パトリシア・ハイスミス『かたつむり観察者』- かたつむりを愛しすぎた男の書斎で何かが狂い始める【傑作小説エッセイ】

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悠木四季
ただのミステリオタク
年間300冊くらい読書するミステリ好き人間。

本を読み、本に人生を食われながら、今日もどうにか人間の形を保っている。

もはや読書は趣味ではなく、生活習慣であり、呼吸であり、呪いである。

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『11の物語』収録「かたつむり観察者」

著者:パトリシア・ハイスミス

衝撃度  : (4.0)
狂気度  : (5.0)
不条理度 : (5.0)
短編完成度: (5.0)
この作品を一言でいうと

カタツムリへの偏愛が、理性的な男の生活をゆっくり侵食していく不条理な心理ホラー。

食用かたつむりを観察するという趣味を持ちはじめたとき、ピーター・ノッパートは一握りほどのかたつむりがアッという間に何百という数に増えようなどとは夢にも思わなかった。何匹かのかたつむりを書斎へ持ってあがってからたった二月後には、かたつむりでいっぱいになった三十個ほどのガラスの水槽や鉢が、壁ぎわに並び、デスクや窓敷居の上に置かれ、床の上まで侵略をはじめていた。

パトリシア・ハイスミス『11の物語』収録『かたつむり観察者』 17ページより引用

パトリシア・ハイスミスと聞けば、『見知らぬ乗客』や『太陽がいっぱい』を思い浮かべる人が多いだろう。

犯罪者の心理へぬるりと入り込み、善悪の境目を曖昧にしたまま、人間の内部に潜む不安や執着を冷ややかに見つめる作家。

そのハイスミスらしさが、わずか十数ページへ恐ろしい密度で詰め込まれているのが、短編集『11の物語』の巻頭作『かたつむり観察者』である。

主人公ピーター・ノッパートは、証券仲買会社の共同経営者として成功した男だ。数字と確率を信じ、自然など自分には縁のない領域だと思って生きてきた彼が、ある日の夕食前、台所に置かれた食用カタツムリの交尾を偶然目撃する。

互いに頭を持ち上げ、ゆっくりと近づき、雌雄同体の身体で交接する姿に完全に心を奪われたノッパートは、夕食に出される予定だったカタツムリを料理人から取り上げ、自分の書斎へ運び込んでしまう。

そこから始まるのが、ハイスミス流の最悪に上品な転落劇だ。

目次

理性的な証券マンが、カタツムリに魅せられていく

『11の物語』

おすすめ度:(5.0)

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ノッパートは最初から異常な存在として登場する人物ではなく、社会的地位があり、仕事もでき、家庭も持ち、自分は理性的な人間だと信じている。

そんな男がカタツムリの生態だけに強烈な興味を持ち、百科事典を調べ、飼育環境を整え、卵を発見し、孵化した幼体を父親のような喜びで見守るようになっていく。

この変化の進め方がまず怖い。一歩目だけなら、自然への知的好奇心に目覚めただけにも見えるのだが、水槽は増え、書斎は湿気と腐植土の匂いに包まれ、朝起きれば真っ先にカタツムリを確認する生活へ変わる。

妻エドナが嫌悪を示しても耳を貸さず、友人たちへ生殖の驚異を熱心に語り、自分だけがこの生き物の美しさを理解しているという優越感まで芽生えてくる。

ハイスミスがうまいのは、狂気へ入った瞬間を明確に線引きしないところである。水槽をひとつ買い足す、飼育方法を調べる、繁殖を喜ぶ。個々の行動だけなら大事件には見えない。

それらが少しずつ積み重なった結果、書斎全体がノッパート自身の理性から切り離された小宇宙へ変わり、カタツムリの繁殖力が彼の計算を追い越していく。

しかも主人公が証券マンなのがいい。金融の世界は数字、速度、効率、予測可能性によって動く一方、彼が魅了されたカタツムリは遅く、湿っていて、人間の利益など気にも留めず、ただ食べ、交わり、増殖する。

すべてを管理できると信じる人間と、管理という発想そのものを持たない生命が同じ部屋へ押し込まれた時点で、どちらが最後まで主導権を握るのかという嫌な予感が漂い始める。

今はもう書斎ではなく一種の水族館に変わりはてた部屋で、彼は毎晩のようにかたつむりと一緒に時間をすごした。新鮮なレタスや、ゆでたジャガイモや砂糖大根をこまかくきざんだものを水槽に撒いたあと、水槽に仕かけた撤水器の栓をひねって、自然の雨と同じように雨を降らせるのが楽しみだった。

