に浮かぶ孤島・人魚島には、八百比丘尼伝説を思わせる宗教「おびくに教」が根を下ろしている。

高校生のナルにとって、その島は無関係な土地ではなかった。かつて心を通わせた初恋の少女・姫草櫻が、教祖の血を引く娘として島へ連れ戻され、新たな神になるための継承の儀を迎えようとしていたからだ。

櫻を救い出したいナルは、京都で便利屋を営む樋山を頼り、人魚島への潜入を決行する。ところが島へ入った直後、神聖な領域とされる神殿で首を切断された死体が発見される。

外部から簡単には入り込めない場所で、誰がどうやって殺したのか。

さらに教祖、双子の娘、島民たちの思惑まで絡み、櫻を連れ出すだけだった計画は一気に崩れていく。

因習だらけの孤島で、樋山は怪異をひとつずつ論理へ戻していく

人魚島には、不老不死の教祖、閉鎖的な信仰、血筋を重んじる儀式、双子の巫女、首なし死体まで揃っている。

横溝正史を思わせる濃い舞台なのに、事件の中心へ置かれているのは密室と死体の身元をめぐる論理的な謎だ。怪談めいた雰囲気に飲まれそうになるたび、樋山が事実を拾い直し、あり得る可能性を冷静に削っていく。

第三章「おびくに様パズル」からは、人物関係の見え方まで大きく変わり始める。双子、不死の教祖、顔を奪われた死体、それぞれ別々に見えていた要素がつながり、前半で何気なく通り過ぎた情報まで意味を持ち始める。答えへ近づくたびに別の可能性が現れるため、最後まで簡単には着地点を読ませない。

その一方で、ナルにとって事件は推理ゲームで終わらない。櫻を助けたい気持ちがすべての出発点であり、彼女が本当に望んでいる未来を知るほど、自分の願いだけでは救えない現実まで思い知らされてしまうのだから辛い。

さらに本作は、シリーズでナルがなぜ樋山の助手になったのかを描く前日譚でもある。最初から息の合ったコンビだった二人を知っている人ほど、出会ったばかりの距離感や、ナルが樋山へ抱く感情の変化も楽しめるだろう。

人魚の伝説に閉ざされた島で、少年が救いたかったのは一人の少女だった。しかし神殿の死体を追うほど、櫻自身が選ぼうとしている人生まで無視できなくなる。

島から連れ出せば救済になるのか。それとも、彼女の選択を受け止めることまで含めて救うべきなのか。

首なし密室の真相と初恋の決着を同じ終盤へ重ね、ナルが櫻をどう救うのかまで描き切るところが、この物語の熱さだ。

悠木四季

孤島、カルト、不死の教祖、双子、首なし死体まで全部盛りなのに、最後はナルの初恋までちゃんと物語の中心へ戻ってくる。シリーズの始まりを知れるのも嬉しい。

11.黒川博行『流砂』

『流砂』

著者:黒川博行

面白さ  : (5.0)
ストーリー: (5.0)
人間ドラマ: (4.0)
読みやすさ: (3.0)
この作品を一言でいうと

トクリュウの金を奪う殺人犯を、警察と裏社会が同時に追い詰めていく長篇犯罪小説。

使い捨ての実行役だった男が、今度は犯罪組織を狩り始める

特殊詐欺や強盗の実行役をSNSで集め、必要がなくなれば簡単に切り捨てるトクリュウ。

宗教二世として生きづらさを抱えてきた青木も、その末端へ入り込んだ一人だった。

だが青木は、集めた現金を上へ渡し続けるだけの立場に嫌気が差す。そこで彼が考えたのは、金を受け取りに来た指示役を殺し、遺体を重機で地中へ埋め、回収した金を丸ごと奪う方法だった。

相手も犯罪者なのだから始末して構わないと割り切り、偽造身分証を使いながら東京から大阪へ移動し、同じ犯行を重ねていく。

追う警察、狙う暴力団、その間を青木がすり抜けていく

青木が恐ろしいのは、感情に任せて暴れるタイプではなく、損得を計算したうえで淡々と人を殺せるところだ。

危険が高ければ引き、金になるなら踏み込む。罪悪感もほとんど持たず、自分の行動へ都合のいい理屈まで与えているため、次に何をするのか読みにくい。

一方、大阪府警北淀署の皆木と迫田は、一件の行方不明者届から捜査に乗り出した。最初はわずかな違和感にすぎなかったが、聞き込み、防犯カメラ、科学捜査を重ねるうち、点だった情報が結びつき、青木の犯行へ迫っていく。派手な勘に頼らず、細かな痕跡を一つずつ拾いながら包囲を狭めていく、その地道な捜査の積み重ねが丁寧だ。

しかも青木を追う手は、警察の捜査だけにとどまらない。指示役が消え、大金まで持ち逃げされたトクリュウ側も黙ってはいない。その背後にいる暴力団まで動き出し、警察とは別の経路から青木の居場所を探し始めるのだ。

青木から見れば、片方へ逃げればもう片方に捕まる可能性がある。警察は証拠を積み上げながら包囲し、裏社会は情報屋や暴力を使って距離を詰める。その両者をかわそうと青木も動き続けるが、物語が進むにつれ残された逃げ道はわずかしか残らない。

重い犯罪を扱いながら、皆木と迫田の関西弁によるやり取りが空気を変えるのも黒川博行らしい。捜査中でも遠慮なく軽口を叩き、相手の言葉へ即座に返す会話には独特のテンポがあり、624ページの長編をぐいぐい読ませる力になっている。

そして題名の『流砂』がよく似合う。トクリュウには固定された組織図も、仲間を守る強い結びつきもなく、人が次々と入れ替わる。末端の実行役も指示役も、利用価値がなくなれば沈んでいく。

青木はそんな世界から抜け出すため、指示役を殺して金を奪ったつもりだった。だが犯行を重ねるほど、警察と暴力団の両方から包囲され、自分で選べる道まで狭くなる。

犯罪組織を出し抜いて自由を手にしたはずの男が、誰より深く裏社会へ沈んでいく。

逃れようともがくほど深みにはまる、その姿こそ『流砂』の題名にふさわしい。

悠木四季

犯罪組織の指示役を殺して金だけ奪う男を、警察とヤクザが両側から追う。この三つ巴だけでも面白いのに、トクリュウの生々しさまで乗ってくるから624ページあっても重さを感じにくいのが良い。

12.夢野久作『白髪小僧 夢野久作全童話 上』

『白髪小僧 夢野久作全童話 上』

著者:夢野久作

幻想度  : (5.0)
残酷度  : (4.0)
毒気度  : (4.0)
久作度  : (5.0)
この作品を一言でいうと

『ドグラ・マグラ』以前の夢野久作が残した、幻想と残酷さとブラックユーモアに満ちた初期童話集。

夢野久作の原点を100篇以上の童話からたどる

『ドグラ・マグラ』『瓶詰の地獄』などで知られる夢野久作には、作家として広く知られる前から大量の童話を書いていた時期がある。

本書は、九州日報の記者として活動していた頃を中心に残された初期童話を集めた全二巻の上巻で、512頁にわたって久作の知られざる作品世界を味わえる一冊だ。

巻頭の『白髪小僧』は、生まれながらに真っ白な髪を持つ少年の遍歴を描いた中編。外見を理由に周囲から疎まれた少年が旅へ出て、欲望に取り憑かれた大人や、人ならざる存在、運命に翻弄される人々と出会っていく。

昔話を思わせる素朴な語り口の奥から、人間の残酷さや執着が顔を出すあたりには、後年の久作へつながる気配が早くも漂っている。

子供向けの童話を読んでいたはずが、いつの間にか夢野久作の世界へ入っている

『豚吉とヒヨロ子』『正夢』『天狗退治』『石の地蔵様』『運の川』『不幸の神像』『龍宮の蓮の花』など、収録作は昔話、動物寓話、怪談、幻想譚と幅広い。

軽やかな文章で始まった話が、欲を出した人間への容赦ない報いへ進んだり、突然死が入り込んだりして、単純な教訓話だけでは終わらない。

善人が必ず報われ、悪人が分かりやすく罰を受ける世界とも限らない。人は欲望に振り回され、偶然に運命を狂わされ、時には理由さえ分からないまま不幸へ落ちていく。その冷たさの横には、弱い者への慈しみや、人間の愚かさを笑うブラックユーモアも置かれている。

後年の作品を知っていると、さらに楽しみ方が増える。夢、死、輪廻、狂気、人間の正体が揺らぐ感覚など、久作が繰り返し扱う題材の芽が、すでに童話の中へ入り込んでいるからだ。『ドグラ・マグラ』のような複雑な作品へ到達する以前から、頭の中にはこの世界があったのかと思うと面白い。

一方で、難解な作品ばかりが並ぶわけでもない。短く読みやすい話も多く、動物や妖怪、神仏が登場する物語には昔話らしい親しみもある。そこへ久作特有の毒や死生観が混ざるため、素朴な童話の顔をしたまま急に足元をすくわれる。

