『恐怖の民俗学』- 恐怖を飼い慣らした人間は、どこでまた怪異に出会うのか【読書日記】

2026年8月7日、SB新書から刊行された島村恭則『恐怖の民俗学』は、妖怪、幽霊、怨霊、都市伝説、ネット怪談まで、とにかく怪異まみれの一冊である。
ただ、よくある怖い話を次々紹介していくタイプの本とは少し方向が違う。
人間はなぜ暗闇に気配を感じるのか、橋や峠や辻にはなぜ怪談が集まりやすいのか、死者の恨みを想像し、正体の分からないものへ名前をつけたがるのはなぜなのか。
そうした疑問を、民俗学だけでなく認知科学、進化心理学、文化進化論まで総動員して追いかけていくのだが、怪異好きなら次から次へと気になる話が出てきてページをめくる手が進みまくってしまう。
新書で216ページと扱うテーマの広さからすると意外なほどコンパクトだが、中身は濃い。宮古島の祭祀から河童、天狗、怨霊、シャーマン、都市伝説、リミナルスペース、タワーマンションまで話題はどんどん広がっていく。
それだけ材料を詰め込みながら散漫にならず、全部が人間は恐怖をどう扱ってきたのかという一本の線でつながっているのが面白い。
しかも学術用語を並べて怪異を遠くから解剖するのではなく、著者が約40年続けてきたフィールドワークの感触を起点に話が進むので、理論の本でありながらすごく生々しいのだ。
名前をつけると、恐怖はちょっと扱いやすくなる
本書の出発点となるのは、沖縄県宮古島の狩俣である。
ここでは、本土でおなじみの河童や天狗のように姿や性格が固まった妖怪より、カミやマジムンと呼ばれる、もっと輪郭のぼんやりした存在が生活のすぐそばにいる。
カミは集落を守ってくれる一方、禁忌を破れば容赦なく災いをもたらし、マジムンも夜道や特定の木の下など、遭遇しやすい場所や時間が語り継がれている。
著者・島村恭則は、その奥にある感覚を名づけ得ぬ恐怖、つまり原初的恐怖として捉える。
ここからの説明が楽しい。人間は、何が起こるか分からない混沌をそのまま抱えて生きるのが苦手だ。だから正体不明の恐怖にカミやマジムンと名前を与え、ここへ行くな、この時間は危ない、こうすれば祟られない、とルールを作っていく。怖いものを消すのではなく、扱えるサイズにまで小さくするわけだ。
この発想を知ったあとでは妖怪の見え方まで変わってくる。河童なら頭の皿の水がなくなれば弱る。つまり攻略法があるのだ。天狗にも特徴があり、妖怪ごとに名前も姿も決まっている。そこまで整えば、絵にできるし、図鑑にも載せられるし、物語にもできる。
本書では、江戸時代に妖怪が猛烈な勢いで増殖していった現象を妖怪のカンブリア爆発と呼んでいて、この言い方からして楽しい。
草双紙や絵巻の中で次々に新しい妖怪が生まれ、恐怖の対象だったものが見て楽しむ存在へ変わっていく。人間が自然に圧倒されていた下から目線の時代から、怪異を眺め、分類し、遊ぶ上から目線の時代へ移ったという説明も非常に分かりやすい。
水木しげる以降の妖怪人気まで考えていくと、この流れはさらに鮮明になる。ぬりかべも一反木綿も、今では愛嬌のあるキャラクターとして親しまれているが、元をたどれば、夜道で突然進めなくなる感覚や、暗闇で得体の知れないものに遭遇する恐怖がある。
人間は怪異を追い払ったというより、名前をつけて姿を描き、コレクション可能なものへ変えてきたのだ。そう考えると妖怪図鑑そのものが、人類による恐怖の巨大な収納棚みたいに見えてくる。
幽霊を見る前から、脳は勝手に何かを探している
本書がさらに面白くなるのは、ここで文化史の話だけに終わらず、今度は人の脳へ話が移っていくところである。
深夜の山道で木の影を人影と見間違えたり、誰もいない部屋で物音がすると誰かいる気がしたり、夜中に廊下を歩いていて急に後ろが気になったりする。そんな身近な感覚を、本書では過剰エージェント検出という認知の仕組みから説明していく。
遠い昔、草むらが揺れたとき、それをただの風だと判断してしまうより、何かいるかもしれないと警戒したほうが生存には有利だった。その結果、人間の脳は曖昧な刺激の中から意図を持つ存在を見つけやすい方向へ発達したというのだ。
