くわがきあゆ『先生と罪』- 学校という聖域に、いちばん嫌な種類の罪が棲んでいる【読書日記】

「助けて、あおられてる」
この一言から始まる時点で、もう空気が最悪である。最高に嫌な入口だ。
嫌なのに、気になる。気になるのに、できれば関わりたくない。なのにページの向こうから、こちらの袖をぐいっと引っ張ってくる。
この引力が、くわがきあゆ『先生と罪』の怖さであり、いやらしさであり、ミステリとしての中毒性でもある。
舞台は市立新畑中学校。赴任してまだ二ヶ月の教師・如月晴のもとに、同僚の岩本結衣から電話が入る。結衣は「あおり運転」を受けていると訴え、そのまま崖から転落して死亡する。
だが晴は、ある事情からその電話の内容を警察に話さない。この時点で嫌な予感しかしない。脳内では警報ランプが赤く点滅する。これは主人公も安全地帯にいないやつだ、と。
事件を追う側の人物が、最初から罪悪感と隠し事を抱えている。しかもその舞台が学校。道徳、教育、指導、信頼、保護者対応、同僚関係。いかにもきれいな言葉が並びやすい場所だからこそ、その裏側にドロッとしたものが見えた瞬間の破壊力がすごい。
くわがきあゆといえば、『レモンと殺人鬼』で一気に注目された、どんでん返しの切れ味が印象的な作家である。
だが『先生と罪』は、ただのサプライズ勝負ではない。もちろん反転の快感はある。けれど本作が本当に怖いのは、派手な真相よりも、学校という組織そのものが少しずつ人を追い詰めていく構造だ。
しかも著者は、かつて教育現場にいた経験を持つ。そのため、職員室の空気、担任の負担、保護者とのやり取り、若手教師が古参教師の価値観に呑み込まれていく感じが、妙に生々しい。
こういう現場感があると、後半で物語が極端な方向へ振り切れても、さすがにないだろうと笑い飛ばしきれない。
むしろ、現実が変な方向へ煮詰まったらこうなるのかもしれない、と思えてしまう。そこが怖い。
「あおり」は車道だけで起きているわけではない
本作の中心にある「あおり運転」は、単なる事件のきっかけではない。これは物語全体を貫く比喩でもある。
車の中という閉じた空間から、相手を一方的に追い詰める。直接手を下さず、距離を保ったまま圧をかける。相手が恐怖で判断力を失うまで煽り続ける。これは学校内の人間関係にも、そのまま移植できてしまうのが嫌なところだ。
新畑中学校で晴を待っているのは、露骨な暴力だけではない。中傷の張り紙、ロッカーへの放火、実家付近をうろつく不審な影。どれも直接的でありながら、犯人の姿ははっきり見えない。
つまり、晴は常に「誰かに見られている」「誰かに狙われている」「でも誰なのかわからない」という状態に置かれるのだ。
ここで面白いのは、本作の「あおり」がどんどん精神的なものへ変化していく点だ。車道での危険行為として始まったものが、職員室の空気、学年主任の支配、教師同士の派閥、保護者対応、生徒との関係へと広がっていく。つまり「あおる者」と「あおられる者」の関係が、学校という場のあちこちに潜んでいる。
そして怖いのは、その追い詰めが「指導」や「伝統」や「学校のため」という言葉で包まれることだ。直接の悪意よりも、正しそうな顔をした圧力のほうが厄介な場合がある。
ミステリでよくある殺意は、ある意味でわかりやすい。だが本作の嫌さは、「私は悪いことをしていない」と思っている人たちが、平然と他者を削っていくところにある。
如月晴は被害者なのか、それとも加害の一部なのか
主人公の如月晴は、荒れた学校から逃れて新畑中に来た教師である。赴任して間もない彼女が、同僚の死をきっかけに三年五組の担任を引き受ける。
普通なら同情したくなる立場だ。実際、晴はさまざまな嫌がらせを受け、学校内で孤立していく。
だが、この作品のいやらしいところは、晴を単純な被害者として置かない点にある。
彼女は結衣からの電話の内容を隠す。もちろん理由はある。恐怖もある。保身もある。前の学校で傷を負った経験もある。だが、沈黙したという事実は消えない。晴は事件に巻き込まれた人物であると同時に、事件の周辺にある闇を濃くしてしまった人物でもある。
ここがミステリ的においしい。視点人物が完全には信用できない。とはいえ、露骨に「私は怪しいです」と札をぶら下げているわけでもない。
むしろ彼女の弱さや疲弊が丁寧に描かれるため、こちらは彼女に寄り添いたくなる。なのに、ときどき彼女の内側にある冷たさや攻撃性が見える。晴の中にある針のようなものが、ふと顔を出すのである。
この針がいい。いや、いいと言うと語弊があるが、ミステリとしてはとても魅力的だ。人間はいつも善良なだけではいられない。疲れたとき、追い詰められたとき、自分を守りたいとき、他人への視線はどうしても刺々しくなる。晴はその危うさを持っている。だからこそ、彼女が見ている世界そのものが、どこまで信じられるのか揺らいでくるのだ。