日下三蔵による編纂で、散らばっていた初期童話をまとめて読める点も大きい。代表作だけを追っていると見落としやすかった夢野久作の若い時代が、100篇以上の物語を通して少しずつ立ち上がってくる。

『ドグラ・マグラ』の作者は、どこからあの世界へたどり着いたのか。

その答えの一部が、子供へ向けて書かれたはずの童話の中にもう潜んでいる。

悠木四季

夢野久作の童話だから普通に終わるはずがない、と思って読んだがやっぱり黒かった。しかもその黒さが『ドグラ・マグラ』以前からあったのだと思うと余計に面白い。

13.高木彬光『帝国の死角 第一部・天皇の密使』

『帝国の死角 第一部・天皇の密使』

著者:高木彬光

歴史感  : (5.0)
謀略度  : (4.0)
没入度  : (5.0)
スケール : (4.0)
この作品を一言でいうと

天皇の秘密資金を託された海軍士官が、戦時下ヨーロッパでナチスと渡り合う国際謀略巨編。

第二次世界大戦の裏側で、もうひとつの戦争が始まる

物語の冒頭に登場するのは、作家・高木彬光本人。彼が偶然手にした秘密文書「鈴木文書」には、第二次世界大戦下で海軍士官・鈴木高徳が遂行した極秘任務の記録が残されていた。

鈴木に託されたのは、スイスの銀行へ預けられた莫大な皇室資金を使い、日本に不足するタングステンなどの希少資源を欧州から調達する任務だった。

戦争が激化する中、ベルリンやチューリヒを往来し、政商、銀行家、ナチス高官、各国の情報機関を相手に秘密取引を進めていく。

当然ながら、巨額の金を狙う者も現れる。ナチス側は外交官である鈴木へ簡単には手を出せず、彼の身近な人物を利用して揺さぶりをかけるが……。

戦争史を読んでいるはずが、巨大な推理小説の入口へ立たされる

第一部の大半は、国際謀略小説として進む。秘密口座から資金を動かし、希少金属を確保し、敵国の監視をかわしながら輸送経路まで整える。銃撃戦だけに頼らず、銀行取引や外交、商談を緊張感のあるドラマへ変えている。

ナチス支配下のヨーロッパが舞台なので、実在の歴史と虚構の境目も面白い。ベルリンの情勢や第三帝国末期の混乱へ架空の秘密任務を入り込ませることで、本当にこんな記録が残っていたのでは、と錯覚しそうになる。

しかも鈴木文書は単なる語りの器に終わらない。誰がこの記録を書き、どこまで信用できるのか。高木彬光本人まで物語へ入り込んでいるため、史実を追っている感覚と創作を読んでいる感覚が少しずつ混ざり始める。

そして第一部で積み上げられた秘密資金と鈴木の足跡は、第二部『神々の黄昏』で戦後日本へ持ち越される。戦時下の欧州を舞台にした情報戦が、やがて莫大な遺産をめぐる事件へ姿を変えるため、本巻を読み終えた段階ではまだ物語全体の輪郭を掴み切れない。

ここが『帝国の死角』の恐ろしいところである。440頁を使って描かれた戦時下の極秘任務が、さらに大きな物語の土台になっている。

天皇の秘密資金を運ぶ海軍士官の冒険譚として読み始めたはずが、最後にはこの文書をどこまで信じていいのかまで疑わされてしまう。

第一部『天皇の密使』は、国際謀略小説と推理小説を一つの巨大な物語へ接続する前半戦だ。

悠木四季

こんなに面白い第一部を読んだら、第二部『神々の黄昏』も読みたくなるに決まっている。

14.櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』

『無音 忌み語を紡ぐ町』

著者:櫛木理宇

恐怖度  : (4.5)
面白さ  : (4.0)
独創性  : (5.0)
読みやすさ: (5.0)
この作品を一言でいうと

口にしてはいけない音と娘の姓名が重なり、家族の日常まで怪異に侵されていく因習ホラー。

最悪の忌み語は、愛する娘の姓名だった

夫・健介の転勤をきっかけに、妊娠中の高嶋那月は故郷のD県十櫃町へ十数年ぶりに戻ってくる。

だが彼女にとって、ここは懐かしい故郷とは呼びにくい。実母から受けた精神的な虐待と、町全体を覆う閉塞感が、今も記憶の底に沈んでいる。

十櫃町には昔から、決して口にしてはいけない〈忌み語〉が存在した。「たがい違い」「アカンボ」「くっつく」。なぜ禁じられているのか、住民自身も理由を知らない。それでも誰もが、その音だけは避けて暮らしている。

中でも最大の禁忌となっているのが、「タカシマサキ」だった。那月の中学時代、同級生の鷹島咲が不可解な死を遂げ、その後、学校や町で自殺が相次いだ。葬儀では、那月自身も「ひーい」と響く異様な声を耳にしている。

ところが現在の那月は高嶋姓。そして幼い娘の名は沙希。

高嶋沙希。

呼べば、それだけで町が恐れる忌み語と完全に同じ音になる。

名前を呼べない町で、家族の中にまで怪異が入り込む

ここからの日常がとにかく最悪だ。娘の名前を呼ぶ当たり前の行為が、この町ではその瞬間だけ空気が変わる。禁忌を知っている那月には、何気ない呼びかけすら災厄への入口に思えてしまう。

やがて沙希は不可解な言動を繰り返し、自宅の壁の向こうから気配が忍び寄る。夜になると聞こえる音、止まらない耳鳴り、家の中にいる何か。かつて町で聞いた「ひーい」という声まで記憶の奥から戻り、那月の日常は少しずつ崩れていく。

しかも彼女は妊娠中で、悪阻や身体の変化にも苦しんでいる。自分が感じている異常は本物なのか、それとも心身が弱っているせいなのか。夫の健介からも迷信やノイローゼに近いものとして扱われ、怪異を恐れる那月だけが家族の中で取り残されてしまう。

この孤立が怖い。幽霊らしき存在が現れる場面より、誰にも信じてもらえない状態で夜を迎える時間のほうが苦しく感じるほどだ。実母との関係、沙希への複雑な感情、妊娠中の身体まで重なり、外から襲ってくる怪異と那月自身の不安が切り分けられなくなっていく。

物語の前半では、中学校で起きた連続自殺や古い塚、鉄道工事の犠牲者、オカルト雑誌の記事など、十櫃町に積もった過去が少しずつ掘り起こされる。ばらばらに見えた怪談が重なるにつれ、この土地では長い年月をかけて何かが封じられてきた気配が濃くなる。

後半になると、その恐怖が那月一家の生活へ一気に近づく。町全体を覆っていたはずの因習が、壁一枚、廊下一本、娘との距離まで縮まってくるのだ。遠い昔の伝承だったものが、自分の家の中へ入り込んだ瞬間の怖さが凄まじい。

そして最後まで引っかかるのは、なぜ特定の音だけが禁じられてきたのかという点である。意味の悪い言葉だから避けるのではなく、音が恐れられている。

理由を忘れても禁忌だけが残り、人々は何世代にもわたってそれを守り続けてきた。

高嶋沙希。

母親なら何度でも呼びたい娘の名前が、町では最悪の音になる。

『無音 忌み語を紡ぐ町』は、名前を呼ぶごく普通の行為を、これほど怖いものへ変えてしまった。

悠木四季

真面目な話、ここ最近の櫛木理宇作品は本当に傑作ばかりだと思うのよ。前作の『鬼門の村』も最高だったし。

15.まだ学校だよ『家族信仰』

『家族信仰』

著者:まだ学校だよ

恐怖度  : (4.0)
家族圧  : (5.0)
残酷度  : (4.0)
後味度  : (4.5)
この作品を一言でいうと

家族の愛、期待、信仰が支配へ変わる瞬間を、五つの家庭から描いた心理ホラー短編集。

守ってくれるはずの家族が、五つの物語で最も恐ろしい存在へ変わる

「いつだって家族はあなたの味方です」

そんな言葉を、そのまま信じられなくなる五篇のホラー短編集である。

親が子を愛する気持ち、家族を守ろうとする善意、代々受け継がれてきた信仰が、少しずつ形を変えながら人間を追いつめていくような短編ばかりだ。

『肉塊との生活』では、かつて美しく大好きだった母親が、ある日から赤黒い肉の塊にしか見えなくなった少女の日常を描く。『おままごと』では、子供同士の無邪気な夫婦ごっこを通して、ひとつの家庭に隠されていた虐待と惨事が浮かび上がる。

子供の目には意味の分からない言葉や行動が、大人の視点から見ると別の意味を持つため、何気ない会話まで怖くなる。『あやとり』では、首のない地蔵に残された赤いあやとりをきっかけに、存在しないはずの妹が青年の生活へ入り込む。

