『死体はどうなる』- 三つの死体と、三人の善人が選ぶ最悪の一日【読書日記】

ペンシルヴェニア州の寂れた町ロックスバーグ。
かつて石炭と製鉄で栄えた土地には、巨大な墓地と、仕事を失った人々の暮らしが取り残されている。
ケン・ジャヴォロウスキー『死体はどうなる』が描くのは、そんな町で暮らす三人の男女が、それぞれ別の死体を前に決断を迫られる、たった一日の出来事だ。
45歳のシングルマザー、カーラ、自閉スペクトラム症の20歳、リード、高校の受付係として働きながら歌手を夢見る30歳のリズ。三人とも、犯罪を生業にする人物とはほど遠い。目の前の生活をどうにか守ろうとする、ごく普通の市民である。
ところが、息子の未来、亡き母との約束、自分の人生を立て直す最後の機会を守ろうとした瞬間、彼らは法の外側へ足を踏み出してしまう。
著者ジャヴォロウスキーは『ニューヨーク・タイムズ』の編集者であり、劇作家としても活動してきた人物だ。さらに若い頃にはボクシングにも打ち込み、その経験から得た「パンチに向かって踏み込め」の感覚を本作へ持ち込んでいる。
逃げれば安全になるとは限らない。恐怖の中心へ自分から近づくしかない局面がある。その考えが、三人の選択すべてを支える軸だ。
本作は、同じロックスバーグを舞台にした『罪に願いを』に続く長編第2作だ。
前作と同じく、町の閉塞を犯罪の背景として置きながら、焦点を悪党の悪意から外し、追い詰められた普通の人間がどこまで踏み込むかを見つめていく。
善人ほど死体の前で間違った道を選ぶ
カーラの物語は、息子ビリーの告白から動き始める。
名門大学へ進んだ息子は、吃音を抱えながら努力を重ね、彼女にとって誇りであり希望でもあった。
そのビリーから、自宅の裏庭に行方不明の女子生徒が埋められていると打ち明けられた。警察へ連絡すれば、息子の人生は崩れかねない。カーラが手に取ったのは電話ではなかった。選んだのは、裏庭の土を掘るためのシャベルだった。
この出発点だけで、胸の奥がざらつく。やっていることは明らかに犯罪なのに、彼女が何を守ろうとしているのかも理解できてしまうからだ。善意と違法行為が同じ方向へ進み始めた瞬間、簡単な善悪の線引きは役に立たなくなる。
リードが守りたいのは、亡き母との約束である。生前大切にしていたぬいぐるみを棺へ入れる。その約束が果たされないまま葬儀が終わったため、彼は深夜の墓地へ向かう。
嘘をつけない彼にとって、約束を破った状態を放置する選択肢はほとんどない。霊廟への侵入が犯罪だと理解していても、母へ対する誠実さのほうが上回ってしまう。
リズには歌がある。ナッシュビルへ進む機会をようやくつかんだ矢先、車もギターも失い、危険な借金まで背負わされる。逃げ道が消えた彼女の前へ現れるのが、もう一つの死体だ。そこで選ぶ一手は大胆で、危うく、どこか笑ってしまうほど必死でもある。
三人の行動はそれぞれ別方向へ走っている。それでも、罪へ近づく理由には共通点がある。自分だけが得をしたい欲望から始まった選択とは正反対だ。
愛情、約束、夢。普通なら人を前向きに支えるはずのものが、ここでは犯罪へ踏み込む力にもなるのだ。その逆説が、この物語をただの逃走劇から人間の倫理をめぐるドラマへ押し上げている。
24時間で三つの人生が崩れ、絡まり始める
物語はほぼ24時間の中で進む。カーラ、リード、リズの視点が次々に切り替わり、それぞれの危機が悪化するたび別の人物へ場面が移る。
劇作家として培った感覚がよく表れた運びで、ひとつの場面を長々と説明せず、必要なところで切って次へ渡す。そのため三人は別々の場所にいながら、同じ舞台の袖で出番を待っているような感覚だ。
そしてロックスバーグは背景に徹しない。かつて数万人を支えた炭鉱と製鉄所は姿を消し、人口は減り、若者も仕事も外へ流出した。残ったのは低賃金の仕事、薬物問題、貧困、そして町の規模に似合わないほど巨大な墓地である。
生きている人間は仕事を求めて移れるが、埋葬された人々は町を出られない。かつての繁栄を示す墓石だけが土地へ積み重なり、現在のロックスバーグを見下ろしている。
それでもジャヴォロウスキーは、登場人物を社会問題の記号にしない。カーラには若い頃、友人たちとニューヨークへ出かけた思い出がある。大都会に魅せられて町を離れた友人と、故郷へ戻ったカーラ。同じ景色を見ても人生は別々の方向へ分かれた。
その記憶が、彼女を町から出られなかった人として片づける見方を拒む。彼女にも夢があり、選択があり、いまも小さなレストランを開こうとしている。
リズの歌も、リードの約束も同じだ。荒れた町に暮らしていても、彼らの人生まで同じ色に染まるとは限らない。何もかも失いそうな場所だからこそ、守りたいものの輪郭は濃くなる。
パンチから逃げず、自分から一歩近づく
ジャヴォロウスキーがボクシングから得た「パンチに向かって踏み込め」の考えは、本作を読むうえで重要な鍵になる。
打撃から遠ざかろうと後退すると、拳は最も大きな威力で届く。逆に相手の懐へ入れば、打撃が伸び切る前に威力を削げるためだ。三人の行動もまた、この身体感覚の延長線上にある。
カーラは裏庭の死体へ向かい、リードは閉ざされた霊廟へ向かい、リズは自分を脅かす世界の中心へ近づいてしまう。常識だけで判断すれば、どれも引き返すべき場面だ。
けれど彼らにとって後退は、守りたい人や未来を失う道にもつながる。だからこそ、自分から前へ出るのだ。その一歩が次の災難を呼び、もっと苦しい選択まで連れてくる。
ここにはノワールらしい残酷さがある一方、三人を突き放す冷淡さは薄い。失敗すれば笑えるほど間が悪く、焦れば焦るほど事態が複雑になる。そんな滑稽さまで抱え込んでしまうところに、人の弱さを感じるのだ。
犯罪を犯した事実だけで人物を切り分けず、その一歩を選ぶまでに何を抱えていたのかへ目を向ける。その距離の近さが、この犯罪小説のやさしさだ。
題名にある「死体」は、最後まで重い意味を持つ。死者は語らない。しかし、遺された人間は死者のために約束を守り、嘘をつき、罪まで背負う。身体が動かなくなったあとも、その人が誰かの人生へ与えたものまでは消えない。
巨大な墓地を抱えたロックスバーグでは、生者もまた過去と一緒に暮らしている。錆びた町で三人が必死に守ろうとするものは、決して大きくない。
息子の未来、母との約束、一曲の歌。
それらを抱えて夜の町を走る姿は、消えかけた灯を両手で囲うようでもある。
朝を迎えるロックスバーグには、墓石の数では量れない三人の体温が確かにあった。


