ミヒャエル・エンデ『M.エンデが読んだ本』- エンデの本棚をのぞくと、物語の地下室が見えてくる【エッセイ】

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この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書するミステリ好き人間。

本を読み、本に人生を食われながら、今日もどうにか人間の形を保っている。

もはや読書は趣味ではなく、生活習慣であり、呼吸であり、呪いである。

幸せだね。

ミヒャエル・エンデの名前を聞くと、まず『モモ』や『はてしない物語』を思い浮かべる人も多いと思う。私もそうだ。

時間泥棒、灰色の男たち、カメのカシオペイア、ファンタージエン、幼な子ごころの君。あの世界の入口は、どれも子ども向けの物語の顔をしている。

しかし『M.エンデが読んだ本』を読むと、その入口の奥に、とんでもない地下施設が広がっていたことに気づく。そこには荘子がいて、ゲーテがいて、シュタイナーがいて、カフカがいて、ボルヘスがいて、ピカソがいる。

なんという本棚だろう。児童文学の棚だと思って近づいたら、思想・神秘主義・幻想文学・芸術論・宗教・東洋思想がぎゅうぎゅうに詰まった知の要塞だった、という感じである。

この本は、エンデ自身が選んだアンソロジー『Mein Lesebuch』の日本語版にあたる。邦訳は丘沢静也訳、岩波書店から1996年に刊行された。エンデがどんな本を読み、どんな言葉を自分の中に取り込み、どんな精神的栄養で物語を育てていたのか。その一端が見える、いわば作家の成分表のような一冊だ。

面白いのは、エンデが収録作品に長々と解説をつけていないところである。普通なら「私はこの本の文章のここに惹かれた」くらいの案内がほしくなる。だが、エンデはそれをしない。

つまりこちらは、ほぼ素手で荘子やカフカやボルヘスと向き合うことになる。親切な観光ガイドなしで、いきなり異様に濃い思想の森へ放り込まれるという、なかなかのスパルタ仕様である。

でも、この突き放し方がいい。エンデにとって読書とは、情報を受け取る行為というより、自分の内側を変形させる経験だったのだと思う。要約を読んで理解しましたと処理するものと違う。むしろ、わからなさの前で立ち止まり、自分の感覚が揺さぶられる時間そのものが重要なのだ。

本書は犯人当てのミステリではないのに、構造はほとんど作家エンデをめぐる捜査資料である。

『モモ』の時間観はどこから来たのか。

『はてしない物語』の虚無は、なぜあれほど怖いのか。

『鏡のなかの鏡』の異様な空間感覚は、どんな読書体験から生まれたのか。

そういう痕跡を一つずつ追っていくと、エンデ作品の背後にある巨大な設計図が見えてくる。

目次

ファンタジーは逃避ではなく、現実を組み替える技術である

ミヒャエル・エンデ『M.エンデが読んだ本』

おすすめ度:(5.0)

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エンデを「夢のある児童文学の人」だと思って読むと、本書はだいぶ様子が違って映る。

彼の関心は、かわいい空想や美しいおとぎ話よりも、もっと根っこの部分に向かっている。現実とは何か。人間の内面は、外の世界とどうつながっているのか。想像力は、ただの気晴らしなのか、それとも世界を認識するための力なのか。

ここで出てくるのが、シュタイナー、ゲーテ、ピカソである。並びが強すぎる。読書会にこの三人が同時に来たら、開始五分で机の上に宇宙模型と色彩論とキュビスムの図が広がりそうなくらい濃い。

シュタイナーの人智学は、エンデの時間観や生命観に深く関わっている。『モモ』の時間は、時計で測れる数字としての時間ではない。一人ひとりの心の中で生きられる、交換不可能なものだ。

灰色の男たちは、その時間を効率や節約の名で奪っていく。本当に怖い。あれはファンタジーの悪役というより、現代社会の会議室に普通に座っていそうな連中である。

ゲーテの自然観も重要だ。自然を外側から切り刻んで分析するのではなく、人間の感覚や内面と響き合う全体として捉える。この考え方は、エンデのファンタジーにそのまま流れ込んでいる。ファンタージエンは、現実から離れた別荘地のような場所ではない。人間の想像力、願い、恐れ、愛、記憶が形を持った世界である。