『伊波ゆき』で描かれるのは、娘を完璧に育てたい母親の過剰な愛情だ。愛され続けることが幸福とは限らず、逃げ道を奪うほど濃くなった愛情が、少女の生活を支配していく。

怪異より逃げにくいのは、家族から向けられる愛だった

五篇には幽霊や呪い、理解しがたい現象が現れるが、それだけで恐怖を作っているのではない。

真夏の部屋にこもる熱気、古い家に染みついた匂い、蝉の声、閉ざされた襖、息苦しい室内など、誰もが知っている生活の感覚へ怪異が混ざる。遠い世界の怪談として切り離せず、自分の家にもありそうな距離まで近づいてくる。

そして怖さの中心には、いつも家族がいる。親だから子供を理解している、愛しているから多少の干渉は許される、家のためなら誰かが犠牲になっても仕方がない。そんな理屈が積み重なるほど、本人の意思は後回しにされ、逃げることさえ裏切りとして扱われる。

表題作『家族信仰』では、その息苦しさが土着信仰と結びつく。ホントウ様を信じる旧家では、家を存続させるための儀礼が代々受け継がれ、姉の死や母親の犠牲まで家族の中へ封じ込められている。信仰を守る行為と家族を守る行為が重なることで、誰か一人が耐え続ける状態さえ正しいものとして扱われてしまう。

五篇を並べると、母親、父親、兄妹、家系と形を変えながら、同じ種類の圧力が繰り返されていることにも気づく。家族だから簡単には縁を切れず、子供だから自力では逃げられない。その関係の近さを利用して、愛情と暴力の境目が崩れていく。

『家族信仰』が怖いのは、怪異を追い払えば終わる話をほとんど描かないところだ。五篇すべてで恐怖の根に家族関係が置かれ、親しい相手から向けられる愛情が逃げ道を奪う。

家族だからこそ拒めず、離れられず、傷つけられてもなお縁を切れない。

その逃げ場のなさこそ、本書を五篇通して貫く恐怖である。

悠木四季

幽霊からなら逃げればいい。でも相手が母親や家族になると、そう簡単には切れない。その逃げにくさを五篇全部で突いてくるのが本当にしんどい。

16.綿原芹『ぬひんさまの塔』

『ぬひんさまの塔』

著者:綿原芹

恐怖度  : (4.0)
閉塞感  : (5.0)
怪異度  : (4.5)
独創性  : (4.0)
この作品を一言でいうと

都心のタワマンへ因習村の掟と土着信仰を持ち込み、階層社会を恐怖へ変えた現代ホラー。

都会のタワマンで、住人たちは謎の神〈ぬひんさま〉を祀っていた

30歳の銀行員・清那は、念願だったタワーマンション暮らしを叶えるため、都心に建つ築50年のヴィンテージ物件を購入する。低層階ながら価格は手頃で、ようやく理想の生活を手に入れたはずだった。

ところが入居後の管理組合総会で、早くも異様なルールを突きつけられる。親族以外の来客は禁止、勝手なリフォームや売買も許されず、低層階の住人から高層階へ気軽に声をかけることさえ禁じられている。

さらに全戸のバルコニーには黒い風車を置き、中庭にある〈ぬひんさま〉の祠へ朝晩参拝しなければならない。高層階には古くからの地権者一族が住み、低層階の新参者は露骨に見下される。清那が買ったのは都会の高級住宅だったはずなのに、中身は古い村落社会そのものだった。

やがて、人間同士のマウンティングだけでは済まない異変まで始まる。深夜の廊下に響く下駄の音、自室の外に立つ何者かの気配、精神を崩していく住人たち。

黒い風車も祠も単なる古い習慣では済まなくなり、清那はこの建物に染みついた過去へ巻き込まれる。

低層から高層へ上がるほど、タワマンが怪しくなる

章立ては「低層」「中層」「高層」の三部構成。最初は住民同士の格付けや管理組合の横暴が中心で、タワマン特有の息苦しい人間関係を追っていく。

高層階に住むだけで立場が上になり、低層階には従う役目が回ってくる。この露骨な序列だけでも十分嫌な空気がある。

ところが階層を上がるにつれ、話の中心はマンションの過去と〈ぬひんさま〉へ移る。なぜ都会のど真ん中に土着神の祠があるのか。なぜ黒い風車を全戸へ置く必要があるのか。住人たちが守ってきたルールにも理由があり、その由来を知るほど建物全体の印象まで変わる。

因習ホラーと聞けば、山奥の集落や閉ざされた島を思い浮かべやすい。本作が持ち込むのは、それとよく似た閉鎖性が都市の集合住宅にも生まれる怖さだ。外には何百万人もの人間が暮らしていても、エレベーターを降りた先では住人だけの掟が通用する。

タワマンの縦に積み重なる空間も、この物語の舞台としてぴったりだ。低層、中層、高層へ場所が移るにつれ、住人の階級も過去との距離も少しずつ変わっていく。階段やエレベーターで上へ向かう行為が、マンションの秘密へ踏み込む感覚につながっているのだ。

そして〈ぬひんさま〉を怖がるだけでは終わらない。住人同士の蔑視や排除、地権者一族の支配、長年守られてきたルールが怪異と重なることで、超常現象と人の悪意を切り離せなくなる。

山村の因習を都心の超高層住宅へ移し、階数を序列と恐怖へ変えたところが『ぬひんさまの塔』の強さだ。

都会のタワマンを舞台に、住民の階級意識と土着信仰が同じ建物で育った末の恐怖を見事に描き切っている。

悠木四季

マンションホラーといえば真っ先に小池真理子の傑作『墓地を見おろす家』を思い出したが、それとは全く違うタイプのホラーだった。

17.アンソニー・ホロヴィッツ『命取りのエピソード』

『命取りのエピソード』

著者:アンソニー・ホロヴィッツ

衝撃度  : (4.0)
技巧性  : (4.5)
論理性  : (4.0)
シリーズ度: (5.0)
この作品を一言でいうと

映画化された自分たちの事件簿を舞台に、偽物のホーソーン殺害と本物のホーソーンの過去が重なるシリーズ第6作。

本当の標的はだれだったのか?

待望の〈ホーソーン&ホロヴィッツ〉シリーズ第6作!

今回は第1作『メインテーマは殺人』が映画化され、ホーソーンとホロヴィッツ本人がイングランド南岸のヘイスティングズにある撮影現場を訪れるところから始まる。

そこで待っていたのは、原作とは別物になりかけた脚本、尊大な監督、仲の悪い俳優たち、資金繰りに苦しむプロデューサー。自分をモデルにした人物がスクリーンの中で勝手に動き始める状況だけでも面倒なのに、撮影第3週には主演俳優が胸を刺されて死亡する。

殺されたのは、劇中で探偵ホーソーンを演じていた男だった。撮影関係者にはそれぞれ恨みや利害があり、容疑者には事欠かない。

ところが捜査を進めるうち、犯人が殺そうとした相手は俳優本人ではなく、本物のホーソーンだった可能性まで浮上する。

映画撮影の殺人から、ホーソーン自身の過去へ事件が広がる

前半は映画業界の騒々しさをたっぷり楽しめる展開が続く。

原作を勝手に変える脚本家、自意識の強い俳優、予算に追われる制作側など、映像業界を知り尽くしたホロヴィッツらしいユーモアが随所に入り、殺人事件の緊張と笑いが同居している。

さらに、自分自身を作中人物として登場させるシリーズ特有の遊びも健在だ。ホロヴィッツは原作者であり、事件の記録係でもあり、映画化された本人でもある。その横でホーソーンは相変わらず必要なことしか話さず、肝心な部分を平然と隠す。

そして物語の途中から、現在の殺人を追うだけだった流れが一変する。かつてホーソーンが関わった事件に冤罪疑惑まで浮上し、舞台は映画撮影の現場から英国の古い邸宅へ。刺殺事件の真相を追っていたはずが、いつの間にかホーソーン自身の過去まで捜査の中心に入り込んでいた。

ここからは、シリーズを追ってきた人ほど嬉しい展開だ。これまで私生活をほとんど語らなかったホーソーンの過去へ踏み込み、彼が何をしてきたのか、なぜ命を狙われる可能性があるのかまで明らかになっていくのだ。

ホロヴィッツとの関係も以前とは違う。振り回され、腹を立て、それでもホーソーンを見捨てない。六作目まで積み重ねてきた二人の距離があるからこそ、今回の危機にはこれまでと違う重さがある。

映画の中では別の俳優がホーソーンを演じ、現実では本物のホーソーンがその殺人を調べる。虚構の事件を再現していた撮影現場に本物の殺人が入り込み、さらに過去の事件まで現在へ戻ってくる。この重なり方が『命取りのエピソード』らしい。