パトリシア・ハイスミス『11の物語』収録『かたつむり観察者』 24ページより引用

ハイスミス本人が、実際にカタツムリを愛しすぎていた

そして『かたつむり観察者』を語るうえで最高に面白いのが、この異様な題材が作者の空想だけから生まれたわけではなかった点である。

なんとハイスミス自身も魚市場でカタツムリの交尾を目撃したことをきっかけに、この生き物へ強く惹かれるようになったというのだ。

1960年代のサフォークでは自宅の庭で最大約300匹を飼育し、レタスを与えながら長時間その生態を観察していたとされ、カクテルパーティーへ約100匹のカタツムリとレタスをバッグへ入れて連れていった逸話まで残っている。

さらにイギリスからフランスへ移る際、検疫を避けるため生きたカタツムリを衣服の内側へ忍ばせたとの記録もある。ここまで来ると、ノッパートを完全な創作上の奇人として眺めることが難しくなり、カタツムリを見つめることで平穏を得る感覚や、人間より軟体動物へ親近感を抱く心理にも、ハイスミス本人の実感が相当量入り込んでいるように思える。

ハイスミスにとってカタツムリは、風変わりな小道具よりはるかに重い存在だった。殻を背負い、自分の内部で完結し、言葉で相手を欺かず、雌雄の両方を一つの身体へ持っている。

その姿には、人間関係への強い不信や性的アイデンティティとの葛藤を抱えていた彼女自身が求めた、ひとつの理想的な生の形まで重なって見える。

なので本作に漂う視線は嫌悪一色にならない。カタツムリは気味が悪いのに美しく、粘ついているのに優雅で、人間より完成された存在のように扱われる瞬間さえある。

作者自身の愛情と、人間側の傲慢さへの冷笑が同じ場所にあるからこそ、物語がありがちな生物パニックへ流れず、もっと個人的で倒錯した味を帯びるのだ。

カタツムリを眺める男は、いつしか自分自身を見ている

絵:悠木四季

ノッパートの見たところ、いつでも十二組ほどのかたつむりがキスをしていた。したがって当然おびただしい赤ん坊かたつむりとやんのかたつむりがいることになった。とても数えきれるものではない。しかし天井で眠ったり這ったりしているものだけを数えてみたところ、千百匹から千二百匹ぐらいとわかった。水槽、鉢、デスクの裏側、本棚となると、その五十倍はいるにちがいない。

パトリシア・ハイスミス『11の物語』収録『かたつむり観察者』 25ページより引用

ピーターにとってカタツムリは、単なるペットより深い意味を持っている。

人間のように余計なことを喋らず、感情を押しつけず、面倒な関係を要求してこない。黙々と動き、自分の世界だけで完結しているその姿に、彼はある種の理想を見ているようにも感じられる。

ハイスミスが生涯にわたって描き続けた人物たちには、他者とうまくつながれない者が多い。人を求めながら近づけば傷つき、愛情を抱けば所有欲へ変わり、孤独を嫌いながら結局は自分から孤独へ戻っていく。

『太陽がいっぱい』のトム・リプリーをはじめ、ハイスミスの人物たちは、社会の中へ居場所を作るより、自分だけの論理で成立する小さな世界を作ろうとする。

ピーターの書斎も、そんな小宇宙のひとつだ。

その内部では、人間社会の常識よりピーター自身の価値観が優先される。カタツムリを眺め、その繁殖や行動を観察し、自分だけが理解できる美しさを味わう。

外から見れば不気味でも、本人にとっては秩序の整った理想郷であり、その安心感が強くなるほど、書斎の外側にいる人間との距離まで広がっていく。

面白いのは、ハイスミスがピーターを最初から狂人として扱わないところだ。趣味が少し変わっているだけで、本人には本人なりの理屈があり、カタツムリへの愛情にも一応の筋が通っている。

そのため、どこから異常になったのかを明確に線引きできず、気づいたころには趣味と執着の境界が消えている。

この曖昧さが、いかにもハイスミスなのである。

ハイスミスは恐怖より不安を書く

『11の物語』には、グレアム・グリーンによる有名な序文が付されている。

そこでグリーンはハイスミスを、直接的な恐怖そのものより、正体の定まらない不安を描く作家として高く評価した。

ミス・ハイスミスの犯罪小説は、何度読み返しても飽きることがない。このように言える作家はきわめて少ない。彼女は独自の世界をつくり出した作家だ──それは閉所恐怖症的な、理性では割り切れない世界で、読者はそこへ入るたびに身の危険を感じ、つい肩ごしに振り返ってためらってしまう。

