筒井康隆『ジャックポット』- 言葉が暴走し、死の川辺までたどり着く前衛短編集【読書日記】

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小説というものは、ふつう何かを伝えるために言葉を使う。

物語を進める。人物を描く。世界を立ち上げる。まあ、だいたいそういうものだと思っている。

ところが筒井康隆『ジャックポット』を開くと、その前提がいきなり足元から外される。

言葉が意味を運ぶ乗り物ではなく、言葉そのものが暴れ馬みたいに走り出すのだ。しかも乗っているこちらの手綱など、最初から存在しない。怖い。だが、めちゃくちゃ面白い。

本書は、二〇二一年に新潮社から単行本として刊行され、二〇二六年には新潮文庫に入った短編集である。収録作は十四編。

二〇一七年から二〇二一年にかけて文芸誌に発表された作品群で、筒井康隆が八十代に入ってなお、いや八十代だからこそ、表現の限界線を平然と踏み越えていくような一冊になっている。

しかも、この本には明確な方向性がある。エンタメ寄りの作品を集めた『カーテンコール』とは対照的に、『ジャックポット』には前衛的な作品が凝縮されている。

つまり、これは筒井康隆のサービス精神と破壊衝動が、もっとも危ない方向へ振り切れた短編集なのだ。

読書というより、言葉の爆発現場に立ち会う感じに近い。ヘルメットがほしい。

目次

意味が崩れて、言葉が踊り出す

筒井康隆『ジャックポット』

おすすめ度:(5.0)

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巻頭の『漸然山脈』からして、もう普通の小説を読む姿勢では太刀打ちできない。あらすじを追おうとすると、早々に置いていかれる。

主語と述語の関係、場面の連続性、心理描写の安定感。そういう安全装置が次々に外され、残るのは音、語感、地口、リズム、そして筒井康隆の脳内で鳴っている謎のジャズである。

ここで重要なのは、破綻しているように見えて、実はめちゃくちゃ精密に組まれている点だ。筒井康隆の言葉遊びは、単なるデタラメではない。デタラメに見えるほど自由なのに、妙に音が合う。飛躍しているのに、変な説得力がある。意味が壊れていくのではなく、意味から解放された言葉が別の生き物として立ち上がってくるのだ。

『コロキタイマイ』もまた、筒井康隆ならではの危険な漫才である。漫才の掛け合いという大衆芸能のスピードに、フランス文学批評や精神分析めいたペダンティックな要素が流れ込んでくる。

高尚と低俗がぶつかるのではない。ぶつかりすぎて、どちらがどちらか分からなくなる。インテリの顔をしたボケと、ボケの顔をした批評が、同じ舞台で足払いをかけ合っている。こういうことをやらせると、筒井康隆は本当に手がつけられない。

表題作『ジャックポット』では、コロナ禍の混乱がラップ的な韻と速度で小説化される。パンデミック、トリアージ、大衆の不安、社会の過剰反応。それらが重い題材として沈むのではなく、言葉のビートに乗って跳ね回る。

世界が最悪の当たりくじを引いた状況を、祝祭的なリズムで描いてしまうあたりが凄まじい。普通なら不謹慎と言われそうなところを、文学の強度でねじ伏せてくる。筒井康隆はやっぱり危険物である。

笑いの奥に、時代への毒がある

『ジャックポット』のすごさは、破茶滅茶な文体実験だけではない。そこに現代社会への毒がたっぷり混ぜ込まれている点にある。

『白笑疑』は、気候変動、食糧危機、格差、核戦争、仮想空間への逃避といった要素を詰め込んだディストピア小説である。秋刀魚が絶滅した未来という設定だけでも、食卓レベルの喪失が世界規模の破滅へつながっていく感じが生々しい。

富裕層は仮想空間へ移住し、肉体を持つ人々は現実の飢餓と暴力にさらされる。SF的な誇張に見えるが、妙に現在と地続きなのが嫌である。笑えないのに、筒井の筆致のせいで変な笑いが漏れる。ブラックユーモアの切れ味が、まだまだ鈍っていない。

『蒙霧升降』では、民主主義や情報社会へのアイロニーが前面に出る。誰もが自由に発言できる状態は、一見すると理想的に見える。だが、発言があふれすぎると、真実は逆に見えにくくなる。声の多さが知性を保証しないどころか、場をどんどん曇らせていく。

ここでの筒井康隆は、現代の言論空間に対して容赦がない。誰もが意見を持てる社会は、誰もが何も考えずに言えてしまう社会でもある。その嫌な反転を、寓話として突きつけてくる。