映画撮影現場の殺人と過去の冤罪疑惑を一本へ結び、長く謎に包まれてきたホーソーン本人まで事件の中心へ置いた、シリーズの節目となる第6作である。

悠木四季

シリーズを追ってきた人ほどニヤリとできる場面が多く、ホーソーンの過去まで知りたいファンには嬉しい一作だ。

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18.M・W・クレイヴン『ブラッディダイスの殺人』

『ブラッディダイスの殺人』

著者:M・W・クレイヴン

衝撃度  : (4.5)
技巧性  : (4.0)
論理性  : (4.5)
意外性  : (4.0)
この作品を一言でいうと

17人を射殺した謎のスナイパーと、多面体ダイスに隠された規則を追う長距離狙撃ミステリ。

17人を撃ち抜いた狙撃手、その標的はサイコロで決まるのか

スコットランドのグレトナ・グリーンで、結婚式を終えたばかりの花嫁が頭部を撃ち抜かれる。

狙撃地点は1400メートル以上離れた場所。犯人はそこから一発で標的を仕留め、その後も英国各地で市民を次々と射殺していた。

犠牲者は17人。年齢も職業も住む場所もばらばらで、犯人が誰を狙っているのかさえ分からない。しかも現場には薬莢も硝煙反応も残らず、撃たれた人間同士にも目立った接点がない。いつどこから弾丸が飛んでくるか分からない恐怖によって、人々は外出さえ控えるようになった。

国家的危機を前に、解体されていた重大犯罪分析課が再結成される。

呼び戻されたワシントン・ポーが出した条件はただひとつ。

天才分析官ティリー・ブラッドショーも必ず呼ぶことだった。

無差別に見えた17件の狙撃に、ティリーがルールを見つける

ここから物語は一気に面白くなる。膨大な現場データを洗っていたティリーは、17件の狙撃と特殊な多面体ダイスの間に、偶然では片づけにくい規則性を発見する。

標的は本当にサイコロで選ばれているのか。それとも、無作為に見せかけるため誰かが数字を利用しているのか。

この、ランダム殺人を数理から崩す流れが素晴らしい。被害者同士の共通点を探しても答えが出ないなら、そもそも人間関係から犯人像を組み立てる前提が間違っているかもしれない。

そこでティリーが数字と配置へ目を向け、事件の見え方を変える瞬間がとても気持ちいいのだ。

しかも今回は狙撃事件なので、犯人へ近づくこと自体が危険だ。ポーたちは捜査対象を追っているはずなのに、いつ自分たちがスコープの中心へ入るか分からない。射程距離の長さが、そのまま逃げ場のなさへ直結している。

そこへポーとティリーの掛け合いが入る。粗っぽく現場感覚に優れたポーと、数字や分析では誰にも負けないティリー。この二人、七作目まで来ても役割分担が固定されすぎず、互いに足りない部分を自然に補う関係が本当にいい。

前作を経て散り散りになっていた重大犯罪分析課の仲間たちが再び集まる展開も熱い。シリーズを追ってきた人ほど、単に捜査班が復活した以上の重みを感じるはずだ。

ポーがティリーを必要とし、ティリーもまたポーを絶対的に信頼している。その積み重ねが、狙撃犯との対決に感情の厚みを与えているのがいいのだ。

さらに後半では、銃の性能や弾道、射線、射撃位置の選び方まで事件の鍵へ入る。元軍人でもあるクレイヴンらしく、長距離狙撃を派手な演出だけで終わらせず、距離や角度、環境条件まで捜査の材料として扱う。このリアルさが、連続狙撃の怖さを一段上げている。

邦題の『ブラッディダイス』は、事件を支配する数字と無作為性を連想させる。一方、原題『The Final Vow』は冒頭の結婚式と、物語の奥にある誓いへつながる言葉だ。この二つの題名が終盤で別々の方向から事件へ食い込むところも良かった。

シリーズ第7作まで来ても、数理による読み解き、長距離狙撃の緊張、再結成した捜査班のドラマが互いを邪魔しない。

17人の死と多面体ダイスが結びついた瞬間、無差別に見えた殺人の意味まで一気に変わる。

その数字の遊びを人間の生死へ直結させた冷酷さが、今回の事件を最後まで忘れにくいものにしている。

悠木四季

無差別に見えた狙撃事件を、被害者同士の関係ではなく数字と配置から崩していくティリーの分析がとにかく気持ちいいのだ!

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19.ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ【新装版】』

『ストリート・キッズ【新装版】』

著者:ドン・ウィンズロウ

傑作度  : (5.0)
面白さ  : (5.0)
没入度  : (4.5)
ストーリー: (5.0)
この作品を一言でいうと

マンハッタン育ちの元ストリート・キッドが、英文学の知識と裏社会の技術を武器にロンドンで失踪少女を追う犯罪小説。

路地裏で育った少年は、英文学を愛する探偵になった

11歳のニール・ケアリーは、マンハッタンの路上で生き延びていた。

ある日、隻眼の私立探偵ジョー・グラハムの財布を盗もうとして捕まり、その出会いから人生が大きく変わる。

グラハムは少年を警察へ突き出さず、尾行、変装、鍵開け、人を見る目を徹底的に叩き込んだ。それだけでなく、本を読ませ、学校へ通わせ、大学へ進む道まで用意する。

成長したニールはコロンビア大学大学院で18世紀英文学を研究する一方、秘密信託銀行「フレンズ・オブ・ファミリー」の調査員として、表へ出せない案件を処理する青年になっていた。

そんな彼へ舞い込んだのが、有力上院議員の娘アリーを捜す極秘任務である。党大会までに連れ戻さなければ、父親の政治生命まで危うい。

ニールは足取りを追ってロンドンへ渡り、パンクとドラッグに染まった地下世界へ入り込む。

路地裏の勘と書斎の知性、その両方で失踪少女を追う

ニールは、いわゆるタフガイ型の探偵とは少し違う。喧嘩もできるし、危険な相手の懐へ入る度胸もある。

その一方で、本を読み、考え、言葉を大切にする。荒っぽい世界で育った経験と、大学で身につけた知性が、捜索の場面ごとに違った形で働く。

アリーを追うロンドンも、単なる海外ロケ地では終わらない。1980年代初頭のパンク文化、若者の閉塞感、ドラッグの影が街全体へ染み込み、アリー自身の孤独とも重なるのだ。華やかな政治の世界から始まった依頼が、地下鉄や路地裏を抜けるうちに、まったく別の顔を見せる。

そしてニールを支えるのが、師匠ジョー・グラハムとの関係だ。血のつながりはなくても、少年時代のニールへ生き方を教えた人物であり、その存在は事件の最中にも大きい。ぶっきらぼうな会話の奥に信頼があり、ニールが危険な選択をするときにも、グラハムから教わった基準が残っている。

失踪少女を探す物語でありながら、ニール自身の成長譚としても読める。ストリートで盗みを働いていた少年が、本を読み、大学へ進み、それでも過去に身につけた技術を捨てずに生きている。その二面性が、彼を単なる若手探偵で終わらせない。

荒っぽさと知性、孤独と優しさ。その両方を抱えたまま危険な街へ踏み込んでいくニールには、若さゆえの危うさも残る。だからこそ、事件が解決したあとにも彼自身の物語を追いたくなるのだろう。

『ストリート・キッズ』は、ニール・ケアリーの長い旅がここから始まることをしっかり感じさせる第一作である。

悠木四季

スリも尾行もできるのに大学院では英文学を読んでいる、ニール・ケアリーのその振れ幅がめちゃくちゃいいのだ。読んだら一発で好きになる。

20.ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

『プラハの墓地』

著者:ウンベルト・エーコ

面白さ  : (4.0)
没入度  : (4.5)
重厚感  : (5.0)
読みやすさ: (3.0)
この作品を一言でいうと

19世紀ヨーロッパの史実へ架空の偽造家を滑り込ませ、偽書と陰謀論が現実の憎悪へ変わるまでを描いた歴史犯罪小説。

嘘は、信じたい人間の手で現実になる

1897年のパリ。67歳の偽造家シモーネ・シモニーニは、自分の過去に大きな空白があることへ気づいた。

秘密警察や政治家の依頼を受け、公文書まで偽造してきた男なのに、自分自身の記憶だけが抜け落ちている。そこで失った時間を取り戻すため、日記を書き始めた。

ところが翌朝、そこには見覚えのない筆跡が残っていた。書き手はダッラ・ピッコラ神父を名乗り、シモニーニのすぐそばに潜んでいるらしい。二人は同じ日記へ交互に文章を残し、空白になった過去を探り始める。相手の顔も正体も分からないまま、会話だけが紙の上で続く不穏さ。

記憶をたどるほど、ガリバルディのシチリア遠征、普仏戦争、パリ・コミューン、ドレフュス事件など、19世紀後半の大事件が顔を出す。

モーリス・ジョリー、レオ・タクシル、シャルコー、若きフロイトら実在人物も次々と登場。架空のシモニーニが史実の裏側を平然と歩くため、知っている歴史まで少し怪しく感じられてくる。

