『誰かがいる部屋 A・M・バレイジ怪談傑作集』- 幽霊よりも忘れられない、失われた時間の怪談【読書日記】

『誰かがいる部屋 A・M・バレイジ怪談傑作集』
古い屋敷や地図にない駅、庭園、子供時代の記憶から怪異が立ち上がり、恐怖と郷愁が溶け合うA・M・バレイジの英国怪談傑作集。
レディングとプリマスのあいだに、地図には載っていない駅がある。
駅名は思い出せず、どの路線図を探しても見つからない。それでも、そこで降りたことだけは確かで、街には愛らしい子供たちがいて、現実より幸福だった時間まで記憶しているという男だ。
『誰かがいる部屋 A・M・バレイジ怪談傑作集』の冒頭を飾る『間違った駅』は、そんな妙な記憶を抱えた男の話から始まる。
怖い話を読んでいるはずなのに、最初に胸へ入ってくるのは恐怖より郷愁に近い感覚で、そこがもうバレイジらしい。怪異は人を脅かすためだけに現れず、ときには現実より魅力的な場所としてこちらを誘ってくる。
戻りたいのに戻れない、名前さえ思い出せない。この甘さと不穏さの混ざり方に、早くもやられてしまった。
A・M・バレイジは英国怪奇小説の世界では評価の高い作家だが、日本では長いあいだアンソロジーで断片的に読む存在だった。
『象牙の骨牌』『スミー』『間違った駅』など、名作を拾っていけば確かに名前は見えてくるものの、作家全体の輪郭まではつかみにくい。2020年には仁賀克雄編訳の電子書籍『ありふれた幽霊』も出たが、紙の単行本でまとまった作品を読める機会は限られていた。
そこへ2026年、新紀元社から刊行されたのが本書である。植草昌実が編訳を務め、本邦初訳11篇に『遊び友達』と『間違った駅』の新訳を合わせた全13篇。
約240ページの中には、幽霊屋敷、時間怪談、骨董怪談、犯罪奇談、芸能怪談、学園幻想までがぎゅっと詰め込まれているが、読んでみると、バレイジを古典怪談の名手という肩書きだけで捉えると輪郭がぼやける理由がよくわかる。
怖がらせ方も、切なさの出し方も、怪異を置く場所も、思っていたよりずっと幅が広いのだ。
地図にない駅と、暗闇の中の気配
表題作『誰かがいる部屋』は、古典的な幽霊譚の気持ちよさをほとんど教科書のように味わわせてくれる。
列車に乗り遅れ、移動中の自動車まで故障し、見知らぬ田舎屋敷へ泊まることになった未亡人フェアチャイルド夫人。そこで与えられた寝室が、半年前に人の命が絶たれた場所だった。
何かが見えるわけではなく、派手な現象が次々起こる形でもない。ただ暗い部屋の中で、自分以外の存在が確実にそこにいるという感覚だけが濃くなっていく。
こういう怪談は、書き手が一度でも説明しすぎると途端に温度が下がるが、バレイジはぎりぎりのところで止める。ベッド、暗闇、閉ざされた空間、そして気配。道具立ては驚くほど少ないのに、逃げ場がなくなっていく感覚は強烈だった。
『博奕打ちの部屋』も怖さの出どころがよく似ていて、こちらでは幽霊の姿より、部屋そのものが人間の精神へ入り込んでくる。過去に賭博へ熱狂した者たちの情念が空間へ染みつき、そこへ入った人間まで同じ衝動に引きずられるという話で、怪異を人格のある亡霊へ限定しないところが面白い。
『小さな青い火』では古道具屋で手に入れた真鍮の燭台が過去の犯罪を現在へ呼び戻し、『山査子の木』では一本の木が甘い香りとともに人間の生命を吸い取っていく。部屋、燭台、樹木。バレイジにかかると、物や場所が記憶を蓄え、人間より長く過去を抱え込んでいるように見えてくる。
この感覚はM・R・ジェイムズにも通じるが、バレイジの舞台には鉄道、自動車、新聞社、古道具屋といった近代生活の匂いが濃い。
好古家が古文書を開いた瞬間に呪いが目覚める世界から少し離れ、日常のすぐ脇に怪異が腰を下ろすからこそ、百年近く前の短篇を読んでいても妙に距離が近い。
過去は怖いのに、なぜか戻りたくなる
バレイジを読んでいて特に惹かれたのは、過去が恐怖の源であると同時に、失われた幸福の場所として描かれることだった。
『パドック・クロスでの出来事』では、馬車事故で脳震盪を起こした青年将校が、療養先の館で自分の知るはずのない過去へ触れていく。『子供は大人の父なり』では、大人になった主人公がかつて学んだパブリックスクールを再訪し、少年時代と現在の境目を踏み越える。
そして『グレニスター街の庭園』では、老紳士が幼少期を過ごしたロンドンの街へ戻り、昔の姿を保つ中央庭園を前に、少年時代に遭遇した奇妙な存在を思い出す。
