ジョン・ディクスン・カー『蝋人形館の殺人』- 死者を模した人形の中に、本物の死者が混じる夜【エッセイ】

セーヌ河から引き揚げられた若い女の死体。その女は殺される前夜、パリの片隅にある薄暗い蝋人形館へ入っていた。
館の地下には、フランス革命や歴史上の殺人を再現した蝋人形が並び、緑色のガス燈の下で人間そっくりの顔をこちらへ向けている。
そして捜査に訪れたアンリ・バンコランとジェフ・マールは、半人半獣の怪物サテュロスの腕に抱かれた、もう一人の女の死体を発見する。
この時点で、もうカー好きとしては歓喜である。死体があるだけでも十分なのに、それを蝋人形に抱かせ、さらに館の壁の向こうには仮面をつけた男女が夜ごと集う秘密クラブまで用意してしまう。
怪奇趣味、本格ミステリ、地下世界への冒険、退廃したパリという若きジョン・ディクスン・カーの好物を遠慮なく詰め込み、それでも物語をきちんと推理小説として成立させたのが、1932年刊行の『蝋人形館の殺人』である。
本作はアンリ・バンコラン・シリーズ第4長編。『夜歩く』『絞首台の謎』『髑髏城』に続く作品で、後年のフェル博士ものやヘンリ・メリヴェール卿ものへ向かうカーの作風が、ぐっと形を整え始めた一冊でもある。
日本では1954年にハヤカワ・ポケット・ミステリから紹介され、2012年には和爾桃子訳で創元推理文庫入りした。
古典本格と聞くと端正な書斎の推理合戦を思い浮かべる人もいるだろうが、本作の空気はもっと湿っぽく、妖しく、時には悪趣味で、その毒々しさまで含めて私は惹かれてしまうのだ。
死を飾る蝋人形館と、生を隠す仮面クラブ
事件の被害者は元閣僚令嬢オデット・デュシェーヌ。
背中を刺され、セーヌ河で死体となって発見された彼女は、失踪直前にオーギュスタン蝋人形館を訪れていた。婚約者ロベール・ショーモン大尉の依頼を受けたバンコランは、相棒ジェフ・マールと夜の館へ向かう。
そこで見つかる第二の死体の見せ方が実にカーらしい。オデットの親友クロディーヌ・マルテルは、地下の恐怖の陳列室でサテュロス像の腕に抱かれ、背中を刺されていた。
周囲にはマラーの暗殺や断頭台といった血なまぐさい歴史を再現した蝋人形が並び、本物の死体まで展示物の一部に見えてくる。何が作り物で、何が生身なのかという境目が視覚的に崩れることで、ただの殺人現場が悪夢の舞台装置へ変わっていく。
この蝋人形館の使い方が本当に好きだ。蝋人形そのものを怖がらせるだけなら怪談にもできるが、カーはここへ推理小説の論理を持ち込む。
蝋で作られた短剣、本物の凶器、人形に紛れる肉体、目撃したものへの思い込みが折り重なり、見たものをそのまま信じる危うさが、そのまま手がかりの読み違いにつながっている。カーが後年何度も扱う、視覚と現実のずれという主題が、すでに濃厚な形で姿を見せているのだ。
さらに面白いのが、蝋人形館の裏手に銀の鍵クラブがあることだ。秘密の通路でつながったそこでは、上流階級の男女が仮面で顔を隠し、普段の身分や名前から逃れて夜を楽しんでいる。
片方には顔をむき出しにした偽物の人間が並び、もう片方には顔を隠した本物の人間が集う。この対比があまりに鮮やかで、舞台設定だけ眺めても一本の奇妙な短編ができそうなくらいである。
良家の娘として型にはめられた女性たちは、仮面をつけることで初めて自由に振る舞える。しかし、その逃げ場所のすぐ隣には、死を永遠に固定した蝋人形たちが立っている。
享楽と死、自由と束縛、生身の顔と偽物の顔という対立を抱えた二つの空間を壁一枚で接続したところに、本作の不穏さが凝縮されているのだ。
悪魔のようなバンコランと、走り回るジェフ・マール
アンリ・バンコランも、この作品では特に印象的だ。初期シリーズの彼は、黒衣をまとった悪魔のような男で、犯罪者を追い詰めること自体を楽しんでいるような冷酷さを持つ。
犯罪に対して道徳を説く名探偵というより、悪党よりさらに悪そうな顔をした天才が、悪党を盤上で潰していく。その危険な格好よさがバンコランの魅力だった。