出来の悪い嘘ほど、現実へ入り込みやすい

しかも、この男が徹底して嫌な人物なのだ。民族も国家も宗教も信用せず、友情や愛情にも興味を示さない。

政治的な理想さえなく、報酬さえ出れば遺言書、暗号、公文書、告発状まで偽造する。一方、料理の話になると急に文章へ味や香りが入り込み、食卓の記憶だけは驚くほど細かい。この偏りが、シモニーニの孤独を生々しく映す。

シモニーニが作る偽書は、驚くほど安っぽい。小説、政治パンフレット、噂、偏見を拾い集め、都合よく縫い合わせた寄せ集めだ。

大デュマから秘密結社のイメージを借り、ヘルマン・ゲドシェの墓地の場面を取り込み、モーリス・ジョリーの文章まで盗む。それでも完成した文書は、人々が前から信じたがっていた物語へぴたりとはまる。自分の偏見を補強してくれる内容なら、粗雑な嘘でも受け入れられてしまうのだ。

国家や秘密警察、新聞、政治運動も、自分たちの目的へ使えるなら偽物を拾い上げる。嘘を欲しがる人間たちが順番に力を足し、その先には『シオン賢者の議定書』まで待っている。

剽窃と継ぎ接ぎから生まれた文書が政治へ入り込み、差別や迫害を正当化する材料へ変わった歴史は重い。

描かれる情報操作には、現在のSNSを思わせる部分も多い。噂を拾い、分かりやすい敵を作り、怒りや恐怖を煽り、信じたい人間へ証拠らしい材料を差し出す手口。

19世紀には紙とインクだった悪意が、今では画面の上を一瞬で駆け抜ける。

粗末な切り貼りから生まれた虚偽が、真実以上に長く生き残ってしまう。

その不気味さを19世紀の歴史へ埋め込んだところに、『プラハの墓地』の怖さがある。

悠木四季

雑な切り貼りで作った嘘でも、人間が信じたい内容なら本物の顔を持つ。19世紀の話なのに、現在のネット社会と地続きに思えるのだ。

21.ウィリアム・トレヴァー『トレヴァー短編選集1』

『トレヴァー短編選集1』

著者:ウィリアム・トレヴァー

傑作度  : (5.0)
哀切度  : (4.5)
独創性  : (4.5)
人生濃度 : (5.0)
この作品を一言でいうと

日常の小さな会話や視線から、孤独、後悔、歴史の傷まで掘り下げる八篇の短編集。

ありふれた日常の中から、孤独や後悔、過去の傷をすくい上げる八篇

ウィリアム・トレヴァーが描くのは、特別な英雄でも、波乱に満ちた人生ばかりでもない。

地方の町やロンドンのアパートで暮らし、誰にも話せない後悔や小さな秘密を胸に抱えた人々だ。本書には、そんな庶民を描いた八篇が収められている。

『ケーキを食べて酔っぱらった日』では、酒に酔った男女のやり取りから、満たされない思いや孤独がにじむ。『レイモンド・バンバーとミセス・フィッチ』では、自分自身を大きく見せてきた男の自尊心が、一人の女性との会話によって容赦なく削られる。

一方、『アトラクタ』や『秋の日射し』では、北アイルランド紛争の記憶が個人の生活へ入り込む。

政治や宗教の対立を大きな歴史として語るのではなく、その時代を生きた一人の人間が何を失い、何を抱えて暮らしてきたのかに焦点を当てるところがトレヴァーらしい。

大事件を起こさなくても、短編はここまで深く人間を描ける

トレヴァーは人物の感情を何から何まで説明しない。

部屋に置かれた家具、窓の外の景色、紅茶を飲む手つき、会話の途中に生まれる間など、生活の細部を積み重ねながら、その人が抱えている寂しさや後悔を伝えてくる。

だからこそ、ほんの一言が重い。相手へ何気なく返した言葉、少し長く向けられた視線、訪ねてきた人物の存在だけで、それまで保たれていた日常の形が崩れてしまう。大きな事件が起こらなくても、人間関係には決定的な瞬間があることを八篇それぞれが見せてくるのである。

特に好きだったのは、ほんの短い会話や何気ない仕草だけで、その人が何十年も抱えてきた孤独や後悔まで伝わってくるところだ。

派手な事件を起こさなくても、紅茶を飲む、誰かと話す、昔の出来事をふと思い出す。それだけで人物の人生が急に立体的になる。この密度には何度も驚かされた。

しかも、登場人物を簡単に善人や悪人へ分けない。情けない人にも事情があり、身勝手な人にも寂しさがあり、過去に傷ついた人が別の誰かを傷つける場合もある。トレヴァーはそこを説明しすぎず、こちらへそっと渡してくる。その距離感がものすごく好きだ。

特に『アトラクタ』や『秋の日射し』では、北アイルランド紛争のような大きな歴史が、普通に暮らす人間の人生へどれほど深く入り込んでいるかが伝わってくる。歴史を解説するのではなく、一人の人生を描いた結果として、その背後に時代が立ち上がるのだ。

一篇は短い。それでも読み終えると、一人の人生を最初から最後まで見届けたような重さがある。短編小説の可能性に改めて唸ってしまった。

ウィリアム・トレヴァーが短編の名手と呼ばれてきた理由を、身をもって思い知らされる作品集である。

悠木四季

二十ページほど読んだだけなのに、その人の人生をずっと見てきたような気持ちになる。トレヴァーの短編は、短さと重さの釣り合いがすごいのだ。

22.ジャック・ケッチャム『残り火 ジャック・ケッチャム短篇傑作選2』

『残り火 ジャック・ケッチャム短篇傑作選2』

著者:ジャック・ケッチャム

残酷度  : (5.0)
喪失感  : (4.5)
心理圧迫度: (5.0)
ケッチャム: (5.0)
この作品を一言でいうと

食人族ホラーから孤独な男女の心理劇まで、ケッチャムの残酷さと哀しさを17篇で味わう短篇傑作選。

人間が壊れる瞬間を、17篇の違った角度から覗き込む

『隣の家の少女』『オフシーズン』で知られるジャック・ケッチャムの中短篇17篇を収録した、日本独自編集の傑作選第2弾である。

暴力と恐怖を容赦なく描く作家だが、本書を読むと、その印象だけではケッチャムの半分しか見ていなかったと思わされる。

表題作『残り火』で描かれるのは、別れをきっかけに過去の恋人を探し出した女性ドーラ。25年前の恋人ジムは、妻と子供に囲まれ、すでに幸福な家庭を築いていた。

最初は旧友として家族に迎えられたドーラだが、その生活を間近で見るほど、自分こそそこにいるはずだったとの思いが膨らみ始める。

個人的にも大好物の一編だった。怪物も幽霊も登場しないのに、人間の寂しさと羨望だけでここまで怖くできるのだ。

ドーラが最初から完全に壊れた人物として描かれないからこそ、普通の孤独が執着へ変わった先の破滅が痛い。

残酷描写の奥に、人間への哀しさがずっと残っている

本書でもう一本外せないのが『エンドゲーム』だ。

『オフシーズン』『襲撃者の夜』から続いた〈食人族シリーズ〉の最終作であり、文明から離れたメーン州の海岸地帯で続いてきた血まみれの物語に決着をつける。

もちろんケッチャムなので、暴力描写に手加減はない。ただ、彼が描くのは身体が傷つく瞬間だけでは済まない。その暴力を受けた人間が何を失い、生き残った者が何を抱えるのかまで徹底して追う。この冷たさと哀しさが同じ文章に同居しているところに何度もやられた。

ほかの短篇でも、恐怖の形は作品ごとに大きく変わる。犯罪小説に近い話もあれば、男女の関係が崩れる話、偶然の暴力に人生を壊される話、救いの少ない人間ドラマもある。ケッチャムは短い作品でも余計な説明をほとんど入れず、必要な場面だけを置いて人間の弱さをむき出しにする。

文章も乾いていて速い。長々と恐怖を説明せず、事実を淡々と積み上げた末に突然取り返しのつかない出来事を置く。その瞬間だけ大声を上げるような書き方をしないので、かえって暴力の重さがまともに残る。

そして何より良かったのは、ケッチャムが人間を単なる被害者や加害者として処理しないことだ。最低な行動を取る人物にも弱さがあり、傷つけられた側には、その後も続く人生がある。

執着、喪失、暴力、孤独を17篇それぞれ違う温度で描きながら、最後には人間が壊れたあとに何を抱えて生きるのかまで見せてくる。

血まみれの場面以上に、傷ついた人間のその後が頭から離れない。

そこまで描くからこそ、ケッチャムの短篇は痛くて、苦くて、それでも読みたくなるのだろう。

悠木四季

ケッチャムを怖くて残酷な作家で止めるのは本当にもったいないと思うのだ。人が傷ついたあとに何が残るのかまで書くので、血まみれの話より人間ドラマのほうで刺されることさえある。