なるほど、夜道が怖いのは気が弱いから、という話では済まないわけだ。頭では誰もいないと分かっていても身体の側が先に危険を探してしまう。
廃墟へ入れば背後が気になり、誰もいない学校の廊下には妙な圧迫感が生まれる。科学が発達しても怪談が消えない理由が、この説明を通すとかなり腑に落ちる。
橋、峠、四つ辻、村境といった場所に怪異が集まりやすい理由も同じ流れで語られる。こちら側でもあちら側でもない場所は、昔から不安定な空間として感じられてきた。
そして現代にもよく似た場所がちゃんと存在している。その代表がリミナルスペースである。
深夜の無人ショッピングモール、誰もいない学校の渡り廊下、閉鎖された屋内プール。どれも人間のために作られた場所なのに、人間だけが消えている。
怪物も血痕も必要なく、蛍光灯がついた通路が延びているだけで妙に落ち着かないのは、用途をよく知っている空間から人の気配だけが抜け落ち、そのわずかなズレが異様さを生み出すからなのだろう。
昔の峠道が異界との境界だったなら、無人のショッピングモールは現代版の峠なのかもしれないと考えると、古い民俗の話が急に身近に思えてくるから不思議だ。
妖怪を全部知ってしまったあと、何が怖くなるのか
そして後半で特にワクワクするのが、現代社会に原初的恐怖が戻ってくるという話である。
昔の妖怪は、名前をつけられ、姿を描かれ、弱点まで設定されてきた。今ならゲームにもなるし、グッズにもなる。ひだる神もぬりかべも、知っている妖怪になった瞬間、どこか安心して眺められる存在へ変わる。
では、人間が怪異を片っ端から分類し、キャラクター化し消費してしまったあと、恐怖はどこへ行くのか。
本書はそこから、ニュータウンやリミナルスペース、タワーマンションへ話を広げていくのだが、この古い妖怪文化と現代都市が一本につながる展開がとにかく刺激的だ。
古い祟りも伝説もなさそうなニュータウンの裏山、誰も歩いていないマンションの共用廊下、壁一枚の向こうに暮らしているのに顔すら知らない隣人、高層階で電気も水も止まったらどうなるのかという不安。最新設備に囲まれた合理的な空間の中にも、昔の峠や村境とよく似た新しい境界が生まれている。
とりわけ惹かれるのが、環境が合理化されればされるほど、その隙間に生じる異様さが目立ってくるという感覚だ。監視カメラがあり、オートロックがあり、照明も空調も完備され、安全のための仕組みは山ほど用意されている。
それなのに、人の気配だけが消えた瞬間、その完璧さそのものが不気味になる。妖怪の顔も名前も必要なく、ただ人気のない廊下が延びているだけで、何かがおかしいと身体のほうが先に反応してしまう。
近年のモキュメンタリーホラーやネット怪談が支持される理由についても、本書の見方はしっくりくる。怪物の正体を全部見せ、設定を説明し、攻略法まで提示する物語より、証言が食い違い、記録が途中で途切れ、最後まで何だったのか分からないもののほうが、名づけ得ぬ恐怖へ近づきやすい。
人は長い時間をかけて恐怖を整理し、名前をつけ、姿を描き、弱点を設定し、物語にして、図鑑へ収めてきた。それでも分類しきれない何かは消えず、時代ごとに別の場所から顔を出してくる。
妖怪も幽霊も都市伝説も、人が世界の分からなさと付き合うために作ってきたものだ。そして、いくら世界を明るく照らし、地図を埋めて監視カメラを置いても、分からない場所は必ず生まれてしまう。
誰もいないショッピングモール、灯りだけがついた廊下、水の抜かれた屋内プールには、怪物なんて一体もいない。
それでも怖いのは、人がきれいに整理してきた恐怖の外側に、まだ名前のつかないものがあるからなのだろう。
妖怪を全部知ったつもりになったところへ、今度は姿すら持たない恐怖が戻ってくる。
宮古島の夜道から始まった話が、現代の無人空間へぐるりとつながっていくところまで含めて、怪異好きにはたまらない一冊だった。


