『ホラー映画超近現代史』- 『ソウ』『ゲット・アウト』『サブスタンス』……。568ページで辿るホラー映画25年の変化と欲望【読書日記】

『ソウ』の痛み、『28日後…』の疾走する感染者、『ゲット・アウト』の居心地の悪さ、『ヘレディタリー/継承』の家族、『ミッドサマー』の白昼、『サブスタンス』の肉体。
2000年代以降だけ眺めても、ホラー映画の恐怖は驚くほど姿を変えてきた。
ヒロシニコフ『ホラー映画超近現代史 恐怖が映す時代の不安と欲望』は、そんな約四半世紀を568ページかけて辿る映画評論集である。
2000年代、2010年代、2020年代の三つに分け、『ソウ』以後のトーチャー・ポルノ、フレンチホラー、ゾンビ、ファウンド・フッテージ、A24、フェミニズム・ホラー、配信時代の怪異、『テリファー』まで視野に入れる。さらに高橋ヨシキ、町山智浩、小林真里、人間食べ食べカエルらとの対談も挟み、恐怖映画の変化を複数の角度から追っていく。
ここまでなら巨大なホラー映画ガイドにも聞こえる。けれど本書が追いかけているのは、名作の順位でも、おすすめ映画の羅列でもない。
なぜ2000年代には人体が切り刻まれ、2010年代には社会そのものが怪物となり、2020年代には承認欲求や自己愛が人間を壊し始めたのか。その背後にある時代の空気までスクリーンから掘り起こしていく。
あの頃、なぜゾンビは走り始めたのか。なぜ『ソウ』のあとに拷問映画があれほど増えたのか。なぜ近年は怪物そのものより、自分自身の身体やSNSの視線が怖くなったのか。
本書をめくっていると、バラバラだった映画の記憶が一本の時代史へ変わっていく。
2000年代、ホラーはもう一度肉体を壊し始めた
2000年代の章を読んでいると、まず血の量に圧倒される。
『ソウ』『ホステル』『ファイナル・デスティネーション』。フランスへ渡れば『ハイテンション』『屋敷女』『フロンティア』『マーターズ』。
人体が裂け、潰れ、切断され、苦痛そのものが上映時間を占拠する。1990年代にサイコスリラーやメタ的なスラッシャーが人気を集めたあと、ホラーは再び肉体の痛みへ振り切った。
本書はその流行を、単純な残酷描写のエスカレートとして片づけない。9.11、イラク戦争、アブグレイブ刑務所で露呈した虐待。安全だと思っていた日常へ現実の暴力が突然入り込んだ時代と、映画館で身体が破壊され続ける光景を並べてみせる。
同じ時期、ゾンビまで走り始めた。『28日後…』や『ドーン・オブ・ザ・デッド』の感染者には、従来のゆっくり迫る死者とは違う切迫感がある。都市テロや感染症への恐怖が、速度を持った怪物へ姿を変えたと考えると、あの全力疾走まで時代の産物に見えてしまう。
さらに家庭用デジタルカメラが普及すると、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『パラノーマル・アクティビティ』のような映像が力を持ち始める。
きれいに撮影された映画ではなく、誰かが偶然残した映像らしく見えること自体が恐怖になった時代。技術の進歩が新しい怪物を生んだというより、カメラそのものが恐怖の見せ方を変えてしまったのだ。
そして忘れてはいけないのがDVD市場である。劇場公開だけで採算を考える必要が薄れ、無修正版やメイキングを詰め込んだパッケージが売れる。低予算スプラッターにも金が回り、レンタル店の棚には聞いたこともない残酷映画が大量に並んだ。
ここが本書の楽しいところで、映画を芸術作品として眺めるだけで済ませない。どんな機械で観たのか、誰が金を出したのか、劇場かDVDか、宣伝では何を売り文句にしたのか。恐怖の形を、産業の財布事情まで含めて追いかけるのだ。
2010年代、怪物は社会と心の中へ入り込んだ