23.サム・ロイド『善人による完全犯罪』

『善人による完全犯罪』

著者:サム・ロイド

衝撃度  : (4.5)
意外性  : (4.0)
スリル  : (5.0)
独創性  : (4.0)
この作品を一言でいうと

息子の事故を隠すため死体を埋めた父親が、第二の遺体によって犯罪の深みへ追い込まれる心理スリラー。

死体を埋めて帰宅した父親を待っていたのは、見知らぬ第二の遺体だった

英国の穏やかな郊外で、妻と一人息子と暮らすジョゼフ。周囲から信頼され、犯罪とは無縁の人生を歩んできた彼の日常は、荒天の夜に一変する。

階下へ降りると、18歳の息子マックスが全身を血で汚して震えていた。雨の夜道で男性を車ではね、そのまま遺体を自宅まで運んできたらしい。医学校への進学を控えた息子が警察へ捕まれば、その未来も家族の生活も壊れてしまう。

ジョゼフは警察へ知らせず、自分の手で遺体を森へ運ぶ。豪雨の中で穴を掘り、死体を埋め、証拠を消した彼は、これですべて終わったと自宅へ戻る。

ところが居間には、マックスと見知らぬ第二の死体が待っていた。

一度だけ息子を守るはずが、父親自身も犯罪の底へ沈んでいく

ここからジョゼフの判断は、どんどん難しくなる。

最初の死体を隠した時点で、彼自身もすでに警察へ真実を話しづらい立場だ。第二の死体を前にして息子を疑っても、最初の隠蔽を告白すれば自分も無傷では済まない。

しかもジョゼフは、マックスを信じたい。事故だったと語る息子の言葉を受け入れたい気持ちと、本当にそれだけなのかと疑う気持ちが同時に膨らむ。父親として守ろうとするほど、目の前の事実を正しく見る力まで失われてしまう。

そこへ警察の捜査や近隣住民の視線も迫る。ジョゼフは普通の父親として振る舞いながら、森に埋めた死体と自宅へ現れた第二の遺体を抱え込まなければならない。家族を守るためについた嘘が次の嘘を必要とし、犯罪者ではなかった男が自分から逃げ道を塞いでしまう。

552ページの長編だが、中心にある疑念はシンプルだ。マックスは本当に不幸な事故を起こしただけなのか。ジョゼフが守っている相手は、助けを求める息子なのか、それとも父親の愛情を利用している別の顔を持つ人間なのか。

そして怖いのは、ジョゼフ自身にも簡単には引き返せない理由があることだ。最初の判断を間違いだったと認めれば、それまで家族のために積み重ねた行動まで全部崩れる。だから彼は、息子を信じるためにさらに深く犯罪へ踏み込んでしまう。

森に埋めた最初の死体さえなければ、まだ引き返せた。だがジョゼフは、自分の手でその道を閉ざしてしまった。

第二の死体を前にしたとき、彼が守ろうとしているのは息子なのか、それとも最初に下した自分の判断なのか。

その境目が分からなくなった瞬間から、この父親の転落は始まっていた。

24.ケイト・モートン『時計職人の娘』

『時計職人の娘』

著者:ケイト・モートン

没入度  : (4.5)
読み応え : (5.0)
歴史ロマン: (4.5)
人間ドラマ: (4.0)
この作品を一言でいうと

150年以上の時間をひとつの古い屋敷へ重ね、殺人、失踪、消えた宝石、家族の記憶を結んでいく歴史ゴシック小説。

150年前の事件が、一冊のスケッチブックから動き出す

1862年、画家エドワード・ラドクリフは、仲間たちと夏を過ごすためテムズ川沿いのバーチウッド領主館へやって来る。自然に囲まれた屋敷で絵を描き、芸術について語り合うはずだった。

ところが、ある午後に一発の銃声。エドワードの婚約者ファニーが死亡し、家宝のブルー・ダイヤモンドまで消えていた。さらに、彼が愛したモデルのリリー・ミリントンも姿を消す。楽園のようだった夏は、たった一日で惨劇へ変わった。

それから150年以上後。ロンドンで公文書記録管理士として働くエロディは、職場の地下に眠っていた古い革鞄から、女性の写真とスケッチブックを発見する。

そのスケッチに描かれていた屋敷を見て、エロディは驚く。幼い頃、亡き母が何度も語ってくれたおとぎ話の家とそっくりなのだ。なぜ母はこの屋敷を知っていたのか。写真の女性は誰なのか。

ここから150年前の事件とエロディ自身の家族が、思いがけない場所で結びつき始める。

人は去っても、屋敷には記憶が残る

しかも物語は、1862年と2017年を往復するだけでは済まない。

1899年、1928年、1940年へ飛びながら、女子寄宿学校となった時代、第一次世界大戦の傷を抱えた歴史家が訪れた時代、ロンドン大空襲から逃れた家族が暮らした時代まで描かれる。

時代も人物もどんどん変わるのに、舞台だけはずっとバーチウッド領主館。同じ部屋、同じ川、同じ屋根裏を別の人間が歩いてきたことが分かるほど、屋敷が巨大な記憶装置のように思えてくる。

ここが『時計職人の娘』の素晴らしいところだ。1862年の殺人事件だけを解けば終わり、とはならない。バーチウッド領主館へやって来た人々は、それぞれ喪失や後悔を抱えていて、その人生まで屋敷の歴史へ積み重なっている。

中でも大きな存在感を持つのが、館に留まり続けるバーディだ。彼女は時代が移り変わっても、この場所を訪れる人々を見つめ続ける。生きている人間は何十年かで去ってしまうが、彼女だけは150年以上の時間を同じ場所から眺めてきた。

だから、古い写真やスケッチブック、記録、失われたダイヤモンドも、単なる手掛かり以上の重さを持つ。誰かが残したものを別の時代の誰かが拾い、その意味を知らないまま次へ渡す。前半ではばらばらに見えた出来事がつながるほど、忘れられていた人生まで輪郭を取り戻すのがいい。

ケイト・モートンらしい古い屋敷、家族の秘密、過去と現在の交差をたっぷり味わえるうえ、今回は時間の幅が150年以上。

時計の針は止まらなくても、人が残した記憶までは簡単に消えない。

その感覚が、バーチウッド領主館の壁や床にずっと染み込んでいるような物語だ。

悠木四季

人は何世代も入れ替わるのに、同じ屋敷だけが全部を見ている。この150年分の記憶が少しずつ重なる感じが、いかにもケイト・モートンだ。

25.ヤン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』

『消えるヒッチハイカー』

著者:ヤン・ハロルド・ブルンヴァン

考察度  : (5.0)
学び度  : (4.0)
面白さ  : (4.5)
都市伝説度: (5.0)
この作品を一言でいうと

有名な都市伝説を集めながら、その背景にある社会不安と伝播の理由まで解き明かす民俗学の名著。

友人の友人から聞いた本当の話は、なぜこんなに広がるのか

雨の夜、車に乗せた女性が後部座席から突然消える。あとで調べると、その女性は何年も前に事故死していた……。

表題作の元になった『消えるヒッチハイカー』をはじめ、本書には『ザ・フック』『後部座席の殺人者』『電子レンジに入れられたペット』『ケンタッキー・フライド・ラット』『下水道のワニ』など、どこかで聞いた覚えのある話が次々と登場する。

共通するのは、「友人の友人から聞いた本当の話らしい」と語られることだ。誰が最初に話したのかは分からず、確かな証拠もない。それでも場所や登場人物を少しずつ変えながら、人から人へ渡り歩いてきた。

民俗学者ヤン・ハロルド・ブルンヴァンは、こうした噂や怪談を単なるデマとして片づけず、現代社会に生きる民間伝承として集め、比較し、意味を探った。

本書は都市伝説を学術研究の対象として広く知らしめた代表作である。

怪談の怖さより、なぜその話が生き残ったのかを知るほうが面白い

たとえば『消えるヒッチハイカー』は、自動車が普及して突然生まれた怪談ではなく、昔から語られてきた旅人の亡霊譚が、自動車社会に合わせて姿を変えたものとして分析される。馬車や徒歩の時代にいた幽霊が、現代では車の後部座席に乗っているわけだ。

『ザ・フック』や『ベビーシッターと二階の男』も、怖い話として読むだけならシンプルな怪談だ。ところが背景をたどると、若者の性、親の監視から離れることへの不安、家庭の安全が脅かされる恐怖など、その時代の価値観まで浮かび上がる。

怪物を分析するのではなく、その怪物を必要とした社会を見る。この読み方がとても楽しい。

『電子レンジに入れられたペット』には、新しい家電への戸惑いが重なり、『ケンタッキー・フライド・ラット』には巨大食品企業への不信が顔を出す。

『下水道のワニ』も、巨大都市の地下には自分たちの知らない世界があるという不安と結びつく。あり得ない話なのに、完全な無から生まれたわけではなく、人々が抱えていた感情を材料に育っている。