どれも過去が美しく保存されている話ではなく、記憶の奥には触れたくない何かが潜んでいる。それなのに、完全に背を向けることもできない。
とりわけ『グレニスター街の庭園』は、子供のころにしか見えなかった世界と、老境に入ってから振り返る世界が重なり合い、怖さと懐かしさがほぼ同じ場所から立ち上がる構図だ。
この感触にはレイ・ブラッドベリやジャック・フィニイを連想したし、1910年代から30年代に書かれた作品だと考えると、その感性の早さにも驚かされる。
バレイジ自身は1889年生まれ。父の死をきっかけに16歳から職業作家として働き、少年向け冒険小説、ロマンス、歴史小説、探偵小説まで幅広く書いた。第一次世界大戦ではアーティスト・ライフル連隊の兵士として西部戦線へ送られ、のちに元兵卒X名義で反戦回想録『War Is War』も発表している。
少年小説を書き続けた経験と、戦場で死を間近に見た経験。その両方を知ると、バレイジの怪談に子供と死者が頻繁に現れ、しかも単純な恐怖の記号にされていない理由が少し見えてくる気がした。
M・R・ジェイムズが1929年にバレイジの第一怪奇短篇集『Some Ghost Stories』を高く評価したことも頷ける。生前の怪奇短篇集は同書と『Someone in the Room』の二冊に限られ、その後は長く雑誌の中へ散らばった作品を研究者たちが掘り起こしてきた。
1988年の『Warning Whispers』、1990年代のアッシュ・ツリー・プレスによる集成、2022年の英国図書館版へと再発見が続いた歴史まで含めて考えると、今回の日本独自選集で作家の全体像にようやく触れられた、という感慨も大きかった。
七人の遊び友達がいる図書室
後半には、バレイジの別の顔もよく出ている。『無罪判決』は妻を毒殺した容疑から証拠不十分で解放された男へ、法廷の外側から別種の裁きが迫る犯罪怪談。
『クリスマスの幽霊物語』では、心霊現象を信じない新聞記者がクリスマス特大号用の怪談を書こうとして本物の怪異にぶつかり、職業作家だったバレイジらしい業界ネタの可笑しさから恐怖へ切り替わる流れが軽快だ。『一夜かぎり』では、ミュージックホールという大衆芸能の舞台裏に死者たちの気配が重なる。
こうして読むと、彼は怪談を書くために古城や墓地を必要としていない。新聞社でも劇場でも学校でも、怪異が入り込める隙間さえあれば話を成立させてしまう。その職人的な器用さがありながら、最終的に私が強く惹かれたのは、やはり人間の孤独へ向ける目だった。
代表作『遊び友達』は、孤独で気難しい好古家エヴァートンが、身寄りを失った少女モニカを引き取ったところから始まる。広い屋敷の図書室で暮らすうち、モニカは見えない七人の友達と遊ぶようになり、エヴァートンは子供らしい空想だろうと受け止めていた。けれど、その七人には屋敷の過去と結びついた存在の重みがある。
ここで死者を恐怖の装置だけにしないところが、私はとても好きだった。見えない友達は生者を追い詰める存在にもなりうるのに、モニカにとっては孤独を埋めてくれる大切な仲間だ。
怪談を読んで怖がっていたはずが、いつの間にか死者と子供のあいだに成立している妙な親密さを見守る側へ回っている。この感情の運び方は、『間違った駅』の子供たちにも、『ブローディーン荘』に漂う家族の情愛にもつながっているように思う。
地図にない駅で遊ぶ子供たち、青い火を灯す燭台、昔の姿を保つグレニスター街の庭園、そして図書室でモニカを待っている七人の遊び友達。
本書に現れる怪異はどれも恐ろしいのに、ときどき現実の側より魅力的な顔を見せる。なので、逃げたい気持ちと、もう少しそこにいたい気持ちが同時に生まれてしまう。
恐怖と懐かしさ、死者と救い、現在と失われた時間。その境目をバレイジは何度も行き来する。だから彼の怪談では、扉を閉めて幽霊を追い出せば終わり、とはならない。
バレイジは恐怖と懐かしさ、死者と救い、現在と失われた時間の境目を何度も行き来する。だから『間違った駅』の男は存在しない駅を探し続け、モニカは誰にも見えない友達と図書室で遊び続ける。
私ならそんな場所には近づきたくないはずなのに、どこかであの駅の名前を知りたいし、図書室の扉も少しだけ開けてみたい。
バレイジの怪談には、そんな奇妙な誘惑がある。


