ハリー・クレッシング『料理人』- 名家を支配したのは、料理の腕だった【傑作小説エッセイ】

町を見下ろす高台に、誰も住めない古城がそびえている。
麓では二つの名家、ヒル家とヴェイル家が昔の因縁を引きずり、いまでは晩餐会の豪華さや料理人の腕で張り合う代理戦争の真っ最中だ。
そこへ古びた自転車でやって来る、二メートル近い黒ずくめの巨漢コンラッド・ヴェン。彼がヒル家の厨房へ入った日から、町の均衡が崩れ始める。
ハリー・クレッシング『料理人』は1965年に発表され、日本では一ノ瀬直二訳で1967年に紹介された。ブラックユーモア、ゴシック趣味、悪漢小説、不条理な寓話が一つの鍋で煮込まれたような異色作で、長く絶版だった英語圏でも2015年に復刊されて再評価を受けた。
著者クレッシング自身も長く正体不明の覆面作家として語られ、公刊した単行本はごくわずか。その経歴まで含め、どこか素性の知れない本である。
舞台となるコブの町にも、具体的な国名や年代はほとんど刻まれていない。古い名家、使用人のいる屋敷、封印された城、格式を競う晩餐会だけが置かれ、現実の地図から少し浮いたような空間が作られている。
そのためコンラッドの侵入は、一地方の事件より、昔話に悪魔が紛れ込んできた場面に近く映る。どこで起きた話か分からないぶん、欲望につけ込まれて支配される人間の滑稽さだけがくっきり前へ出る。
そして何より変なのは、コンラッドが人々を支配する方法だ。毒でも脅迫でも財産目当ての詐欺でもなく、武器はほとんど料理だけ。極上の味を覚えた一家が、気づけば雇い主の座から料理人へ奉仕する側へ降りている。
この主客逆転を、クレッシングは大事件として騒がず、朝食のマフィン一枚から始めてしまう。

マフィン一枚で、何十年もの家風が崩れ始める
ヒル家には細かな食卓の掟がある。食事のおかわりは求めず、女主人が厨房へ足を踏み入れるなどありえない。主人と使用人の境界を守ること自体が、一家の格式だった。
ところがコンラッドが焼いたマフィンを口にした朝、その誇りがあっさり揺らぐ。追加を求める声が上がり、ついには女主人自ら厨房へ出向いて翌朝も同じものを作ってほしいと頼み込む。革命に必要だったのは演説でも暴力でもなく、朝食の香りだけ。この軽さがものすごく怖い。
さらにコンラッドの視線は厨房の外へ向かう。まず肉屋や青果店を吟味し、仕入れの甘さへ容赦なく口を出す。食材の扱いも使用人の働きぶりも、すべて彼の採点対象。料理を完璧にするためとの名目で、屋敷全体の決定権まで少しずつ手元へ引き寄せていく。
やがて古参の執事や家政婦は屋敷から消え、代わりにヒル夫妻と息子ハロルドがエプロン姿で鍋を磨き、野菜の皮を剥く。雇った側が下働きを始めても、本人たちには屈辱の感覚が薄い。
コンラッドの料理へ近づける特権を与えられたように受け止め、それどころか喜んで仕事へ励むのだ。この自発性こそ、支配の完成度を一段上げている。
私がここでぞっとするのは、誰も自由を奪われたと思っていないところだ。もっと美味しいものが食べたい、次の晩餐も成功させたい、料理人の機嫌を損ねたくない。
そんな小さな欲望が積み重なった末、いつの間にか家の中心にはコンラッドが座っている。首輪を見せずに人を従わせる、その手つきの上品さがひどく意地悪なのだ。
朝食のあと、背の高い、彫像のような女が料理場に入ってきた。「あたしミセス・ヒル」彼女はコンラッドの姿に驚いたのをかくしながら微笑した。「あなたの作ったマフィン、とても美味しかったと言いにきたの」コンラッドは頭を傾けて、礼をのべた。
ヒル夫人は出てゆく前に、「明日の朝、お食事に、もう一度マフィンを出していただけない?」と頼んだ。
ハリー・クレッシング『料理人(ハヤカワ文庫)』37ページより引用
料理で体型も感情も、人間関係まで作り替える