さらに面白いのが、話が伝わるたび細部まで変わる点だ。舞台となる町、企業名、車種、被害者の属性などが、その土地や時代に合わせて書き換えられる。

それでも物語の芯だけは残り、別の場所で再び本当の話として語られる。都市伝説が生き物のように変化する様子を追えるのも、本書ならではの楽しさだ。

40年以上前の研究なのに、SNS時代との相性まで妙にいい。出所の分からない話が拡散され、知り合いから聞いた、実際にあったらしい、と補強され、いつの間にか事実のように扱われる。この流れは、現在のフェイクニュースや陰謀論にもそのまま重なる。

怪談を集めた本として笑ったり怖がったりしながら読める一方、読み進めるほど、噂がどんな不安を吸い上げ、なぜ人から人へ渡っていくのかまで意識するようになってしまう。

幽霊や殺人鬼を追っていた視線が、最後には噂を作り、広め、信じる人間の側へ向く。

そこまで視点をひっくり返すところが、『消えるヒッチハイカー』のいちばん面白い部分だ。

悠木四季

怪談を読んでいるだけでも楽しいのに、この話が広まったのはみんながここを怖がっていたからか、と分かる瞬間が最高だ。都市伝説を見る目がかなり変わる本である。

26.チャールズ・H・フォート『呪われし者の書』

『呪われし者の書』

著者:チャールズ・H・フォート

奇書度  : (5.0)
難解度  : (5.0)
資料密度 : (5.0)
異常現象度: (5.0)
この作品を一言でいうと

科学から排除された異常記録を集め、常識へ疑いを向けた超常現象研究の原点。

説明できないから捨てられた記録を、27年かけて掘り返した伝説の奇書

晴れた空から大量の魚や蛙が降る。巨大な氷塊が突然落下し、夜空には正体不明の光や巨大な影が現れる。

地層から時代にそぐわない加工物が見つかり、人間が衆人環視の中で忽然と姿を消す。

チャールズ・H・フォートが集めたのは、科学の常識から外れたため、観測ミスや錯覚として処理されてきた記録の数々である。

彼は大英博物館やニューヨーク公共図書館へ通い続け、科学雑誌、天文台の報告、気象記録、地方新聞まで徹底的に読み漁った。

その期間、実に27年。

普通なら捨てられるような記事や報告を拾い続け、フォートはそれらを「呪われし者」と呼んだ。

タイトルからしてもう最高だが、本書は単なる怪奇現象カタログでは終わらない。

説明できない出来事を集めるだけで、科学の足元まで揺れてくる

特に好きなのは、フォートが異常現象の真相を断定しようとしないところだ。

魚が降ったなら宇宙人のせい、怪光が飛んだなら未知の飛行物体だ、と簡単な答えへ飛びつかない。むしろ彼が狙うのは、説明できない記録を都合よく捨てる科学側の態度だ。

科学が正しいと主張するなら、都合の悪い観測結果も一緒に抱え込まなければならない。そこを徹底的に突っつき、報告書や新聞記事を次々と並べてくる。読んでいる側は怪談を楽しんでいたはずなのに、最後には科学の側の説明まで疑ってしまう感覚が面白い。

さらに凄いのが、フォート自身の仮説である。地球の上空には巨大な漂流域「超サガッソー海」が存在し、そこへ物質が溜まり、ときどき魚や氷などが地上へ落ちてくる──。真面目なのか冗談なのか分からないほど大胆だが、思考実験として読むとめちゃくちゃ楽しい。

文体も独特だ。観測記録を淡々と並べるだけでなく、権威ある科学者を煽り、常識を笑い飛ばし、ときには詩のような高揚感まで帯びる。学術書を読んでいる感覚と怪奇文学を読んでいる感覚が頻繁に入れ替わるので、400ページあっても単調になりにくい。

個人的には空から魚が降った話より、その記録が「そんなはずはない」の一言で排除されてきた事実のほうに面白さを感じるのだ。

説明できないものを無理に信じる必要はないが、最初から存在しなかったことにするのも危うい。フォートはその隙間へ大量の記録を投げ込み、常識の壁をぐらつかせる。

『呪われし者の書』は、超常現象を鵜呑みにする本ではなく、科学も怪異もまとめて疑い、世の中で事実とされるものを別の角度から眺め直すための奇書である。

悠木四季

超常現象があったらフォートはいつも科学へ喧嘩を売り始める。その勢いと皮肉が100年以上たっても全然古びていないのが逆にかっこいいのだ。

27.クエンティン・タランティーノ『おれの映画人生』

『おれの映画人生』

著者:クエンティン・タランティーノ

映画愛  : (5.0)
映画知識 : (5.0)
批評熱量 : (5.0)
オタク度 : (5.0)
この作品を一言でいうと

タランティーノが少年時代の記憶と1970年代映画への偏愛を37万字で語り尽くす自伝的映画批評集。

タランティーノが37万字かけて、大好きな映画をしゃべり倒す

1970年代初頭のロサンゼルス。

幼いクエンティン・タランティーノは、母親やその友人たちに連れられ、夜の映画館へ通っていた。

そこで観ていたのは子供向け映画ではなく、暴力、犯罪、性、反逆に満ちた大人向けの作品ばかり。まだ一桁の年齢だった少年は、観客がスクリーンへ怒号を飛ばし、歓声を上げる映画館の熱気まで丸ごと吸収して育った。

本書では『ブリット』『ダーティハリー』『ゲッタウェイ』『脱出』『タクシードライバー』『ローリング・サンダー』など、タランティーノの血肉となった作品が次々と登場する。

監督や俳優を褒めるだけでは終わらず、脚本の運び、配役、カメラ、編集、映画スターの存在感まで、現役監督の目線から容赦なく切り込む。

映画を語り始めたタランティーノが本当に止まらない

特に好きだったのは、映画史の事実を並べるだけで満足せず、別の可能性まで本気で考え始めるところだ。

もし別の俳優が主演していたら、もし別の監督が撮っていたら、その作品はどんな映画になったのか。完成品を入口にして、存在しなかった別バージョンまで頭の中で作り始める。

『タクシードライバー』を語る場面など、その暴走ぶりが本当に楽しい。スコセッシ、デ・ニーロ、脚本、当時のアメリカ社会を横断しながら、別の配役や演出まで検討していく。映画批評を読んでいるはずなのに、名監督の頭の中で企画会議へ参加しているような感覚になる。

しかも評価が遠慮なしだ。世間で高く評価されている作品でも気に入らなければ平然と切り込み、一般的には脇へ置かれがちな映画には全力で肩入れする。

『ローリング・サンダー』や『ファンハウス 惨劇の館』などへの愛情を読んでいると、有名作だけを追って映画史を作る気が最初からないことがよく分かる。

タランティーノにとって映画は教養として飾るものではなく、子供の頃から身体へ染み込んだ娯楽そのものなのだ。好きな場面を覚え、俳優の顔を覚え、観客がどこで沸いたかまで記憶し、その経験が後年の監督作品へ流れ込んでいる。

少年時代の回想もいい。母親の友人フロイドと映画館へ通った記憶や、当時の観客の反応が生々しく残っていて、タランティーノ映画の原点が少しだけ覗ける。彼の作品にある音楽、暴力、会話、映画への偏愛が、突然生まれたものではなかったことが腑に落ちるのだ。

37万字の大ボリュームなのに、整然とした映画史講義にはならない。好きな作品へ話が飛び、俳優の逸話へ寄り道し、そこから脚本論へ入り、また別の映画へ移動する。その落ち着きのなさまで含めて、映画好きの友人から延々とおすすめ作品を聞かされているようで楽しい。

映画監督タランティーノを知る本でありながら、それ以上に映画少年クエンティンの頭の中へ入る本だ。

暗い劇場でスクリーンを見上げた少年の興奮が、何十年もの時間を越えて、あの映画たちへ流れ込んでいる。

悠木四季

タランティーノの熱量を丸ごと本にした感じで、知識とかよりも好きな映画を語る人の勢いが楽しいのだ。

28.ヒロシニコフ『ホラー映画超近現代史 恐怖が映す時代の不安と欲望』

『ホラー映画超近現代史 恐怖が映す時代の不安と欲望』

著者:ヒロシニコフ

考察度  : (4.5)
資料性  : (5.0)
マニア度 : (5.0)
ホラー熱量: (5.0)
この作品を一言でいうと

2001年から2025年までのホラー映画を、社会不安・産業・配信環境まで含めて追った現代ホラー史。

『ソウ』から『ゲット・アウト』『テリファー』まで、25年の恐怖映画を一気にたどる

本書は、2001年から2025年まで、およそ四半世紀の洋画ホラーを568ページで追いかける大著である。

2000年代、2010年代、2020年代の三期に分け、『ソウ』『ホステル』『ゲット・アウト』『ヘレディタリー 継承』『テリファー』『サブスタンス』など、その時代を象徴する作品からジャンル全体の流れを読み解いていく。