絵:悠木四季 『SAW』
2010年代になると、恐怖の向きが変わる。
『ゲット・アウト』『パージ』では、人種差別や格差、社会制度そのものが人間を追い詰める。
怪物が玄関を破って入ってくる代わりに、最初から自分が暮らす社会の内部に悪意が埋め込まれていた。逃げる場所など最初から用意されていない感触である。
その横ではA24をはじめとするスタジオが存在感を増し、『ババドック 暗闇の魔物』『イット・フォローズ』『ウィッチ』『ヘレディタリー/継承』のような作品が注目を集めた。
美しい映像、重い家族関係、喪失、土着信仰。怖がらせることと作家性がより密接になり、ホラー映画を普段あまり観ない層へも届くようになった。
ただし本書は、いわゆるエレベイテッド・ホラーを無条件に持ち上げない。わざわざ高尚なホラーと呼ぶ行為そのものに、従来のホラーを低く見る意識が潜んでいないか。そんなジャンル内部からの反発まで拾うあたりがいい。
さらに女性の描かれ方も変わった。『RAW 少女のめざめ』『REVENGE リベンジ』『レディ・オア・ノット』では、襲われて逃げ回るだけの人物像から離れ、怒りや身体を武器にする女性が前面へ押し出された。社会の変化とともに、ホラー映画の主人公像まで大きく塗り替えられてきた歩みが鮮明だ。
このあたりを読み進めると、ホラー映画が時代から独立して存在しているようには思えなくなってくる。
政治、人種、ジェンダー、格差、映画祭、製作会社のブランド戦略。
その全部がスクリーンの暗闇へ入り込み、私たちが怖いと感じる対象まで更新しているのだ。
2020年代、ついに自分自身が怖くなった

絵:悠木四季 『テリファー』
そして2020年代。
ここが特に面白かった。
パンデミックを経て、人々は映画館から離れ、配信サービスとスマートフォンへ移った。一方で映画館側には、家では味わえない大きな体験を用意する必要が生まれる。
長尺化した大作ホラー、クラシック怪物の再解釈、巨大スクリーン向けの映像。一方の配信では、冒頭から注意を奪える分かりやすいコンセプトが求められる。
そして恐怖の中心に「私」が入り込んだのだ。
『シック・オブ・マイセルフ』『Pearl パール』『サブスタンス』。人から見られたい、特別な存在になりたい、若く美しくありたい。SNS社会ではありふれた欲望が肥大し、自分自身の身体や精神を破壊するところまで進んでしまう。
昔のホラーでは、森の向こうから殺人鬼がやって来た。いまはスマートフォンを握って鏡を覗き込んだ自分の中から、怪物が育ち始める。
その一方で、『テリファー』のアート・ザ・クラウンのような昔ながらの殺人鬼が新世代の人気者になり、パブリックドメインへ入ったキャラクターを殺人鬼へ変える映画まで増殖する。古い恐怖は消えず、時代ごとの欲望を吸収して何度でも戻ってくる。
本書がホラー映画史を無限に回転しつづける恐怖の永久機関と捉える感覚は、ここまで読むとよく分かる。過去の怪物がリメイクされ、リブートされ、ミームになり、別の媒体へ移動する。そのたびに少し姿を変えながら、現在の不安をまとって復活するのだ。
さらに最後に待つのが、Blu-rayや物理メディアの話である。配信ならいつでも観られると思っていた映画が、サービス側の判断ひとつで突然消える。権利が切れれば検索しても出てこない。作品そのものが文化から抜け落ちる可能性まで生まれた。
だから自主レーベルで映像ソフトを出してきたヒロシニコフが、最後に物理メディアの保存へ辿り着く流れには重みがある。ホラー映画の歴史を書き残す行為そのものが、消えていく作品への抵抗にもなっているのだ。
『ホラー映画超近現代史』を眺めていると、ホラー映画は時代の端にある悪趣味な娯楽どころか、その時代が何を恐れ、何を嫌い、何を欲しがっていたかをむき出しにする記録にも見えてくる。
テロの時代には身体が壊れ、分断の時代には社会が怪物となり、SNSの時代には自分自身が恐怖の対象へ変わった。
次に『ソウ』や『ゲット・アウト』や『サブスタンス』を観るとき、画面に映っているものは以前と同じでも、その背後にある時代まで一緒に見えてしまう。
568ページを使って作られたのはホラー映画の年表ではなく、私たちがこの四半世紀で何を怖がってきたのかを映す、巨大な暗室なのだ。