ところが『蝋人形館の殺人』では、その絶対的な探偵像に少し疲労が混じる。自分の老いを意識し、人間を嘲笑するだけでは憎悪を処理しきれなくなっている。こうした陰りが入ったことで、バンコランは単なる怪人探偵から、事件の悲惨さを知りすぎた男へ近づいていく。
彼と対になるように動き回るのが語り手ジェフ・マールだ。本作後半ではマールが単身で銀の鍵クラブへ潜入し、物語は一気に冒険小説の顔を見せる。
仮面の人々が入り乱れる地下空間で正体を探り、危険へ踏み込んでいく展開は、椅子に座って推理を聞くだけの本格とはまるで手触りが違う。カーは謎解きの設計図を崩さず、その上に活劇を乗せてくる。
このバランスが本作ならではの特徴だろう。途中でバンコランは、館内で何が起きたのか、その物理的な動きを物語の半ば過ぎには整理してみせる。犯人名だけを伏せ、事件の骨格を先に開示する大胆な構成だ。
そこで謎を一度整理したあと、マールの潜入によって再びサスペンスを上げる。論理で絞り込み、冒険で揺さぶり、最後にもう一度論理へ戻る。この往復のおかげで、三百ページ前後の物語がずっと動き続ける。
しかも事件の背後には、パリの暗黒街に影響力を持つエティエンヌ・ガラントという、いかにもカーが嬉々として書きそうな怪人物までいる。白猫を撫でながら人を見下ろすような男で、バンコランとは長年の因縁を持つ。
こういう人物が一人いるだけで、事件全体が普通の殺人捜査から怪奇犯罪劇へ一段階濃くなる。カーの初期作は時に装飾過多とも評されるが、本作ではその過剰さが舞台の妖しさと噛み合っている。
怪奇趣味の奥に、きっちり本格の骨がある
カーといえば密室、という連想から入ると『蝋人形館の殺人』は少し意外かもしれない。
本作の中心にあるのは、閉ざされた部屋から犯人が消えるような不可能犯罪ではなく、人間が何を見て、何を勘違いしたのかという認識の操作である。
茶色い帽子の女、現場に残された品々、人物の出入り、男女の取り違え、犯罪組織をめぐる疑惑。ばらばらに置かれた情報は、それぞれが別方向へこちらの視線を誘導する。
それでも解決まで行くと、なぜその証言が必要だったのか、なぜその人物がそんな行動を取ったのかが一本の動線としてつながってくるのだ。派手な怪奇演出に目を奪われているうちに、足元ではちゃんと手がかりが並べられていたと気づく瞬間が気持ちいい。
特に面白いのは、カー自身が蝋人形の不気味さに酔っているように見えながら、最後には蝋人形を論理の道具として処理してしまうところだ。
サテュロス像も、歴史上の殺人場面も、緑色の灯りも、雰囲気作りの飾りで終わらず、目撃と誤認の仕掛けに絡んでくる。ゴシック趣味と本格推理が別々に存在せず、一つの舞台機構として動いているのだ。
そして終盤には、電話越しの心理戦とトランプ勝負といういかにも芝居好きのカーらしい大詰めが待っている。犯人を指さして終わるのでは味気ない、とでも言いたげに、最後の対決まできっちり演出する。その芝居がかった大仰さまで含めて私は好きだ。1932年の作品なのに、妙に映像が浮かぶ。
『蝋人形館の殺人』を眺めていると、後年のカーがどこへ向かうのかも見えてくる。不可能犯罪へ向かう論理、怪奇小説すれすれの雰囲気、癖の強い名探偵、物語を止めない冒険性、そして何より人間の目は簡単に騙されるという発想が、蝋人形館という一つの悪趣味な箱の中で、すでにほとんど完成形に近い形を取っている。
緑色の灯りの下には歴史上の死者を模した蝋人形が並び、その腕の中に本物の死者が一人だけ混じっている。
誰も動いていないはずなのに、そこを通った人間の視線と記憶だけが激しく動き、事件の形を勝手に作り替えていく。
『蝋人形館の殺人』の迷路は、館の通路より先に、人の目の中へ作られているのである。
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