というのも、読者を待ちかまえているのは残忍な快楽だからだ。だがそれも第三章あたりまでで、そこまでくると背後で境界の仕切りが閉まってしまい、読者はもう引き返すわけにはいかなくなる。わたしたちは物語が終わるまで、作者があの手この手で登場させてくる悪人たちとつき合わずにはいられなくなる。

パトリシア・ハイスミス『11の物語』 7ページより引用

具体的な危険が目の前へ現れた瞬間のショックより、何かがおかしい、まだ形になっていない何かが確実にこちらへ近づいている。そんな感覚を長く神経へ貼りつかせる力を見抜いていたのである。

『かたつむり観察者』は、その評をそのまま短編へしたような作品だ。最初にあるのは台所のボウルと数匹のカタツムリだけで、そこから状況を悪化させる選択を重ねるのはノッパート自身である。

誰かに呪われることも、悪意ある人物から罠を仕掛けられることもなく、自分で拾い、自分で育て、自分で数を増やし、自分で退路を狭めていくところに、逃げ場のない感触が生まれる。

グリーンはまた、ハイスミスの長編が時間をかけて周囲を包囲するのに対し、短編では電撃的に仕留めると評した。『かたつむり観察者』は、その短編芸術の見本として実に分かりやすく、人物の小さな選択を連鎖させるだけで、最初の台所からは想像できなかった地点まで一気に運んでしまう。

しかも途中で起きることの大部分は、ごく普通の行為である。生き物を飼う。もっと詳しく知りたくなる。水槽を増やす。家族の忠告を聞き流す。自分の趣味を理解しない相手を内心で見下す。

その程度のずれが連なった先に取り返しのつかない場所が待っているから、ハイスミスの悪夢は現実からほとんど浮き上がらない。

『かたつむり観察者』は1964年にSF・ファンタジー誌『Gamma』へ発表され、1970年刊行のハイスミス初の短編集『11の物語』では巻頭へ置かれた。米国版では、この一篇そのものが短編集の表題に選ばれている。

ハイスミス文学への入口として考えても、この配置は完璧だと思う。人間の孤独、倒錯した愛情、自己完結した世界への憧れ、理性への過信、日常の内部に潜む不条理。彼女が繰り返し描いたものが、カタツムリの這う書斎へぎゅっと押し込まれているからだ。

ピーター・ノッパートはカタツムリを観察していたはずなのに、いつしか自分の人生のほうが、その遅い歩みに合わせて形を変えていく。

何百本もの触角が蠢く書斎を思い浮かべると、ハイスミス自身がカタツムリに安らぎを感じていた事実まで、少し怖く見えてくるのだ。

『11の物語』以外のパトリシア・ハイスミスのおすすめ作品

1.『見知らぬ乗客』

著:パトリシア・ハイスミス, 翻訳:白石朗

列車で偶然出会った二人の男が、互いの邪魔な相手を殺す「交換殺人」の計画によって結びついていく心理サスペンス。

冗談のつもりだった提案が現実となり、平凡な男の日常と倫理は、執拗につきまとう相手によって少しずつ崩されていく。

単なる脅迫劇に終わらず、自分の中にも同じ欲望が潜んでいるのではないかという恐怖まで掘り下げた、パトリシア・ハイスミスの代表作。

2.『太陽がいっぱい』

著:パトリシア・ハイスミス, 翻訳:佐宗鈴夫

貧しい青年トム・リプリーが、富裕な青年ディッキーへの憧れと嫉妬から彼を殺害し、その身分そのものを奪おうとする犯罪サスペンス。

名前、服装、署名、話し方まで模倣しながら完全犯罪を組み立てていく過程を通して、他人になりたいという欲望と空虚な自我が浮かび上がる。

殺人者でありながら思わずその逃亡を追いかけたくなる、異様な魅力を持つアンチヒーロー、トム・リプリーの原点でもある。

3.『動物好きに捧げる殺人読本』

人間に虐待され、使役され、軽んじられてきた動物たちが、それぞれの方法で人間へ報復していくブラックユーモア短編集。

象や猫、豚、ラクダ、鶏などが次々と牙をむき、人間の傲慢さや残酷さが皮肉たっぷりに暴かれていく。

動物側にほとんど罪悪感が描かれないため、復讐の爽快さと後味の悪さが同時に押し寄せる異色作。

この記事を書いた人

悠木四季
ただのミステリオタク
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⑧ 知念実希人『硝子の塔の殺人
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