2000年代には身体破壊を前面へ押し出したトーチャー・ポルノ、フレンチ・エクストリーム、ゾンビ復活、ファウンド・フッテージが続々と登場。

2010年代へ入ると、人種差別や格差を扱うソーシャル・スリラー、A24を中心としたアートハウス系、女性の身体や抑圧を扱う作品群が勢いを増す。

2020年代では配信やSNS文化まで恐怖表現へ入り込み、殺人鬼や古典モンスターの再利用にも新しい動きが生まれた。

ホラー映画の歴史を追っていたら、映画産業の変化まで見えてくる

特に面白かったのは、作品だけを並べて年代史を作っていないところだ。

なぜ2000年代に残酷映画が増えたのか、なぜファウンド・フッテージが急速に広まったのか、なぜA24やブラムハウスの名前がブランドとして認識されるようになったのか。その背景へ社会情勢と映画ビジネスの両方から踏み込む。

VHSからDVD、Blu-ray、そして定額制配信へ。観客が映画を見る方法が変われば、作られる作品の形も変わる。低予算でも世界へ届く環境が整い、逆に配信サービスから作品が突然消える問題も生まれた。

ホラー映画の歴史を追っていたはずが、いつの間にか映画を届ける側の歴史まで学べる。この広がりが楽しい。

さらに17名との対談もとても良かった。高橋ヨシキ、町山智浩、人間食べ食べカエル、小林真里、中原昌也、柳下毅一郎ら、それぞれ立場も好みも違う人たちが登場するため、同じ時代のホラーでも見方が大きく変わる。作品論だけでなく、配給や宣伝、ソフト販売、アーカイブ保存まで話が広がり、一本の映画が観客へ届くまでの現実まで見せてくれる。

個人的に刺さったのは、ホラーが社会の不安を吸収するジャンルとして整理されている部分だ。2000年代の暴力、2010年代の差別や格差、2020年代のSNSや身体への不安。それぞれの時代で人々が何を怖がっていたのかが、そのまま映画の形へ現れる。

だから昔の作品を懐かしむだけで終わらない。『ゲット・アウト』や『サブスタンス』を観たときに感じた怖さが、社会状況や産業の動きと結びついた瞬間、作品の見え方まで一段深くなる。

ホラー映画を大量に観てきた人ほど、頭の中で点だった作品が線へ変わる感覚を味わえるはずだ。

何を恐れ、どんな媒体で映画を観て、どんな作品へ金が集まったのかまで追うことで、21世紀のホラー映画が時代を映してきたことがはっきり分かる。

悠木四季

『ソウ』も『ゲット・アウト』も『テリファー』も、全部その時代だから生まれた映画なんだと腑に落ちる。ホラー映画好きなら、知っている作品が次々と別の角度から見直せるのが嬉しい。

おわり

2026年9月に読んでに特に面白かった本28冊

1.麻根重次『シュレディンガーの密室』

──猛毒ガスで開けられない密室を舞台に、救出の決断と連続殺人が交錯する極限状況の推理小説。

2.市川憂人『呪詛遊戯』

──時間ごとに五感や身体機能を奪う呪詛が入れ替わり、犯行可能な人物まで変化していく特殊設定ミステリ。

3.結城真一郎『少年ABCの完璧な選択』

──少年時代に犯した罪と秘密が、15年後の誘拐とSNS暴露によって再び三人の人生を揺さぶる青春犯罪ミステリ。

4.下村敦史『あいつも誰かに殺される』

──SNS上の殺害依頼が現実の死へつながり、正体不明のタナトスを警察が追う犯罪サスペンス。

5.伏尾美紀『誰何』

──東京と北海道で見つかった二つの身元不明死体を、一枚の古い名刺から追う重厚な警察小説。

6.衣刀信吾『紙上法廷』

──四つの法廷小説を読み解きながら、その背後に隠された現実の事件まで追う連作法廷ミステリ。

7.辻堂ゆめ『残火』

──十四年前の放火事件をめぐり、被害者遺族と加害者家族の痛みが再び交錯する社会派警察小説。

8.真門浩平『終着駅で待ち合わせ』

──日常の小さな違和感から明晰夢の殺人まで、五つの異なる謎を論理で解き明かす短編集。

9.伊吹亜門『名探偵(あるいは入舟家)の一族』

──平安から平成まで、五つの時代で入舟家の名探偵たちが難事件へ挑む歴史本格ミステリ。

10.大神晃『人魚屋敷の殺人』

──不死伝説が残る孤島で、首なし密室の謎と初恋の少女の救出が重なる因習系本格。

11.黒川博行『流砂』

──トクリュウの金を奪って逃げる殺人犯を、警察と裏社会が両側から追う長篇犯罪小説。

12.夢野久作『白髪小僧 夢野久作全童話 上』

──幻想と残酷さ、ブラックユーモアに満ちた、夢野久作の初期童話100篇以上を収めた作品集。

13.『高木彬光『帝国の死角 第一部・天皇の密使』

──天皇の秘密資金を託された海軍士官が、戦時下ヨーロッパでナチスを相手に極秘任務へ挑む国際謀略小説。

14.櫛木理宇『無音 忌み語を紡ぐ町』

──口にしてはいけない忌み語と娘の名前が重なり、家族の日常へ怪異が忍び寄る因習ホラー。

15.まだ学校だよ『家族信仰』

──家族の愛情や信仰が支配へ変わり、逃げ場を奪っていく五つの家庭を描く心理ホラー短編集。

16.綿原芹『ぬひんさまの塔』

──都心のタワマンに残る土着信仰と住民の階級社会が、住人を怪異へ巻き込む現代因習ホラー。

17.アンソニー・ホロヴィッツ『命取りのエピソード』

──映画化された事件簿の撮影現場で俳優が殺され、本物のホーソーンの過去まで暴かれていくシリーズ第6作。

18.M・W・クレイヴン『ブラッディダイスの殺人』

──17人を射殺した謎のスナイパーと、多面体ダイスに隠された規則を追う長距離狙撃ミステリ。

19.ドン・ウィンズロウ『ストリート・キッズ【新装版】』

──マンハッタン育ちの青年探偵が、英文学の知識と裏社会の技術を武器にロンドンで失踪少女を追う犯罪小説。

20.ウンベルト・エーコ『プラハの墓地』

──19世紀ヨーロッパを舞台に、偽造家が生み出す嘘と陰謀が歴史を動かしていく歴史サスペンス。

21.ウィリアム・トレヴァー『トレヴァー短編選集1』

──何気ない会話や日常の風景から、孤独や後悔、歴史に傷ついた人々の人生を描く八篇の短編集。

22.ジャック・ケッチャム『残り火 ジャック・ケッチャム短篇傑作選2 』

──食人族ホラーから孤独や執着を描く心理劇まで、人間の残酷さと哀しさを17篇に収めたケッチャムの短篇傑作選。

23.サム・ロイド『善人による完全犯罪』

──息子の事故を隠すため死体を埋めた父親が、第二の遺体をきっかけに犯罪の深みへ沈んでいく心理スリラー。

24.ケイト・モートン『時計職人の娘』

──150年以上の時を重ねた古い屋敷を舞台に、殺人や失踪、家族の秘密が結びついていく歴史ゴシック小説。

25.ヤン・ハロルド・ブルンヴァン『消えるヒッチハイカー』

──有名な都市伝説を集め、その由来や社会背景、人から人へ広がる理由を読み解く民俗学の名著。

26.チャールズ・H・フォート『呪われし者の書』

──科学で説明しきれない異常現象の記録を集め、常識や科学の前提を疑う超常現象研究の古典。

27.クエンティン・タランティーノ『おれの映画人生』

──タランティーノが少年時代の記憶と1970年代映画への偏愛を語り尽くす、自伝的な映画批評集。

28.ヒロシニコフ『ホラー映画超近現代史 恐怖が映す時代の不安と欲望』

──2001年から2025年までのホラー映画を、社会不安や映画産業、配信環境の変化とともに追う現代ホラー史。

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この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書するミステリ好き人間。

本を読み、本に人生を食われながら、今日もどうにか人間の形を保っている。

もはや読書は趣味ではなく、生活習慣であり、呼吸であり、呪いである。

幸せだね。
Amazonの聴く読書『Audible(オーディブル)』で聴ける神ミステリ10選
① 綾辻行人『Another』
② 有栖川有栖『月光ゲーム』
③ 森博嗣『すべてがFになる』
⑤ 今村昌弘『屍人荘の殺人』
⑥ 殊能将之『ハサミ男』
⑦ 青崎有吾『体育館の殺人』
⑧ 知念実希人『硝子の塔の殺人』
⑨ 夕木春央『方舟』
⑩ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』
悠木四季
四季
悠木四季
あの傑作ミステリを聴けるという奇跡!

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