さらにピカソの芸術論が加わる。見た通りに描くのではなく、知っている通りに、考えた通りに描く。これがエンデの精確なファンタジーという感覚に近い。幻想だから適当でいい、という話にならない。むしろ幻想だからこそ、内側の論理が必要になる。

『はてしない物語』のファンタージエンがあれほど手触りを持つのは、ただ奇妙なものを並べたからではない。世界そのものに、願いと喪失と回復のルールが通っているからだ。

このあたりは、ミステリのロジックにも通じるものがある。優れた不可能犯罪が、単なる奇抜な状況で成立しないのと同じだ。密室には密室の理屈があり、叙述トリックには叙述の必然がある。エンデのファンタジーにも、きちんとした認識の仕掛けがある。

だからこそ、読む側はありえないと思いながらも、その世界の中では納得してしまう。つまり魔法が論理を持っているのだ。

荘子からボルヘスへ、そして灰色の男たちへの反撃

私には、宣教師になりたいとか、教師になりたいという欲求はありません。この「読本」を編むとき、宣教や教育の視点からテキストを選ぶことなど考えもしませんでした。では私は、自分がとくにすばらしいと感心しているテキストを、すごいと思うテキストを、重要であると思うテキストを、ひたすら美しいと思うテキストを、無造作に選びだせばよかったのでしょうか? そんなことを試みようものなら、たちまち悪魔の台所へ直行して、窮地におちいってしまいます。

『M.エンデが読んだ本』「この本について」より引用

本書の構成で特に面白いのは、荘子から始まり、ボルヘスへ至る流れである。

東洋思想の「無」から、西洋幻想文学の記号的宇宙へ。ざっくり言うと、何もない場所から、無限に書物が増殖する場所へ向かう旅だ。スケールが大きい。読書というより、精神の大陸横断である。

エンデ作品における「無」は、非常に怖い。『はてしない物語』でファンタージエンを呑み込んでいく虚無は、ただの黒い穴ではない。意味が失われ、願う力が消え、世界が世界として保てなくなる感覚そのものだ。

『モモ』で人々から時間が奪われていく怖さも、同じ根を持っている。忙しいのに、何も生きていない。予定は詰まっているのに、自分の時間がない。現代人には刺さりすぎるやつだ。

だが、エンデは「無」を破滅だけの記号として扱わない。荘子や禅の影響を通して、無は別の顔を持つ。すべてを失った地点が、同時に新しい創造の出発点にもなりうる。『はてしない物語』でバスチアンが闇の中から新しい世界を生み出していく場面には、この反転がある。空っぽになったからこそ、真の願いが問われる。もはや、これは児童文学の皮をかぶった魂の再起動装置である。

カフカとボルヘスの存在も見逃せない。カフカの迷宮は、内面の牢獄だ。どこへ行っても出口がなく、言葉は人を救うより先に閉じ込める。一方、ボルヘスの迷宮は、書物と記号の宇宙である。世界そのものが図書館のように広がり、すべてが別の何かの引用や変奏に見えてくる。

エンデは、この二つを飲み込んだうえで、もう一度物語の力へ戻ってくる。迷宮をただの閉所にせず、帰還の道に変える。虚無をただの消滅にせず、創造の余白に変える。ここが本当にエンデらしい。暗いもの、不気味なもの、難解なものを見なかったことにしない。そのうえで、最後には「それでも想像力は人間を救えるのではないか」という場所へ手を伸ばす。

巻末の「親愛なる読者への四十四の質問」も、本書の芯にある仕掛けだ。ここでエンデは、読む側に答えを配らない。むしろ、簡単に答えられない疑問を置いていく。

今の時代、私たちはすぐに要約を探し、結論を先に欲しがる。タイパ、効率、三行まとめ。便利ではある。だが、その速度に慣れすぎると、灰色の男たちが背後でにやりと笑っている気もしてくる。

