円城塔『土人形と動死体』- ファンタジーの顔をした、世界のOSアンインストール小説【読書日記】

ファンタジーというジャンルには、読んでいるこちらを安心させる約束事がある。
魔法がある。竜がいる。魔王がいる。世界には何らかのルールがあって、主人公たちはそのルールの中で冒険する。剣を抜けば戦いが始まり、呪文を唱えれば魔法が発動する。
よし、わかった、その世界の作法は飲み込んだぞ、とこちらは腰を落ち着ける。
ところが円城塔『土人形と動死体』は、その腰を落ち着けた瞬間に椅子を分解してくる。しかも、ものすごく丁寧に。
脚を外し、座面を外し、ネジの規格まで説明しながら、最後には床そのものがなかったことにしてくるのだ。ひどい。けれど、最高である。
本作は、円城塔による初の本格ファンタジー長編、という触れ込みを持つ連作短編集である。
舞台は魔術が実在する都市ミスルカラ。大魔術師ノーシュ・アレグラと、魔法を使えない弟子エスノダを中心に、土人形、動死体、竜、魔王、迷宮、戦争といったファンタジー的な道具立てが次々と現れる。
ただし、そこは円城塔である。出てきた瞬間から、道具立てが全部、哲学と数学と計算機科学の試験問題みたいな顔をしはじめる。
竜は竜である前に、名前をつけるとは何かを考えさせる存在になる。魔王はラスボスというより、世界の記述方式を揺らす概念になる。土人形と動死体は、生命と意志の境界を問い詰める装置になる。
うっかり油断して読むと、剣と魔法の世界に来たはずなのに、いつの間にかOSの設計思想を読まされている。楽しい。だが脳は忙しい。
魔法が使えないというだけで、人間ではなくなる世界
本作の中心にあるのは、エスノダという存在である。彼は魔法を使えない。普通のファンタジーなら、それは落ちこぼれ主人公の成長フラグになりそうな設定だ。
実は隠された才能があるとか、別系統の能力に目覚めるとか、そういう王道展開を期待したくなる。
しかし本作は、その甘い期待をすっぱり拒む。ミスルカラでは、魔法が使えることが魂の証明になっている。魔法を使えない者は、ただ能力が低いのではない。彼らは、ソウルレス、つまり魂なきものとして扱われる。つまり、人間として認識されないのだ。
この設定が嫌な切れ味を持っている。なぜなら、ここで問題になっているのは能力差ではなく、世界を測る物差しそのものだからだ。
魔法が使えるかどうか。この基準が社会全体の前提になっている以上、エスノダは最初から勝負の盤面に乗れない。努力して認められる以前に、認めるための言語が存在しない。これはファンタジーの設定でありながら、現実の社会にもある認識の暴力を思わせる。
そしてノーシュ・アレグラの選択がすさまじい。エスノダを無理やり魔法社会に適応させるのではなく、世界中の魔術そのものを消去しようとする。
普通なら弟子を救うための成長物語になりそうなところで、師匠が世界の基幹システムをアンインストールしにいくのである。
発想がデカい。愛が過激すぎる。メンテナンスではなく初期化。ここまで来ると、もう師弟愛というより、世界仕様への宣戦布告だ。
土人形と動死体、どちらが生きているのか
タイトルにある土人形と動死体も、単なるモンスター名では終わらない。
土人形、つまりゴーレムは、外部から与えられた命令によって動く存在である。自分の意志があるのかないのか、外から見ただけでは判別しにくい。命令どおりに動くものを、生命と呼べるのか。
では、こちらが生命だと思っているものも、実は複雑な命令の束にすぎないのではないか。そんな嫌な考えが、土の身体からむくむく立ち上がってくる。
一方の動死体は、死んでいるのに動いている。生命の根拠は失われているはずなのに、振る舞いだけは続いている。ここで怖いのは、腐敗した死体が襲ってくるというホラー的な怖さだけではない。根拠を失ってもなお、形式だけが動き続けることの不気味さである。
この二つは、似ていないようで似ている。土人形は魂がないのに動く。動死体は生命が終わったのに動く。どちらも、動いていることと生きていることが一致しない存在だ。
そしてこの発想は、そのまま小説そのものにも跳ね返ってくる。紙の上の人物たちは、生きていない。けれど、文章を追うあいだ、彼らは動く。魔法が消え、世界のルールがほどけても、文字として残されたものは動き続けてしまう。
ここが本作のいやらしいところであり、面白いところでもある。ファンタジーを読んでいたはずなのに、気づけば虚構の生命維持装置について考えさせられてしまうのだ。円城塔は、相変わらずこちらの読書筋肉をめちゃくちゃに鍛えてくる。
世界のルールを消したあと、物語はどうなるのか
本作は全15篇の連作として構成されているが、その流れはまるでコンピュータの階層構造のようだ。
最初はShell、つまり外側のインターフェースに近い部分から始まる。魔術都市、師弟関係、ファンタジー的なガジェット。こちらが触れられる表面がまず提示される。
やがて物語はKernelへ進む。世界の内部処理、言語、観測、命名、空間の仕組みが扱われる。ここでは、地理をどう記述するか、竜をどう名づけるか、観測が世界に何をしてしまうのか、といった問題が前面に出てくる。
ファンタジーの世界を楽しむというより、その世界がどんなデータ形式で保存されているのかを見せられている感覚だ。
そして終盤はRootである。最高権限。世界そのものを書き換える領域だ。ノーシュ・アレグラの魔術消去は、単なる大技ではない。世界のルールを支えている魔術という基盤を消す行為であり、ファンタジーというジャンルの前提そのものを壊していく作業でもある。
普通の物語なら、最後の戦いで世界は救われる。秩序は回復し、欠けていたものは埋められ、旅には意味が与えられる。だが本作は、そういう気持ちよさとは別の場所へ向かう。
ルールを消したあとに残るものは何か。意味を失った世界で、人物たちはまだ動けるのか。小説は、魔法なしで小説でいられるのか。
ここで本作は、ファンタジーを破壊しているようで、むしろファンタジーという形式にしかできない実験をしている。魔法がある世界だからこそ、魔法を消すことの意味がある。竜や魔王がいる世界だからこそ、名前や役割を外したときの空白が見える。
つまり『土人形と動死体』は、ファンタジーを否定しているのではない。ファンタジーを一度分解し、その部品の一つ一つを光にかざしているのだ。
そして最後に残るのは、動き続ける記号としての文学である。生きているのか、死んでいるのか。魂があるのか、ただ動かされているだけなのか。そんな判定をすり抜けながら、物語はページの上で動き続ける。
『土人形と動死体』は、王道ファンタジーを期待して手に取ると、途中で頭の中に謎の開発者向け画面が立ち上がるタイプの作品である。けれど、その面倒くささこそが快楽でもある。
魔法、魂、名前、観測、世界、物語。そうしたものを一つずつ分解しながら、それでもなお何かが動いている感触を残す。
円城塔が書くファンタジーは、剣で魔王を倒す物語ではない。
世界を動かしているルールを覗き込み、そのルールが消えた後の荒野に、まだ歩くものがいるかを確かめる物語である。
読み終えたこちらも、少しだけ動死体みたいになる。
脳は一度停止した気がするのに、なぜかページの残響だけが、まだこちらの中で動いているのだ。