さらに、周囲の教師たちも実に嫌な濃度で描かれる。白石主任をはじめ、学校の秩序を守るという名目で人を選別する者たち。新しく来た教師を「使える」「使えない」で測り、組織に馴染まない存在を排除しようとする空気。そこには、いわゆる聖職者の理想像などほとんどない。
とはいえ、本作は「教師なんてみんなひどい」と雑に断罪する作品ではない。むしろ逆である。教師もまた、制度と人間関係に押し潰されながら働く存在として描かれている。
だからこそ怖い。悪人が悪事を働く話なら、まだ距離を取れる。だが本作では、疲弊した普通の人間たちが、組織の論理に絡め取られ、いつの間にか罪の側へ足を踏み入れていく。
この感じはイヤミスとして非常に危険である。嫌なのに読ませる。むかつくのに先が気になる。胃が重いのに、ミステリ脳だけは元気に走り出す。困ったものである。
学校という密室で、罪は増殖する
本作のタイトルは『先生と罪』である。この「罪」が、実に多層的だ。
まず、あおり運転、放火、傷害、殺人といった法的な罪がある。これはミステリとしての表面を動かすエンジンだ。誰がやったのか。なぜやったのか。どこまで計画されていたのか。そうした謎解きの快楽は当然ある。
だが、本作がしつこく描くのは、それだけではない。晴が電話の内容を隠したこと。教師たちが生徒や同僚を選別すること。周囲の人間が見て見ぬふりをすること。これらは警察がすぐに裁けるような罪ではない。だが、人を壊すには十分すぎる力を持っている。
学校という場所は、本来なら子どもを守り、育てるための場である。だからこそ、その内側で起きる排除や支配はより醜く見える。しかも、それが「教育のため」「学校を守るため」「みんなのため」といった言葉で正当化された瞬間、罪は急に見えにくくなる。ここに本作の鋭さがある。
そして三年生の伝統行事である夏の宿泊学習へ向けて、物語は一気に収束していく。学校という閉鎖空間から、さらに合宿所という逃げ場のない場所へ。日常の顔をしていたものが剥がれ、登場人物たちの本性がむき出しになる。
この終盤の畳みかけは、現実感を少し飛び越えるほど過激だ。だが、そこまで積み上げてきた職員室の圧、晴の不安、結衣の死、学校の異様な伝統があるため、ただのびっくり箱にはならない。
くわがきあゆのどんでん返しは、単に「意外な真相を出しました」というタイプではない。むしろ、こちらが信じていた人間関係の見え方を、後ろからひっくり返してくるやつだ。
まともに見えた人物がまともではなく、被害者に見えた人物にも影があり、加害者に見えた人物の背後にさらに別の力学がある。
なんというか、ミステリの床板を一枚めくったら、その下にまた床板があり、さらにその下から変な声がする感じだ。やめてくれ、でももっと見せてくれ、と思ってしまうのが恐ろしい。
『レモンと殺人鬼』が、家族や過去の悲劇を軸にした疾走感のあるサスペンスだったとすれば、『先生と罪』はもっと閉じた場所で、組織と人間心理が煮詰まっていくタイプの作品だ。
派手さの種類が違う。前者が走って逃げる怖さなら、こちらは逃げ道があるように見えて、実は廊下の先が全部ふさがっている怖さである。
そして何より、「先生」という言葉の持つ清潔なイメージを、タイトルの段階から「罪」と並べてしまう感覚がいい。学校は聖域ではない。教師は聖人ではない。生徒も保護者も、もちろん完全な無垢ではいられない。
そこに集まる全員が、それぞれ小さな罪や業を持っている。その小さなものが、閉鎖された場の中で増幅され、やがて事件という形で噴き出す。
『先生と罪』は、どんでん返しの快感を味わうミステリであると同時に、正しさを掲げる場所ほど、じつは危ういのではないかと考えさせる作品でもある。学校という日常的な舞台を、ここまで嫌な密室に変えてくるのだから、くわがきあゆはやはり凄いと思う。
読み終えたあとに残るのは、爽快な解決感だけではない。むしろ、胸の奥に細い針が残るような感触だ。誰かを追い詰める側に立っていないか。沈黙によって何かに加担していないか。正しそうな言葉で、自分の保身を包んでいないか。
ミステリとしての仕掛けに振り回されながら、最後には自分の足元まで見下ろすことになる。嫌な読書体験だ。だが、こういう嫌さをここまでエンタメとして読ませてくるなら、もう拍手するしかない。
『先生と罪』は、学校という名の密室に潜む悪意を容赦なく照らし出す学園サスペンスである。
嫌な気持ちになるのに、ページの吸引力には抗えない。まったく、罪な小説だ。