『M.エンデが読んだ本』は、そんな高速消費型の読書に対する、かなり濃厚な反撃である。ページを急いでめくるより、立ち止まって考え、わからない文章の前でしばらく粘る。その時間こそが、エンデ的な意味での「自分の時間」なのだろう。

エンデの本棚をのぞくことは、エンデの作品をもう一度読み直すことでもある。『モモ』の時間泥棒は、なぜあんなに怖いのか。『はてしない物語』の虚無は、なぜこちらの心の穴まで触ってくるのか。その答えの一部は、この本の中に散らばっている。

この本を読むと、エンデ作品が急に巨大化する。子どものころに見た物語の背後から、思想と芸術と神秘主義と幻想文学の巨大な影が立ち上がる。しかも、怖いほど真面目で、驚くほどロマンチックだ。エンデは、やはり本棚までファンタージエンだったのだ。

偶然のふりをして、本はやってくる

絵:悠木四季

この本の最後に、あとがきとして「親愛なる読者への四十四の質問」があるのだが、ここに私の好きな一文がある。

あなたが人生の岐路で悩んでいるとき、ちょうどぴったりの瞬間に、ちょうどぴったりの本を手にとり、ちょうどぴったりの箇所をあけ、ちょうどぴったりの答えを見つけるなら、あなたはそれを偶然だと思いますか?

『M.エンデが読んだ本(岩波書店)』369ページより引用

私は、この質問がとても好きだ。

もちろん、本が未来を予言するとは思わない。棚から落ちてきた一冊に、運命の神様が付箋を貼ってくれている、というほど素直な性格でもない。

たぶん本は、私たちが変わった瞬間に、急に別の顔を見せるのだと思う。

以前読んだときには素通りした一行が、ある日だけ妙に胸に引っかかる。昔はわからなかった文章が、傷ついたあと、迷ったあと、何かを失ったあとに、急に自分のために書かれた言葉みたいに立ち上がる。そういう経験は、読書を続けている人なら一度くらいあるはずだ。

それをただの偶然と呼んでもいい。けれど、偶然という言葉で片づけるには、少しもったいない気もする。私たちは本を選んでいるようで、実は自分の中のどこかに選ばされているのかもしれない。

今の自分が受け取れる言葉だけが、ページの奥から浮かび上がってくる。そう考えると、読書とは本との出会いであると同時に、そのときの自分自身との遭遇でもある。

『M.エンデが読んだ本』は、エンデが何を読んだかを知るための本でありながら、最後には私たちに向かってくる。

あなたは何を読んできたのか。どの言葉に救われ、どの一節を見落とし、どんな本をまだ待っているのか。

エンデの本棚をのぞいていたつもりが、気づけば自分の本棚の前に立たされている。これはなかなか楽しい。

人生の岐路で、ぴったりの本を開き、ぴったりの言葉に出会う。

その瞬間を偶然と呼ぶかどうか。私はまだ、はっきり答えを決めていない。

ただ、そういう出会いがあるから本を読むのだ、とは思っている。

Amazonの聴く読書『Audible(オーディブル)』で聴ける神ミステリ10選

① 綾辻行人 『Another
② 有栖川有栖『月光ゲーム
③ 森博嗣『すべてがFになる
④ 麻耶雄嵩『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件
⑤ 今村昌弘『屍人荘の殺人
⑥ 殊能将之 『ハサミ男
⑦ 青崎有吾 『体育館の殺人
⑧ 知念実希人 『硝子の塔の殺人
⑨ 夕木春央『方舟
⑩ アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった

悠木四季

あの傑作ミステリを「聴ける」という奇跡!

私も利用しているけれど、「読む」とはまた違った良さがある。

何より、寝ながら聴いたり、散歩中に聴いたりと便利すぎるのだ。

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悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書するミステリ好き人間。

本を読み、本に人生を食われながら、今日もどうにか人間の形を保っている。

もはや読書は趣味ではなく、生活習慣であり、呼吸であり、呪いである。

幸せだね。

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