『ニューシネマ「バブルの塔」』になると、詐欺、逃亡、裏切り、殺し合いが重なりながら、やがて文学そのものが詐欺ではないかという地点へ滑り込んでいく。ここがまた筒井康隆らしい。虚構は嘘である。だが、その嘘によって現実の見え方が変わるなら、それは単なる嘘ではない。

詐欺師と小説家の境界をわざと曖昧にしながら、筒井康隆は小説の本質をニヤニヤしつつ暴いていく。読んでいる側としては、財布を盗まれたあとに手品のタネ明かしをされているような気分だ。しかも腹立たしいのに拍手してしまうのだから困る。

最後に待っているのは、死者との会話である

本書の後半に入ると、前衛的な言葉の暴走とは別の気配が濃くなる。老い、記憶、青春、家族、そして死である。

『縁側の人』では、老大家が縁側に座り、自分に語りかけてくる相手が誰なのかも曖昧なまま、詩や表現について語り続ける。ここには、認知の揺らぎがある。しかしそれは単なる衰えとして描かれない。

意識がほどけていく過程そのものが、文学の別の形になっている。言葉を操り続けてきた作家が、言葉に操られる側へ少しずつ近づいていく。その反転が切ない。

『一九五五年二十歳』は、同志社大学時代の筒井康隆を思わせる青春の回想である。新劇、映画、若さ、野心。そこには戦後の文化的熱気がある。だが、単なるノスタルジーには終わらない。若き日のまぶしさが、現在の喪失へ不意に接続されることで、時間の残酷さが露出する。

青春とは、あとから見るとまぶしい。しかしそのまぶしさは、現在から振り返ることでしか生まれない。ここに、本書全体を貫く時間感覚がある。

そして掉尾を飾る『川のほとり』。この一編があることで、『ジャックポット』はただの前衛短編集ではなくなる。亡き息子・筒井伸輔との夢の対話を描いた作品であり、ここで筒井康隆の言葉は、一気に澄み切った場所へ出る。

作中の父は、川のほとりで息子と出会う。そこが死後の世界なのか、夢なのかを、彼は冷静に考える。息子の言葉も姿も、結局は自分の脳が作り出したものではないか。

そう考える父に対し、夢の中の息子は、無意識の底からやってくる言葉の可能性を示す。つまり、たとえ幻影であっても、その会話には予測不能な何かが宿りうる。これは、作家にしか書けない慰めだと思う。

ただし、筒井康隆は甘い救済には逃げない。死者はどこかにいるのではない。どこにもいない。その認識が、本作の底にある。

ハイデガー的な無の感覚、と言ってしまえば硬くなるが、要するに、死を美談にしないのだ。再会の幻想にすがりつつ、それが幻想であることも分かっている。その二重性が痛い。痛いのに、そこに文学が生まれる。

『ジャックポット』は、言葉を破壊し、社会を笑い飛ばし、過去を呼び戻し、最後に死の川辺へたどり着く短編集である。

八十代の作家が書いた晩年の作品というより、まだ誰も行っていない場所へ向かって全力でアクセルを踏み込んだ本だ。

普通は年齢を重ねると丸くなると言われるが、筒井康隆の場合、丸くなるどころか、刃物がさらに変な角度で研がれている。

この作品を一言でいうと、言葉の無法地帯を突っ切った果てに、死者の不在を抱きしめる前衛文学の大当たりである。

笑って、混乱して、何を読まされているのか分からなくなり、最後に胸の奥を不意に殴られる。そんな読書体験は、そうそう転がっていない。

『ジャックポット』というタイトルは、世界が引いた最悪のくじであり、筒井康隆という作家が最後まで手放さなかった文学の賭けでもある。

そしてその賭けは、見事に当たってしまった。

Amazonの聴く読書『Audible(オーディブル)』で聴ける神ミステリ10選

① 綾辻行人 『Another
② 有栖川有栖『月光ゲーム
③ 森博嗣『すべてがFになる
④ 麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件
⑤ 今村昌弘『屍人荘の殺人
⑥ 殊能将之 『ハサミ男
⑦ 青崎有吾 『体育館の殺人
⑧ 知念実希人 『硝子の塔の殺人
⑨ 夕木春央『方舟
⑩ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった

悠木四季

あの傑作ミステリを「聴ける」という奇跡!

私も利用しているけれど、「読む」とはまた違った良さがある。

何より、寝ながら聴いたり、散歩中に聴いたりと便利すぎるのだ。

この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書する人です。
特にミステリー小説が大好きです。

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