絵:悠木四季
コンラッドが扱う材料は肉や野菜に限らず、人間の身体へまで及ぶ。極度の肥満と抑鬱に沈んでいたヴェイル家の令嬢ダフネには食事療法を施し、少しずつ体重を落とさせた。
一方、細身のエスターには滋養のある料理を与え、ハロルドには別の献立。食べるものが変われば、体格も健康も気分まで変わってしまう。
料理人より、人間を材料にした彫刻家に近い。脂肪を削り、肉をつけ、気力を戻し、男女の関係まで動かす。しかもコンラッドが手を入れた結果、以前より健康になり、美しくなる人物さえいる。悪意だけで押し切れないところが、この男をいっそう不気味にしている。
対照的なのが、コンラッド本人の変貌だ。町へ来たころは飢えた黒い鷲を思わせる痩身だった男が、周囲への影響力を増すにつれて肉づき、重厚な巨体へ膨らんでいく。
誰かが自分の意志を手放すたび、その生命力まで彼の身体へ移っているような感触。現実的な心理操作の話だったはずが、いつしか悪魔譚の気配まで混じり込む。
しかも必要とあれば、コンラッドは暴力もためらわない。ヴェイル家の古参料理人ブログが包丁を手に挑んだ場面では、ほとんど動揺も見せず一瞬で相手を無力化する。
普段の慇懃な振る舞いの奥に捕食者が潜んでいると分かったあとでは、彼が丁寧に皿を差し出す姿さえ怖く見える。
食欲を刺激する料理描写と、いつ牙を剥くか分からない緊張が同じ食卓へ並ぶのだ。
最高の料理と引き換えに、どこまで自由を差し出せるか
コンラッドは町へ災厄だけを持ち込む男でもない。
停滞した二つの家を動かし、身体の悩みを改善し、長く膠着していた関係に変化を起こす。結果だけを眺めれば、誰にもできなかった仕事を次々と片づける有能な改革者にも映る。
だから周囲は彼を手放せなくなる。食事を任せ、屋敷を任せ、人間関係まで預けているうちに、自分で決める場面そのものが減っていく。それでも生活は以前より快適で、食卓は豊かだ。失ったものが目に見えないから、誰も危機として認識できない。
1965年の小説なのに、この感覚は今の生活にも不気味なほど近い。便利なものへ判断を預け、快適さを受け取る代わりに、自分で考えたり選んだりする手間を手放す。コンラッドの厨房は極端な形でそれを見せているが、そこで起きる心の動きまで遠い世界の話とは思えない。
日本で長く愛されてきた理由も、この説明しにくい味にあるのだろう。恩田陸が偏愛作として挙げたことでも知られ、料理の官能と悪意が同じ皿に盛られた感触は、いま読んでも古びない。
一ノ瀬直二名義で訳した加島祥造の乾いた日本語も、コンラッドの冷たさと相性がいい。華美に煽らず淡々と進むからこそ、支配が完成しかけたころに振り返ると、最初のマフィンからここまで来てしまった距離に驚かされる。
ロアルド・ダールの意地悪な笑い、パトリシア・ハイスミスの冷たさ、シャーリイ・ジャクスンの閉鎖された共同体。それらを思わせながら、クレッシングは最後まで独自の味を崩さない。
恐怖を大声で叫ばず、料理の香りと丁寧な給仕の向こうから、人間が自分で首輪を差し出す瞬間を眺めている。
始まりは、一枚のマフィンだった。
もう一つ食べたいと願っただけで、何十年も続いた家の秩序に最初のひびが入る。
その小さな欲望がどこまで一家を連れていくのか。甘い香りの奥へ黒い毒を忍ばせたまま、『料理人』は食卓そのものを支配の舞台へ変えてしまう。
この意地悪さ、この不穏さ、この説明し切れない黒い味まで含めて、私は『料理人』が好きなのだ。
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